城郭探訪

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構(かまえ)城   近江国(今津)

2016年04月06日 | 平城

お城のデータ

所在地:高島市(高島郡)今津町福岡  map:http://yahoo.jp/dQ4zp5

 (なお、高島郡今津町字構は現在高島市(旧高島郡)今津町福岡)

現 状:集落・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:

遺 構:

目標地:五社神社(遺跡ウォーカーの比定地)

駐車場:五社神社隣の公園

訪城日:2016.4.5

お城の概要

 中央部に堀跡よりも約一m上に郭(呼称「城」)が現存し、川を隔てて越丸という区画名もある。また南側に三太夫屋敷・小次郎屋敷などの呼称も残っていて、総面積はおよそ二万㎡の広さがあり、維新前には土塁らしいものがあり、もみの大木があったという。

 構(現:福岡)集落の北東に位置した「城館」で、小字城の地名が残る。明治期『地籍図』には、周りの田地が比較的しっかり条理遺構に対して、極めて小片の田地から集落が形成されていて『城館跡』と発掘調査で確認された。二反ばかり『城』という田を中心に、東に「東堀」北に「北堀」西に「西堀」西堀の外側に「出口」という田がある。

堀の埋土から一六世紀の青磁・白磁等輸入陶磁器た瀬戸・美濃の天目茶話など国産陶磁器・漆器の椀や皿・箸・下駄・絵馬状の木札が出土。

言い伝えに東に琵琶湖を望み、東堀・北堀・西堀の三つの堀と、西に丘陵地帯を控え、非常に水の便も良く、燃料にも事欠かない所。

総面積はおよそ二万㎡の広さがあり、明治維新までは小高い丘で雑木が茂るがままで、狐が住んでおり「城狐」と呼んだ。古老の話では「東堀」の田で仕事をしている人の姿が土塁で見えなかったと。(本:近江城郭探訪に解説している)

お城の歴史

『朽木文書』に「長享元年(1487)、六角高頼が将軍足利義尚の近江遠征に備えて「江州高島郡河上」に築かせた「城郭」伊井・三谷・構の城のいずれかを指す考えられる。

・『高島郡志』によると、「植田甚之丞は構に居れり」とある。

・一説には、浅井長政が高島郡を攻略したとき、植田甚之丞は長政に敗れてこの地を逃れたということが伝えられている。」とあります。

  • 永禄8年(1565)5月8日
     湖西の勢力(朽木、高島七頭一族)が軍を北上させ、浅井領へと侵攻した。
    高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏、田中重政、山崎兵庫頭、吉武壱岐守、田屋淡路守、植田甚之丞 。らの軍勢である。
    「浅井長政は、全軍を観音寺城下(肥田城の戦い)に集結させている」琵琶湖の反対側なので、5千の兵をかき集め浅井領を攻めてきたのだ。
  •  長政は浅井が恨まれないよう、接収作業を旧六角家家臣へと移行した。江北の兵はすでに半数以上は戦闘待機のまま小谷に戻った。
    遠藤、磯野にそれぞれ5千を指揮させ、賤ヶ岳の砦で待ち構え引きつけるように指示を出した。山中に、訓練で鍛えた若手部隊を伏せた。……一日で決着。難なく蹴散らした。高島方面は、浅井直轄領として接収させた。(朽木家は、過去に将軍を保護した家なので見逃した。)国人領主の所領は安堵した。反乱軍に加わった者と六角家の分のみ接収した。流石に罪人の所領は没収したが、救済した謝礼の矢銭は受け取った。
  • 『朽木文書』に「長享元年(1487)将軍足利義尚は、六角高頼によって横奪された近江国内の寺社公家領を回復するため、大軍をもって近江征伐を行った。幕府の出陣準備を聞いた六角側では、北国街道(西近江路)を封鎖するために高島郡河上荘に城郭を築いた。これに対し、幕府の命を受けた朽木貞綱や若狭の武田国信等は河上の城を攻撃した。」とあり、この「河上の城」が年代観や地理的条件から伊井城に重なる可能性が高い。
  • 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江城郭探訪、高島歴史探訪ガイド「河上庄の城と寺」、浅井氏
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酒波(さかなみ)寺遺構   近江国(今津)

