私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

愛の形

2005-11-13 17:07:33 | 私のこと
marca-miaさんからいただいたコメントによって、私の心が、引き出されたので、ここに転記させていただいて考えてみたいと思います。

「ねこさんは、ご主人が変わってくれないから愛せないのですか...?愛しているから変わってほしいのですか...?愛していないけど、変わってくれたら一緒に居られるという気持ちなのですか...?」

私は、旦那のことを愛しているのか、わかりません。
私が愛だと思っていたものは違っていたような気がします。
何かに「別居した人がどうしているだろうと心配するのは愛で、やり直したいという気持ちは愛ではない」と書かれていました。
もしそうだとすると、私の中には、旦那に対する愛が、存在しているのかもしれません。

marca-miaさんのコメント
「お子さんたちのために、無理してご主人を愛する必要はないですよ。愛は能動的なものだと私は思います。愛したいから、愛するのではないでしょうか。または、愛さずにいられないから、愛するのでは...?
ねこさんの文章の中で「愛するべき理由」...と、「愛」に「...するべき」をつけている気持ちが私には分からなくて...詰問に感じたらごめんなさい。夫婦間の亀裂をはっきりと感じられるまでの間、ねこさんはご主人を「愛するべき」と思って愛していたのでしょうか...?何だかそんなのって、悲しいです。」

そうですね。指摘されるまで気が付かなかったのですが、私は旦那のことを愛するべきなんだと思っていました。
だんだん薄れていく旦那への愛情を不安に思いながら、愛するべきなんだと縛り付けていたのかもしれません。
そして私の思うように、愛せないことを旦那のせいにしたかったのかもしれません。

短大の時に、親離れできない子どもの感情についてこう聞いたことがあります。
「キャラクターの鉛筆が欲しかったのに、普通の鉛筆を買ってきたお母さんに対して、『キャラクター鉛筆が欲しい!!』とキャラクター鉛筆が買ってもらえるまで親から離れられなくなる。最初から、欲しかった鉛筆を貰うことが出来た子供は、安心して親から離れていられる」

これと同じだったのかも知れません。
私の思う通りの行動をしてくれない旦那に、それをしてもらおうとしがみつく。
もし要求が通れば、安心するが、また違う要求をしてしまう。
要求が通らないと、なんとかそれをしてもらおうと思う。
そして、自分の思う通りの行動、最初のうちは、約束を守るとか時間を守るとかそういったことだったと思いますが、それを守ってくれない旦那のことを、私を愛していないからだと思い、時間や約束を守ることに対してしがみつく。

それは、私と旦那の価値観が違うために、そうなってしまうということを考えることも無く、過ごしてきたのだと思います。

marca-miaさんのコメント
「私がねこさんのブログを読んでいて、ちょっと不安になってしまうのは、ねこさんがご主人とのやりとりの中で感じた不快感や、傷つけられたという気持ちを「愛している・愛していない」という気持ちと混同してしまわないかということです。」

まったく、その通りです。そんな風に思っていました。
旦那の行動を想像して、愛されていないからなんだと思っていました。
それでも、愛されているという形が欲しくて、何度も要求を変えていたように思います。
旦那は、はりねずみのように鋭いとげを持っているかのようで、私がいくら気持ちをぶつけても、とげよりも先には、近づくことを許してはくれませんでした。
私は、そのとげで傷だらけになりながらも、何度も何度も、ぶつかっていき、仕舞いには、その傷の痛みさえも気付かなくなってしまっていたように思います。

旦那が、私の思う通りに動いてくれないことを、私が悪いんだというように捉え、自分を責め、旦那を責める。
その繰り返しでした。
そして、旦那は次々に、私を傷つけるような行動を取っていく。
でも、何とか受け止めてもらおうという思いから、好きな鉛筆を買ってもらえていない子どものように旦那にしがみつく。

昨日のようなことがあって、今までの私だったら、満たされない思いが、また違った要求に繋がっていたと思います。
例えば、ポストに入れたビデオカメラを玄関先まで持ってきて欲しいとか......イライラと旦那に対する欲求不満が渦を巻いていたと思います。
昨日は、ビデオカメラを下まで取りにいき、間に合ったことで安堵感を得ることが出来ました。
冷たい空気に触れたのが良かったのか、旦那が上まで持ってきてくれなかったのは、旦那が思いやりに欠けるからだと思えたのです。
持ってきてくれないこと=愛されていないと考えなかったのは、一歩前進できているのかなと、自分自身を認めてやろうと思います。

まだまだ、胸の苦しさは継続中です。
この胸の苦しさがあると気分がふさいでしまいます。
何が、どんな形で、詰まっているのでしょう?
今までは、そんなことにも気が付かなかったのですね。

これまでの私の愛だと思っていたものは、単なる旦那への執着心でした。
今更ながら、愛というものについて考えないといけませんね。

marca-miaさん、私に色んなことを気付かせてくださってありがとうございます。
いろんな方とコメントでやり取りする中で、すっと心に引っかかっていた何かがするすると解けてしまうことが度々あります。
その度に、見守ってくれる誰かがいることの暖かさや心強さを感じずにはいられません。
ネットというバーチャル的な社会かもしれませんが、私はとても救われています。
本当にありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

ビデオカメラ2

2005-11-13 01:14:03 | 私が離婚を決めた理由
またまた、フリーズしてしまいました.........


