城郭探訪

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平尾館    近江国(愛東)

2016年04月28日 | 居館

  

 お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)平尾町 map:http://yahoo.jp/nJeMpK

現 状:集落・宅地馬

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:平尾平助

遺 構:

目標地:北野神社・平尾会議所

駐車場:平尾会議所に駐車

訪城日:2016.4.16

お城の歴史

北野神社の御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉(信長の九男・鍋との子))その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

『甫庵信長記』に、馬廻として平尾久助はいるが、『信長公記』には、馬廻として平尾平助がいる。

『信長公記』 天正十年(壬午)・・・・六月大 二日 午の刻に京都から早馬が来て、今朝本能寺にて信長が他界したと告げる。明知日向守光秀が中国への軍勢を丹波から京へ差し向け逆心して信長を討ったということである。京都から同時に届けられた書状は次の通りである。

「本日卯の刻に光秀が一万七千騎で丹波から京へ入り、二手に分かれて攻め向かう。光秀は七千騎にて本能寺へ向かう。もし信長へ加勢の軍勢があれば横鑓に攻め懸かって討つようにと明智左馬助を大将として六千騎が内野に控えて陣を取る。卯の下刻に本能寺合戦が始まり、巳の刻に本能寺に火がかけられ信長が自害する。」

 本能寺にて討死した面々は、森乱丸、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正材、村田吉五、澤田伊賀守、小川愛平、金森義入、魚住勝七、今川孫二郎、乾兵庫助、狩野又九郎、薄田與五郎、森力丸、同小坊丸、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀松、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀介、柏原鍋丸、祖父江孫介、大塚彌三、同又一郎、平尾平助、針阿彌、津田茂助、織田源三郎殿、松田主水正、小倉松助、湯浅甚介、中尾源太郎、高橋虎松丸等である。この他に逃げ散った者は多い。以上の者は残らず討死である。さらに御馬廻衆五十三騎が討死したということであるが確かなことはわからないので名前を記すことはできない。・・・・・。

平尾平助は同一人物か?

遺跡ウォーカーの比定地

北野神社 滋賀県東近江市平尾町617

御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉)その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧愛知・犬上郡の城」北野神社の由緒・信長公記

  本日の訪問ありがとうございす!!


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