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北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-9 【明石高校校舎鳥瞰図への書き込み】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-9

【明石高校校舎鳥瞰図への書き込み】

5 職員住宅*数棟の職員住宅が、グラウンドより一段低い場所にあった。西のポプラ並木側からも、グラウンド側からも訪問できた。

4 三号館*木造2階建 音楽・書道等に利用。秋の文化祭の展示室にもなった。この2階から見る、西に広がるタンボの向こうに落ちる夕陽は見事だった。

3 自転車置場*大蔵・錦城校区の生徒の多くは、自転車通学が許されていた。屋根のあちこちは瓦が落ちていたし、木の柱は傷だらけだった。
グラウンド側に便所があった。

2 西側の通用門*東側の正門、通用門ははっきりした門があったが、西側には無ったが、西側には無かった。
ジャリ道を緩やかに上り詰めめ、図書館脇から旧館下の、ゲタ箱に至る。
電車・徒歩通学生にとっては、最も印象に残っている道。
校舎に向かかって右手は一段高く、野菜畑で、大根、人参が育っていいたし、その先(北側)は墓地だった。

1 山内記念図書館*旧制明石中学校時代の初代校長の名を冠した図書館。一番雰囲気のよかった建物。
薄茶色のハードカバーで補強された文庫本、自分ではとても買えない「赤毛のアン」シリーズ、「ジェーン・エア」「失われた時を求めて」「三国志」「戦争と平和」などを片っ端から借りた。
余りここで勉強はしなかったが、静けさを求めて入室することは多かった。

6 旧館*地形の関係で、西側は下から順に、ゲタ箱、1階(1年生教室)、2階(2年生教室)、3階(3年生教室)の4層になっていた。

7 新館*3年生になって、ここに科学教室が移った。ジャラン(藤原先生)の地理は、ここで受講した。
 3-1もここに入ったので、旧館の3階東端が、我が3-2教室に割り当てられた。写真部暗室も独立して設置されたが、G連とは殆ど一緒になることはなかった。

11 理科教室*一番北が、生物。真ん中の西側に化学教室。東に物理。講堂に近い棟は、美術・音楽室だった。中庭はテニスコートがあった。
 写真部暗室は*印のところで化学準備室の中にあった。

8 武道場*体育館などなかったから、柔道・剣道はここで練習していた。体育祭の時、模擬店が出る所で、前の池は三角池と呼ばれていた。

9 教員室*教室との渡り廊下での、昼休みのパンの販売。春には、新1年生の合格者名が2階のピロティに貼りだされたりした。
北端に、用務員さんの部屋(佐藤さんご夫妻)があり、犬が飼われていた(僕の記憶ではシロと呼んでいたのだが、藤本はエスだと言った)。

10 中部講堂*太洋漁業社長の寄付による講堂。式典以外では、合唱コンクールの印象が強い。裏に数本の金木犀の木があったが、貧弱だった。

13 家庭科教室*縁はなかったが、茶道部に呼ばれて、お茶をよばれたことはある。階段下に、一番立派な金木犀があった。
西側には、紫露草の群落があったし、南側にひょうたん池と呼ばれた池があり、日溜まりになっていたため、昼弁当を持って出ることが多かった。
古びた石の灯篭が一つあったから、全日展高校の部の被写体にした。途中の芝生のスロープにユッカが数本植えられていた。

12 楠*校庭の至るところに、楠木があった。一番大きかったのが、通用門を入ってすぐ正面に見える樹だった。
芽吹きのころの緑の変化は楽しかった。

14 バス停留所*幾度か変遷したが、一番印象に残っているのは、大蔵中学の石垣下にあったバス停留所。その南に、富士屋という駄菓子屋があった。
三角形ののビニールパックに入ったジュースや、小ぶりのアンドーナッツ、マーブルチョコ等が帰路の空腹を暫し満たしてくれた。勿論、バスには乗らずに。
 反対対側には、川尻という屋号のうどん屋があった。




【死に臨んで思い出すこと】高校三年の秋

 あったかも知れない出来事やそれに費やした時間が人間の記憶に残り、そのことがこの世の中に存在したからこそ、人は死に臨んで思い出すことがあるのだろうし、死んでしまった後も、覚えてくれている人たちが生き続けている間は、間違い無く生き続けていられる。

