虎口・・・信長の側室お鍋方(元小倉右京亮の正室)
お城のデータ
別 称:お鍋館・姫屋敷
所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺高野町 map:http://yahoo.jp/IZ83KA
区 分:平城(河川段丘)
現 状:田畑地
遺 構:石垣、虎口
築城期:織豊期
築城者:豊臣秀吉
城 主:お鍋の方・羽柴武蔵守信吉は(信長とお鍋の子・織田信吉)
城 域:約80m×50m
標 高:205m 段丘下より比高差15m
目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居
駐車場:路上駐車
訪城日:2015.11.14
お城の概要
高野館は、高野地区の西端部、愛知川を見下ろす位置に築かれていた。 発掘調査の結果、石垣や虎口などが出土したが現在は埋め戻されている。
高野館、西辺には川原石を用いた野面積みの石垣が約50m程の長さに渡って残されていた。
現在も『姫屋敷』『お鍋館』には、本丸には本丸櫓跡や空堀が残り、穴太積(あのうづみ)の石垣が東西約七十mの長さで比較的良く保存されている。城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。」とあります。
「姫屋敷」「お鍋館」が位置している、愛知川右岸を下流へ行くと高野神社があり高野の集落で、旧八風街道の紅葉橋近く。
虎口
段丘下から望む
近江国の高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。
和南の合戦
右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、
- 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
- 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
- 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
- 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
- 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、
- これに怒った六角義治承禎に攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹
実房の死した後は、信長の側室となり、信長の七男織田信高・八男織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した(信高は1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国愛知郡182石を与えられた。その翌年には更に400石を加増される。
秀吉の正室・北政所(ねね)に仕えて、孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭。
小倉右京太夫との長男・甚五郎が天正11年(1583)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり。
信高は(1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)、信高は愛智郡菩提寺村、神崎郡山上村などに2000余石、信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。
関ヶ原の戦いで信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた。
しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。
『日本城郭体系 11』によりますと、城の歴史は「織田信長は近江へ入ると、永禄11年(1568)9月、永源寺に安堵書を与え、信長の側室「お鍋の方」の館がこの地に造られた。
「お鍋」は信長との間に二男一女をもうけて高野城に安穏な日々を送ったが、天正10年(1582)6月2日、本能寺で信長が討たれたのち、安土城は焼亡し、「高野城」も明智の支配下となり、「お鍋」もわずかの家臣と共に行方をくらました。』
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『近江神崎郡志』『日本城郭体系11』
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