HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

ロマンチストの独り言-8 【人丸山東坂】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-8

【人丸山東坂】


▲ 地上駅時代の山電人丸前駅、駅舎・改札口は線路の南にあった。▲

通学路に利用していた太寺から人丸山に抜ける道の両側は、朝は学校に向かって列が出来、グループ毎の会話が延々と続き騒々しかった。
しかし夕方は、三々五々の下校になるので静かだった。
明中池と呼ばれた潅漑用水池の南西端の坂道からバス道へ出てしばらく西に歩くと三叉路になる。
通学に国鉄を利用する者と山陽電車を利用する者とは、帰路この三叉路をそのまま西にバス道を歩く組と、人丸山に抜けるたんぼ道を左折する組に分かれる。
両側には季節の野菜畑が多かったが、春先にはイチゴがビニールハウスの中で栽培されていた。
2年生になったその頃だった。
午後の日差しがそろそろ暑く感じられはじめた5月の或る日のことだった。
いつものメンバーと「摂丹模試」の評点について喋りながら、その分かれ道を太寺に向かって直進した時だった。
後ろから自転車で追いかけてきた武本が米山にこう叫んだ。

 「デコ、右近。ほら、左に曲がった奴。」  
デコというのは、米山の愛称である。
幼稚園時代からの友人だった彼は、その頃の写真でもおでこが広かった。
だからいつの間にか、「デコ」と言う愛称で呼ばれるようになっていた。
何となく僕も後ろを振り返った。
南に向かって歩いてゆく2~3人の後ろ姿の中に、通学鞄と緑のビニールバッグ(だったと思う)を、楽しそうに前後に大きく揺らせながら、歩いて行くお下髪があった。
そのお下髪が「右近」だった。

 武本が命名した「右近」。
僕が、その本当の名前が橘悦子であることを知ったのは、それから1週間位経った、同じように少し汗ばむほど暖かい午後だった。
その日は、林崎4人組ではなく、2年C組の山田・池田と3人での下校だった。
山内記念図書館の横を抜け、ウバメガシの雑然とした植栽の横を通り過ぎて明中池の畔に出る。
落ちている小石を拾って池に向かって投げながら歩く僕たちの横を、「すいません。」と、すり抜けて行く2人がいた。
お下髪にも、ビニールバッグにも見覚えがあった。
「あっ、右近。」 僕は咄嗟にそう叫んだ。
たぶんだけれど、その声が聞こえたのだろう。
件のお下髪は急に足早になって、バス道までの坂を駈け下りていった。
後を追うもう一人は、同じ中学出身の大村秀子だった。
その名前を知ったのもこの帰路である。
二人はバス道の三叉路を左折し人丸前駅へ向かったが、僕たちは太寺・上ノ丸を抜ける道を明石駅に向かった。

 池田が不思議そうに尋ねる。
 「中谷、何で、橘を知ってるねん?」
 「別に。知ってるん違う。武本が、右近言うてたから、右近って、言うただけや。」 
 「あいつ、1年でも女のくせに、頭ええらしいで。摂丹の数学でも、学年1番やったらしい。」
 「ああ、そうか。橘やさかい、右近、か。武本の渾名の付け方は、天才的やな。」と、僕は池田の話とはすれちがった発言をした。
山田が横から口出しする。
 「摂丹で1番か。まだ、廊下に名前が貼るっとるかも知れへん。見に行こか?」と、かなりミーハーな発言。
結局、その後は模擬試験の点数や、2年になって以降の勉強の量についての会話ばかりになってしまった。
山田の家の前を通り、明石駅裏で池田と別れたのは4時近くだった。

 山陽電車の明石駅は、国鉄の南にあるのだが、当時はまだいずれもが高架化されておらず
従って駅の北、明石公園側にある国鉄の改札(裏駅と呼んでいた)を通り抜けて、南側の山陽電車明石駅に出るには入場券を買わなければならなかった。
友を送って騒ぎながら裏駅まで来てしまうことはよくあったが、10円の入場券を買って駅を通り抜けることはせず、いつも大回りして踏切を越え東仲ノ町商店街を通って駅の南に回った。
この日も、その大回りルートになったのだが、山下町の国鉄の踏切でばったり米山と出会った。
 「さっき、右近に会った。」と言う僕に、
 「ああ、二見の悦ちゃんか。」と笑った。
 「あいつ、頭ええらしいな。」
 「そうらしいワ。朝の電車、二見から山電に乗っとるらしいで。」
 そんな会話が続き、結局は又々模擬試験の結果に落ち着いてしまった。
決して勉強が嫌いではなかったが、その都度発表される「点数順位表」が好きではなかった。
全員が発表される訳ではなかったが、名前が無いことはつまり成績の悪さを証明されてしまうことになる。
ただ、時折成績表の右側に名前があると、嬉しくなってしまうことがあったから、要はしっかりした成績さえ取れば良いことだった。
そんな環境の中に、1年後輩の、眉目秀麗・頭脳明晰(との噂が立ち始めた)「右近」が登場した。
 
