城郭探訪

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本多公御浜御殿  近江国(大津)

2016年04月01日 | 居館

本多公浜御殿

お城のデータ

所在地:大津市大津市御殿浜(本多神社) map:http://yahoo.jp/lT579R

現 状:神社

区 分:居館

築城期:江戸期

築城者:膳所藩/本多氏

遺 構:本多公浜御殿址石碑

目標地:本多神社

駐車場:本多神社

訪城日:2011.11.19

お城の概要

膳所城は関ヶ原の戦いの後、藤堂高虎が徳川家康の命で最初に作った城で、

湖の中に造られた「幻の浮城」と言われる非常に珍しい城です。

その膳所城跡公園の近く、大津市御殿浜に本多神社。道路沿いに案内板。

宮前に碑がありますが、なんとなく読んでいくと、幕末関係のようです。

慶応元年5月、第14代将軍・徳川家茂が上洛の途中、膳所城に滞在すると聞いた膳所藩士が、暗殺を計画!

 と疑われます。

  藩は11月、容疑の可能性がある11人を捕縛・切腹・斬首・打首の処置をし、幕府に忠誠を示します。

これを「膳所城事件」といいます。

藩主・本多康穣が、その11人の慰霊のために建てたのが、この「丹保之宮」だそうです。

本多神社

その横に本多公浜御殿址 

膳所城の離れとして作られた浜御殿。その跡地に 明治16年に作られた中興の膳所藩主、本多忠俊、忠次、康俊、俊次公を祭神とした神社です。

 その神社周囲には驚く光景が広がっている!

お城の歴史

 膳所城は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康が、翌慶長6年(1601)京都背後の守りと、豊臣秀頼が居城する大坂城への備えの城として、東海・中山・北陸三道と琵琶湖に臨む要衝の地に築いた城である。
 縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行い、8人の普請奉行の下、諸国の大名を動員するという天下普請の第一号の城である。
 同年、大津城主の戸田一西(かずあき)が10万石で初代膳所城主となり城下町の整備に努めた。元和3年(1617)一西の子戸田氏鉄(うじかね)が摂津尼崎に転封された後、本多氏、菅沼氏、石川氏と城主は替わるが、慶安4年(1651)本多俊次が伊勢亀山より7万石(後に6万石)で入封。
 以後、膳所城は本多氏13代の居城として明治維新を迎える。膳所藩は代々徳川幕府に忠勤を励んだが、幕末になって勤皇派が台頭し、戊辰戦争の口火を切った鳥羽・伏見の戦いでは桑名城攻めに参陣した。

慶長6年(1601)徳川家康によって築かれた。 築城においては藤堂高虎が縄張を行い天下普請で行われ完成後は戸田一西が三万石で入城した。

元和2年(1616)戸田氏鉄は大坂夏の陣の功により摂津国尼崎に移封となり替わって三河国西尾から本多康俊が入封する。 元和7年(1621)本多康俊になると旧領三河国西尾に移封され替わって伊勢長島から菅沼定好が入封する。
寛永11年(1634)定好は丹波国亀山に移封となり替わって下総国佐倉から石川忠総が入封するが慶安4年(1651年)石川氏もまた伊勢国亀山に移封となる。
最後に以前三河国西尾に移封になって伊勢国亀山に移封されていた本多俊次が再入封し以後明治に至る。 

本日の訪問ありがとうございす!!


島左近屋敷   近江国(彦根)

2016年04月01日 | 居館

お城のデータ

所在地:彦根市古沢町   map:http://yahoo.jp/t3-zM5

現 状:寺院

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:島氏

遺 構:井戸・

目標地:清涼寺

駐車場:清涼寺の駐車場

訪城日:2016.3.28

お城の概要

戦国時代の猛将・島左近は、佐和山城搦め手山麓に居館を構えており、その地には清涼寺が建立された。また隣接する龍潭寺付近に主・石田三成の屋敷があったと伝わる。

 彦根市の東北、佐和山の麓にある曹洞宗の禅寺・清涼寺は佐和山城の城主であった石田三成とその家老・島左近の屋敷跡に、戦国から江戸期に渡り代々彦根藩主を務めた井伊家の菩提寺。かつては雲水の修行場であり、大老・井伊直弼も参禅したのだとか。境内は一般公開されていて誰でも自由に出入り可能ですが、本堂、禅堂、墓所などの拝観は許可が必要です。

