城郭探訪

yamaziro

木戸城     近江国(大津・志賀)

2016年04月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)木戸   map:http://yahoo.jp/xUnObU

現 状:水田

区 分:平城

築城期:室町期(1500年頃)

築城者:木戸十乗坊か?

遺 構:石垣(当時ものか、近世の棚田土留め石垣か?は不明だが川原石に石垣)。曲廓・基壇

標 高:90m   比高差:ーm 

目標地:JR志賀駅

駐車場:JR志賀駅に駐車

訪城日:2016.4.20

お城の概要

「楽浪の里志賀」には、以下のように解説されている。楽浪(さざなみ)の里志賀(志賀の城郭2)

 旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地城館となり、歓喜寺城がこれらの詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う伝承もある。湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。


志賀町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの不均等さを見せる。
・平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。

・山岳寺院内の館城と詰城が背後の山頂部に築城(歓喜寺山城や野々口山城)これは他の地域では見られない。
・比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が、平地や湖岸に寺坊を移し、寺院が経済運営に利便を図った。、(比良城=田中坊城)。
・主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
・各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は城の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度による。さらに築城の契機により志賀町域の勢力分布も推定が可能となる。北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
 なお、城郭機構の特徴か志賀町域での城郭は、二期に別れて発達した。
 第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
・第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化、本格的な山城の築城と合わせた平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町) 

 元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。

遺跡ウォーカー

の比定地

湖岸の樹下神社御旅所も駐車可



木戸 樹下神社 :滋賀県大津市木戸680-1

  

木戸集落の樹下神社前の『木戸山城(城尾山城)』への案内柱

由緒
樹下神社は、木戸城主佐野左衛尉豊賢の創建と伝えられる。1429年に社地を除地とせられ、爾来木戸城主の崇敬あつく
木戸荘五ケ村の氏神として崇敬されてきた。元亀の兵火にあい社殿を焼失した。
当時、織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が痛憂して天正6年(1572)再建し、社殿を再造し
坂本の日吉山王より樹下大神を十禅師権現として再勧請し、郷内安穏 貴賤豊楽を祈願せられたと伝わる

歴史

正平3年(1348)に、木戸城主佐野豊賢により創祀され、木戸庄の惣社として崇敬されたと伝わる。元亀の争乱時に戦禍に見舞われ荒廃したが、天正6年(1578)に再建された。明治9年に村社に列し、同41年には神餞幣帛料寄進社に指定された。また地元の言い伝えでは、本来は境内社である「峰神社(祭神は比良明神)」が本宮で、比良山を神体参としていたという。天正の再建時に日吉大社樹下宮を勧請したため、地主神と勧請神の立場が入れ替わったとされる。 

   

           

本殿背後の鎮守の森(城祉か?}

         

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 木戸 浄土宗 安養寺 所在地:滋賀県大津木戸679

由 緒  (安養寺の御住職より拝領した資料)  

当山の創立は、木戸城主、従五位下、佐野越中守の豊賢、兼山徒十乗坊。佐々木山の内判官満高に属し、軍功ある後、薙髪して、浄閑という。同人(浄閑)、貞和四威子年(1348)、当山に天台宗安養坊を建立。門珠(門流・門徒の意か)を修行せしめ給う。応永十一年申敏(1404)六月一九日、卒す。

豊賢二世の子、俊賢、寺地を検地とせらる。(境内。三十間、十五間、一反五畝歩)。本尊阿弥陀仏は。僧源信の作なり。当寺は、即ち佐野氏の菩提寺たり。元亀三年(1572)、信長の兵燹(へいせん)に罹り焼亡す。天正九年(1581)、木戸城主、十乗坊栄有法師(秀方)再建して、浄土宗安養寺と改められ、幻誉信窮を中興開山とす。本尊は、聖観世音にして僧行基の作なり。創立は、比叡山の峰にして、承和五年(838)浄安の開基なり。これまた、信長の焼亡する所となる。天正九年十乗坊再建して、安養寺の末派とさらる。十乗坊栄有法師は、慶長六年(1示すこと601)正月十六日卒す。当山境内に墳墓あり。

干時明治三十年五月、古書に依り由緒の概略を示すと云繭。     現住 長谷尾天信誌

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・領主佐野氏の菩提寺であって、永禄、元亀のころまでは野離子川の辺りにあったという。 現在の本堂は、寛政6年(1794)の再建であり、境内には領主佐野十乗坊栄有の墓がある。

 

 

     

西方寺 

         西方寺参道 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、『近江輿地志略』、安養寺の由緒、樹下神社の由緒、『信長公記』『当代記』『佐々木南北諸氏帳』 

 本日の訪問ありがとうございす!!