 6月になっても、晴れの日が続いた。
山陽電車・林崎駅の朝は、小学校の同級生三人組(米山泰正、栄藤修、僕)に、下溝県住からやって来る野田光好を加えた4人がいつも大騒ぎを展開していた。
話の中心には、1年生の頃から米山が居た。
たわいない雑談や、時折は誰それのスカート丈が長くなったとか、顔が崩れているとか、又時には、級友達の「艶聞」にまでも及ぶ事があったりとか。
とにかく、電車が入って来る前から学校のげた箱までの間、よほどのことがない限り話題が途切れる事はなかった。
朝、その林崎駅からは多くの同級生が乗車する。
マドンナ、川西匡子も殆どいつも同じ電車だったから、その車両が混むのは、彼女のせいだ、なんて勝手なことを話したこともあった。
2両しか連結されていない電車は、旧型車の改造だった2扉の200型が多かった。

      ▲ 地上駅だった頃の山電明石駅 上り700系と下り200系 ▲
   
 ▲ 地上駅だった頃の山電明石駅 ㊧ 上り800系   ㊨ 待避線の200系 ▲
高校時代の通学時間帯では、この組み合わせが多かったし塗色も塗分けに変りつつあった。


 ▲ 何度も登場する画像 200系の初期。高校時代にはまだ黄色と青の塗分け塗色ではない車両も運行されていた。▲

1つ前の電車は旧国鉄払い下げ改造車の700型でドアも4つあったし車両も長く、従って定員も多かったが、敢えて僕たちは横揺れの激しい15m車両を選択していた。
マドンナは必ず最後尾のドアから乗車し、僕たちは連結器寄りのドアから乗車した。
その後暫くして、車両は700型に変わってしまった。
電車は笑いを乗せて発車し、西新町で又少し混雑し笑いながら明石駅に着く。
バスに乗り換えるメンバーも多かったが、多くは特急電車を待ち合わせる為、5~6分停車する車内で騒ぎ続ける。
その一定の間隔は、電車が通学生の下車駅である次の人丸前駅に着くまでは保たれていた。
人丸前駅は上りと下りのホームが別になっており、改札は南に1か所しか無かったため、電車を降りた集団は先を争い(?)線路を渡って改札へ急ぐ。

 ▲ 地上駅時代の山電人丸前駅、駅舎・改札口は線路の南にあった。上りの電車に乗った人は一旦構内の踏切を渡り改札口を出で、もう一度駅西の踏切を渡らなければならなかった。▲

先を制する為には、明石駅の特急待ちの間に、移動すればよい事なのだが僕たちは何故かそうしなかった。
先行集団を追い抜く楽しみを、或は遮断機の下りるギリギリの瞬間を走り抜けるスリルを味わうために。
この光景は、当時山陽電車も国鉄も高架化されていなかったため、通過列車で遮断機が下りてしまうと又々5~6分待たされる事になる。
その結果として、人丸山東坂を急ぎ足で上って行くハメになり、始業のチャイムに遅れる心配もあったからである。

