木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

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判例評釈を試みる

2012-02-03 07:13:03 | Q&A 採点実感
次が問題の記述である。

①原告の主張を展開すべき場面で,違憲審査基準に言及する答案が多数あった。

②違憲審査基準の実際の機能を理解していないことがうかがえる。


③とともに,事案を自分なりに分析して当該事案に即した解答をしようとするよりも,
 問題となる人権の確定,それによる違憲審査基準の設定,事案への当てはめ,
 という事前に用意したステレオタイプ的な思考に,
 事案の方を当てはめて結論を出してしまうという解答姿勢を感じた。

④そのようなタイプの答案は,本件事例の具体的事情を考慮することなく,
 抽象的・一般的なレベルでのみ思考して結論を出しており,
 具体的事件を当該事件の具体的事情に応じて解決するという
 法律実務家としての能力の基礎的な部分に問題を感じざるを得ない。


今回は、昨月の連載の補足として、この判決を素材に、
ワタシなりの判例評釈の方法論を示してみたい。

判例評釈は、判例のうち意味不明な部分を解釈する作業である。
判例は、実務において乗り越え難い壁であり、
(アナタが最高裁判事なら別である。
 しかし、このブログを現役最高裁判事が読んでいることは考えられず、
 また読者の中には、少なくとも5人の将来の最高裁判事がいるはずだが
 残念ながら将来の最高裁判事も、最初は判例を乗り越え難い
 新米の実務家である)
判例の射程を都合よくコントロール、、、、判例を正しく理解することは
法律家にとって必須の能力である。

さて、判例の解釈は、次の二つの視点からなされるべきである。

第一に、他の判決や法制度との整合性。
 仮に、ある一文の日本語理解として最も自然なものであっても、
 それが他の法制度と不整合をきたす場合には、その解釈は不当である。

第二に、結論の妥当性。
 法により実現すべき価値としては、自由・公正・平等といったものがあり、
 そうした法的諸価値を実現するために適切な解釈である必要がある。
 文言解釈として成り立つとしても、
 法的諸価値をないがしろにする帰結を導く解釈は、不当である。

このように判例の解釈とは、非常に窮屈なパズルゲームである。
しかし、これが上手くゆき、ストンと来た時には、
大変な知的興奮を味わうことができる。

それでは、本判決の分析に入ろう。

本判決の記述のうち、解釈が分かれているのは、①の記述である。

この文章の①および②を除けば、何のことはない
ステレオタイプ答案(電光石火答案)の批判にすぎないことは明白であろう。

それでは、①は、いかなる意味なのか?
四つの見解がある。

A説=設問1で言及禁止説
 この見解は「原告の主張を展開すべき場面」を「設問1」と解釈し、
 ①の記述は、憲法訴訟の原告は、
 どのような違憲審査基準を定立すべきかについて主張を一切すべきではなく、
 また、主張を組み立てる際にも、違憲審査基準を意識してはならない、
 ことを表現したものだと、解する見解である。

 この見解は、一見素直な見解であるが、根本的な問題がある。

 そもそも、設問1で、憲法上の主張をする際、
 違憲の要件を前提に議論を組み立てる必要がある。
 そこで、違憲審査基準に「言及」せずに答案を組み立てるのは不可能であろう。

 実際、この見解を採る者が、「設問1で違憲審査基準に言及しない答案」の
 具体例を、説得力を持って示すことはなく、
 このような理解の仕方は、実質的に見て、あまりにも不合理である。

 また、形式的に見ても、①をそのように理解すると、
 ②の内容が説明できない上に、③④との文脈上のつながりも不明となる。

 本判決は、
 ①「原告の主張を展開すべき場面で,違憲審査基準に言及する答案」を
 ④「本件事例の具体的事情を考慮することなく,
   抽象的・一般的なレベルでのみ思考して結論を出す答案」と言い換えており、
 「原告の主張を展開すべき場面」(①前段)を
 「本件事例の具体的事情を考慮す」べき場面と捉えている。

 これは、本判決が、設問1に限らず、設問1・2全体を通じて、
 具体的事情を考慮できない構成を批判しようとするものであることを示しており、
 この見解は、この点と整合しない。


