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木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

我慢のゴルフ(4・完)

2011-12-11 18:23:13 | 我慢のゴルフ
いよいよ我慢のゴルフ論最終章です。
ナカヤマ博士にどうぞ惜しみない拍手をお願いいたします。



終章 我慢のゴルフを考える理由

「我慢、我慢のゴルフでした」、「今回のツアーは我慢の連続でした」等々、
プロゴルフに関する報道やインタビューでは事程左様に「我慢」という言葉が飛び交う
(特にMは不思議なくらい「我慢」という言葉を使う。
「自分はプロゴルファーではなく、プロ我慢屋である」とでも言いたげだ)。
ゴルファーらはどういうつもりでこの言葉を使うのか。
そして、そのことをわれわれが考える理由はなにか。
そうした考察をもって、本稿の締めくくりとしたい。

「我慢」という言葉を使うということ

わかりきっていることや、当たり前のことをわざわざ表明するということはどういうことか。
ここで1つ例を挙げたい。
ある力士がインタビューで「今日は相撲がとれた」と答えたとする。
力士が相撲をとるのは当たり前のことなので、この発言は、
本来ならわざわざ言う必要のない、無意味なものである。

しかし、この力士の前日の取り組みがひどい内容のものだったという事情がある場合にはどうか。
さらに、そうした事情の下で、今日は相撲がとれた」という表現に、
「昨日の取り組みのひどさは、とても相撲と呼べるものではなかった。
しかし、今日の取り組みは良かった」というメッセージをこめていたとしたらどうか。
その場合、「今日は相撲がとれた」という表現は、たちまち意味のあるものになる
(能條順一 『月下の力士』(民明書房)[1997] p.176)。

わかりきっていることや当たり前のことをわざわざ表明するということは、
本来は意味のないことなので行なわれないものである。
その表明が意味を持つとすれば、何らかの事情があったり、
その発言に何らかのメッセージがこめられたりしていると考えられる。
すべてのスポーツ選手が何らかの我慢をしているという前提において、
ゴルファーだけが「我慢」という言葉をしきりに使うのはなぜか。

ここで1つの仮説が成り立つ。
それは、ゴルファーが「われわれは他のスポーツ選手に比べて過剰な我慢を強いられているのだ」
というメッセージを発しているのではないかということである。


ゴルファーは過剰な我慢を強いられるか

ここでは、肉体的な負担と精神的な負担に分けて考えてみたい。
ゴルフには過剰な肉体的負担があるか。答えは「否」である。
50代、60代の人が一線で活躍していられるプロスポーツは、
ゴルフ以外にほとんど存在しないだろう 。

それでは、過剰な精神的負担があるか。
これも簡単には断定できない。すべてのスポーツ選手はな

んらかの精神的負担を強いられているはずだし、その負担の度合いを客観的に比べることはできない。
結局、他のスポーツに比べてゴルフだけが過剰な我慢を要求されるとはいえない。


我慢のゴルフ論とは

これまでの論述や学説から、我慢のゴルフとは、
ゴルフ特有の我慢すべきことがらを我慢することであるということ、
その「我慢すべきことがら」とは、我慢の程度において、
通常のスポーツ選手に当然に要求されるレベルであるということがわかる。
(Romeo, M.,The Divine Golf of Tragedy, Sym X Press [1990] p.247)

つまり、我慢のゴルフというものについて考察することは、
「ゴルファーは他のスポーツ選手に比べてものすごい我慢をしているというわけではないのに、
 如何に自分が我慢しているかを強調したがるものだ」という1つの事実を浮かびあがらせる
(作戦変更説・途中棄権説・キャディ蹴とばし説いずれの立場によっても、
 ゴルファーが我慢していることの内容は、
 他のスポーツ選手を尻目に堂々と自慢できるほどのことではない。)。

我慢のゴルフ論は、
ゴルファーに向かって
「あなたがたは『我慢』という言葉をしきりに使うが、言っている意味が自分でわかっているのか。
自分が何を我慢しているのか理解しているのか」という
メッセージを突きつける。

