木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

ツクモガミがいっぱい

2012-08-30 20:50:03 | ちょっと一言
かつて正岡子規がツイッターで話題にしていたように、
付喪神という思想は、なかなか面白い。

長年大切につかったものは、
魂が宿り、神格を持つようになるという思想である。

櫛だとか、大工道具だとか、お茶碗だとか、
長年愛着を持ってつかっていると、
百年を経たあたりで、神様になるのだという。

まあ、百年使うには、人間の側で二世代、三世代と使ってゆく必要があるわけで、
それだけつかえば、確かに道具の側も妖怪じみて・・・・・・、いや
神格がやどってもしょうがないだろう。

この付喪神がいるおかげで、
日本は世界有数の神の多い国である。
日本は、人口の点ではインドや中国に遠く及ばないが、
神々の数の点では決して劣っていない。

机だろうが、ソファだろうが、ピアノだろうが
歯ブラシだろうが、いや歯ブラシを百年使うのは無理だから、
これは別だ、
とにかく神様になれるのだ。

もっとも、現代人の生活では、百年もつかった物に触れるのは稀だろう。
ただ、大学図書館には、ぼちぼち百年を経たという書物も多い。
大学の助手だったころ、図書館の奥地で
ふるーいヘーゲル『法の哲学』を見て、どう見ても妖怪に見えたことが懐かしい今日この頃である。

『憲法の急所』も、ぜひドスの効いた妖怪になってほしいものだ。

銀河鉄道における正解とは何か(6・完) シベリア超特急の真犯人はあなただ

2012-08-27 10:52:15 | ちょっと一言
さて、シベリア超特急は、いつの間にか透明人間に
占拠されている今日この頃ですが、
みなさん、いかがおすごしでしょう。

と、現在の論稿の行き先不明さを正確に表現する
書き出しから入ってみたわけだが、
マッシュ監督の透明人間三部作は最初、
典型的なB級映画とされていた。

(典型的、というには、内容が散々だが)

しかし、この映画がB級からZ級映画に飛躍
(飛躍という表現が妥当かどうかは不明だが)する事件が起きる。

それが、1963年に公表されたマッシュ監督の
インタビューだった。

Bシネマレビューのアラン・スルットとのやりとりで
マッシュは、驚くべきことを言い出す。

以下、抜粋をお届けしよう。

――第二作、透明人間のピアニスト、について。

 「なあ、アラン。実は、あの作品は
  自動演奏ピアノを使って撮影しているんだ。

  驚いただろ?」



――第一作、透明人間の決闘、について。

 「俺は、透明人間Aが左フックを入れる音が
  気に入らないって言ったんだ。

  それで、40テイクとって、
  ようやく、満足がいった。

  主演男優を務めたトムには悪かったが、
  あそこは絶対、妥協したくなかった。」




――第三作、空飛ぶ透明人間、について。

 「あの作品の残念なところは、
  透明人間をピアノ線でつらなきゃいけなかったところだ。

  ただ、予算不足で透明人間を作れなかったから、
  つったのは、ピアノ線だけにとどまった。

  返す返すも残念だ。」

  (その後、確かにピアノ線が映像にうつっていたことが
   判明する)


要するに、マッシュ監督は、「本気」だったのである。

このインタビューの後、透明人間三部作は
世に稀に見る駄作から、Z級映画へと飛翔したという。



ここから分かるように、
ある作品がただの手抜き作品に見えるのか、
そこにある種の没入をもたらすZ級の作品に見えるのかは、
製作者の「本気さ」なのである。

私が昔、ミスターブランデー
(1950年代のラスベガスを代表する奇術師。
帽子からアフリカゾウを取り出したり、
何もない空中から、ホワイトハウスを出現させたりとする
トリックを得意とした。
1968年、帽子から取り出したリュウキュウハブにかまれ、永眠。)から教わったのは、

「いいか、ソウタ。良いイリュージョニスト(邦訳幻術師)
 になるには、
 『本気で』自分のイリュージョン(邦訳幻術)を
 これはイリュージョンじゃない、って信じることだ。
 お前の国の、ゲンナイ・ヒラガも、そういっていただろう。」
(いや、平賀源内はそんなことは言っていない)


製作者が本気だと、そこに奇妙な真実味が生まれてしまうのである。



さて、この話の流れからすると、銀河鉄道のジョバンニが
ネコになることは、
あり得ない事実(ジョバンニはネコだった)を
ますむらさんが本気で信じていたから、成立していた
というものになりそうだ。

しかし、そうではない。

ますむら先生の作品は、当然のことながら、
A級作品であり、Z級の作品ではない。

ますむら先生の世界観は、それ自体として完結した実体をもっており、
それがありえないのにアイロニカルに没入してしまうわけではないのである。

(どうやら、最初に決めていた方向とはだいぶ違うところに
 きてしまった。さすが銀河シベリア超特急だ)

真に問題なのは、
それ自体が一つの世界であるますむら先生の世界が
なぜ、
やはりそれ自体が完結した一つの世界である
宮沢賢治先生の世界として成立してしまっているか、
である。

