渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

デザインの美的感覚

2022年03月11日 | open



日本刀の刀装具は美術品として
金工装飾における芸術的な領域
の一角を占めている。
そこでは、鍔、縁、頭、目貫、
鎺(はばき)といった金具類
は、実用性を兼ねながらも高度
な金工師たちの技量が全投入さ
れる。
日本刀の刀装具の金具は、彫り
や埋めや染めの技術のみならず、
そのデザイン性に秀逸なアーティ
スティックな面が認められる。

だがしかし。
技巧性をこれでもかと前面的に
出しすぎる作は、日本刀の刀装
具の場合には「下品」とされる。
例えば、肥後の矢上の千疋猿な
ども、日本刀の世界では、技術
は下手(げて)でなくとも、
とても「下品な作」という評価
が一般的だ。
やりすぎなのだ。どうだ!これ
ができるか!というような己の
技術のこれみよがしの主張のよう
な面が
もろに前に出過ぎている
のである。

どれほど手間がかかろうが、
どんなに加工技術に高度な技法
が必要であろうが、それでは
芸術の芸術たるなんたるかを
大きく逸脱してしまう。

私はこの事はビリヤードのキュー
にもいえていると思う。
インレイがあまりにも複雑で
華美に過ぎる装飾を施す事が
あたかも「高度な技術」である
かと勘違いしているキュービル
ダーが結構日米にいる。
いわゆるヤクザの刺青のよう
模様をキューに施す事が
高度で
あり、高級であり、優れ
た幻の
キューであるかと勘違い
して
いるような。

なぜかしら日本人にもそれが見
られるケースもある。

たぶん、そうした日本のキュー
ビルダーは、世界の美術史
芸術史、とりわけ日本固有の

美術の歴史とは触れ合って咀嚼
して深く理解する経験を積んでは
来なかったのではなかろうか。
とにかく「ヤクザの刺青」なのだ。
デザインが。これでもか、
見た
か、どうだ、というような。

それを幻とか例のごとく洗脳
宣伝コピーをつけられても、
芸術界の美術的な観点からは
「?」というものだろうと思う。
また、ビリヤードというスポーツ
における優れた信頼できる道具
を作り
たいのか、それとも、
キューを
一つの物体とかキャン
バスに
見立ててヤクザの刺青の
ような過剰な
インレイをやりた
いのか、何なのか、と
いう疑問
も湧く。


たぶん、そうしたキューを作る
人は、プレーヤーとかプレーの
事を念頭に入れての道具作りで
はなく、難しい事ができる自分
の技量を見せたいだけ、もしく
はそれが道具作りの本質よりも
先行しているのだと思う。

思うというか、それがキューに
出ている。作品に。現実に。

日本刀の世界でも時々そういうの
がいる。
刀身をキャンバスに見立てて、
このような絵を描きたい、と
いうような。
そして、富士見西行のような
は斯界では「下品極まりなし」

という正しい評価を得ている。
それでも、現代刀工でもそういう
事を言う夢想家が結構いる。
切る事などはもう100%考えて
いない。
結果、指先で弾いただけで刃が
欠けたり、蛍光灯のナイロン紐
を切っただけで紐形に刃こぼれ
する鋼の焼き物を作ったりする。
それなのに「刀鍛冶」を名乗る。

ビリヤードのキューの世界は
どうなのか知らないが、日本刀
の世界でのそれらは「馬鹿たれ」
確定なのである。
そんな刀、武人が持てる訳なか
ろうに。金持ちあきんどたちの
数寄物趣味を満たす為に作った
鉄の焼き物のオブジェならとも
かく。

かろうじて、日本刀の刀装具の
世界では、そうした作者の我
のみが前面に出て、実用性を
無視=武士の存在をないがしろ
にする愚たる者の作は
「下品」
とされる確かな見識が
まだ残存
している。
刀身のほう
は、美術意識のはき
違えで、刀装
具の鍔で例える
ならば、刀身が
通らないような
孔を鍔に開けていて
もそれを
美術的で素晴らしい
と称賛する
ような「裸の王様」
の風潮が、
刀身製作者や取り巻きサイドの
明確なる心得違いとして存在
している現実がある。
日本刀世界のうち、
刀身部分に
ついては、かなり
誤った本来の
日本刀の姿を亡失させる風潮が
蔓延しているのである。
これはその傾向が顕著になり