ゴルフに限らず、プロスポーツの実況や解説、報道はその内容に意味のないものが多い
(よく見られるのが、プロ野球中継などの解説で「ここは1点でも多く得点しておきたいところです」
 というものである。
  当の選手らは、できることなら100点でも200点でも取りたいと思っているはずだというのに。
 解説の名の下にこのような無駄な発言を許すあたり、スポーツ業界の懐の深さを感じずにはいられない)。

選手や報道関係者は、発言や記事の内容をよく考えて、意味のあるものにしなければならない。
我慢のゴルフ論はそのためのきっかけを与える。

我慢のゴルフ(3)

2011-12-09 12:07:03 | 我慢のゴルフ
さて、いよいよナカヤマ博士の学説の発表です。
すごいものです。




第3章 新しい我慢のゴルフ論

キャディ蹴とばし説
2008年4月、ある1つのニュースが報じられた。
「女子プロゴルファーK、キャディを蹴とばす」というものだ。
この報道の真偽はさておき、ここから着想を得た新しい学説が生まれた。
(このニュースを我慢のゴルフ論の着想に結びつけた者はそう多くないと思われる。
 なぜなら、彼女にはその他の論点が多いからである。
 プロ野球選手と付き合っている、唐突に「子供が欲しい」という発言をする、
 美人ゴルファーということになっているらしいが、実際…、等々)。
「我慢のゴルフとは、
 キャディを蹴とばすのを我慢しながらゴルフをすることである」
という説である。キャディ蹴とばし説である。
ホールをまわっていて、プレーが思うように
うまくいかずにスコアが伸ばせないと、誰にだってイライラは募る。

そんなときに、キャディに、自分の周りを意味もなくウロチョロされたり、
「次のホールはきっと大丈夫ですよ」などという
無根拠・無責任極まりない発言をされたりしては、
蹴とばしたくなるのが人情というものだろう。
キャディ蹴とばし説は、ゴルファーのそうした心理を汲んだものである。
再三述べているとおり、我慢のゴルフ論とは、
ゴルフにはゴルフ特有の我慢すべきことがらがある
ということを前提とすべきである。
キャディ蹴とばし説の最大の強みは、
キャディというゴルフ特有の制度に着目しているという点で、
この前提に適っているということである。

キャディという制度はゴルフにしか存在しない。
したがって、キャディに対して怒るという行為は、
ゴルフにしかあり得ず、ゴルフに特有のものなのである。

キャディ蹴とばし説への批判
キャディ蹴とばし説には、次のような批判もある。
すなわち、「ゴルファーが我慢しているのは、
キャディを蹴とばすことではなくて、
キャディを4番アイアンでぶん殴ることである」ということである
(4番アイアンぶん殴り説)
(五十嵐由美『キャディ・キャディ』(民明書房)[2008] p.81)。

これによると、「蹴とばす程度のことは、我慢するに値しない。
ゴルファーはそれよりもダメージの大きい、
クラブでぶん殴るという衝動を抑えているのだ」ということである。
(言い換えると、キャディ蹴とばし説との差異は、
 キャディの身体の保護範囲の広狭だということになる。
 4番アイアンぶん殴り説によれば、
 キャディをクラブでぶん殴ることがなければ、
 たとえ蹴とばしたとしても、我慢のゴルフを遂行したことになる。
 したがって、キャディ蹴とばし説に比べて、
 キャディの身体の保護範囲は狭くなる。)

しかし、キャディをクラブでぶん殴るということは
生命の危機に関るような重大なダメージを負わせる蓋然性が高い。
このような蛮行は、ゴルファーとしてというよりも
人間として我慢すべきことであって、ゴルフ以前の問題である。
したがって、ゴルフ特有のことがらとは必ずしもいいきれず、
このような批判はあたらない。

我慢のゴルフ(2)

2011-12-07 19:49:10 | 我慢のゴルフ
さて、ナカヤマ博士は、前回の導入に続き、いよいよ学説の検討に入る。
従来の学説は周知のものであり、読者の多くが知っていると思われるが、
ナカヤマ博士の批判は、参考になるのではないだろうか。