せっかく取れた、みぞおちの何かが、また詰まっていてとても苦しい。
取れるまでは、その存在にすら気が付いていなかったのに、一度取れると、こんなにも苦しかったのかと驚く。

そしてふと思い出した。
先日の斎藤先生の講演会の中での摂食障害の女性とのやり取りを。
その中で、先生は治す方法について、
「普段と違うことがある日(ユニークディ)に、吐くことを我慢してみる。もしその日に吐かなかったら、ユニークディに起こったユニークイベントと考える。
次の日も、ユニークディと同じ気持ちになって、同じように過ごしてみる。
7日も止めてしまったら、どんよりとした気分になってしまうだろう。
3ヶ月止める事が出来たら、吐いてみるのも良いだろう。
そうすると吐くことがどんなに辛いことか気が付くだろう」
と話された。

初めは、寂しさで揺れ動き、落ち込んだ。
今、旦那と離れて暮らし始めて3ヶ月ちょっと。
私が旦那に依存していたのなら、この摂食障害の話と同じなのではないか?

メールのやり取りを転記してみる。自分が打ったものとはいえかなり感情的で攻撃的だ。

私「ビデオカメラ返してください」

私「ビデオカメラ返してください」

旦那「明日いりますか?」

私「いる。何故持ち出すの?信じられない。」

私「泥棒!何故勝手に持ち出すの?」

旦那「締め出される前に使ったの。なんで泥棒なんですか?あなたのものなんですか?今晩中にポストに入れときます」

ここまでの私の心情は書いた。
旦那にしてみれば、ビデオのことはすっかり忘れていたのに、泥棒を意識的に使ってしまった私に対して、腹を立てているようだ。

私「充電はどうするつもり?充電しないと使えないよ。意味ないじゃない。
運動会などあって、いることぐらい判るでしょう。
少なくくとも、あなたのものではないよ。
子どもを撮る気も、見る気もなかったあなたのものじゃないよ。
子どものための物だと思うよ。
しかも、私の撮ったテープは少なくとも泥棒だ。」

旦那のメールに対して、忠実に答えを書いてると思う。

私「ビデオテープも大切だから、ちゃんと返してね。」

旦那「意味がわからん。予定も教えてくれないくせに勝手なことばかりいわないで下さい。あなたの言い分が理解できません。家から締め出して子供にも逢わさず電話にもでようとしない。全く話し合いをしようとしない。あまりにも自分勝手で自己中心的ではないですか。こちらは話し合いたいし非もみとめているのに」

意味がわからんというのがこちらも意味がわからない。
私としては、少なくとも一度も自分から使ったことの無いビデオカメラを断りも無く、持ち去り、必要性があることも気が付かないで、今まで返してくれなかったことに対して腹を立てている。
旦那としては、家のものを持ち出して何が悪い。話をしないから、行事もわからず返さずにいたんだ。自分が悪いのではなく、話をしない私が悪いのだと言いたいのであろう。

旦那「テープはまた返します。たちまちビデオと充電器を1時までに入れときます。よろしくお願いします」

これは、旦那の私に対する、精一杯の誠意だろう。

私「充電は?テープがないと録画できないんですけど?テープと充電お願いします。私のためではなく、子どものためです。1時に入れられてもどうしようもないので、明日7時までに両方をお願いします。少なくとも、予定を言わなくても、あなたが持ち出した後、運動会がありましたよ。あなたも見たのではないですか?」

夜1時までということは、その時12時だったので、一時間も待ち続け、寒い中を1階の集合ポストまで取りに行かなくてはならないのか?
わざわざ着替え、その間に、長男が起きるかもしれないのに(しょっちゅう起きる)充電したい時に、出来なかったのは、あなたのせいだから、あなたがビデオカメラが撮れる状態にしておくべきだ。
私の思いをもう一度告げるが、旦那への回答は無い。

旦那「 勝手なこといわないで。テープはかうけども充電はできません。なんとかしてください。明日は何があるんですか?教えてください。子供は私に帰ってきてほしいと思っていませんか?子供のためにはふたりがいいと思うのですが。今の状態は子供のためになるんですか?あなたのためじゃないんですか?」

旦那にとっては、急にいると言っておいて、そんなこと今更出来るはず無いだろう。
旦那は、私が答えなかったことに対して、もう一度思いを告げる。

私「じゃあ、今すぐ玄関の前の牛乳箱に入れて置いてください。
テープはコンビニにもあるでしょう。
ポストまでは取りにいけません。
テープは、私が撮った物です。
それに続きが撮りたいと思うのは勝手ですか?
どちらが身勝手なのか、よく考えてみてください。
ビデオカメラが無いことには、今日気が付きました。
運動会は父にビデオ任せたし........
購入してから一度たりとも家族のために自分から使おうともしなかったあなたが
まさかビデオを持ち出しているなんてこと夢にも思わなかったから。
家族は撮ろうとは思わなくても、他では勝手に持ち出してまで撮りたいものがあったんですね。」