 幾つもの時間、幾つもの社交の中に身を置いて、人は精一杯生きている。
自分一人きりでは生きていくことなど出来はしないことを知ってはいても、時として人は、自分の基準だけでしか、社交の場には踏み込んでいかない。
僕など、その典型だと今も思う。僕に対しての評価はこうだった。
「人見知り、引込み思案、優柔不断、社交性なし」

 誰も信じようとはしないけれど、この評価が当たり前だったし、努力してその評価を覆そうとすればするほど、失敗したし、自分自身の基準に合わない世界を思い知らされたりもした。
それ以上に、どうしてこんなにまでして、他人と合わせなければいけないのだろう、などと、自分勝手な論理を振り回していたりもしたし、人間不信にさえもなった。

 所詮、人と人との関わり合いは、生きている間だけの約束事なのだから、と割り切ってしまえば簡単だったはずなのに、自分を中心に回っていると思っていた時代には今とは全く違った行動をとっていた。
 人が、その一生に関わり会える他人は、どれくらいになるのか、そう真剣に考え始めたのは高校時代だった。
人生訓を話す学友も居た。
精神論も飛び交った。
小賢しい話し相手のそれらの論理を耳にしながら、僕はふと、この人たちのほうがもっともっと真剣に生きているのではないか、と突然感じてしまった。

 話すことの中身よりも、人と対している時の態度や話し方には、ある種異様な熱気があった。
今考えると、それが生きることの証だったのだろう、その時与えられていた自分自身の時間を、自分自身の為に精一杯使ってみる、それが僕たちのその時可能な社交の場だったのだと。
そしてそのことを僕の回りの人たちは実践しようとしていたのだと。
 そして知らず知らずの内に僕は、回りに居た今も一番大事にして居る時代の、今も一番大事に思う人たちに囲まれて、新しい社交の場に登場したし、そのことが結果として最も輝いていることの出来た時間を生んでくれたのだと思っている。
 与えられた時間の中で、自分の考えだけで生きる時間と、回りの人たちと共通に生きる時間は、どちらに重きを置くのが良いのかは解らない。
けれどはっきりしているのは、自分だけの時間と思いこんでいる時間も、結局は他者との関わり合いの上に重なっているということ。生きる上での喜怒哀楽は、全て他者に向かっての自己表現なのだと理解すれば、人は一人で生きているはずもないことが解ってくる。

 だからこそ、あんなにも輝いていられたのだろう。

 取り戻せるのならとか、もう一度やり直せるのならとか、色々な場面で今、あなたが戻りたいと思う時代は何処ですか、なんて質問を受けることがあった。
そんな時、決まって僕は、恥じらいもなく、「高校時代」と答えていた気がする。
それが一番自然な答えだと思っていたし、鮮明な記憶も一番残っている時代だから。

 だけど、本当にそうだったのだろうか。
 本当に輝いていたのだろうか。 

 むしろ暗く一人の時間を過ごしながら、「孤独者の夢想」に酔っていた時代、その表現で括るほうが正しいような時代だった筈だ。
自分自身の殻の中で、必死でもがいていた時代だった筈なのだと思う。
しかし、こうも思う。
その後の幾つもの新しい関わり合いの中では、恐らくは見つけることの出来なかった筈の、何か、人と人との真剣な心の葛藤や、表面的だったかも知れないけれど有り余る時間を費やしての議論が、間違いなくその時代にはあった。

 暗さだけが満ち満ちていたのではなく、必死でもがいていた分、人と人との議論は大事だったし、だからこそその時間の積み重ね、議論による生き方への大いなる刺激が、今の精神構造を形成する貴重な時間になったのだと信じたい。
 だからこそ、今振り返る時間の中で最も輝いていたのだと言えるし、時には戻りたいとも思うのだろう。
 振り返るだけの余裕を持ち得る今となっては、多くの時間を無為に過ごしてしまった反省もあるのだけれど。

高校三年の秋だった。

受験勉強にその殆どの時間を費やしていたクラスメートたちとは違って、僕は殆ど勉強には無頓着になっていた。
受験を諦めた訳ではなかったし、合格を確信していた訳でもなかった。
奇妙な空虚さがその無頓着さの原因だった。
現役で東大受験を目指している藤本にしても同じだった。
そんな不思議な関わりだったけれど、秋の深まりと共に僕は藤本と、下校時には毎日同じ時間(四時過ぎだったと思う)に、人丸山東坂を下った。
会話の殆どが文学論だったのは、意図して受験勉強そのものを避けていたのではなく、二人に共通の話題だったし学校の中でその議論を続ける余裕がなかったからだった。
時折、川西匡子の話題になることがあった。

