城郭探訪

yamaziro

上田氏館   近江国(近江八幡)

2016年04月10日 | 居館

上田氏代々の居館

お城のデータ

所在地近江八幡市上田町1613 map:http://yahoo.jp/EmXm1T

現 状:神社

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:上田氏

遺 構:堀痕・土塁痕

目標地:篠田神社、篠田会館

駐車場:篠田神社に駐車場

訪城日:2016.4.9

お城の概要

 上田町一帯は、観音寺城(蒲生郡安土町)城主佐々木六角一族の鉄砲火薬に必要な硝石を作っていた職人が住んでいた所で、今でも毎年5月初旬におこなわれる篠田神社の古式花火奉納で著名なところである。

現在、城域には篠田神社が建つ。 篠田神社は元は上田神社と呼び、平安時代末期に上田氏が当地を治めた頃に造営したとされる。
神社の背後の林に土塁ような土盛りと内側に堀跡と思われる溝が配されている。城郭の遺構であるかは不明だが?。

お城の歴史

上田氏代々の居館。
上田氏は、佐々木氏の庶流で上田季政を祖とし、平安時代末期から1595年まで同地を支配した土豪一族。しかし詳細不明。

鉄砲の火薬に必要な硝石を作っていたなら、織豊期には大いに期待が掛かったと予想される。

入口の参道脇に宝篋印塔が1基ある。とても広い境内地である。

草創は平安時代末まで遡り、そのころ当地を領していた上田氏の造営になるという。
現社名になったのは明治以降で、それまでは上田神社または上田大明神と称していた。
上田の地は古代、篠田郷に属し、8世紀後半以降馬渕の東に隣接する上田荘が開発されたが、土質もよく美田であったことが地名となった。

正長元年(1428)足利義教により、京極家の所領となり、永享8年(1436)に京極持清願主となって拝殿を上葺した棟札銘文が残る。
その後、安永5年(1776)に造営されている。
毎年5月4・5日の神社大祭における宵宮(よみや)の火まつり(国選択無形民俗文化財)は有名である。

 

篠田の花火碑

堀痕?土塁痕?

篠田神社宝篋印塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正安三年 1301年、花崗岩、高さ 155Cm)

宝篋印塔::鎌倉時代
相輪を失って、笠上までの高さ1.55m。壇上積式で複弁反花つきの基礎は、四方の側面格狭間内に開蓮華を刻出し正安3年(1301)の造立銘を刻む。 塔身四面には月輪内に蓮座にのる金剛界四仏梵字をあらわし、笠の隅飾は三弧で、八面にそれぞれ蓮座上の月輪に「ア」字を刻む。鎌倉時代宝篋印塔中の習作である。

篠田の火祭

国選択無形民俗文化財
「近江八幡の火まつり」とは、「左義長まつり」、「八幡まつり」、「篠田の花火」をはじめとする毎年決まった時期に、近江八幡市内の村や郷、町内など特定の地域集団で行う火を用いる行事を総称する。

全国でも例を見ない古式花火「和火わび」の継承行事としてよく知られている。
仕掛け花火は、化学薬品を一切使わず、日本古来の製造技術を忠実に守って、硫黄・硝石・桐灰を三ヶ月もかけて薬研で粉にしたものを調合し、配置する。
五月四日夜9時頃、一条の綱火によって点火されると、火は瞬時にして仕掛け花火全体に移り、境内はモウモウたる煙と炎に包まれる。
花火の持つ壮烈な瞬間の華麗さで見るものの心を奪ってしまう。
煙がおさまったあとに浮かび上がる蛍火のような幻想的な花火絵柄はまさに夜空に輝く芸術品と呼ぶにふさわしいもの。
仕掛花火が消えると、最後に大松明が奉火され、夜空を赤々と焦がす。


鳥居と本殿が新幹線でさえぎられている。

 参考資料:滋賀県の歴史散歩、滋賀県神社誌、近江蒲生郡志、近江八幡の歴史、

 本日の訪問ありがとうございす!! 


狛氏館 近江国(八日市)

2016年04月10日 | 居館

 明神社の矢穴ある石板

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)三津谷町 (遺跡ウォーカー比定地)map:http://yahoo.jp/ej4ieM 

現 状:宅地

区 分:居館

築城年 :

築城者:狛氏

遺 構:不明

目標地:三津屋町公民館

駐車場:三津屋町公民館に駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

狛氏館は、三屋屋集落に位置し、観音寺城から5km、瓶割山城から2kmにあり、遺構や伝承は不明である。

滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡の城)では、詳細不明。ながら頁97には三津屋集落に赤丸がある。

遺跡ウォーカーでは、三屋町公民館の裏の北東を比定地としている!

三津屋の狛氏の末裔が、佐々木六角氏の末期の重臣狛氏であったか?、六角氏の滅びてしまうと名は見えない。

 佐々木六角の重臣に狛氏が名がある「六角氏式目の宛所となった狛丹後守」「弟の狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった」「箕作城の戦い」にも守将として狛修理亮は名を残す。

氏館 狛氏館遺跡:遺跡ウォーカー

時 代:中世細分不明 
所在地:滋賀県東近江市三津屋町
 緯度経度:35.099250, 136.161083 
遺構概要:城郭分布調査1、城館。平地。不明。 map96:平地。 
その他概要:旧、八日市市。 県教委編「旧野洲・神崎郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』4 県教委1986.3)。map96:205-038、30。

遺跡ウォーカーの比定地

お城の歴史
ーーーー
「六角承禎条書案』
 六角定頼の娘は土岐頼芸に嫁いだ。定頼の子承禎は土岐頼芸の妹を娶った。そのため、六角承禎は美濃から逃れてきた土岐頼芸を保護し、美濃斎藤家と敵対した。永禄三年、足利義輝の近臣伊勢貞良の仲介により、六角義治は斎藤義龍の娘を娶り、和睦した。六角義治はこの婚姻について父六角承禎の了承を得ておらず、承貞は大いに嘆いたと云う。