再度、自分の思いを告げる(しつこいかも......)厭味まで言ってしまった。
そして自分の都合のいいように相手に行動させようとしている。

旦那「ポストに入れときました。起きてるようだからだしてください」

旦那「悪いけどメールが来る前にポストに入れました。見てください。テープも買ってます。」

寒いのを我慢して、取りに行ってみた。
そこで、待ち構えられていたらどうしようと思った。
ビデオカメラと充電器があった。おまけに充電は切れていない。
テープは、車が動いていないところを見ると、わざわざ購入したのではなく、買ってあったものらしい。


何度読み直しても、私のほうが怒り、取り乱している。
そして、旦那は、私の怒りの理由に気が付いていない。
そんな風にして、すれ違ってばかりいたのだろう。
こんな会話では、私も旦那もむくわれない。

私はパソコンでメールを打ち、旦那は携帯でメールを打つ。
時間が掛かる分、旦那のほうが冷静だ。
直接、電話で話していたのなら、怒鳴り飛ばされていたであろう。
その場で話していたのなら、ビデオカメラは返してもらえず、壊されていただろう。

私は、どうだっただろうか?
変わらないだろう。同じことを何度も何度も旦那が答えてくれるまで、いい続けたであろう。
私の怒りは、ビデオが手元に無いことではなくて、
旦那が持っていったことに気が付くまで、2時間も探してしまったこと。
断りも無く、勝手に持っていったこと。
それと今までビデオを撮ってくれなかったことにあるのだから。
私がカメラとビデオカメラ2台使っていようと、妹がカメラマンを引き受けようと、旦那は我冠せずにいたということが私の怒りの原因なのだから。
いくらビデオカメラが、戻ってきたところで、私の心は静まらない。
静まらないどころか、伝わらないことで怒りは増幅してしまうのだ。

もし、謝ってくれたら、どうだろう。
たぶん、私はいいよって言うだろう。怒りも収まるだろう。
私の怒りを認めてくれないこと、それが一番の怒りの理由だろう。
でも、私は自分の怒りを直接伝えては無い。

もしこれが子どもに対してだったどうやって会話をしただろうか?
数日後に必要で、余裕があったらどうだっただろう?

「ビデオカメラ持っていった?」
「勝手に持っていかないでよね。2時間も探したんだからね。」
「何に使ったの?」

ちゃんと聞けるのではないか?

明日までに、充電しておかなければならないことで、追い込まれ、
探しても見つからないことで焦り、子どもを寝かしつけることが出来ないことで自分を責め、
もしかしたら、旦那が子どものビデオが欲しくて取ったのかもしれないという想像で、さらに怒りを増したのではないか?
自分で自分を追い込んでしまっている。

少し、私が成長したのは、怒りの理由がわかったこと。
そして、ビデオを手にした時、私の心は静まったこと。

ビデオカメラ

2005-11-12 23:28:45 | 私が離婚を決めた理由
ここ最近、イライラすることも無く、過ごしていたのに、今日は旦那がいたときのような気持ちになってしまった。
明日、子どものダンスのステージがあるので、ビデオカメラを出そうと思ったらない。
保育園、小学校の運動会は写真に専念して、ビデオは父に任せたので、気が付かなかった。
最後に使ったのは、8月7日。
ビデオカメラだけなら、片付けの問題かもしれないけれど、充電用のコードも無い。
その時、一緒に使った一眼レフはあるのに.........
旦那が持ち出したに違いない。

今まで、行事に参加できなくても、撮ったビデオを見たいとも言わず、旅行に行ってもめんどくさがって撮ろうともしなかったくせに、この場に及んで持ち出すのに腹が立つ。
子ども達の為に残しておきたいから、生では見ないで、ビデオを撮ったのに、生で見たほうがいいから、心に残るから、撮る必要が無いと言っていた旦那が、取りかけのビデオテープまで持っていってしまっている。

子ども達の為に買ったビデオを、私が撮ったビデオテープを旦那は何のために持ち出したのか?持ち出したら困るくらいわかっているだろう。
結局は、自分のことしか考えていないのだ。
私や子どもが困ることなんてどうでもいいのだ。

「ビデオカメラ返してください。」何度メールをしても返事が来なかったのに、ここまで打ったところで返事が来た。
「明日いるの?」
やっぱり、持ち出している。
何時間も掛けて、私はビデオカメラを探していた。
もしかしたら私の収め方が悪かったかもしれないと思いつつ........
子どもを寝かしつけることも出来ず、イライラしながらメールの返事を待っていた。
待っている間、探す以外に、何も手が付かなくなってしまった。

旦那と別居するまで、私は毎日、こんな思いでイライラしていた。
帰ってこない旦那を待ちながら、自分勝手にしか動かない旦那の姿を見ながら。
穏やかに暮らしていると忘れてしまっていた。
私は、毎日、こんな思いをしながら暮らしていたのだ。
こんなにも心を休めることなく暮らしていたのだ。