始めた昭和40年代中期から、
斯界の先達の心ある刀鍛冶たち
によってその懸念について指摘
されて来ていた。
また、新作刀展覧会においても
さる宮様はご覧になられて、
「この
中にどれだけ本当に切れ
る刀が
あるのでしょうか」と漏ら
され
ていた。過剰に華美になり
過ぎ
て、日本刀の本質を忘却し
始め
ていた傾向が昭和47年(1972)
にはすでにこの日本に登場して
いたのだった。もう50年前の事だ。
現在はどうか。
日本刀の刀身部分の世界は、その
宮様や先達の刀鍛冶たち
の懸念
などはもうとうに現実と
なり、
すべて美術品どころか見て
くれ
だけを競う鋼の芸術作品群

なっている。

そして、ブリキの缶一つ切れな
い。濡れ畳表に切りつけたら
折れ飛ぶ。
そんな鉄の延べ棒ばかりを作る
ようになってしまった。
ごく一部の刀工しか本物の本来の

質性を備えた日本刀を作れない。
これは、理由は簡単だ。

「作る気があるか、ないか」だけ
の事だ。結果の前に原因あり。

では、果たして、ビリヤードの
キューの
世界ではどうか。
少なくとも、好みの問題という
個人的な好き嫌いの所に落とし
込むのであるならば、私はこれ
みよがしの
ゴテゴテの過剰イン
レイデザイン
のキューは、どんな
に製作における
加工が難易であろ
うとも、それを
欲しいとは思わ
ない。一切。全く。

何か大きな取り違えをしている
事を、美術面からも実用面からも
感じるからだ。

日本刀に関しては、私は私の中の

血脈の来性から絶対に譲れない事
がある。折れ欠けする、し易い
日本刀はダメなのだ。それは武士
が持つ物ではない。
また、美術性のみ先行させて、
それのみに心が行く作者の作も
駄目なのだ。そんなものに己の
命は託せない。
これは、現代は武士という階級も
消滅し、また日本刀での剣戟と
いう斬り合いが無くなった現代
においても、その一点だけは、
日本刀については外せないのだ。
ビリヤードのキューの場合は、
私はたまたま好きで撞球という
スポーツをやっているだけなの
で、どんなキューがあってもよ
いだろうし、誰が何を好もうが
勝手次第だ。血脈は関係ない。
武士が持たんとする日本刀とは
位相が異なる。
なので、ビリヤードのキューの
作り込みやデザインについては、
完全に「好み」の問題になる。
私は「ヤクザの刺青」は好まない。
ちなみにヤクザや鳶の刺青は私
はまったく否定しない。いいん
じゃない?と思う。
それにはそれに意味があるし、
あれはあれで大したものだと
思う。
しかし、ビリヤードのキューで
それはどうですか、という話な
だ。

フルール・ド・リスのような
象徴的な花剣の文様を一差し
乃至ほんの数個キューにあしらう
のならば、それは美的にも締まる
し、優美さも兼ね備えるだろう。
ところが、それが千疋猿のように
フルール・ド・リスで埋め尽く
すようなデザインは美的感覚と
してどうなのですか?という事
なのである。
ところが、そういう複雑インレイ
を施したキューが美的にも高尚
であるかと勘違いしているよう
なデザインのキューが最近非常
に増えて
来ているのである。
これ、一つのキャドやコンピュー
タの使用法のはきちがえのよう
にも思える。
出汁と醤油と清水と食材から

作る煮物と、ケチャップから
マヨネーズから唐辛子から
ウスターソースから何から
何でもぶちこんで煮込んだ物
とどちらが美味しいでしょう
か、というのに近い。

(フルール・ド・リス)




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