   以上、

永禄三年七月廿一日

    承禎

平井兵衛尉殿

蒲生下野入道殿

後藤但馬殿

布施淡路入道殿

狛修理亮殿

 ----------

『六角義堯書状』・・・・甲賀武士の子孫に伝えられた黒川文書に、『義堯書状』、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す。


  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿

 義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
 この書状から、

①六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、

②義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、

③義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
 文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。

ーーーーーーーーー

 六角家 家臣団
 
  六角高頼  六角政勝の子。妻は古河公方足利成氏の娘。子は氏綱。
  六角氏綱  六角高頼の子。母は古河公方足利成氏の娘。六角家は足利将軍家と敵対していたが、
            足利義澄により六角氏綱は赦免された。さらに義澄の妹を娶り、婚姻同盟を結んだ。
            これは足利義澄が足利義稙に対抗するための措置である。後に足利義澄を近江岡山城に匿った。
            妻は足利政知の娘。子は定頼。娘は二条晴良、京極材宗に嫁いだ。異説によると義久(男)いたと云う。
  後藤但馬頭 六角重臣。娘は蒲生賢秀に嫁ぐ。
  平井定武  六角重臣。娘は浅井長政に嫁ぐ。浅井長政は六角家と縁を切り、平井定武の娘と離縁。
            織田信長の妹を娶り、同盟を結んだ。永禄三年七月、六角義賢から書状を送られる。
            その中に斎藤道三の出自に関する記述があり、これまで斎藤道三が一代で戦国大名に成り上がった
            親子二代で戦国大名になったことが分かった。
  高畑源十郎 近江野洲郡北里を領す。娘は小倉右亰亮に嫁ぎ、甚五郎、松千代を生む。
            小倉右亰亮没後、娘は織田信長に保護され、その側室となった。
  小倉右亰亮 八尾山城主。永禄十一年、織田信長の近江攻めの際に内応。
            六角承禎は蒲生定秀に八尾山城を攻めさせ、小倉右亰亮は自害した。
            妻は高畑源十郎の娘。小倉左京亮没後、妻は織田信長に保護され、その側室となった。
  平井高明  六角重臣。弥太郎。「六角氏式目」に署名。
  後藤高安  六角重臣。喜三郎。「六角氏式目」に署名。
  進藤賢盛  六角重臣。山城守。「六角氏式目」に署名。
  狛丹後守  六角重臣。
  布施公雄  六角重臣。淡路入道。
  馬淵建綱  六角重臣。兵部少輔。「六角氏式目」に署名。
  離相庵将鶴 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  楢崎賢道  六角重臣。太郎左衛門尉。「六角氏式目」に署名。
  永田景弘  六角重臣。刑部少輔。「六角氏式目」に署名。 
  馬淵宗綱  六角重臣。山城入道。「六角氏式目」に署名。
  池田景雄  六角重臣。孫次郎。「六角氏式目」に署名。
  永田賢弘  六角重臣。備中入道。「六角氏式目」に署名。
  青地茂綱  六角重臣。駿河守。「六角氏式目」に署名。
  青地道徹  六角重臣。入道。「六角氏式目」に署名。
  真光寺周揚 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  三井治秀  六角重臣。新五郎。「六角氏式目」に署名。
  三上恒安  六角重臣。越後守。「六角氏式目」に署名。
  木村筑後守 六角義堯の家老。元亀元年正月、織田信長は近隣の大名に上洛を求めた。
            木村筑後守は織田家から六角家に宛てた上洛要請の書状を受け取る。
  池田景雄  六角義堯に仕え,元亀三年、武田信玄西進に際し、六角義堯は今後の行動について六角承禎に相談した。     
            池田景雄はその使者を務めた。
  山岡景之  山岡家当主。子は景隆、景佐、景猶、景友。
  山岡景隆  山岡景之の長男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景佐  山岡景之の次男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景猶  山岡景之の三男。
  山岡景友  山岡景之の四男。道阿弥。三井寺光浄院住職。暹慶。
  吉田重賢  1463~1543年 81歳没)弓術日置流祖日置正次から印可を受ける。弓術吉田流を興す。子は重政。
  吉田重政 (1485~1569年 84歳没)吉田重賢の子。六角義賢から吉田流の印可を求められるが、それを断る。
           義賢と不和になり、朝倉氏の下へ逃れる。
                 後に六角家に戻る。義賢は重政に養子入りすることで吉田流の印可を受けた
           長男重高は義賢から奥義書を返却され吉田流出雲派を興した。四男元定は吉田流雪荷派を興した。
―――

箕作(みつくり)城の戦い(信長上洛戦)

・・・・・
 織田勢に対して六角勢の防禦態勢は、和田山城に主力を配置して、ここで織田勢を釘付けにし、観音寺・箕作両城の兵で挟撃しようとするものだった。信長は状況を視察した後に秀吉の意見を採用することにした。義賢の思惑の裏をかき、和田山城と観音寺城には牽制のための軍勢を送り、信長自ら丹羽長秀や羽柴秀吉らの諸隊を率いて箕作城に迫り、9月12日の午後4時頃より攻撃を開始したのである。

 箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。

駐車の三津屋公民館

遺跡ウォーカーの比定地

村社明神者社」

拝殿道標が神社内に(圃場整備で移設か?)

本殿

八坂社

削岩のノミ跡の残る石板

陸軍大将鈴木荘八書最近ほとんど見ない、半鐘塔!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、箕作城の戦い、六角書状、遺跡ウォーカー

  本日の訪問ありがとうございす!!