第2章 従来の我慢のゴルフ論

我慢のゴルフについての学説はさまざまあるが、ここでは代表的な説を2つ取り上げ、それぞれについて検討していく。

作戦変更説
1つめは、「我慢のゴルフとは、バーディーを狙うのをやめて、パーを狙いにいこうとすることである」という説である 。
作戦変更説と呼ばれる。この説はつまり、「本当は積極的に攻めてスコアを伸ばしていきたいけど、
今日は調子が悪いから、それを我慢する」ということである。
これは、一見するとわかりやすい理論ではある。
事実、検索サイトの質問コーナーなどで、最も多い回答がこの説によるものなのである。
ゴルフを生業とする人間が、バーディー狙いを控えざるを得ない状況になったとき、
さぞかし残念だろうということは想像に難くない。
そうしたことが多くの人の同情を集め、この説が強く支持されている理由になっているのではないかと思われる
(Petrucci, J.,Six Degrees of Inner Golf, DT Books [2002] p.74)。

しかし、バーディー狙いをやめてパーを狙いにいくということは、言い換えれば、
「プレーが思い通りにいかないから、作戦を変える」ということであって、
この程度の作戦変更はゴルフに限らずあらゆるスポーツ競技についてまわるものである。
作戦変更説は、ゴルフ特有のことがらを示したものではないのである。
したがって、第1章に挙げた我慢のゴルフ論の前提に照らすなら、この説は妥当ではないということになる。

途中棄権説
2つめの説は、「本当はプレー中に家に帰りたいのだけれども、
帰るのを我慢してプレーを続けるのが我慢のゴルフである」というものである。
いわゆる途中棄権説である。この説は、「帰りたいけど、帰れない」という状況に置かれているということを指して、
それを我慢だといっているのだと説明されることがあるが、それは少々ミスリーディングである
(そうした状況が現れるのは、ゴルフはおろかスポーツに限ったことではない。
授業中の学生も、仕事中のサラリーマンも、刑務所にいる在監者も、皆帰りたいけど帰れないのだ。)。
「帰りたいけど、帰れない」という状況ではなく、「帰れるのに、あえて帰ろうとしない」という心理状態を指して、
我慢だといっているのである(三輪美和 『ゴルフバカ一代』(ゴルフ通信社)[2005] p.425)。
ゴルフは、競技としての性質上、誰かが途中で棄権しても他の選手には大きな支障をきたさないので、
途中棄権が可能であるといえる。可能であるのに、ゴルファー達はその誘惑をはねのけ、
最終ホールまでプレーする、したがってゴルフとは忍耐のスポーツである、というのが、
この途中棄権説を支える根拠である。

多くのスポーツ競技、特にテニスなどの個人競技は、相手がいなければ試合が成り立たないので、
選手の途中棄権は、ケガなどの場合を除いて、原則として許されるものではない。
その点、ゴルフはそれが許されるので、この説は、
ゴルフ特有のことがらについて述べているようにも見える。
しかし、マラソンなどに代表されるように、その性質上、
任意の途中棄権が許される競技というのは、陸上競技には多い。
したがって、この途中棄権説も、決してゴルフ特有の我慢すべきことがらを示したものではないので、妥当ではない。

両説の妥当性
以上に見てきたように、我慢のゴルフ論の前提からすると、作戦変更説・途中棄権説ともに採り得ないことがわかる。
こうしたことをふまえて、次章では、筆者の提唱する新しい学説を述べることにしたい。

我慢のゴルフ(1)

2011-12-05 15:57:41 | 我慢のゴルフ
先日、我慢のゴルフについて疑問を投げかけたところ
我慢研究の世界的権威であるナカヤマ博士から、
論文が送られてきた。