別居をして、物音がしたり、車が駐車場に止まっているのを見て、旦那の存在を意識するたびに、恐いと思った感情は、こういうことだったのだ。
毎日、イライラしながら、落ち着かない生活を思い出し、怯えていたのだ。
そんな生活するのは嫌だと、拒否反応が生まれていたのだ。

別居していく中で、私は、すでに忘れかけていたのだ。
あの休まることの無かった生活を。そして心は忘れずにしっかりと覚えていたのだ。
記憶が薄れ、やり直しても大丈夫かもしれないと思う気持ちを、恐いという感情で、心は必死に止めていたのだ。
恐いという感情がなくなるまでは、旦那とやり直せないと思っていた。

「いる。何故持ち出すの?信じられない。」「泥棒!何故勝手に持ち出すの?」
怒りをぶつけてしまった。
「締め出される前に使ったの。なんで泥棒なんですか?あなたのものなんですか?今晩中にポストに入れときます」

最後に使ったのが8月7日。私が、実家に帰ったのが10日。
確か、デジカメの充電をした時には、ビデオカメラはあったはずだ。
私と子どもが実家に行っているのをいいことに、自分の為にビデオカメラを使ったと言うのか?
子ども達のためには使わないのに、いったい何のために、必要だったのだろう。

旦那と別居した後、運動会も、他の行事もあったというのに、必要だと言うことに気が付かないのか?
そうだろう。旦那は準備などしたこと無かったのだから........
また少し、旦那から気持ちが遠のいてしまった。

旦那への想い

2005-11-12 09:02:30 | 旦那への気持ち
私の旦那への愛する想いは、心の中に無いような気がする。
いつから、それは消えてしまったんだろう。
最初の亀裂が起こったとき、私は失望した。
だけど、その後に抱かれ、満たされたような気持ちになった。
旦那がしたことが頭からは消えないものの許してしまったのだ。

そして、私は、また流産をした。
産んでやれなかった子どもを、どうしてもこの手で抱いてやりたいと思った。
最初の流産の時、まだ3歳だった次女が
「私のせいで、赤ちゃん死んだの?」そうたずねた。
安静にしていたほうがいいと言われていたけれど、抱っこをせがむ次女に抱っこをしていた。
そのせいだと次女は、心を痛めてしまったのだ。
「違うよ。弱い赤ちゃんだったのよ。だから神様のところへ戻ったのよ」
私は、伝えた。
2度目の妊娠は、子どもには伝えないまま、終わってしまった。

その後、次々と仕事が決まった。
2箇所、派遣会社に登録し、2箇所からすぐに仕事が来た。
1箇所からは、毎日の仕事と木金の病院での仕事、もう1箇所からは、中学校へのパソコン授業の補助の仕事だった。
ボランティアを続けたいと思い、木金の仕事と、中学校での仕事を選んだ。
そして趣味で作っていたものを置いていた雑貨屋から、水曜日の店番を頼まれた。

中学校で、久しぶりに教壇に立った。あがり症で、人前に立つと喋れなくなっていた私だったが、公務員を辞める前に、人前で話す仕事とをさせられていたせいか、あがることも無かった。
知識の無いソフトも取り扱ったが、授業前、授業後の勉強で、何とか教えることも出来た。
自分が作ったものを友達に見せると、注文がたくさん来るようになった。

そして、また妊娠した。(最初の決意参照)
つわりで苦しんでも助けてくれる人はいなかった。
近くに妹が住んでいたが、妹の生活を考えると頼めなかった。
そんな時、頼るのは旦那しかいなかった。
でも助けてはくれなかった。

別れたい。本当にそう思った。
旦那を愛するべき理由が見つからなくなった。
問題行動をされ、私は、旦那が私の愛すべき男になるよう要求していた。
だが、それさえも拒絶されてしまった気がした。
でも別れられなかった。母親や妹からの私の我儘だという言葉に、動けなくなってしまった。
そして、私も一人ではいられなかったのかもしれない。

長男の誕生でも、私のことを守ってくれない旦那のことをを拒絶しながら、愛されることを求めていた。
愛されてると感じたかった。愛すべき理由を探していた。
でも、長女の入学準備があっても旦那は協力することはなかった。
食中毒になっても、助けてくれなかった。(単身赴任=別居参照)
私は、その頃から、旦那の為に動くことはしなくなった。
食事の支度も、わざわざ旦那のためだけにはしなかった。
朝早く、家を出て単身赴任先へ帰る時も、私は、朝起きて見送ることは無くなった。
愛してはくれない旦那に対して、自分から拒絶してしまったのかもしれない。
単身赴任=家庭内別居の始まりだった。

幸いにも、出産後も、友達からの依頼があり、それをきっかけに知り合った友達の縁で、出版社からの仕事も貰える様になった。
出産後の生活費の心配をしていたが、そのおかげで心配は取り越し苦労で終わった。
長男が、6ヶ月になった時、木金の病院の仕事がもう一度やってきた。
そして、講師としての仕事の依頼もやってきた。

