城郭探訪

yamaziro

荒川城   近江国(大津・志賀)

2016年04月28日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)荒川町 map:http://yahoo.jp/lOPlN1

現 状:資材置場・空地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:木戸十乗坊

城 主:木戸十乗坊

遺 構:鹿垣・敷石?/城に使われていた石?

標 高:117m   比高差:ー

目標地:荒川のグランド・萬福寺

駐車場:荒川のグランド下の空地

訪城日:2016.4.23

お城の概要

荒川城は荒川の城之本にあったとされ、小字「城之本」「北堀」「城之東」の地名が残る

この城に関しての文献資料はほとんど見当たらないが、地区有の資料に明治18年に荒川村総代堀平氏によって描かれた絵図が残っており、それには城之本の地域の中に古城跡が描かれている。出典の根拠は不明だが、「北辺65間(117m)・東辺38間(68m)・南辺72間(130m)・西辺44間(80m)」の規模が描かれている。また同時に、「木戸十乗坊越前守古城跡、本村中央ヨリ北東地ニアル」と墨書があり、ここの城主は木戸十乗坊となる。同氏は木戸城の城主でもある。

現在は、城郭遺構は不明だが、東側に猪垣と伝えられる石積みがある。古老に聞いても「城之本」の名以外は伝わっていない、比定地の畑を宅地化の際、石がまとまって出てきたとのこと。

お城の歴史

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡=(木戸山城)」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を「城の尾=(木戸山城)」といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町) 

 元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。集落とグランドの下の「猪垣」

グランドに駐車   

猪垣にゲートあり、集落へ入ってすぐ右側が、遺跡ウォーカーの比定地(ヘンス囲われた)http://yahoo.jp/lOPlN1

遺構か?   出土石の一部か? 

集落内

  

真っ直ぐ進むと「萬福寺」      

本堂の北側に土塁痕?     

萬福寺本堂の背後の様子・・・ここも城域内か?         


詰め城を求めて

仮称)【荒川山城】としておこう。

                     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー 

  本日の訪問ありがとうございす!!


平尾館    近江国(愛東)

2016年04月28日 | 居館

  

 お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)平尾町 map:http://yahoo.jp/nJeMpK

現 状:集落・宅地馬

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:平尾平助

遺 構:

目標地:北野神社・平尾会議所

駐車場:平尾会議所に駐車

訪城日:2016.4.16

お城の歴史

北野神社の御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉(信長の九男・鍋との子))その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

『甫庵信長記』に、馬廻として平尾久助はいるが、『信長公記』には、馬廻として平尾平助がいる。

『信長公記』 天正十年(壬午)・・・・六月大 二日 午の刻に京都から早馬が来て、今朝本能寺にて信長が他界したと告げる。明知日向守光秀が中国への軍勢を丹波から京へ差し向け逆心して信長を討ったということである。京都から同時に届けられた書状は次の通りである。

「本日卯の刻に光秀が一万七千騎で丹波から京へ入り、二手に分かれて攻め向かう。光秀は七千騎にて本能寺へ向かう。もし信長へ加勢の軍勢があれば横鑓に攻め懸かって討つようにと明智左馬助を大将として六千騎が内野に控えて陣を取る。卯の下刻に本能寺合戦が始まり、巳の刻に本能寺に火がかけられ信長が自害する。」

 本能寺にて討死した面々は、森乱丸、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正材、村田吉五、澤田伊賀守、小川愛平、金森義入、魚住勝七、今川孫二郎、乾兵庫助、狩野又九郎、薄田與五郎、森力丸、同小坊丸、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀松、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀介、柏原鍋丸、祖父江孫介、大塚彌三、同又一郎、平尾平助、針阿彌、津田茂助、織田源三郎殿、松田主水正、小倉松助、湯浅甚介、中尾源太郎、高橋虎松丸等である。この他に逃げ散った者は多い。以上の者は残らず討死である。さらに御馬廻衆五十三騎が討死したということであるが確かなことはわからないので名前を記すことはできない。・・・・・。

平尾平助は同一人物か?

遺跡ウォーカーの比定地

北野神社 滋賀県東近江市平尾町617

御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉)その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧愛知・犬上郡の城」北野神社の由緒・信長公記

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