田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

明治時代の号砲台

2020年12月11日 | 街角の風景

 明治22年の市制施行後、正午の告知は市役所屋上の鐘によりなされていた。だが同40年の第18師団設置後は、砲兵隊の号砲により正午が告げられるようになり、市民はこれをお昼の「ドン」と呼んでいた。当時、午砲台は全国各地にあった。

 写真は都心部の民家敷地に残る号砲台の記念碑。号砲台は師団司令部の近くにあり、碑は明治43年の建立。題字は初代師団長の筆によるもので、一般的な「午砲」ではなく「号砲」と記されている。小学生の時に先生から号砲台の話を聞き、家への帰り道だったので探したことがある。いまは眼をとめる人もいない。

 軍縮による大正14年の師団廃止後は、大砲ではなく紡績会社の汽笛や警察署のサイレンが時報を告げた。その後、昭和4年に新しい市役所が建設されてからは、塔屋に設置されたサイレンが正午を告げるようになった。

 平成6年に新市庁舎が建設されるまでは、市役所に併設されていた消防署が火災発生時だけでなく、毎日12時になるとサイレンを吹鳴していた。当時は気にも留めなかったが、こんど調べていて、あれは明治以来の「ドン」の慣行を引き継いでいたのではないかと思い当たった。消防署が移転してからどうなったかは知らない。

 

                     参考:「久留米碑誌」「久留米市誌」

 

 

 

 

 

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