馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

2010年6月の手紙 2 再掲

2014-08-28 16:49:49 | 日記

2年前、2010年 3月に長い長い年月を経て友人に手紙を書いた。

それから梅の実熟す雨期がやってきた。

既にあいつはリバーサイドマンションには帰れなくなり

衣類を病院へ持って行くようになった。

郵便受けに葉書があった。

あいつへの病状回復励まし文面だった。

「食道癌に打ち勝って、関門海峡の夕日を眺め

酒を飲み、ふぐを腹一杯食べよう」

差出人は山口県下関、下関漁協に勤める大学同期で応援団長だった。

梅雨空の谷津干潟遊歩道を歩き病院へ向かった。

私はその葉書を持って緊急病室に入ったが

目を開くことも、私が読み聞かせることも出来なかった。

 

そして 私は又病状を知らせる手紙を書いたのだった。

安田団長殿

6月11日(金)上京され岡山君へ見舞い誠にご苦労様です。

お会い出来なかったのは残念です。

同日同時間、品川駅にて岡山君と合気道部同期で

副将をしていました薄井信幸君と岡山君の病状について

説明していました。

薄井君は大手建設会社の役員をしており

大阪に単身赴任中 奥様も合気道部です。

 

走馬灯のごとき過ぎ去った白金キャンパス

無頼の青春みんなで過ごしました。

そして壮年期、我々団塊世代はアジア諸国随一の高学歴

青年が日本の経済成長を押し上げました。

現在の世間からあまり評価されませんが

この団塊パワーがあったがため日本が一流国になったと

自負しています。

50代まで必死に働きました。

その間、学生時代を振り返る余裕とてなく

激務にまい進してまいりました。

今、60代 還暦を向かえ懐かしき友と酒酌み交わす

時がやってきました。

岡山君も懐かしき友を訪ねて関門海峡の夕日を眺め

酒酌み交わしたと、楽しそうに私に話してくれました。

 

11日 岡山君は元気であったと聞き驚きました。

お会いして心身に少し命の火が強くなったのでしょう。

10年前 山岳部同期であった坂本君が脳腫瘍で

危篤状態になり富山の病院に駆けつけました。

私はベッドの傍らで2時間以上眠り続ける坂本を

見ていました。

ふと、彼は目を開け私に手を差し出しました。

握り返すと目蓋は閉じ目元が振るえ 頬が動きました。

私がいることが分かりましたが思いを表すこと叶いませんでした。

それからまもなく旅立ちました。

今は立山連峰を仰ぎ見る富山平野から田の畔道にぽつんと立つ

墓標があります。

32歳で亡くなった父と共に彼が愛した剣の頂を見ています。

又同じく山岳部同期の羽山君も24歳の時北アルプスで転落死

最後を看取りました。

同期8人いましたが退学、退部等で

同期は私一人になりました。

又山岳部も現社会の若者に受け入られず

4年前、部員がゼロになり廃部となりました。

 

年年歳歳、花相似たり

歳歳年々 人同じからず

 

日暮れて道遠し

 

叶うなら40年前に戻りたい

 

6月20日の岡山君の状態は

殆ど眠るがごとき時折人の気配を感じると

目蓋が動き瞳孔が少し開くだけです。

分かっているのでしょうがいかんともし難い状態です。

妹様も医師より今後延命措置の有無を聞かれ

緊急処置をしないことに同意しました。

今後の事は追って本田君に伝えるつもりです。

取り急ぎ現在の状況をお知らせしました。

又、妹様からの希望で葬儀等はしない旨を皆様にお伝えくださいとのことです。

今後は親族とは関係無く、岡山君の偲ぶ会を

合気道部同期中心となって開きたいと存じます。

 

※       大変勝手で失礼なことでしたが貴君が岡山君宛

への励ましの手紙読ませて頂きました。

岡山君宛郵便物は私が数日おきに引き取り妹様に郵送しています。

 

6月20日午後3時弓道部にいた伊藤満君が来まして

谷津病院での容態を知らせてくれました。

かすかに瞳孔が動くのみで全身は動かず

息遣いが激しい。

見舞い訪問は無理だとのこと。

妹様と私と妻とで岡山君マンションで書類整理をし出しました。

今後法的事務処理は射撃部にいた綱嶋君が行政書士をしていますので

お任せする予定です。以上でございます。

 

2010年3月14日

 


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