2016年04月06日 | 城郭寺院

現地にのこる中世酒波寺の遺構

 現在の本堂の東の山麓から山腹にかけて、消失前の寺坊跡とみられるテレス上の平坦地多く残されています。

 特に東山山腹側には、後述の『青蓮山絵図院内』(以下『絵図』)に記載される「祖師堂」から延びる直線道路とその両脇に「氏名坊」や「元援坊」や「三ツ星寺」と総称される「牛女院」「北斗坊」「明星坊」など、かつての寺坊の遺構が良好な状態で残っています。方形を基調とした平坦面が段々畑のように並び、高低差が少なくなる山麓部では、土塁などを築いて寺坊が区画されてうたようです。また、この平坦面の東端には、塚状の高まりで残る中世慕がみられ、周囲に石仏や五輪塔の一部など多く散乱していることから、往時は慕城であったと考えられています。

本堂の西側は『絵図』左側に記載される「岩尾坊」「危祐坊」にあたると考えられており、十二世紀から十六世紀の陶磁器等をを初めとする遺物とともに、テラス状の平坦面の中に石垣や溝状遺構、土壙などが検出されています。

また現本堂の南東は、『絵図』の下方の「伝法院」にあたると考えられ、十二世紀から十五世紀の遺構が検出されています。特に十四・十五世紀がこの寺坊の最も盛んに活動が行われた時期とみられ、掘立柱建物のほか金属製錬時に生じるスラグの付着したるつぼなどが投棄された土壌・焼土・炭・灰の溜まった土壙、石組の隙間を粘土でふさいだ水留遺構、寺の必需品で剃刀なども検出とされたため、鋳造に関与する施設が営まれていたことが明白になりました。寺坊には学僧だけでなく鋳造職人といった商工業者、あるいは職人の役割を担った寺僧が存在した可能性があります。また「三ツ星寺」と総称される寺坊グループは「暦」を作っていた集団と伝えられることから、中世の酒波寺は純粋な宗教活動を行う他に様々な集合体であったと考えられます。・・・・(河上庄の城と寺より)

 

所在地:高島市(旧高島郡)今津町酒波727  map:http://yahoo.jp/y_kRGL

訪城日:2016.4.5

酒波寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

酒波寺(さなみじ)は、滋賀県高島市今津町酒波にある真言宗智山派 の寺院・京都智積院の末寺。山号は青蓮山。

歴史

 天平13年、行基により開かれたと伝わる。創建時は興福寺末で56坊を抱えた。

元亀3年、津田信澄により焼失し寺領を没収された

天正年間に再興が図られたが成功せず、再興が叶ったのは寛文2年に伊香郡の菅山寺より覚仁上人を招いて後である。延宝7年に京都智積院末になった。高島七ヶ寺のひとつという。

 
 

 大津あたりではソメイヨシノが散り始めている頃でも、湖西から湖北にかけては、まだまだきれいに咲き誇る桜を楽しむことができます。今回はソメイヨシノのようにたくさん植えられている桜ではなく、凛として佇む桜の木をご紹介します。
 山でよく見るヤマザクラもそういった趣きのある桜ですが、今回ご紹介するのはエドヒガンという桜です。エドヒガンは樹高15~25mで、名前のとおり春の彼岸頃に、ソメイヨシノより早く花が咲き始めます。ヤマザクラとともに桜の中ではとても長寿の種であることが知られていて、樹齢2,000年を超えるといわれるものもあります。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われていて、ソメイヨシノの片親としても知られています。
 このエドヒガンですが、高島市今津町から同マキノ町にかけて多く自生していることが知られていて、水上勉の小説「桜守」に登場する「清水の桜(しょうずのさくら)」もその1つです。「清水の桜」は滋賀県自然記念物に指定されている、県内最大級のサクラの巨木です。江戸時代に加賀藩の前田候が上洛の際に、何度も振り返ってその美しさを愛でたので、以来「見返りの桜」と呼ばれるようになったとの由緒もあります。