そこで、これを紹介してみようと思う。



我慢のゴルフ
           ナカヤマ博士

まえがき

本稿は、「我慢のゴルフとなにを我慢しているのか」ということ
について考察を行なうものである。最初に我慢のゴルフを論じる際の前提を示し、
それから我慢のゴルフに関する主要な学説を挙げ、
それぞれの検討を行なう。
そして最後に、
なぜわれわれが我慢のゴルフについて考えるのかということについても論じる。
本稿は『月刊 ゴルフ通信』(2008年6月号)、
『季刊 忍耐』(2008年夏号)の2誌それぞれに寄稿した
論文「我慢のゴルフとはなにか」と「これが我慢のゴルフだ!」に
加筆・修正を加えたものである。



第1章 我慢のゴルフ論の前提

我慢のゴルフとは何かということを考える際に、
常に念頭に置いておかなければならないことがある。
結論から言うと、それは、
「我慢のゴルフとは、ゴルフ特有の我慢すべきことがらを
 我慢しながらゴルフをするということである」ということである。
このことは、以下に挙げる2つの前提から導かれる。

前提その1
1つめは、「我慢の○○○」という用法は、
ゴルフ以外のスポーツには一般的に用いられないということである 。
つまり、「我慢のサッカー」や「我慢の野球」という用いられかたは
しないということである。
「我慢のサッカー」や「我慢の野球」という表現が
まったく用いられないわけではないが、
「我慢のゴルフ」と比べると、それほど多く目にする機会はない。
このことは、プロスポーツに関する各種報道の内容や、
プロスポーツ選手の発言等から明らかである 。

前提その2
2つめは、ゴルフに限らず、およそすべてのスポーツは何らかの我慢を伴う
ということである 。
たとえば、ボクシング。相手の攻撃がどんなに痛くても、
それに耐えてこちらも攻撃しなくてはならない。
たとえば、サッカー。絶望的な点差をつけられても、
試合終了のフエが鳴るまでは、試合を続けなければならない 。
つまり、独りゴルフだけが、忍耐を要求されるスポーツというわけではないのである。

まとめ
以上2つの前提から、
「ゴルフだけが我慢を強いられるというわけではないのに、
とりたててゴルフだけが『我慢のゴルフ』というように言い表され、
なおかつそれが一般的な表現となっている」ということがわかる。
そして、ここから、「わざわざゴルフだけが『我慢の○○○』という表現を
用いるからには、ゴルフには、他のスポーツにはない
ゴルフ特有の我慢すべき事由があるはずだ」という結論が導ける。
いま一度強調しておきたい。
「我慢のゴルフ」という言葉が一般的に使われているのは、
ゴルフに、ゴルフ特有の我慢すべきことがらがあるからである。
これが、我慢のゴルフ論の大事な前提となる。
そして、我慢のゴルフについて考えるということは、
「ゴルフ特有の我慢すべきことがらとは何なのか」ということを
考えることに他ならない。これについての学説を、次章から見ていく。

我慢のゴルフ

2011-11-22 20:48:12 | 我慢のゴルフ
昨日は、たくさんの方からコメントをいただきありがとうございました。

さて、頭痛から回復し、今日は法科大学院で2コマ講義してまいりました。
2コマ連続は久々で、少しのどがかれてしまいました。うう。

というわけで、のどによい飲み物でもと思い
自販機にいったところ、
憲法の神様がおりました。

「おお。こんなところに憲法学者(若手)が通りかかるとは
 ちょうど良い。」

「はあ。昨日頂いた質問には、全国の優秀な閲覧者が答えてくれましたよ。」

「ふむふむ。さすがイカした閲覧者たちじゃ。すばらしいことじゃ。」

「では、そういうことで。」

「いや、まて。実は、わしはもう一つ聞きたいことがあったのじゃ。」

「え。今日はちょっと疲れているのですよ。
 授業中も、質問、たくさん頂いたし。」

「いやいや、憲法の問題ではない。
 ゴルフの話じゃ。」

「すいませんねえ。私はゴルフやらないんですよ。
 趣味はしょう・・」

「君の趣味はどうでもよい。
 私がききたいのはじゃの、
 よく我慢のゴルフっていうな。」

「言います。」

我慢のゴルフって、いったいぜんたい何を我慢してるんじゃ!!?

うう。面倒臭いお方じゃ・・・。
しかし、確かに気になるな。