お城のデータ
所在地:高島市(高島郡)今津町福岡 map:http://yahoo.jp/dQ4zp5
(なお、高島郡今津町字構は現在高島市(旧高島郡)今津町福岡)
現 状:集落・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:
遺 構:
目標地:五社神社(遺跡ウォーカーの比定地)
駐車場:五社神社隣の公園
訪城日:2016.4.5
お城の概要
中央部に堀跡よりも約一m上に郭(呼称「城」)が現存し、川を隔てて越丸という区画名もある。また南側に三太夫屋敷・小次郎屋敷などの呼称も残っていて、総面積はおよそ二万㎡の広さがあり、維新前には土塁らしいものがあり、もみの大木があったという。
構(現:福岡)集落の北東に位置した「城館」で、小字城の地名が残る。明治期『地籍図』には、周りの田地が比較的しっかり条理遺構に対して、極めて小片の田地から集落が形成されていて『城館跡』と発掘調査で確認された。二反ばかり『城』という田を中心に、東に「東堀」北に「北堀」西に「西堀」西堀の外側に「出口」という田がある。
堀の埋土から一六世紀の青磁・白磁等輸入陶磁器た瀬戸・美濃の天目茶話など国産陶磁器・漆器の椀や皿・箸・下駄・絵馬状の木札が出土。
言い伝えに東に琵琶湖を望み、東堀・北堀・西堀の三つの堀と、西に丘陵地帯を控え、非常に水の便も良く、燃料にも事欠かない所。
総面積はおよそ二万㎡の広さがあり、明治維新までは小高い丘で雑木が茂るがままで、狐が住んでおり「城狐」と呼んだ。古老の話では「東堀」の田で仕事をしている人の姿が土塁で見えなかったと。(本:近江城郭探訪に解説している)
お城の歴史
『朽木文書』に「長享元年(1487)、六角高頼が将軍足利義尚の近江遠征に備えて「江州高島郡河上」に築かせた「城郭」伊井・三谷・構の城のいずれかを指す考えられる。
・『高島郡志』によると、「植田甚之丞は構に居れり」とある。
・一説には、浅井長政が高島郡を攻略したとき、植田甚之丞は長政に敗れてこの地を逃れたということが伝えられている。」とあります。
- 永禄8年(1565)5月8日
湖西の勢力(朽木、高島七頭一族)が軍を北上させ、浅井領へと侵攻した。
高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏、田中重政、山崎兵庫頭、吉武壱岐守、田屋淡路守、植田甚之丞 。らの軍勢である。
「浅井長政は、全軍を観音寺城下(肥田城の戦い)に集結させている」琵琶湖の反対側なので、5千の兵をかき集め浅井領を攻めてきたのだ。 - 長政は浅井が恨まれないよう、接収作業を旧六角家家臣へと移行した。江北の兵はすでに半数以上は戦闘待機のまま小谷に戻った。
遠藤、磯野にそれぞれ5千を指揮させ、賤ヶ岳の砦で待ち構え引きつけるように指示を出した。山中に、訓練で鍛えた若手部隊を伏せた。……一日で決着。難なく蹴散らした。高島方面は、浅井直轄領として接収させた。(朽木家は、過去に将軍を保護した家なので見逃した。)国人領主の所領は安堵した。反乱軍に加わった者と六角家の分のみ接収した。流石に罪人の所領は没収したが、救済した謝礼の矢銭は受け取った。 - 『朽木文書』に「長享元年(1487)将軍足利義尚は、六角高頼によって横奪された近江国内の寺社公家領を回復するため、大軍をもって近江征伐を行った。幕府の出陣準備を聞いた六角側では、北国街道(西近江路)を封鎖するために高島郡河上荘に城郭を築いた。これに対し、幕府の命を受けた朽木貞綱や若狭の武田国信等は河上の城を攻撃した。」とあり、この「河上の城」が年代観や地理的条件から伊井城に重なる可能性が高い。
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江城郭探訪、高島歴史探訪ガイド「河上庄の城と寺」、浅井氏
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