砂川市民と思しき釣り人に、私は尋ねた。
「すいません。富平神社はどこですか?」
釣り人は、私を不審人物ではあるが、
悪人ではないと認定したようであり、
快く回答してくれた。
「え?とみひら?」
意外な答えである。
私の想定では、この辺はすでに富平地区であり、
釣り人は「すぐそこのあれだよ」と答えてくれるはずだった。
しかし、釣り人の答えは、むしろ、
この場所が、富平神社はどこか、
と聞くのにふさわしくない場所であることを示唆している。
そして、釣り人はこういった。
「あっちだけど、とおいいよ。すんごく。」
遠いらしい。しかも、すごく。
こうして、私は、釣り人の指摘した方向に歩を向けた。
釣り人との会話から25分。いっこうに、神社は見えてこない。
周りには、畑と草と川。遠くにはカムイダケ。
雄大な大地の中を、自分以外の人間と出会うことなく歩いてゆく。
私は思った。
北海道における「大地」という言葉には、
何を、どう説得したいのかはよくわからないが、説得力がある。