城郭探訪

yamaziro

中村城     近江国(栗東市)

2016年05月20日 | 丘陵城

中村

  

お城のデータ
所在地:滋賀県栗東市御園  map: http://yahoo.jp/9nBHfj
現 状:寺院跡
区 分:丘陵城
築城期:室町期~鎌倉期
築城者:中村次郎八
遺 構:旧善勝寺跡の背後の切岸・石段の横の城道
標高:153m  比高差:13m
目標地:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店
駐車場:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店(駐車場あり)
訪城日:2016.5.19
お城の概要
滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)では、中村城は、「石取りで山ごと消滅と思われる」と記す。
が 旧善勝寺跡(近年(=2007年6月は残存してた)焼失したか=yahoo mapの航空写真には残存する)の裏山は、6m程登ると、平削されグランドに整備されいた。
裏山への斜面(土塁・切岸)には、石仏が配され、歴代住職の墓地も残存する。また、 旧善勝寺跡の庭園・池・石仏群が残存した。
城郭遺構は、裏山斜面の土塁・切岸や南側に小平削地(廓跡か?)残る
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 中村住 中村次郎八」の名が見える。が詳細不明。
          
善勝寺の千手観音立像   栗東市御園
 浄土宗寺院善勝寺(御園)の本尊千手観音立像は、平安時代11世紀初めごろの作で、中央の顔の左右にさらに顔をあらわすという、日本で数例しか知られない珍しい姿をしています。こういった姿は天台宗にゆかりをもつと考えられます。それにしてもなぜ、浄土宗のお寺に天台宗に関わる本尊がまつられているのでしょうか
 栗東の金勝寺周辺は、奈良時代以来、奈良の仏教界と深いつながりを持ってきました。比叡山を中心とする天台宗が広まり始めるのは平安時代半ばのことです。11世紀半ばに編さんされた『本朝法華験記』には、金勝寺の二人の僧が、天台宗で重視される法華経を信仰して往生を遂げた話が載せられています。また12世紀半ばの1142年に造られた金胎寺(荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、浄土の教主である阿弥陀如来に結縁するため、像の内側に40人ほどが名を記しています。やがて比叡山で学んだ法然が浄宗の開祖となるように、もともと浄土の教えは、天台から派生していったものです。そして平安時代後期には栗東にも確実に天台浄土教が広まっていました。
 金勝地域の浄土宗寺院の中心となる阿弥陀寺(東坂)は、室町時代に隆堯(1369~1449)によって開かれました。隆堯は念仏を広めるため多くの書物をあらわしましたが、その中で自らを「天台沙門(=天台の僧侶)」と記しています。天台と浄土の教えは、かつては今よりずっと連続的なものととらえられていたのです。
 ところが江戸時代になると、寺院は一つの宗派に属すよう定められ、歴史的に天台、浄土にまたがる性格を持つ寺々も、天台宗あるいは浄土宗へと分かれていきました。
 冒頭に紹介した善勝寺の本尊千手観音立像は、かつて善勝寺が天台色の濃い寺院だったころの歴史を今に伝えているのです。
(「りっとう再発見」27 『広報りっとう』821号(2007年6月号)掲載)
背後の裏山5m程へ
 頂部平坦地はグランドに
土塁・切

岸の斜面の石仏群(寺院遺構か?)           歴代住職の墓地?  

崖崩れ防止工事中       
寺院庭園址 瓦・火鉢類 石仏群 
井戸

・池  

 下りの石段
石段横の城道

    覚圓寺   本堂

 
覚圓寺の裏に駐車した。


御園の歴史と文化
金勝中村上山依村合絵図

 栗東市御園(みその)地区は、金勝川と細川の流域に広がる平野部とその周辺の丘陵地に位置します。地区内は明治7年(1874)に成立した旧御園村域に相当する古くからの集落がある地域と、昭和44年(1969)に開場した栗東トレーニングセンターの敷地にあたる地域の二つにわけることができます。
 旧御園村域には、中村、山入、蔵町、辻越、上田、御園の6つの集落があり、江戸時代は金勝中村(こんぜなかむら:中村、山入、蔵町)と上山依村(かざまわりむら:辻越、上田、御園)の二村に分かれていました。御園村はこの二村が明治7年に合併して成立しています。
 御園村が成立した背景には、もともと上山依村に属していた山入が、江戸時代初期に行われた村界決定の際、金勝中村へ入れられたという事情があります。しかし、行政上金勝中村となったといっても、水利や祭りといった日々の暮らしにおいて山入と上山依村との関係は切り離せないものでした。明治に入ると、山入、上山依村は何事も「一村同様」のように付き合ってきたため、山入が金勝中村から分村し、上山依村へ合村したいと訴えました。
 江戸幕府によって区切られた村と、実際に暮らしていた人びとのつながりにずれが生じたことによるこの問題も、金勝中村と上山依村がひとつになり、御園村の誕生によって解決しました。このとき上山依村が主張した「両上山依」という日々の暮らしに直結した集落同士のつながりは、現在でも生きています。御園地区では、このような小集落同士のまとまりがさまざまな場面で機能しており、これが御園地区の特徴となっています。
 また、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターの開場は、ここに移住してきた中京競馬場や阪神競馬場関係者によって、御園地区を含む金勝地区に都市的な生活スタイルをもたらしたのです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3(旧野洲・栗太郡の城)、江州佐々木南北諸氏帳、御園の歴史と文化(栗東歴史民俗博物館HPより)

本日の訪問ありがとうございす!!


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