必要とされることが嬉しかった。こんな私なのに必要にしてくれる人がいることが嬉しかった。
仕事は、次々とやってきた。
女性週刊誌にも取り上げられ、地元のテレビにも出演した。
様々な雑誌の仕事もきたし、デパートの展示や催事にも声が掛かるようになった。
たくさんのメールや、催事でコメントをいただいた。

少しずつ、必要とされていることで自信が生まれた。
それと同時に、いつ落ちてしまうんだろうという不安も生まれた。
不安を打ち消すために必死だった。
求められなくなる前に、自分から雑誌の仕事を断り始めた。
別居をきっかけに、私はまた、この仕事を引き受けることになったが....

結婚が決まって、私は、自分の為に時間を費やすことはやめた。
習い事もすべて止め、友達の誘いも断り、家で過ごした。
だが、仕事のための勉強を理由に、習い事を始めた。
展示会の仕事や買い付けで県外にも出かけた。
仕事のためとはいいながら、家族と離れて過ごす事が増えていった。
とはいうものの、それはすべて、旦那と子どもの都合に合わせてスケジュールを組んでいたのだが........

人々に認められていく中で、旦那は私のことを認めようとはしなかった。
今考えれば、旦那は自分とおばあちゃんのこと以外認めようとしなかった。
自分から決して、誰かの悪口を言う人ではなかった。
そういう面で、私は、旦那のことを尊敬していた。
だが、私が他の人を褒めた時、必ず、その人をけなした。
けなす言葉が見つからないと
「その人と結婚すればよかったじゃないか」とめちゃくちゃなことを言った。
今思えば、子どもがやきもちを焼くのと変わらないのではないかと思う。
自分のほうが優れているよって必死に訴えたかったのではないか?
私が旦那に認められたいと思うとともに、旦那も私に認められたい気持ちだったのではないか?

旦那は、共感するということが無かった。
私が、悩みを相談しても、嫌なことがあってそれを話しても、「お前が悪いからそういう目に合うのだ」と言った。
子育ての大変さを訴えれば、「お前は子どもが嫌いだからそんなことを言うんだ」
非難をすることはあっても、決して歩み寄る姿勢など見せることは無かった。
テレビの感動シーンで、涙を流す私を笑った。
「作り物なのに、よく泣けるね。」
それがドキュメンタリーであっても、「やらせだ」と言った。
テレビのお笑い番組で馬鹿にし合う芸人を見て喜んだ。

私の仕事に対しても理解することは無かった。
仕事が忙しいと言えば、
「そこまでして欲しいとは言っていない。何故、自分の出来る範囲内でしないのか?」と言い、
「たまには友達と夜出かけたい」と言えば、
「昼間に、時間はたっぷりあるだろう」と言った。
ことあるごとに
「わしが食わしてやっている」ことを強調し、
私の収入を認めることは無かった。

世界中で、一番えらいのはいつも旦那だった。
そして、自分の心の内を話すことも無かった。
私は、仕事や保育園の役員をしているうちに、悩みを話す友達も、共感してくれる友達も得た。
旦那が認めてくれなくても、私を認めてくれるたくさんの人に出会った。
旦那を認めてくれる人はいたのだろうか?
そんな旦那のことを私も認めようとはしなかった。
旦那を唯一受け止めてくれていたのは、おばあちゃんだったのではないか?
仕事をする上で認めてもらえる、そんな意味で仕事にしがみついたのではないか?

そして旦那の暴力を受けた頃、私は、旦那のことはどうでも良くなっていた。
旦那に何かを求めることに対して、半分あきらめていた。
ただ、子ども達のお父さんであることはどうしても忘れて欲しくなかった。
あの頃、旦那は刑事に戻りたい一心だったのだと思う。
刑事という仕事に魅力があるのではなく、刑事にさせてもらう=評価してもらうことと理解していたのだろう。
その職に就けることを、自分の評価だと思っていたのではないか?
その苛立ちは、私に向かった。

旦那から、暴力を受けたのは初めてではなかった。結婚してからそんなに立つまもなく、それは繰り広げられた。
言葉での攻撃もすごかった。時にそれは、私を自殺する気持ちへと追い込んだ。
私の心はボロボロだった。傷つけられ、泣き続け、わめき続けた。
そこで優しい手が差し伸べられ、元の生活へ戻ったのではないか。
でも、この時は違った。
婦人相談センターの女性が言っていたように、窓の外へ助けを求め、110番をした。

それでも、私がもう一度やり直そうと思ったのは、父の言葉だった。
「自分の曲がったところが許せない性格が、ねこを苦しめたのかもしれない。ごめんね」
私は、そんな父の言葉が嬉しかった。
その言葉が、私の父への好きになれなかった気持ちを、溶かしていった。
私は、父のために、もう一度やり直してみたいと思った。

