城郭探訪

yamaziro

明王寺  近江国(甲賀)

2016年04月08日 | 文化財

庭園が美しい、城郭のような高台に建つ山寺

      2016年1月31日

所在地:520-3312 滋賀県甲賀市甲南町磯尾1972

開 祖: 延暦年間(782-806)伝教大師

 当寺は、最澄が延歴年中(785年)に比叡山中堂建立に先だち桧木材調求のため当地を訪れた時、災厄に苦しんでいた人々を五大明王に一切衆生の守護を祈り助かったことより、その報恩のため彫刻した。その後、811年に開山し安置された。近辺には人家がなく、細い一本道のみ。
庭園は、最近改修されたばかりなので、苔むした落ち着きまでにはまだ至っていない。 近くの岩附神社に、巨木の「夫婦杉」がある

由 来:

 人皇50代桓武天皇の御宇延暦年中(782-806)、宗祖伝教大師が比叡山諸堂建立の用材調達のため当谷へ入られ、大勢の杣人(地元民)を用し用材を整えた。その折、杣人らの間で悪病が流行し、憂い悲しむ人々を愍む伝教大師は、ある夜、此の山上に浄光棚引き聲高らかに『五大明王を安置すべし』との夢をみられた。すぐさま、8月3日の暁より一刀三礼の五大明王の御尊像を7日7夜の間に彫刻された。すると、悪病も平癒し、その年の五穀は豊作となり、村人は、歓喜し、報恩のため、一宇の寺を建立して、五大明王を安置し、天下泰平、風雨順時、五穀成熟、諸人快楽の祈願道場とした。

弘仁5年(814)円瑞 中興

明王寺の施設紹介

 庭園が美しい、城郭のような高台に建つ山寺

東海自然歩道沿いの高台に位置する「明王寺」は、庭園が美しい天台宗の山寺。811年に円瑞によって開創されたと伝えられています。本尊五大明王は、最澄が衆人の病災を除くために彫刻して安置したものだそうで、地元では祈祷祈願の寺として知られています。手入れの行き届いた庭園を眺めながら、ホッとひと息。境内の前庭からは三重県境の油日岳や鈴鹿連峰、雨乞岳、岩尾山など、素晴らしい風景を臨むことができます。親子で散策するのも楽しいお寺です。

 

東海道自然歩道が境内を通じる明王寺は、庭園の美しい天台宗の山寺で、祈祷祈願と憩いの寺として親しまれています。本尊五大明王は、最澄が衆人の病災を除くために彫刻し安置したとされています。

参考資料:甲賀市観光ガイド

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北向岩屋十一面観音   近江国(能登川)

2016年04月08日 | 文化財

北向観音から、観音正寺まで【繖山ハイキングコース】になっています。

2016年2月27日

くりぬいた岩の奥に安置された北向岩屋十一面観音

磐座に安置された北向岩屋十一面観音

北向岩屋十一面観音  所在地:東近江市(旧・能登川町)猪子山

JR能登川駅南方の猪子山(268m)山頂の堂の奥に岩屋があり、その中の像高55cmほどの石造の観音が、北向観音と呼ばれています。

東近江市(旧・能登川町・旧五個荘町)と安土町にまたがる繖山(きぬがさやま)山系の北にある猪子山の山頂に、赤いお堂が岩にへばりつくように立ってぃます。中に入ると、奥の岩をくりぬき、高さ55cmほどの石造りの観音さまが安置されており、北向岩屋十一面観音と呼ばれています。


 奈良時代に安置されたといわれ、平安時代には坂上田村麻呂が東国平定のためにこの岩屋にこもり、観音に祈願したとも伝わります。
 古くから土地の人の信仰を集めている観音さまで、7月17日の千日会には京阪神・中京方面からも多くの信者が訪れます。この日だけでなく、毎月17日には信者の参拝でにぎわいます。

お堂から見た伊庭内湖など湖東平野のながめ観音堂からは、琵琶湖・比良の山並みが眺められます。

また、夜の眺めも素晴らしいとか!

問合せは、

一般社団法人 東近江市観光協会

TEL:0748-48-2100

FAX:0748-48-6698

E-mail:info@higashiomi.net

神岩に文字 【福丸大神 豊盛大神】

参考資料:東近江市観光協会、愛らしきもの

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五番領(ごばんりょう)下ノ城   近江国(安曇川)

2016年04月08日 | 平城

お城のデータ

所座地:高島市(高島郡)安曇川町中野773  map:http://yahoo.jp/8S9Wvg

現 状:竹藪地

区 分:平城

築城期:

築城者:山崎氏

遺 構:土塁・廓・堀・現地案内板

目標地:広瀬橋バス停・中野バス停の中間の県道

駐車場:バス停の中間県道に路上駐車

訪城日:2016.4.2

お城の概要

五番領城より、北東に8.5kmの県道23から南西へ太山寺集落への市道を南西200mの道脇に(安曇川川町中野)の位置する。太山寺城を見学に行く時、偶然看板を発見して、写真を撮った。竹藪の中は遺構は廓・土塁・堀痕は残るが、半分は道路の下か?

お城の歴史

歴史は不詳だが、五番領城の名がついているには、山崎氏に係わる城館であろう。

       或いは、五番領城の支城か?

高島七頭 

近江国は六角氏、京極氏・大原氏そして高島氏と佐々木信綱を祖とする佐々木一族が勢力を持った。

このうち嘉禎元年(1235)に高島郡田中郷の地頭となった佐々木高信を祖とする一族が各地に土着し、惣領家は清水山城を居城とした高島氏(越中氏)である。

高島七頭はこの高島氏を中心として、平井(能登氏)、朽木、永田、横山、田中、山崎氏を総称したものである。唯一山崎氏のみ元佐々木愛智流と祖の一族である。

 

【五番領(ごばんりょう)城】について 『日本城郭体系 11』によりますと、

所在地は「高島郡安曇川町五番領字西良」、創築年代は「応安二年(正平二十四、一三六九)」、創建者は「山崎兵庫頭」、形式は「平城」です。

城の歴史は「(中略)五番領城に関する唯一の文献ともいうべき『近江輿地志略』には「五番領村に在り。平城也。山崎兵庫頭居住の址なり」と記されているのみで五番領城が具体的に村の中のどういう所にあったのかは、今日までほとんど知られることはなかった。

また『高島郡志』にも城のことは書かれていても、その位置については触れられていない。

ところが江戸中期から明治初年にかけての「五番領村絵図」(区有)をみると、その中に城の一部と推定される堀が描かれたものが二点ばかりあるのである。

一つは享保十七年(1732)に五番領村が幕府の直轄地になった際に作られた絵図を、元文五年(1740)に再度写して役所へ納めた時のもの。

もう一つは、寛保三年(1743)に作られたものである。

参考資料:> レファレンス共同データベース事例詳細、

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