お城のデータ
所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)荒川町 map:http://yahoo.jp/lOPlN1
現 状:資材置場・空地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:木戸十乗坊
城 主:木戸十乗坊
遺 構:鹿垣・敷石?/城に使われていた石?
標 高:117m 比高差:ー
目標地:荒川のグランド・萬福寺
駐車場:荒川のグランド下の空地
訪城日:2016.4.23
お城の概要
荒川城は荒川の城之本にあったとされ、小字「城之本」「北堀」「城之東」の地名が残る
この城に関しての文献資料はほとんど見当たらないが、地区有の資料に明治18年に荒川村総代堀平氏によって描かれた絵図が残っており、それには城之本の地域の中に古城跡が描かれている。出典の根拠は不明だが、「北辺65間(117m)・東辺38間(68m)・南辺72間(130m)・西辺44間(80m)」の規模が描かれている。また同時に、「木戸十乗坊越前守古城跡、本村中央ヨリ北東地ニアル」と墨書があり、ここの城主は木戸十乗坊となる。同氏は木戸城の城主でもある。
現在は、城郭遺構は不明だが、東側に猪垣と伝えられる石積みがある。古老に聞いても「城之本」の名以外は伝わっていない、比定地の畑を宅地化の際、石がまとまって出てきたとのこと。
お城の歴史
『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡=(木戸山城)」は荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を「城の尾=(木戸山城)」といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。
『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。
『当代記』には、木戸城(志賀町)
元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」
元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。
信長公記 巻五 元亀三年 建設と政略と むしやの小路御普請の事
信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----
信長公記 巻六 元亀四年 湖上疾る 大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事
7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。集落とグランドの下の「猪垣」
グランドに駐車
猪垣にゲートあり、集落へ入ってすぐ右側が、遺跡ウォーカーの比定地(ヘンス囲われた)http://yahoo.jp/lOPlN1
遺構か? 出土石の一部か?
集落内
真っ直ぐ進むと「萬福寺」
本堂の北側に土塁痕?
萬福寺本堂の背後の様子・・・ここも城域内か?
詰め城を求めて
仮称)【荒川山城】としておこう。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー
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