この朝の何とも人騒がせな、騒ぎ過ぎて学業に多大の影響が出ない方が不思議な位精力を使っていたはずのシーンに、もう一つ異変が起きた。
はっきりとは記憶に残っていないのだが、6月になって間もない頃だった。
東二見駅から特急に乗って明石で先着の普通に乗り換えていたはずの「右近」を、林崎駅から乗車した僕たちの一つ西よりのドア付近に見かけるようになった。
つまり、東二見駅から各駅停車に乗って来るようになった。
同じ場所には、一つ手前の藤江駅から乗って来る中島道子達が居たし、川西匡子の存在も気になっていたのだが、僕たちの関心は同級生よりもむしろ下級生に移って行った。
喧噪の車内は一層騒々しくなり、人丸前駅での猛ダッシュもますます熾烈になった。
狭い車内、朝の電車は約10分おき位には運転されていたのだが、僕たちの周りにはいつもいつも同じメンバーが、後になり、先になり、人丸山の東坂を学校へ急いでいた。
「右近」は、時々3~4人になることはあったが、殆どは「牛乳屋さん」と2人だった。
実家が西二見で牧場を持っていたため(だったと思う)、やはり武本が付けたニックネームを持つ、大村秀子と二人だった。
関心を持たなければ、たまたま同じ時間に坂を上る連中は他にも何十人もいたのだからその他大勢、だったのだろうし、彼女達にとっても同じだった筈だ。
ところが、必ず武本が愛車(同級生、吉本勝利の家が自転車屋でその店製のHY号)で追いつき、騒ぎの輪を広げる事が多かったため何時の頃からか、それぞれの存在を無関心にしてはいられなくなって行った。
相変わらずの女性批判、友等の艶聞は、少しずつ抑えられ、教師の物真似や、駄洒落、失敗談、近未来的想像談等に変わっていった。
その変化を生んだ要因はとりもなおさず、新しい聴衆(?)へのウケ狙いであったことは否定できない。
僕たちは、人気者気取りで、朝の人丸山を席巻していた。
初夏から秋が深まり、体育祭・文化祭が開かれる頃までの、ほんの5か月ばかりのことだったのだが。

 人丸前駅の構造上、上り電車の乗客は改札を出るまでに線路を渡り、改札を出てからもう一度山電の線路を渡る。
並行して北側を走る国鉄は複々線になっていたし、山側の複線は貨物列車や優等列車が走っていた。
朝、殆ど何れかの踏切の遮断機は、無情にも下ろされる。
危険防止目的だから、通過する列車の速度には関係なく、踏切からの距離(列車と踏切の距離)で、自動的に遮断機は下りる。
山電の場合は複線で、下り電車の場合は駅に停車している時から遮断機は下ろされるのだが、それを潜り抜けても電車が見えているから安心だった。
しかし、国鉄の場合はそうは行かない。
時刻表通りに、大抵の場合下りの貨物列車が通過する事になっていたから、危険も多く従って猛ダッシュが連日繰り広げられる。

 線路を渡りきり、暫く歩くと道は人丸山の東を大きく右にカーブする。
天文科学館の横で武本が追いつく。
マドンナ達の集団は、道路の左を歩き、芸能集団は右側である。
坂道は続き一度人丸山の方に近づき(左カーブになり)、右に何軒かの民家が現れるあたりで、二見の悦ちゃん達が追いついて来る。
二見の悦ちゃんと呼ぶことはなかった。
会話の中では「右近」だった。
同級生の桜井悦子は、大久保の悦ちゃんだったが。
途中で舗装道路から右に下って行く道があったし、時折何人かはそのルートを採っていたが僕たちはそのまま島田料理学校の看板が見える所まで東坂を上り詰める。
生物の教師だった島田先生の奥さんが開いていた料理学校の横を通る道は、舗装道路から急にストンと下る感じで、当然のことだが舗装されていない上に粘土質の土、不揃いの石ころ道だったため雨降りには難行する道だった。
すれ違いできる程度に細い道だったけれど、広い道路から集団が一気に殺到(?)するために時としてニアミスが起こる。
僕たちは、それを期待して、突然歩調を落としたり、立ち止まったりしていた。
「右近」はいつも時折困ったような顔をしながらも、僕たちの前を通り過ぎ高家寺前への短い急坂を一気に上ってゆく事が多かった。
この辺りで、学校までの中間点になる。
上り坂と大騒ぎとで精力の多くを使ってしまった僕たちは、結局いつも最後尾近くまで遅れ、後は少し急ぎ足になりながら今度は皆の後を追うことになる。
毎朝の事ではなかったけれど、修学旅行から戻る頃までは続いていた。

 秋も深まる頃になると、朝の喧噪は少しずつ消えていった。
相変わらず人丸山の東坂を歩く集団はあったが、家を出る時間が少しずつズレ始めたこと、バス通学組が増えはじめたこと等で、2年生組は減っていった。
体育祭・文化祭の時期になると、風に乗って流れて来る金木犀の香があった。
しかし、不思議な事に、この人丸山東坂での金木犀の記憶はない。
この秋、結局は夏を挟んで5か月くらいの喧噪だけが記憶に残り、秋の深まりの前金木犀の香が流れる前に、「右近」は遠ざかって行ったことになる。

 その後、朝の人丸山東坂で「右近」を見かけることは殆ど無くなってしまったが、時折帰路明石駅でその姿を見かけた。
3年になってからは、殆ど明石駅からバス利用に変わり、林崎4人組が揃う事は無くなり、当然だが人丸山東坂を歩く機会はなくなってしまった。
僕は時々だが、のんびり一人この坂道を下って人丸前駅から帰った。
それは一つの感傷であり、3年間の高校生活の中で、大声で笑い合えた数少ない場面が至るところに残っていたからである。

