名次神社
(なつぎじんじゃ)
兵庫県西宮市名次町13
閑静な住宅街に鎮座する名次神社。参道も、よく気をつけて探さないと見落としてしまいそうです。
〔御祭神〕
名次大神
1937(昭和12)年に5ヶ月をかけて築かれた夙川公園。正式名称を「夙川河川敷緑地」というこの公園には「ソメイヨシノ」をはじめとする15種類の桜の木が1,700本近く植えられており、これらの桜が競うように咲き乱れる春の季節には、花の甘い香りに誘われるかのように数多くの花見客が所狭しと詰め掛けて大賑わいをみせます。この夙川公園沿いにある阪急電鉄「苦楽園口駅」から東へ5分ほど歩いた閑静な住宅街の中に、緑の木々に包まれた一角があります。一見、小ぶりな自然公園かと見まごうこの杜の中に静かに鎮座しているのが、延喜式神名帳にもその名を連ねる由緒正しき古社・名次神社です。
阪神淡路大震災で倒壊し、1997年に再建された石鳥居(左)と、石段を登った先にある手水鉢(右)。
今では想像できませんが、太古の西宮は阪急電車神戸線が走っている辺りまで海岸線が入り込んでおり、名次山や南郷山一帯は、弥生時代の集落遺跡が数多く発見されるなど古来から人々の営みが行われていた土地でした。名次山から南に広がる入江の中にツノ状に突き出した「角の松原」を望む海の眺めはたいそう美しかったらしく、万葉集にも美しい名次山を詠み込んだ詩が残されています。このような環境にあった名次の地は豊かな漁村として発展し、地名に関しても古の時代の日本語で魚を表す「ナ」、村を表す「スキ」、つまりは「魚の村」という意味で「ナスキ」と呼ばれ、それが転じて「名次」と呼ばれるようになったといわれています。もともと名次神社は浜近くの越水丘陵の南端に祀られていましたが、夙川の流れが運ぶ土砂の堆積によって南下した海岸線にあわせて漁民たちが移り住んでいったために次第に衰退し、摂津国守護・細川高国公に仕えていた豪族・瓦林正頼公が1516(永正13)年に越水城を築城した際に名次山の中腹へと遷され、さらに明治時代に入って現在への場所へと遷座されました。
名次神社の拝殿。再建時期は昭和50年代だということです。
上記のように、古の時代より祭祀が始められた名次神社ですが、はっきりとした創建時期は分かっていません。しかし、平安時代に書かれた法制書である「新抄勅格符抄」には名次神社に対して806(大同元)年に神封として摂津国の2戸を充てたという記述が見られることから、平安時代よりも昔から祭祀が行われていたことが分かります。901(延喜元)年に成立した「日本三代実録」にも、859(貞観元)年1月27日に朝廷より名次神社に対して正五位下の神階が授けられたこと、その年の9月8日に風雨順なるを祈願する勅使が参向されたことが記されています。また、「延喜式神名帳」にも摂津国武庫郡4座の一つとして廣田神社、伊和志豆神社、岡太神社と並んで名次神社の名前が記されており、風雨が順調であることを祈願する「祈雨神85座」の一つにも列せられています。
旧本殿だったといわれる正徳5年建造の石祠と、稲荷社。
境内の東側にある参道(左)と、その入口に立つ石灯籠。1933年に建てられました(右)。
名次神社の社殿は板葺きの木造社殿だったために何度も修築されていましたが、ついには暴風雨によって倒壊の憂き目に遭い、1715(正徳5)年に石造りの堅牢な小祠に立て替えられました。この小祠は、かつて名次から上総国へと移り住んだ漁民の人々によって父祖の故郷である名次神社に寄進されたものだと伝えられています。現在の本殿に隣接するように石祠が祀られていますが、これがその時の社殿だといわれています。長らく廣田神社の末社と位置づけられてきましたが、1878(明治11)年2月に廣田神社の摂社と定められました。一般的に「摂社」は本社と縁の深い御祭神を祀る神社、「末社」はそれ以外の御祭神を祀る神社で、格式としては末社よりも摂社のほうが上だとされています。1908(明治41)年には、前述の通り名次山の中腹の地から現在の場所へと遷座されています。
道を挟んだ東側には「ニテコ池」があります。ニテコ池は南北3つに仕切られた池の総称で、水分谷と剣谷川からの表流水を貯水しています。この池の歴史は古く、室町時代に西宮神社の大練塀(国指定重要文化財)が造営された際、塀の材料となる真土・真砂が大量に掘り出されたのがこの場所で、採掘の末に出来た大きな窪地に雨水が流れ込んで生まれたのがニテコ池だといわれています。池の名前の由来として有力なのが、大練塀造営のために土を搬出した際に人夫たちが使った掛け声。名次の地から西宮神社まで、人夫たちは「ネッテコイ、ネッテコイ」、つまり採掘した土を使って錬塀を「錬ってこい」という掛け声をかけあいながら運んでいったそうで、「ネッテコイ」がいつしか「ニテコ」に転じて池の名前になった、というのが最も有力な説となっています。ちなみに、ニテコ池は野坂昭如氏の小説「火垂るの墓」の舞台になったことでも知られています。
道を挟んで東側にはニテコ池が広がっています。西宮市水道局が管理する貯水池です。
アクセス
・阪急電車甲陽線「苦楽園口駅」下車、東へ徒歩5分。
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【境内図】
拝観料
・境内無料
拝観時間
・終日開放