和邇城(和迩城) 近江国(大津・志賀)

2016年04月22日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町高城)和邇高城   map:http://yahoo.jp/xUnObU

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期(1500年頃)

築城者:和邇越中守信方

遺 構:曲廓・土塁・基壇。

標 高:185m   比高差:30m (公園より)

目標地:和邇高城のニュータウンの「虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」

駐車場:公園に駐車

訪城日:2016.4.20

お城の概要

 JR和邇駅から、西丘陵にニュータウンがある、中央の道を頂部まで行くと南側に「森林」と「和邇高城の虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」がある。

 この平山の森林が城址で、住宅地の中心に山林が残り、城道が造られているが、城跡は自然の地形利用した非常に古い作事で、詰め城・砦・物見廓?の様相で整備されていないが。

 滋賀県志賀(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。

 

曲廓は東中腹20m×20m程の平削地と思われ、土塁・切岸で防御(現在はニュータウン化で防御性は感じないが)

お城とへは公園の角から、登城路がある。

あるいは、南山麓の大津赤十字志賀病院(和邇中)の隣の稲荷社への参道から、稲荷社~左への登城路がある。

お城の歴史

 和邇氏代々の居城で 築城期は不明だが、城があった旧高城村は足利尊氏により園城寺に寄進された後、1500年代に和邇越中守信方らによる統治が始まったとされる。

『佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 和邇城主 佐々木隋兵氏族 和邇丹波守秀俊・和邇兵内左衛門貞季・和邇兵吉・和邇豊五郎実勝・和邇金蔵成覚・和邇越中守秀正」の名を記す。

『多聞院日記』には、和邇城(志賀町) 元亀元年7月6日の条「一、去廿日信長ワニ、カタタニ被陣取了」と記す。

『細川両家記』には、和邇城(志賀町) 永禄12年9月23日条「信長は帰国せんとて坂本迄下給へば、越前衆わに・片田迄上候て陣取」と記す。

『和邇町誌稿』では、「中世末期に和邇金城坊なるものがこの地に陣屋を築いた」とされている。

信長公記 巻三 元亀元年 能戦  観世大夫、金春大夫立合に御能の事

ーーーー京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川の松宮玄蕃領を経て23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣した。

巻五 元亀三年

 この年3月5日、信長公は江北に出兵して赤坂に陣を取り、翌日横山まで進んだ。そして7日に小谷と山本山の間五十町の地に進出し、ここに陣を据えて与呉・木本方面を放火した。江北の諸侍はかねがね、「与呉・木本へは、途中節所を通らねばたどり着けぬ。もし織田勢かの地を攻むることあらば、われらはその場所にて一戦に及ぶべし」と広言していたが、結局足軽の一兵さえ出すことはなかった。信長公は何ら妨害を受けることなく作戦を遂行し、9日無事横山に軍勢を収めた。翌10日は常楽寺に宿泊し、11日になって志賀郡へ出陣した。信長公は和邇に陣を構えて木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城を囲ませ、付城を築いて明智光秀・中川重政・丹羽長秀の三名を置いた。

和邇氏は、

 大和国添上郡和邇より起こり、孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命から出たと称する皇別氏族とされます。その本宗家は、和珥臣ですが、継体朝頃に途絶えたため、添上郡春日に遷った支族の春日臣の方が本宗家に取って代わりました。春日臣から、和邇や和邇部を名乗るものが出たので、春日から和邇に改姓したというような記述になったと思いますが、本宗家は別にありました。

 和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。


背後の林城址頂部

ブルーシートの所から山にはいる。この公園内の空きスペースに駐車

三角点

更に進むと、南山腹に稲荷社が祀られている。

山腹の稲荷社、曲廓跡か?

参道は南山麓の大津赤十字志賀病院の方面へ

 

戻ります

ツツジが2種咲いてました。

大手城道だったか?

城底道が、稲荷社まで

稲荷社も曲廓跡か?

稲荷社の右へ登り、頂部へ

コイワカガミ頂部の基壇横矢か?武者隠し土塁(頂部北東部)

曲廓部か?公園の南側斜面(造成用で削土跡)

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1・9「旧滋賀郡の城」、『日本城郭大系』11、『信長公記』、『多聞院日記』、『細川両家記』

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