 一度だけだが、この帰路の人丸前駅で、マドンナに会ったことがある。
風の強い、確かもう冬が近い頃だった。
「右近」の登場以降、僕たちの会話にも視線の中にも絶えて登場しなくなっていたから、何か新鮮で心がときめいた頃の事を思い出していた。
朝の通学コースはバスに変わっていたから、その日のように山陽電車で帰る時以外、会う機会など全く無くなっていた。
だからこそその偶然が、そして他に誰もいないその場面だけが、鮮明に残ってしまったのだろう。
いつものくせである、少し肩を揺すって歩く後ろ姿を天文科学館の辺りで遠目に見つけた時、僕は山陽電車に乗ることを止め、国鉄の線路沿いに西へ向かおうかとも考えた。
何しろ、その時まで、会話を交わしたことさえもない人である。
一緒に歩いている人達は電車には乗らない人達だから、もしかして駅で二人になってしまったらどうしよう。
そうか、別に同じ車両に乗らなければ、問題ないんだ。
いやいや、もしホームの端に止まってしまった時は、前を通り過ぎなければいけないし。
等々考えながら、いつの間にか駅に着いてしまっていた。
幸い(?)ホームの反対側、大蔵谷寄りまで彼女は歩いて行ったので、前を通り過ぎる事にはならなかった。
しかし、本当に予想通り、二人きりだった。
電車を待つ4~5分、固い木製のベンチに座って、体も固まっていた。
緊張していた。
気にしなければどうってことはないのだろうが、憧れのマドンナを直ぐ横に感じたあの時間は今もってジットリと汗を感じる。
この事件も只の一度きりのことである。

そして、昭和39年2月、僕たちは卒業した。
卒業式の後、級友達と最後の時間を、この思い出多い人丸山に上って過ごそうということになった。
しかし、式の後、三々五々の下校になってしまい、結局最後の日の人丸山には行かなかった。
と、思うのだが、何故かこの日の下校ルートがはっきりしない。
そして、僕の記憶は、突然、明石・桜町の「紅洋軒」で、藤本と柳本の三人で、焼ソバを食べている場面に飛んでいる。
現役で東京大学文科1類を受験する、藤本齋と、大学には進学せず、銀行就職が決まっていた、柳本隆蔵の二人。
二人とも詩人だったし、女性に甘かったし、何といっても寂しがり屋の「ロマンチスト」だった。
記念に貰った柳本のクラスの卒業文集「仲間たち」の表紙を、焼きソバのソースで汚し、すぐに拭き取ったのだが少しだけ残ってしまった跡を、「淡路島に霞みがかかっているようで、いいじゃないか。」等と、冗談を言い交わした3人。
何故そこに3人が居たのか、今以て分からない。 
その卒業式後の人丸山行きが中止なったことは、同じクラスだった内藤幸からの手紙で覚えている。
ハイネの「わかれには」の詩に託して、別れの日の切ない気持ちを伝えてくれたし、親しい仲間同士での最後の大騒ぎが出来なかったことを、その後、会う度に話してくれた。
ただ藤本とは、何度かこの人丸山には立ち寄ったが、内藤幸とは、一度も登っていない。

     *   *   *

訂正/追記  山陽電車人丸前駅の午後
たった二人きり、川西匡子と人丸前駅に居た日は、晩秋ではなく、卒業式の近い冬の日だった。
その出来事の直後、僕たちは高校生活の中で只一度きりの会話を交わすことになる。
昭和39年2月22日、『G連』との別れ、写真部送別会があった日の午後。
記念に何か残したのだろうが、送別会の後の、中庭での記念写真だけしか残っていない。
その後、何度か幸ちゃん経由で彼女の情報は貰っていたし、大学(神戸大学教育学部)へ通っていた頃は何度か山陽電車・国鉄明石駅で会ったから、軽く会釈を交わしたこともある。
卒業後は、小学校の先生になった。最初の赴任先は西舞子小学校だった。
その後同級生だった中村昭夫と結婚。
震災直後に電話を通して1度きり会話した事があるが、会った事は一度も無い。

島田料理学校
  生物担当の島田先生の奥様が学長だったのでこのように記述したが、正式名称は「明石割烹学院」だったと思う。

 

コメント    この記事についてブログを書く
« ロマンチストの独り言-7 【... | トップ | ロマンチストの独り言-9 【... »

コメントを投稿

【独り言】」カテゴリの最新記事