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木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

同性婚と憲法の関係

2014-06-08 16:45:30 | 憲法学 憲法上の権利
この記事についていくつかご質問をいただいたので、少しコメントしたいと思います。

青森の女性カップルが婚姻届、市は憲法根拠に不受理(Web東奥)


憲法24条を不受理の理由とするのは、いささかおかしな話で、
不受理にするなら、
「民法が想定していない」
「民法における婚姻とは異性間の共同生活契約だ」的な
理由をつけるべきだったと思われます。

憲法24条は、男女が婚姻する場合に、
男性の一方的意思のみでは結婚できないこと、
親族会の同意等は不要であることを確認したもの、と理解されています。

したがって、憲法24条は同性婚については何も述べていないというのが通説的な理解で、
たいていの教科書・コンメンタール類でも、同性婚禁止条項だという解説はありません。

  *注
  また、憲法24条は同性間で「婚姻」は成り立たないと理解
  (憲法24条に言う「婚姻」が同性間で成り立つというのは文言上厳しい理解)しても、
  同性婚契約を「婚姻」と呼んではいけないというだけで、
  婚姻と効果が同じ「同性婚」という制度を作ることまで違憲ということにはならんでしょう。


では、現行民法はどうかというと、
「夫婦」という言葉や、子供の親の「父母」という言葉など、
全体の条文からして、当然「男女」を意味している、と推察される、
というのが、現行実務の根拠なのではないでしょうか。

ツイッター上では
「受理した場合にどうなるのか?」とのご質問を乙武さんより頂きました。

窓口が受理しても、戸籍に記載する部署などで、疑義が生じ、前例がない、
想定外、などとして、戸籍の記載がされない、という措置になるかと思われます。

また、相続の段階で、他の親族より、相続分を巡って、婚姻無効の訴訟がなされる可能性はあるかとも思います。


窓口の不受理、戸籍の不記載、税務署等の扱い、いずれにおいても、
婚姻当事者としては、取り消し訴訟や、国賠訴訟の道を模索することになると思われます。


ちなみに、
他国の自衛援助のための組織的武力行使(集団的自衛権の行使)は
「行政」(憲法65条)や「外交」(憲法73条)に含まれない作用とされているので、
憲法が積極的に授権していないと、国は行使できません。

他方、婚姻を含む、私人の共同生活の法的保護は、
国内の公共の福祉を実現し、幸福追求権を実現するための
「行政」作用に含まれるので、
憲法に違反しない限り、法律の根拠があれば実行できる、ということになりましょう。


憲法24条については、しばしば、
同性婚を禁止しない趣旨にしても分かりにくいので改正せよ、と言われたりしますし、
別に、そうした改正に反対するわけではないですが、
以上の理屈は、
通常判断能力を有する一般人であれば容易に理解できるもので、
ことさらに改正の必要はないのかな、と思います。

もちろん、一般国民の知的水準は
憲法の標準的なコンメンタールも読めない水準だから、もっとわかりやすくせよ
という主張もあり得ますが、
それはちと、国民をバカにしすぎであって、現行憲法で十分だろう
という議論の方が説得力がある、ということで、現状があるという感じでございます。

思想犯罪と思想量刑

2012-11-23 21:09:28 | 憲法学 憲法上の権利
ちと久々に憲法の話題など。

先日のゼミで、尊属殺重罰規定について議論したとき、
「被害者が親であること」を
加重犯の構成要件にすることはあかんが、
量刑事情にしてはよい、と普通は考えるが、それでよいのか?が話題になりました。

確かに疑問です。

例えば、よく「犯罪後、反省していないこと」を
量刑を重くする事情に使ったりします。
そして、これは別に問題がないと多くの法律家は考えます。

しかし、
「再犯の危険の防止」を保護法益とする抽象的危険犯として、
「犯罪後無反省罪」という犯罪類型を規定して、
量刑としてではなく、
無反省そのものを処罰したら、どうなのでしょう・・・。

そして、それがだめなら、犯罪後無反省を
量刑事情にしてしまって、よいのでしょうか・・・。

気になって仕方ありません。
という、蟻川恒正「思想犯罪の構造」論文に触発された議論でありました。

政党について(2)

2012-11-14 14:46:29 | 憲法学 憲法上の権利
お久しぶりです。
用事がどざざとあって、しばらく更新していませんでした。
すいません。

さて、政党なのですが、
そんなこともあって、最初のうちは
政党を結成することに対し否定的な国が多く、
フランスなどでは、結社をつくる事に刑罰を科していたりしたそうです。

まさに敵視。

しかし、敵視の段階は長くは続きません。

近代社会になり、
産業面でも情報流通面でも、社会の構造が変わってきて、
政治に参加する余裕のある経済力を持つ人が登場し、
新聞などの政治に関するメディアも発達してきました。