 JR近江今津駅の北西約4.5km、山麓にある真言宗智山派の寺。奈良時代に行基によって開かれ、観音堂の素晴らしさは、遠く都の人々の噂になるくらいであったと伝えられています。現在の観音堂は、江戸時代に再建したものです。
 境内は、山腹を利用し、本堂・書院・庫裏・護摩堂・鐘楼などが、古寺らしいたたずまいを見せています。

参道の長い寺院で、春になると桜の花が見事に咲き乱れ、参拝する人の目をなごませます。

昔、周囲の谷川に村人を困らせる大蛇が棲んでおり、酒を呑ませて退治をしたことから、この土地を酒波(さなみ)と呼ぶようになったといいます。寺名も同じ由来です。

 奈良時代、行基の開基の真言宗の寺院。「諸人のなべてより来るさかなみのうみやまふかき誓いたのみて」

 

参考資料:河上庄の城と寺(高島市歴史探訪ガイドブック)、ウィキペディア(Wikipedia)新近江名所図会

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大坂夏の陣 伊達政宗ら証言約束

2016年04月06日 | 文化財

松山市内で見つかった松平定実の大坂夏の陣での活躍を伝える書状。左は伊達政宗からの書状で、政宗の花押が確認できる=28日午後、県庁

松山松平家初代藩主の弟 定実の軍功リアルに 子孫宅 書状発見 大坂夏の陣 伊達政宗ら証言約束

愛媛新聞2016年03月29日(火)

  松山松平家初代藩主・定行の実弟、定実(さだざね、1597~1632年)の大坂夏の陣での活躍を伝える伊達政宗らの書状8通が松山市内にある定実の子孫宅で見つかり、28日に初公開された。調査した伊予史談会役員らは「県内で1600年代初めの古文書は非常に少なく、大名らの書状が残っていることは意義深い」としている。

 定実は、徳川家康の異父弟にあたる松平定勝の四男。1615年、大坂夏の陣では家康の旗本として出陣した。軍功を挙げたが、持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、定行の所領があった静岡・掛川に蟄居(ちっきょ)した。
 夏の陣での定実の軍功は、松山藩松平家の系譜書「久松家譜」で「伊達政宗・片倉重綱(中略)横田尹松等書ヲ以テ其効ヲ証ス」と記されており、8通はその原文書にあたる。定実やその家臣宛てで、定実の活躍を家康に証言することなどを記している。
 伊達政宗からの書状(推定16年)は、道明寺の戦いで政宗の家臣・片倉小十郎が定実の活躍を目撃しており、家康から問い合わせがあれば証言すると約束。高取藩主本多政武の書状は、夏の陣最後の戦いとなった天王寺の戦いで、真田信繁に攻め込まれ徳川方が大混乱となった際、定実がその場にとどまって手柄を挙げたことを覚えており、誰に尋ねられてもそのように答えると述べている。
 所有する松平定理さん(86)によると、書状は同市中心部にあった本家の蔵に預けられていたが、1945年7月の松山空襲の10日ほど前に実家へ移したため、戦災を逃れたという。
 伊予史談会常任委員の柚山俊夫、井上淳さんの2人が解読した。井上さんは「大坂夏の陣に参加した名だたる武将の史料がまとまって出てくることはなかなかない。戦場の様子をリアルに伝える史料としても重要だ」と話した。

松平定実 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松平 定実(まつだいら さだざね、慶長2年(1597) - 寛永9年3月21日(1632.5.16)は江戸時代の旗本。官名は従五位下、信濃守。

松平定勝の四男、母は奥平貞友の娘(たつ、二之丸殿)。徳川家康は父方の伯父にあたる。慶長10年(1605)、家康に初めて拝謁。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。同17年(1612)、従五位下信濃守に叙任。同19年(1614)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年、夏の陣では大功績を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして、家康の怒りを買い、兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本田正武や伊達家家臣・片倉景綱が、松平定実が天王寺の戦いで真田信繁に攻め込まれ徳川方が大混乱となった際、定実がその場にとどまって活躍したところを見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている。元和年間には書院組頭を命ぜられるが、病により辞退。さらに、寛永元年(1624)長島7千石、翌年には長島城2万石を賜うが、いずれも病により辞退する。同9年(1632)、桑名で卒去。永照院殿徳誉西巌道徹大居士と贈られ、照源寺(三重県桑名市東方)に葬られる。

