木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

法学教室6月号発売中!

2012-05-31 21:21:43 | お知らせ
というわけで、法学教室6月号発売中です。

今月の「憲法学再入門」は私の担当で、
テーマは「政治の領域における国会と内閣」です。

さて、早速つぎのようなご質問を頂きました。


法学教室の連載に関して (便所のネズミより倉庫のネズミ)
2012-05-31 00:16:41
今月の連載もとても興味深く読ませて頂きました!

ところでひとつご質問があります。

連載では、執政権と行政権、立法権との関係性に関して書かれていたのですが、司法権との関係では執政はどのようなかかわり合いがあるのでしょうか?

執政が立法の前段会の話であるなら、立法の後段階の話である司法と執政は無関係なのでしょうか?



いやあ、どうもありがとうございます。

良い質問なので、ちょっとしたクイズでお返しいたします。

<クイズ1>
今回の連載記事ですが、
そもそも
「執政と立法の関係」や
「執政と(法律執行権限としての)行政との関係」などを
お話しているでしょうか?

これを考えていただけますと、司法がなんで出てこないのか、
分かっていただけるかと思います。

ちなみに、立法・行政・司法の三権については
8月号、10月号で扱う予定なので、
しばしお待ちください。


そうそう。ご参考までにも一つクイズ。

執政については、
①それについて細かい法的ルールを定めて
 執政の適法性を裁判所に判断させて、
 がっちり法的統制してやろうと言う方向と、
②あまり細かいこと言わず
 内閣に任せましょうと言う方向があります。

日本はどちらのシステムをとっているでしょう?

ヒントを言いますと、
「執政行為」は、またの名を「統治行為」というのです。
わはは。内閣の解散とか、典型的な執政作用なんです。

間接的付随的規制と直接規制

2012-05-29 13:57:05 | Q&A 憲法判断の方法
最近、自由権の「直接的制約」と「間接的制約」の概念について、
御質問を受けることが多いので、
ちょっと記事にしてまとめてみたいと思います。

これは判例に出てくる概念です。

有名なのはなんといっても、猿払上告審で、
判決によれば、
公務員の政治活動の禁止は表現の自由の「間接的・付随的制約」です。

その他に「間接的制約」と言う言葉が使われた例としては、
オウム真理教解散命令事件で
宗教法人の解散命令は信教の自由の「間接的な制約」だそうです。

また、
最近の君が代不起立訴訟は、
君が代斉唱命令を思想良心の自由の「間接的制約」だとしています。


これらの言葉の理解ですが、
全ての判決が同じ意味で「間接的制約」と言う言葉を使っている
とする理解と、
それぞれ別々の意味で使っているという理解に分かれます。


講学上の分類にあてはめますと
猿払上告審は、 <表現行為に対する刑罰>
解散命令事件は、<法人格の剥奪=給付の撤回>
君が代訴訟は、 <懲戒処分
        =公務員の身分を懲戒歴付きに変更
        =公務員身分の給付の縮減>
です。

なので、解散命令事件や君が代訴訟は、
給付の撤回ないし縮減なので、
原則として自由権制約の事案ではない、ことになります。

なので、解散命令事件にしても君が代訴訟にしても、
判決は、「自由権制約の事案ではないが、無関係でもない」
という給付の撤回縮減型(急所第二問型)の事案として、
処理する旨の宣言だと理解すれば、話は通りそうです。




しかし、猿払上告審は、刑罰の事案であり、
こうした他の判決の流れと同じ意味で「間接的制約」という言葉を
使っているようには思えませんが、どうなのでしょう?

これについては、二つの理解があります。

第一の理解は、実は猿払上告審は自由権の制約がないと思っている
と言う理解で、他の判例と同じラインに並べます。

公務員になる以上、政治活動の自由が制約されることは知っていて
それに同意をしているはずだ。
だから、そもそも政治活動に対する科刑は、自由権の制約にはならない。
だけれども、慎重に検討しよう。
これくらいの記述として読むわけです。

しかし、この理解で読むと猿払上告審の他の論証とは全く整合しません。
理論的にも、あまりにもおかしいでしょう。

というわけで、猿払上告審の「間接的制約」と言う言葉は
少なくとも、他の判例に登場する「間接的制約」とは全く違う概念を
指し示す言葉だと理解せざるを得ないわけです。
これが第二の理解です。

では、猿払上告審は、どのような意味でこの言葉を使っているのか?