忘れ物の携帯で、事実を知ったとき、許せなくなった。
私は、泣くことも無く、淡々と旦那と話をした。旦那は、頭を下げた。
私には、もう旦那に対する愛情は持ち合わせていなかったと思う。
「やきもち焼いてる?」とにやっと笑って、抱きしめようとする旦那の手を交わした。
「ばかじゃない?」私は言った。
だけど、あんなに止めようとしなかったタバコさえも辞めるというので、もう一度だけ信じてみようと思った。

だけど、変わらない旦那の姿を見たとき(別居の始まり参照)
一緒に暮らす価値も無い。そう思ってしまった。
私の為に旦那がいる必要性を、私の心の中で見失った。
もはや、旦那の存在は、子どもの父親だけになってしまったのかもしれない。

それでも、メールに心を揺らした。
それは、旦那に対する愛情ではなく、私の恋愛依存のせいではないだろうか?
旦那に対する想いはもはや無いと思う。
もしかしたら旦那を愛した過去の自分を守るために、旦那を必要としているのではないかと思う。
旦那のすべてを否定することは、旦那を選んでしまった過去の私を否定することに繋がるのだから。

もしやり直すとすれば、愛することから始めることになるだろう。
恋愛することから始めることになるだろう。
私は、子どもの父親と言うだけで、旦那を愛し始めることが出来るのだろうか?
私は、過ちを繰り返さない。
旦那を大人とではなく、子どもとして扱うことで、これまでよりも上手く暮らすことは出来るだろう。
長男と接するように、接していけば旦那を怒らしてしまうことは無いだろう。
旦那の止まってしまった心の成長が、育っていくことを祈りつつ、私は子どもをもう一人授かったつもりで旦那と暮らせばいいのだろう。
そこから幸せが生まれてくるのだろうか?

リフレッシュ

2005-11-11 21:49:36 | 日々つれづれ
今日は、朝から美容院に出かけました。
雨のせいか、いつもなら順番待ちのお客さんもおられず、時間を掛けてカット&パーマ&カラーリング。
生まれて初めて、「○○(女優さん)みたいな髪型にして!!」ってお願いしました。
よく考えたら、今まで、イメージを伝えたり、お任せでお願いしていました。
憧れの女優さんみたいに素敵な生きかたが出来たらいいなと思っています。

いつも紅茶をお願いするのですが、今日はコーヒー。
違うものを頼むことで、なんとなくしていたことを意識して変えることが出来るかなって思いました。

そのお店は、ママ友達夫婦がやっておられて、いつもパパが担当です。
我が家と同じで、三人の子供がいるのですが、毎朝パパが保育園に子どもを連れて行き、先にお店へ。
その後、ママはお店に来られます。
夫婦二人三脚で、お店も育児もされていて、とってもほほえましい。
子ども達はみな、お父さんを尊敬していています。

他のお客様もおられないこともあって、3人で話をしながら過ごしました。
特別にマッサージもしてもらい、ちょっと得した気分です。
いつもならガチガチで飛び上がるほど痛い肩が、今日は気持ちいいことに気が付きました。
そういえば、別居してから、しょっちゅう起こっていた偏頭痛も、腹痛も起こったことがありません。

仕事に専念する時間は減ってしまったけれど、仕事に支障が出たことは無かったし、別居する前よりも、自分のために使っている時間が多いかもしれないことに気が付きました。

4時間以上も掛けて、セットしてもらい、その足で友人宅へ行きました。
少し話をして、家に帰って撮影の仕事をするつもりだったのですが、あいにくの雨。
撮影は出来そうもないので、子ども達の帰宅時間までのんびりおしゃべりをしてきました。

家に帰ってからも、仕事はせずにのんびり。
頼んでおいたアロマオイルが届き、のどが少し痛かったので、ユーカリとレモンオイルを使って、アロマランプをつけました。
以前は、来客の時だけにランプをつけていたのですが、最近は、カウンセリング中につけるようにしたのをきっかけに、しょっちゅう使っています。

考えてみれば、ここ数年、そんな余裕も無かったです。
ベランダの花の面倒を見ることも出来なくなり、少しずつ枯らしてしまいました。
でも、最近またゼラニウムやラベンダー、デュランタの花が咲いています。
自分の為に、お菓子も作るようになったし、誰に見せるわけでもないのに可愛い下着や、アンティークジュエリーも購入しました。
それに読書する時間も持てるようになったし........
本当に、仕事と家族のことに追われて、今までネット依存に走る以外は、自分のために時間を使っていなかったなとつくづく感じます。

6~8年前が一番辛かったと思っていたけれど、あの頃は、自分のことをする余裕もあった気がします。
花もいっぱい咲いていたし、読書もしていたし.......
ここ数年は、つらいこともわからず麻痺していたのかもしれません。
だから、昨年、マイコプラズマ肺炎にかかった時も、主症状の咳も全くでず、発熱もほとんど無く、身体自体も麻痺して、病気に対する反応も無いままだったのかもしれないなとふと思いました。