この段階に至ると、全国民ではないものの
かなりの数の人が政治に参加できるようになり、
それを求めるようになります。

議会が、
西洋法制史学会から、
日本SF大会になったような感じですね。

何万、何十万という数の人が政治に参加するようになると、
ある程度グループができることはやむを得なくなり、
また、政治的な議論も、各グループで
ナシまとめてからやることにしようや、と
政党を許容せざるを得なくなるわけです。

というわけで、積極的に支援するわけではないが、
弾圧するわけでもない、という態度になって、
政党が許容されるわけですね。

日本やドイツが近代憲法を作ったのは、
恐らく、これくらいの時期なので、
国家(憲法)が政党を敵視する段階というのは
明治憲法成立後の歴史を見ていると、
良く分からないですよね。

ただ、日本に政党敵視の時代がなかったか、というと
それはそうでもなく、

明治憲法=近代議会制の導入=政党という新しい政治アクターの承認を

どういうスピードで進めるか、
については、明治政府のなかで深刻な対立があった
というのは良く知られたお話しです。

というわけで、許容の段階にやってきたわけです。

そして、その後、メディアと経済の発達により
一般市民が政治アクターたり得る現代になると、
政治のイメージは、
少数の専門家が真理を探究する場、というものから、

「国民の意見」を反映する場というものに変わるわけです。

というわけで、次回はそんなお話しをしてみましょう。

政党について(1)

2012-11-07 14:37:34 | 憲法学 憲法上の権利
本日は、ひさかたぶりに憲法の話題など。

先日、チャタレイさんから、ご質問をいただきました。
政党は、憲法上いかに位置づけるべきか?と。

これについてトリーペルという偉い学者さんが
憲法は政党を、はじめ敵視し、
やがて認め、最後は積極的に保護するに至る
と言ったということは多くの教科書にかいてあります。

ただ、なんで
敵視(ベジータ地球侵略)→許容(対フリーザ戦で協力)→擁護(ゴクウとフュージョン)と
まるでジャンプの漫画じゃん、と言う展開になるのか、
と言う点は、なんか、分かったような分からんような気がします。


で、これはどういうことかと言いますと、
議会と国民の関係が変化するということです。

その昔、マスメディアもなく、
経済的な生産能力が低くて
民衆の多くが余暇を持っていない時代、
政府を監視し、政策を議論する能力のある人は少数でした。

そんな時代の議会は、
政治に関する知識
(これは現在の量子力学の専門知識なみに
 マニアックな専門知識です)を持つ
専門家が集まって、忌憚なく議論して
政治的真理を発見する場でした。

今で言うと、物理学会や日本国文学大会に相当するといえるでしょう。

ここでは、個々の専門家が独立して自らの能力を発揮して
議論すべきだということになり、
政党なんて、二流政治家の作る徒党にすぎないわけです。

例えば、学会で、一流学者の議論を
二流学者が派閥作ってつぶしにかかったら、
ああ、なんて情けない、というかお前ら消えろ
と言われるでしょう。

これが憲法が政党を敵視する段階です。
                       (つづく)

努力義務規定の合憲性(2)

2012-08-06 20:26:38 | 憲法学 憲法上の権利
ご解答ありがとうございました。

ええと、努力義務規定の合憲性について
以下の二つの立場を示して頂いたように思います。

A説 努力義務規定は、将来の規制予告であり、
   思想・良心の自由への介入を意図したものでない。
   (から19条の自由への制約がない)
     ザッキーさん、ピースさん

B説 義務づけは、思想介入とは異なる。
     ユウさん

C説 この程度の介入は
   思想・良心の自由の統制とは言えない。
     urumaさん

という見解に分かれました。

まずA説ですが、
これは、説得的な解釈といえそうですが、
立法者に対し、
「だったら、将来の規制予告である趣旨を
 きちんと書くべきだ」という批判を招くものでありそうです。

他方、B説やC説は、
19条が禁止する思想介入ではないということですが、
努力義務規定は、
明らかに、国民に一定の価値形成を促すことを意図したもので、
思想介入が皆無だ、とは言い難いように思います。

そうすると、努力義務規定のようなものを
19条違反でないというためには、
19条が禁止する思想への介入を、
「囚われの聴衆への政府言論のような、
 特定の類型の思想への働き掛け」と再定義する必要があるでしょう。

これは、思想介入絶対禁止という通説のテーゼを
実は改めるものだと思います。
(少なくとも、そう言う通説を述べてきた教科書には
 囚われの聴衆への限定はありません)

私は、19条絶対保障テーゼは、
何らかの点で見なおす必要があると思っており、
通説がいっていることをまじめに受け取ると
奇妙な帰結が出てくることがある、
ということの一例かな、なんて思ったりするのですがどうでしょう?

ザッキーさま、ユウさま、ピースさま、urumaさま
どうもありがとうございました。