城郭探訪

yamaziro

下山城  近江国(愛東)

2016年09月04日 | 平山城

近年、地元の住民が発見した城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)百濟寺本町 map:http://yahoo.jp/L5i6_G

現 状:日吉神社の鎮守森

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:

遺 構:廓・土塁・

目標地:日吉神社

駐 車:日吉神社公民館に駐車

訪城日:2016.8.31

お城の概要

湖東三山百済寺の参道脇の日吉神社の鎮守森が城址で、詳細不明。


お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「愛知郡 下山本村 此所ニ公儀御代官増島左内ト云人居住セシ由、_今其宅跡残存テリト云」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 百斎寺 住 佐々木隋兵小倉源氏 宮本右平衛」の名が見える。

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

 守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。鯰江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候。近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

また、日吉神社の由緒書には、明応、元亀の年代に火災に遇い、後土御門天皇の御論旨によって再興した。しかしその後信長の兵火に罹ったが天正12年佐和山城主堀秀政によって再復した。慶長7年徳川家康が、又、寛文3年井伊直孝が祭祀料を寄進している。

御由緒
聖徳太子百済寺開基のとき守護神として高皇産霊神、瓊々杵尊の2神を奉斎したのが創祀と伝えられ、百済寺が天台宗に改宗したため天養又は建暦の年間に日吉大神をも勧請した。
明応、元亀の年代に火災に遇い、後土御門天皇の御論旨によって再興した。しかしその後信長の兵火に罹ったが天正12年佐和山城主堀秀政によって再復した。慶長7年徳川家康が、又、寛文3年井伊直孝が祭祀料を寄進している。
今の社殿は万延2年に造営されたもので、明治以後山王十禅師を日吉神社と改め明治9年村社に列せられ、同41年神饌幣帛料供進指定となった。

参考資料:『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』、日吉神社由緒書、『信長公記』
本日の訪問ありがとうございす!!

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