たまにはこういう日も必要ですね。仕上げにお風呂もアロマソルトを作ってのんびり。
心も身体も軽くなってリフレッシュできました。

私の愛した男性

2005-11-10 22:16:07 | 私のこと
昨日のブログで、
>身近な男性に、優しくて守ってくれるような態度を取ってもらったことはなかったように思います。
と書いたが、そんな守ってくれそうな男性は、周りにたくさんいた。
自分自身が、結婚して初めて気が付いたのだが、同期の男性は、みんな守ってくれるタイプだった。
不倫していた頃に、紹介され付き合った男性も、守ってくれるタイプだった。
なのに、何故、好きにならなかったのか?
優しくて私ばかりを中心に考える男性に、魅力を感じず、逆に”重い”とまで思ってしまっていたのだ。

そのことを考えながら、旦那に対して、今まで好きになった男性とは違うタイプだと感じたのは何故なんだろうと思ってしまった。
今までとは違って、この人なら、私を幸せにしてくれると思ってしまったのは何故なんだろう。
考えているうちに、気が付いてしまった。

出逢いに書いているのだが
>最初の旦那の印象は、さるみたいで落ち着きのない人だなぁ・・・というのが本音。
>何に対しても物事を深く考えず、楽観的で、一緒にいると楽しかったのです。
>子供みたいにただ純粋に私を好きだと言ってくれる旦那に対して、こんな人と結婚するほうが幸せになれるんだって思ったのでした。

今まで、好きになった人、惹かれた人は、「子どもの男」で旦那は、「子ども」だったのではないか?
今までの人は、大人という仮面をちゃんとかぶっていたけれど、旦那はそれすらも出来ていない子供だったのではないか?
そして子どもであるゆえに、周りに愛されていた。愛されるべき子どもでいたのだ。
だから、職場に遅刻しようが、字を間違えようが、非難されることもなく、職場でも「仕方ない奴」として可愛がられてきたのだった。

尽くす私に、素直に喜びはしゃいでいた。
おばあちゃんに育てられ、元々、優しいところを持ち合わせていた旦那に愛されていると私は誤解したのだ。
それは、私に甘え、優しくしてくれる4歳の長男がしているのと同じではないか?
だから、子どもが産まれ、少しずつ子ども中心になっていく私に対して、甘えたいのに甘えさせてくれない苛立ちをぶつけていた。
そして、仕事に疲れたときには、それが一層ひどくなった。
学校で、嫌なことがあってイライラと八つ当たりしてくる子どもと同じだ。
その中で、少しは旦那も成長した。
10歳の長女と本気で喧嘩するくらいまでには........

そして私も「男ってどうしようもないわね~」と笑って相手に出来るような女ではなかった。
抱きしめられたい、甘えたいという想いを持ちながら、そんな旦那を受け止める余裕も無かった。

卒論小説から
>ユタカの眼は蝶を追う少年のように鋭く、そしてキラキラと輝く。女は二つの乳房を持っている限り、男よりも弱い立場なのかもしれない。

私が好きになるのはまさしく、キラキラと少年のような瞳を持った男だった。
私は、そんな風にして、無意識のうちに「子どもの男」を選んでいたのだ。
そして、私は男性よりも弱い立場にあると、自覚していたのだ。
過去の文章の中で、ちゃんと私は自分のことを描いていた。
描きながらも、気が付いていなかったのだ。

私が、変われたとして、この先、10歳の旦那が、大人になるまで我慢することが出来るのか??
私は、それに付き合うだけの忍耐力が持てるのか?
私のやり場のない、抱きしめられたい、甘えたいという気持ちは、なくしてしまうことが出来るのか?

祭り女

2005-11-10 14:08:19 | 私のこと
このブログに、心の内側を書いていると、自分ってこんなに暗かったのか?と疑問が浮かぶ。
どちらかというと、私は祭り好きで、賑やかなほうだと思う。
そもそも、文化祭なども、人一倍張り切っていたし、短大時代は、大学祭の為に、クラブに入ったくらいだったから。
今でも、保育園のバザーに精を出し、子ども会でも、祭りがあると張り切ってしまう。

同業者の友達に言わせれば、男前の性格らしいし、
専門学校時代の年上の女性には、ジャンヌ・ダルクのようだと言われた。
飲み会では、飲まなくても、飲んでいる人にテンションを合わせることも出来るし、
正義感が強くて、困っている人を助けずにはいられないそんな性格だと思う。

中学校の時には、教室でシンナーを綿に吸わせて口に入れている男子の口を無理やりこじ開け、辞めさせたり、教育実習では、9月だというのに真っ白なノートを持っている男の子に字を書かせ、教科書を読ませた。
結構、熱い女だと思う。

それなのに、自分のことになると、なんで動けなくなってしまうのだろう。
そこに誰か一人でも、人が係われば熱くなれるのに、自分のためだと何も出来ない。
自分が困っていることを困っているとなかなか言い出せない。
でも、これからは、自分にも熱くなれる女になりたいなと思う。

