森村城
お城のデータ
- 所在地:滋賀県東近江市鯰江町1349 map:http://yahoo.jp/-R-Tkq
- 区 分:城館
- 現 状:ぶどう畑+宅地
- 区 分:平城
- 築城期:南北朝期
- 築城者:森備前守・森又太郎・森豊後守
- 遺 構:?
- 目標地:鯰江農業集落排水所領施設
- 駐 車:鯰江農業集落排水所領施設に駐車
- 訪城日:2016.8.31
- お城の概要
『淡海国木間攫』に「愛知郡 鯰江妹村(鯰江氏)・鯰江中戸村(鯰江氏)・鯰江森村(森氏)」とあり、地続きの3村であったは、中戸村と森村(鯰江村)は、名神高速道路で寸断された。
愛知川右岸の段丘城郭で、一時八風街道は愛知川宿より愛知川右岸を通り柿御園・高野・小椋谷を伊勢へと・・重要な間道であった。
- お城の歴史
- 『淡海国木間攫』には、「愛知郡 鯰江森村 往古此里ニ森備前守・森又太郎在城之由、古城跡等残リアリ、領主タリシト云。」と記す。
- 『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 森村住 佐々木隋兵 森豊後守」の名が見える。
- 鯰江森村城は、織豊期には「鯰江城」に改築された。
室町時代、鯰江氏は六角氏に属して勢力を伸ばしていたが、永禄11年(1568)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗を企てた。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、天正元年(1573)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城した。鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残している。
鯰江町自治会館内の地割図 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」
『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。
昭和60年の鯰江城土塁。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江城復元イラスト。(愛東の歴史ダイジエストより)鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)
鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)
現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」
- 鯰江城発掘調査
- が、永禄9年(1566)頃、鯰江城は改修されている(中川平三朗家文書)。(参考:愛東町誌2巻より)
- 鯰江氏の菩提寺「小松山専修院」
- 鯰江氏の墓石
- 森氏の墓石か?
- 参考資料:遺跡ウォーカー、 城郭分布調査1、『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』、Wikipedia
- 本日の訪問ありがとうございす!!