室は井上松陰の女。延宝3年(1675)卒去。松寿院殿永誉馨庵貞玉大姉と贈られる。子に定之、定寛がいる。


三谷城 近江国(今津)

2016年04月06日 | 平城

三谷城(田の中の林)・・・遠景

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)今津町日置前三谷日置前 map:http://yahoo.jp/Rdpf1W

現 状:田地 

区 分:平城(城城)

築城期:鎌倉期

築城者:雨森孫太郎

遺 構:水田から1m程度の盛上がった「10m四方の大地」・中央に松の木が一本あり「城の一本松」

目標地:伊井バス停・JAカントリーエレベーター

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2016.4.5

伊井バス停

お城の概要

三谷と岸脇・伊井の村境位置する城跡で、明治元年の「三谷村_大略図」(=三谷区有文書)に「城跡」と記されていて、環濠を持った「城跡」の姿がはっきり図示され

「三谷村地券取調絵図」には二枚の田周りには土塁と思われる長い荒地と堀とみられる水路が回り巡り描かれている。

この地は昭和40~43年圃場整備で水田となり、水田から1m程度の盛上がった「10m四方の大地」が今も残る。中央に松の木が一本あり「城の一本松」と呼ばれている。

なお、三谷城の北北西約1.8kmの山中に山麓屋形と山頂に伊井城が存在する。

お城の歴史

『川上庄旧時季事記』には、建保六年(1218)「雨森孫太郎 井沢之居城之事」と記載が残る。伊沢之城、三谷城を指す考えらる。

伊井城伊井城(鑓城(やじろ))  近江国(今津)

伊井城(山頂489m)

『近江與地誌略』に「山中丹後守秀国居城の址也 秀国は高島七頭の一員なり 信長に滅ばされる」記され

日本城郭体系では、『近江蒲生郡志』に山中氏は「鈴鹿山麓山中村に住し、氏を称す 橘氏なり 諸兄二十世の孫義清始めて山中氏を称す」記されることから、甲賀武士の山中氏の同族が高島郡河上郷に住みついたとしている。

『朽木文書』に「長享元年(1487)将軍足利義尚は、六角高頼によって横奪された近江国内の寺社公家領を回復するため、大軍をもって近江征伐を行った。幕府の出陣準備を聞いた六角側では、北国街道(西近江路)を封鎖するために高島郡河上荘に城郭を築いた。

これに対し、幕府の命を受けた朽木貞綱や若狭の武田国信等は河上の城を攻撃した。」とあり、この「河上の城」が年代観や地理的条件から伊井城に重なる可能性が高い。

参考資料:高島歴史探訪ガイド「河上庄の城と寺」滋賀県中世城郭分布調査、伊井城説明板

 本日の訪問ありがとうございす!!

 


伊井城(鑓城(やじろ))  近江国(今津)

2016年04月06日 | 山城

お城のデータ

別 称:鑓城(やじろ)

所在地:高島市(旧:高島郡)今津町日置前字伊井 map:http://yahoo.jp/lMKueq
現 状:山林

区 分:山城  
築城期:織豊期

築城者:甲賀山中氏の一族山中秀国が居城
遺 構:郭・竪堀・堀切・土橋・説明板

標 高:498m比高差:365m
城 域:80m×20m

目標地:伊井バス停

駐車場:伊井バス停の北300m(伊井城説明板)の前:http://yahoo.jp/wYfQsh

訪城日:2016.4.5 

お城の概要

伊井集落の背後の野坂の山並みを配した麓で、通称「城下」と呼ばれる小字で「土塁を伴った下屋敷」の遺構も残る。

 伊井地区から支尾根に向かって登城道を1時間ほど登ると伊井城だ。 城跡は樹木で城の遺構は確認すること難しい。

灌木が茂って来ており、全貌の観察がままならない状態になっており、手入れが必要な時期に来ている。(縄張りは、支尾根の先端部を利用して、支尾根最高所に主郭を置き、支尾根先端部に向けて五段の曲輪を梯郭式に配置している。) 