「そうか、おまえは彼女のことをお姉さんのように感じているのか、俺は彼女を妹のように思っている。」
「なのに、どうして話さないんだ?」
「何を言ってもいいんだったら、俺が話してやるよ。」
「おまえがどう思おうと構わない。俺は俺のやり方で彼女と接するよ。」
「不思議な気がするけど、彼女にはおまえの気持ちは充分伝わっている。」
「彼女は、おまえの書く文章が好きだと言っている。きれいに言葉を綴っているからだと。」
一気にそう喋った後で、藤本は僕にもう一度確かめるようにこう言った。
「何か躊躇させるものでもあるのか? 話してみろよ。」

そんな話題は、僕には苦手だった。
自分自身の気持ちの中にあったマドンナへの思慕は、時間と共に不思議な位、固い殻の中に閉じ込められていったようだ。
藤本はそんな僕の心の中を見透かしてでもいるように、何度と無く彼女の話題を持ち出した。
スペインの画家、ベラスケスの『馬にまたがるバルタザールカルロス王子』が載っていた雑誌の付録を僕にくれた時も、こんな説明をしながら手渡した。
「これあげるよ。彼女の眼に似てないか??」
僕がその数日前に口にした佐藤春夫の一つの詩に対しての答えのようなものだった。

  君が瞳はつぶらにて
  君が心は知りがたく
  君を離れてただ一人
  月夜の海に石を投ぐ

背が高かったし、憧れのまとだった彼女の眼は、つぶらと表現出来たし黒目がちだったから僕は、藤本にこんな詩があることを話した。 「ランボーや、中原中也だけじゃないんだな?」
それが藤本の返答だった。
「純文学も良いけど、時間が無いときは、詩を読むのも良いもんだな。小賢しいのよりも、ストレートなのが。
だから、その後の会話の中には、萩原朔太郎が登場し、亀井勝一郎や本多勝一の評論も含まれるようになる。
文学を評論することを気取っていたし、次々と読み続けた様々なジャンルの本は、やがて「雑学の基」に変身した。
知識とは、やはり自由に操れる自分自身の時間をどれ位割くかによって膨らんだり萎んだりするのだろう。
一度入ったはずの知識は永遠ではないから、やはり不断の吸収も必要なのだ。
その高校時代の秋、自分の能力の殆どを使い果たすほどに語り合えた藤本との時間は、聞くこと、読むこと、語ることの殆どが、自分自身の身について行く大切な時間だった。

 不思議な位、西空が真っ赤に焼ける日が続いた秋だった。
三年間の高校生活の中で、印象に残る季節は、やはり金木犀の秋。
だからこそ、三年生の秋には既に解体されていた木造の三号館と、山内記念図書館の間にあった西側の通用門から明中池に続くなだらかな砂利道は、雑木林から漂って来る金木犀の香りを感じながら、太寺方面に広がる稔りの田んぼの向こうに沈む大きな夕陽を眺められる懐かしい道だった。
 何時もそうだったのだろうか、と時々思う事がある。
藤本と何時も、同じ時間を過ごしていたのだろうか。
時には同じクラスの仲間たちと、地藏池の亀を転がしたり悪ふざけをしながら下った様にも思うし、時には一人きりで孤独者を演じながら、太寺から人丸山の東坂を下った筈なのだけれど、その像は鮮明には結ばれない。
夏から秋にかけては間違い無く、バスで下ることは殆ど無かったから、印象的な場面が下校時には無かったと言うことなのだろう。
人は時として、自分の都合で印象を書き換えている。
意図してではなく、無意識の中で。だから、書き換えるべき中身のないものは、そっくり散逸しているのだろうか。

 「あっ、右近。」
自分自身でも不思議なほどに熱くなっていた頃から、もう二年が経っていたけれど懐かしい姿を久し振りに人丸山東坂に見かけたのも、秋の深まりの中だったように思う。
一人で下っていたのは、橘悦子…。


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