お城の歴史

清涼寺には佐和山城落城や石田家家老・島左近に纏わる7つの怪談「清涼寺の七不思議」が今なお語り継がれています。

島左近の生涯

戦国時代の著名な武将であるが、その伝承はほぼ軍記物に拠るところであって、生涯について不明な点がほとんどである。

島 左近の出目は、飯村城(嶋氏館) 近江国(近江町)誕生年不明~1600年。名を清興(一般には勝猛あるいは友之)という。

 筒井順慶に仕え、幼いときより孫・呉の書を読んで兵法に通じ、松倉右近と並んで右近左近と呼ばれた。順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、島はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに草庵を営み、引き篭っていた。

 京極氏の被官で近江坂田郡飯村城主・嶋若狭守秀安(入道朴底)の孫秀親・秀季(二男秀淳の子)または一族の新六郎が左近ではないかとするもので、『関ヶ原軍記大成』などに見える「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述から、左近は同郷人である三成に親近感を抱き、その家臣となって活躍したとするもののようである。(『関ヶ原軍記大成』)。当時でも猛将として名を馳せた人物であった。三成に仕えたのは天正十一年(1583)とされる(『稿本石田三成』)。

 関が原の合戦では、三成の先鋒として岐阜に出陣。株瀬川で東軍・中村一栄の軍勢を打ち破り、動揺しがちの西軍の士気を励ました。その夜、島は、夜討ちをかけるように提言したが宇喜多秀家、島津義弘らに容れられず、島は「明日になり、敵、勢いづけば、万が一にも勝ち目はない」と言って、討死の覚悟を決めたという(『常山紀談』)。

 翌九月十五日、田中吉政、黒田長政の兵と戦い、これを見事に退けて家康の旗本付近に迫ったが、黒田勢の鳥銃の乱射の中に奮戦、ついに倒れた。島のこの日の兜の立ち物は朱色の天衝で、溜塗りの桶がわ胴の鎧の上に木綿浅黄の羽織を着て、精鋭三千ばかりを左右に立て、采配をとって下知していた。そして黒田部隊を引きつけ柵際に待機させた七十ほどの精兵の鉾先で残らず討ち取る計画であった。しかし黒田勢の鉄砲頭・長菅政が高所に登り五十挺の鉄砲で間断なく射撃してきたため、さすがの島も利を失い、乱戦中の命を落としたと伝わっている。

 当時の落首に「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」というものがあって、また忠誠の武士として巷間流布しており、三成が佐和山城に移って加増を受けた際、島にも加俸しようとしたが「従前どおりで構わない」と断ったという巷説など、その名将・猛将ぶりは戦国武士の中でも有数である。(以上、桑田忠親『日本部将列伝』『義士 石田三成』、今井林太郎『人物書 石田三成』等による)


清涼寺には佐和山城落城や石田家家老・島左近に纏わる7つの怪談「清涼寺の七不思議」が今なお語り継がれている。山門

清凉寺の正面に見える山門も「唸り門」とあだ名され、江戸期に焼失するまでは左近邸の屋敷門を移築して使用しており毎年大晦日になると風もないのに山門から不気味に唸る音がしたという不気味な伝説が残っています。 

客殿 家紋彦根橘(丸に橘)

唐破風の上には金色の井伊家の家紋「丸に橘」の彫刻。屋根の上に更に越屋根。

本殿

嘉永五年に再建されたという本殿。入り口が左に寄った左右非対称のつくりになっているのが特徴で、寺宝である歴代藩主の画像や狩野元信らの名画が保管されています。七不思議の一つ「ひとりでに鳴る太鼓」は本堂の右側にあるのだとか。

 

七不思議のひとつ「左近の南天」。
島左近が屋敷のなかでひときわ愛でていたと伝わる南天の木で、触れると腹痛を起こすと言われています。


七不思議の「木娘」

左近の南天の右隣にあるのは、もう一つの七不思議「木娘」。樹齢750余年あまりの椨(タブ)の大木で、江戸時代にはたびたび娘の姿に化けて参拝客を驚かせたとか。

七不思議「木娘」

この木娘の椨の木、左近のお手植えだったと?左近の時代で既に樹齢350余年?もしお手植えの話が本当?。

七不思議の「晒しの井戸」。

裏山の井伊家代々の墓所への坂道の途中にあるのが七不思議の「晒しの井戸」がある。

島左近が茶の湯に使っていたと伝わる井戸。
この水に汚れ物を晒しておくとわずか一夜で真っ白になったという伝説がある。

墓所から清涼寺の裏側を見下ろすと、七不思議のひとつ「壁の月」のある方丈が確認できました。
この方丈は島左近の屋敷の居間を移築したものと言われていますが、何度塗りなおしても壁に月形が浮かび上がる。
左近の兜の前立ては月形だったという説もありますし、壁が亡き主を偲んでいるのか?。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、【滋賀県彦根市】清涼寺 | 島左近屋敷