資料や現地説明板には「標高489mの山頂部南東面にあって、城域は東西約80m、南北約20mで、堀切で背後を遮断し、西から東に階段状に連なる5段の段郭を築き、更にその2段目付近から南方に向け3段の段郭を設け「入」の字形をしている。」

主郭背後に土塁があるのみで、他に特段の防禦施設も見当たらない単純な構造の小規模な山城である。 主郭背後には堀切と土橋を設けて防備を固めている。

標高480m付近からは奥琵琶湖や高島市域を一望できる絶景は、登城の疲れを癒す。琵琶湖を、正面に伊吹山を見渡せるパノラマはこの城の魅力!。

お城の歴史

湖西の勢力(朽木、高島七頭一族)が軍を北上させ、浅井領へと侵攻した。
高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏(能登氏)、田中重政、山崎兵庫頭、吉武壱岐守、田屋淡路守、植田甚之丞 。らの軍勢である。
 近江国は六角氏、京極氏・大原氏そして高島氏と佐々木信綱を祖とする佐々木一族が勢力を持った。

 このうち嘉禎元年(1235年)に高島郡田中郷の地頭となった佐々木高信を祖とする一族が各地に土着し、惣領家は清水山城を居城とした高島氏(越中氏)である。 高島七頭はこの高島氏を中心として、高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏、田中重政、山崎兵庫頭、吉武壱岐守、田屋淡路守、植田甚之丞を総称したものである。 唯一山崎氏のみ佐々木高信を祖としない一族である。

『近江與地誌略』に「山中丹後守秀国(田中の一族)居城の址也 秀国は高島七頭の一員なり 信長に滅ばされる」記され、

日本城郭体系では、『近江蒲生郡志』に山中氏は「鈴鹿山麓山中村に住し、氏を称す 橘氏なり 諸兄二十世の孫義清始めて山中氏を称す」記されることから、甲賀武士の山中氏の同族が高島郡河上郷に住みついたとしている。

伊井城が要害地形に依存し防御施設に工夫が見られない古い山城である。

『朽木文書』に「長享元年(1487)将軍足利義尚は、六角高頼によって横奪された近江国内の寺社公家領を回復するため、大軍をもって近江征伐を行った。幕府の出陣準備を聞いた六角側では、北国街道(西近江路)を封鎖するために高島郡河上荘に城郭を築いた。これに対し、幕府の命を受けた朽木貞綱や若狭の武田国信等は河上の城を攻撃した。」とあり、この「河上の城」が年代観や地理的条件から伊井城に重なる可能性が高い。

田中氏の一族の山中秀国が居城して高島七頭に数えられいたが、織田信長に攻め滅ぼされたとも云われている

伊井バス停ここを入る『伊井城説明板』、駐車位置への入り口

車で入ると駐車可ここも駐車可

獣害ヘンスを入り、十字路を直進し、直登した【斜度45度】 城道は、左に行くとあった(下城時に解った)

  城道はあった!【獣害ヘンスを入り、十字路を左へ道なりに進む】=写真は下城時撮影した

伊井城登り口新道を左へ『伊井城へ』

主郭へ

箱田山への縦走路

 標高489mの山頂部南東面にあって、城域は東西約80m、南北約20mで、堀切で背後を遮断し、西から東に階段状に連なる5段の段郭を築き、更にその2段目付近から南方に向け3段の段郭を設け「入」の字形をしている。

主郭背後に土塁があるのみで、他に特段の防禦施設も見当たらない単純な構造の小規模な山城である。灌木が茂って来ており、全貌の観察がままならない状態になっており、手入れが必要な時期に来ている。 

城址の概要つかめず・・・下城する。


伊井城・・・遠景三谷城から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、高島歴史探訪ガイド「河上庄の城と寺」

 本日の訪問ありがとうございす!!