私は、ここに、両者の重ね合わせを「本気」で信じる
人物がいたからだ、と信じたい。

では、本気なのは、誰なのか?
今述べたように、ますむら先生ではない。

では、宮沢賢治先生の方なのか?
それも違うだろう。

おそらく、ますむら先生の作品の方が時代的にはあとだ。
(いや、おそらくとか留保をつけるような話ではない)


そうなると、真犯人はただ一人。





そう、別役実大先生である。








・・・・・・・・・・・・
というわけで、最後になんだかよく分からない話になってしまった
わけですが、
今後もどうぞよろしくお願いいたします。

銀河鉄道における正解とは何か(5) 伝説の透明人間三部作

2012-08-20 19:57:25 | ちょっと一言
さて、もはや銀河鉄道なのかシベリア超特急なのか
分からなくなってきたこの連載であるが、
最後に語るべきは、B級映画、C級映画の話である。

これまでの映画に何も付け加えない映画作品を
B級映画という。

そして、その中でも、プロとして恥ずかしくないのだろうか
と言うレベルになるとC級映画である。

C級映画の歴史に残る作品として、
私の友人トミナガが教えてくれたのが
マッシュ・エリンギ・ルーム監督の
「透明人間三部作」である。

これは次のような作品だという。


第一作 「透明人間の決闘」

 ベッドが一つ置いてある
 ビジネスホテルのような部屋が映し出される。

 ぼこ、どが、ぼこ という

 人が殴り合う効果音。

 最後に枕が飛んで、ぎゃ と一声。

 「完」


これでおなかいっぱいなわけだが、
C級映画の鬼、マッシュ監督は、こんなことでは
引きさがらなかった。

第一作より二年の充電期間を経て公開されたのが
第二作であった。


第二作「透明人間のピアニスト」

 もはや題名からして出落ち、いや題名落ち。

 大方の予想通り、自動演奏ピアノの
 演奏映像。

 無意味に上手いショパン革命のエチュードに続け
 別れの曲。

 「完」


プロとして、映画人として、いや単なる人間として
恥ずかしい作品だが、マッシュ監督の意欲は
絶えなかった。


第三作 「空飛ぶ透明人間」

 多くの読者の予想どおり、
 ただ、ただ美しい青空の映像。

 もはや効果音もなし。

 十分ほど、空の映像が続く。

 「完」

これぞC級映画である。



因みに私は、マッシュ監督が実在の人物なのか、
透明人間三部作が実在の作品なのか、
怖くて、調べたことはない。

(もちろん、怖い、というのは
 こんな作品が本当にあると言うのも怖いし、
 ここまでばかばかしい作品があるという情報が
 実は嘘だった、という事実に向き合うのも怖い
 という意味である。)

真相をご存じの方がいても
私に教えないでいただきたい。
世の中には、あえて知らないでおく、
ということが大事なことがあるのだ。

さて、話は銀河鉄道の脱線というより、もはや異次元ポケットだが、
次回は、こうしたC級映画とは区別されるZ級映画
の話をして、この連載をまとめてみようと思う。

銀河鉄道における正解とは何か(4) この列車はどこへゆくのか?

2012-08-19 15:23:11 | ちょっと一言
さて、あからまさにありえないものを
開き直って、どうだ、と言われると、
うーんそうかもしれない、とリアルに感じてしまう
という話の続きである。

ここまでの話の流れからすると、
ジョバンニがネコであるのは、

みんなが思い入れをもって
それぞれ強いイメージを形成してしまうような
魅力あるキャラクターだからこそ、
誰もが、そうじゃないだろう、という描写が逆に成立する

ということを主張することになるようにも思われる。


しかし、ここには一つ落とし穴がある。

例えば、ドラゴンボールやワンピースを実写映画化するとして、
ゴクウやルフィの役を田中邦衛氏が演じる
ということになったらどうだろうか?

恐らく、ゴクウ役、ルフィ役として
田中邦衛氏を考える人はいないのではないだろうか?

(ちなみに田中邦衛氏は、
 実写版ルパン三世において、次元大助役を
 演じておられる。
 それが次元役として正解なのか、いや
 そもそもルパン三世を実写版にすることが
 正解なのか、ということを含め
 議論の余地があるが、
 田中邦衛氏が
 「おっす、おらゴクウ」とか、
 「海賊玉に俺はなる」とか演じて下さるのは
 全くの夢物語ではないのである。)

(但し、その夢物語を私以外の誰が見に行くのか、
 というのは一つの問題である。)

さて、そういうわけで、
あからさまにありえないキャラクター描写が成立するためには、
単に、それがあからさまにありえない、だけでは
明らかに足りないのである。

では、あからさまにありえない描写が成立するためには、

要件1 みんながそれぞれ強固な固有のイメージを形成してしまったキャラクターである

要件2 その描写があからさまにありえない

の二つの他にどのような条件が必要なのだろうか。


進み始めた銀河鉄道は、このような問題提起に行きあたるのである。
(だんだん書いていて、方向性も分からなくなってきた
 私ではあるが)