判決のいいブリからすると、
「ある表現の内容が、不適切である、悪質である、と言う理由で
 その種の表現行為自体を除去しようとしている規制」が直接規制、
「その表現の内容から、除去すべき弊害が生じる場合に
 その弊害を除去するために行う規制」が間接規制のようです。

これは、表現内容規制と内容中立規制の区別ではありません。

表現内容規制をさらに二分する理論です。



学説の中には、猿払上告審は、内容規制・内容中立規制二分論を前提に
その「あてはめ」をあやまったとして批判する見解もあります。

しかし、その批判は正確ではなく、猿払上告審は
という二分論を採っているのです。

とはいえ、
「表現内容自体の悪質性に着目した規制」と
「表現から生じる弊害の除去のための規制」の区別は容易ではなく、
というより、
全ての表現規制は後者に分類することができます。

たとえば、名誉棄損の規制は、
表現自体が悪いという理由の規制ではなく
それがもたらす名誉の低下という弊害がわるい
という間接的規制に分類できる、等といった具合です。

このように、あらゆる表現規制は猿払上告審的「間接的制約」です。


これだけなら、まだ問題は少ないのですが、
猿払上告審にはさらなる大問題があります。

判決はなんと
直接的な内容規制(内容自体の悪質性に着目した規制)
間接的な規制(内容規制の一部+内容中立規制)のうち
後者により失われる利益は大したものではない。

よって、殆どの場合、規制により得られる利益の方が大きいので
狭義の比例性、相当性が充たされやすい規制だ、
とトンデモないことを言い出すのです。


あらゆる表現規制は、表現内容自体を否定するためでなく
その弊害を除去するためだといって、間接規制に分類できる。
          猿払一段ロケット

間接規制により失われる利益は小さい。
だから規制は正当化されやすい。
          猿払二段ロケット

結論、
あらゆる表現規制は正当化されやすい規制だ。
          大気圏突入


このロジックだと、どんな表現行為の規制でも、簡単に認められてしまいます。
というわけで、
猿払上告審は、根本的に二分法が誤っている、というのが
一般的な批判です。

そして、私もこの批判はもっともだと思っております。

という訳で私は、検察官が判例を持ち出してきてブーブー言う
というシチュエーションでこれを使うならともかく、
理論的には、猿払上告審の二分論は使えないだろう、と思っているわけですね。

新しいスローガン

2012-05-27 13:51:01 | ちょっと一言
ええ、先日、『憲法の急所』にサインを求められた時の一言として、
佐藤康光王将にならって「夷険一節」という言葉が素晴らしい
というお話を書きました。

ところで、本日、新しい言葉を伺ったのですが。
次のようなものです。

 不諦有理 (ふていゆうり・あきらめず、りをゆうす)

これは、唐の時代に、
安康邑(あんこうゆう、今で言うと保育園)の著名な育師(今で言うと、保育士さん)
猛白(もうはく)の言葉で、
子どもたちに教育理念として語った言葉だそうです。

意味としては、
夢をあきらめてはいけないが、無理をしてもいけない、
というもので、何と地に足のついた言葉でしょう。

無理して、高望みをかなえようとすると帰って失敗する。
しかし、簡単に物事をあきらめては、小人物になってしまう。

曇りの時に無理に雲を押しのけようとせず、
といって、いくら雨の日が続いても、
あるいは、日蝕がおころうと、
輝き続ける太陽の姿をみながら、
述べた言葉だと言われます。

諦めない、無理しないというのが、
天の摂理だそうです。

私も、心に刻みたい言葉でした。
はい。くだらない作り話にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。

表現内容の重要性はどう考えればよいのか?