B説=フジイ答案説
 次に示された見解は、①は、本問題の事案から離れて
 20世紀初頭のアメリカ憲法判例から、時国・芦部両先生の留学を経て
 芦部三巻本に至る違憲審査基準論の歴史をとうとうと解く答案を批判している
 と読む見解である。

 この種の答案がゴミ箱行きな点については広範な合意があるが、
 さすがに、これが「多数あった」とは考えにくい。

 また、①は「違憲審査基準に言及」という表現を採用しており、
 もしフジイ答案を批判するのであれば、
 違憲審査基準「論」を展開する答案が多数あった、という表現になるはずである。
 

C説=処分審査説
 第三の見解は、①「原告の主張を展開すべき場面」を
 処分審査の場面と捉える見解である。

 法令審査段階で目的手段審査をすると、
 処分審査段階で、目的審査をする必要がないことが多く、
 しばしば、目的手段審査の機能は、法令審査の考慮要素を示すものだ
 と言われることがある。

 理論的には、処分審査段階でも目的手段審査の基準が適用されるが、
 目的手段審査が、そのような機能を果たすことが多い、という傾向の指摘としては
 この議論は正しい。

 ここに言う「違憲審査基準」を目的手段審査、
 その機能を法令審査の考慮要素を示すもの、ととらえると、
 ①②の文章は次のようになる。

 ①原告固有の主張を展開すべき処分審査の場面で,
  目的手段審査の枠組みを示す違憲審査基準に言及する答案が多数あった。
 ②法令審査の際の考慮要素を示すという
  目的手段審査の枠組み(違憲審査基準)の実際の機能を理解していないことがうかがえる。

 こう考えると、③④は、処分審査特有の処理をすべき場面でも
 一つ覚え的に、基準の設定からやり直す答案を批判したものということになる。

 本問では、法令審査段階で目的審査は済ませられると考えるのが自然なので、
 このように理解された本判決の批判は、さほど的を外れたものではない。

 これは、ある若手研究者が思いつきで述べたものであるが、
 この思いつきを発表しようとしたところ、
 ピンポーンと玄関のチャイムがなり、関係者から
 「あまりにも技巧的にすぎる上に、本判決を、アマチュア扱いするものだ」
 との厳重な抗議にさらされたという。


D説=ステレオタイプ答案(電光石火答案)批判説
 本判決の最も素直な理解は、いわゆるステレオタイプ答案を批判したものだ、
 という見解である。

 この見解は、
 「原告の主張を展開すべき場面」を「本件事例の具体的事情を考慮す」べき場面を指すと読み、
 (先述のとおり④の記述からは、そう読むのが自然である)
 ①は、ここで「違憲審査基準に言及する」だけで事案を処理する答案を批判したものだ
 と解するものである。

 そもそも「違憲審査基準の実際の機能」とは、制約正当化の要件を明確にするためのものである。
 これは、あらゆる法分野で共通の話であるが、
 一般的な「要件」を指摘しただけでは結論はでない。
 (例えば、正当防衛の要件を指摘するだけで、被告人無罪の論証が完了するわけではない)

 違憲審査基準を立てる場合、いわゆるあてはめで、事件の事情は考慮されるため、
 きちんと議論すれば、違憲審査基準に依拠しても個別事情を考慮することは可能である。

 ③では、「事案への当てはめ」も批判されているが、 
 これは、個別事情を審査基準にあてはめる論証ではなく、
 「厳格審査の対象は違憲だ」「厳格審査だから違憲だ」という個別事情を考慮不能な基準に
 事案をあてはめる論証を言うものと解される。

 この見解は、①②の箇所をよく説明し得るとともに、③④や他の採点実感との整合性もあり、
 最も妥当な解釈と言えよう。実際、これが通説である。


さて、そういうわけで、本判決であるが、
本判決にかかわる人々は、基本的に忙しい。
法科大学院の教員は、日々の講義と研究があり、
受験生は、身を削って勉強をしている。
いわゆる受験予備校の先生方だって、弁護士としての仕事やら
テキスト作り、学説の勉強といろいろやることがあるのであり、
本判決の解釈などというものに、時間を割く余裕はないのである。

蟻川恒正先生は、その助手論文を
「こんな先例は、これ一つきりにしてほしい」という
アメリカ連邦最高裁判事(・・・だったはず)の言葉からはじめているが、
私の本判決への感想は、まさにその言葉に尽きる。