2012-05-27 09:48:53 | Q&A その他

違憲審査基準について (hiro)
2012-01-20 21:21:11
先生、ご質問です。「急所」を愛読しております。「急所」で

は、違憲審査基準が、権利の重要性と規制の強度の組み合わせ

を[類型的]に判断して決まると書いてあったように思います。
違憲審査基準を設定する際に、今まで、「表現の権利は重要で

ある。そして、本問Xの~という行為の自由は、世界の裏側ま

で情報を発信できる点で特に重要である。規制は停止処分であ

り、強度のものである。本問では、特にXの特に重要な権利に

対して、停止をしてしまったら、Xは事実上表現の場を奪われ

ることになり、規制の強度は特に強い。そこで、厳格な違憲審

査基準を設定すべきである。目的が重要で~、目的と手段の間

に~、次にあてはめをする。」という流れで論じてきたのです

が、そのような論じ方はやはり類型的でなく、間違っています

よね?表現の自由で保護される個別の行為の中でも、特に重要

なものはあるだろうし、規制も個別の事情によっては強度が強

まるものもあると思って、今もそれを違憲審査基準の設定段階

で論じたくなってしまっているのです。是非私の理解の誤りを

ご指摘いただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。



>hiroさま (kimkimlr)
2012-01-20 21:54:51
ご指摘の論じ方で方向は正しいです。

表現の自由は、どの表現が役に立つ表現かは分からないから、
「表現」と呼ぶに値するものは、
内容をとわず手厚く保障しようという発想の自由権です。

ただし、こう考えますと、その行為を「表現」として
手厚く保障すべきかどうかは、保護範囲・制約の認定段階でき

ちんと考察する必要がある、
こういうことになります。


感謝しつくしてもしたりません。 (hiro)
2012-01-21 07:29:21
ご返信ありがとうございます。私の従来の論じ方でよいという

ことになると,違憲審査基準は類型的に決まるわけではない気

がするのですが,それでも,よろしいのですか?せめて,違憲

審査基準設定段階では,「Xの行為は~で特に重要,Xにとって

の規制は~で強度」ではなく,「Xの{ような}行為は~で特

に重要,Xの{ような}ものに対する規制は~で強度」とぼか

すべきでしょうか?さらに,違憲審査基準の設定段階で,具体

的事情に踏み込んでいる以上,あてはめがスカスカになる気も

するのですが,よろしいのでしょうか?何回も質問して申し訳

ございせん。なにぶん,私は,3年生でございませて,一刻の

猶予もない点ご理解いただけたら大変嬉しく思います。是非ご

返信いただけたらありがたいです!!



>hiroさま (kimkimlr)
2012-01-21 07:42:01
ふーむ。
まず、表現の自由の審査基準はベースがかなり厳しいので、
個別事情に応じてぐっと重くなったりはしません。
(内容着目規制の場合は、重くなりますが)

ただ、制約の認定のあたりで、そういう風に論じることは、説

得力を増すでしょう。

違憲審査基準の設定段階で論じる個別事情は、
制約された権利の事情に限定されます。

制約によって得られる利益の側は、いわゆるあてはめでしっか

り論じなくてはならないので、
規制して得られる利益が全くないような特殊な事案出ない限り


あてはめがスカスカになるのは、事案分析が足りないというこ

とになるでしょう。

ではでは、頑張ってください。

スズメバチ!

2012-05-24 16:02:16 | ちょっと一言
さきほど、研究室にスズメバチのスーザンが来訪しました。

とても恐ろしかったのですが、
窓を大きく開けて、御退去願ったところ
出て行ってくれました。

私の研究室は緑に囲まれた素晴らしいキャンパスにありますが、
イノシシが出たり、マムシが出たり、スズメバチ注意が出たりと、
いやあ、おそろしいものです。

スズメバチが本腰を入れて人間を襲うのは
秋口だと言います。

みなさまも、スーザンに遭遇したら
あまり刺激しないで、平和的共存を図ってください。