私の良い所を書き出してみようと思う。
長所でもあり、短所でもあるところは、長所として捕らえて、ポジティブに生きていこう。

私の長所

・明朗活発
・感情が豊かである
・好奇心が旺盛である。
・正義感が強い。
・真面目である。
・一生懸命になれる。
・誰とでも話が出来る。
・人の良い所を見つけるのが得意
・知識が豊富である。
・勉強熱心である。
・意志が固い。

もちろん、欠点もいっぱいあるけど、書いてしまうとそっちのほうが多くなってしまいそうだから、止めておこう。
祭り女の私って、結構好きなので、それにふさわしい女になってみたいな。

自分自身の問題点

2005-11-10 00:09:35 | 自分考察
カウンセリングでの課題を書き出してみました。

問題点

・失敗をした時に、完璧に出来ない自分を責める。
・完璧にこなせないことを誰かのせいにしようとする。
・臨機応変に行動することが出来ずにいる。
・予定が変わってしまうと混乱する。
・人の問題を自分の問題として捉えている。
・困っている人をほっておけない。
・自分の考え方から外れる人を許せない。
☆達成感を持たなかった。(すぐに次の目標を立ててしまう)
☆何でも完璧にこなすべきだと思っていた。
☆自分自身の評価を他人にゆだねていた。
☆自分の考え方に相手を当てはめようとしていた。
☆他人に頼ることをしようとしなかった。
☆心から楽しむことが少なかった。
☆自分のことなのに、自分で決めることが出来なかった。
 ☆については、ここ数年で変わったと思う。

今後、どういう行動をしたいか?
・出来ないことを認める。
・自分がすることは自分で責任を取る(人のせいにしない)
・自分の価値は自分で決める。(人の言葉に惑わされない)
・嬉しいことは素直に喜び、自分で自分のことを認める。
・相手の行動を自分のせいにしない。
・人の行動を予想しない。
・辛い時には、素直に助けを求める。
・楽しむときには、心を解放する。
・困っている人は、やっぱり助ける。

ヒートアップしないように言われていましたが、課題を置いたままにすることは、性格上やっぱり出来ませんでした。
その場でやってしまわないと忘れてしまいそうだし、ここに書いておくことで忘れずに行動できるかなと思います。
カウンセリングまで、加筆訂正しながら考えていこうと思っています。

カウンセリング4

2005-11-09 23:37:08 | カウンセリング
今日は、本の話と6年~8年前の辛かった時期を中心に話していきました。
一緒に仕事をしていたときには、協力的だった旦那が、私が仕事を辞めたとたん協力的ではなくなった話をしました。
辞めてから、家庭に入ったわけではなく、専門学校へ通っていたので、私の生活自体はあまり変わっていなかったかもしれません。

「女性として子どもを育てながら、専門学校に行って何かを得ようという姿をむしろ応援したいと思うし協力していきたい気持ちになる」という先生の言葉に涙が止まらなくなってしまいました。
”彼”に出会うまでは、父親も含め、身近な男性に、優しくて守ってくれるような態度を取ってもらったことはなかったように思います。
ここへ来て、二人の男性に、優しい言葉をかけられてしまうと、このまま旦那とやり直してもいいのだろうかという気持ちになってしまいました。

私の男性に甘えたいという欲求は、依存的なのかもしれないけれど、もし甘えさせてくれる人がいるのなら、旦那とやり直す努力をするよりも、新たに始めるほうが楽になれるのかもしれないななんて感じてしまいました。


私は、これまでのことを親に埋め合わせてもらいたいとは思わないし、これからは今までのように、親がすべて正しいんだとは思わずに、冷静に判断していけると思う。
ただ、旦那に対しては、過去のことを反省し、自己を知り、これからのことを改めようという姿勢が見えない限り、やっていけない。
なかなか変われないかもしれないけれど、変わろうとする努力を見せて欲しいと思うと話しました。

そこで先生の厳しい一言。
「相手が変わってくれると思っていること自体が依存なんですよ」
思わず声を上げて、笑ってしまいました。
「相手に対して、無力だ」(相手は変えられない)というところかに気が付くことから始まることを言われました。

自分自身はどういうことが問題だったのか?
それに対して、具体的に今後どう行動をしたいか?
を考えることを提案されました。
相手が言ったことに対して動いてしまうのは、行動ではなく反応だと言われ、
自らの思考に基づいたものが行動だといわれました。
自分がしたいと思う行動していくことが、回復につながるという事を話されました。

それと、ブログを読んでいて
「ヒートアップしているようなので、ペースダウンして、一つのことを少しずつ長く続けていくことが大切だよ」ってアドバイスをいただきました。
すぐ、のめりこんでしまうのが私のいいところであり、悪いところなんですよね....

唯一、このブログのことを話している友達がいるのですが、やっぱり心配してくれて電話をくれました。
そんな友達がいること、素直に嬉しいです。ありがとう。そしてこれからもよろしくね。

何故か、二人との電話を終え、心が軽くなっていました。
いつもは、ほとんど食べない(お菓子の食べすぎもあるけれど)昼ご飯を急に食べたくなって、買い物がてらスーパーへ出掛けました。
自分から予定もなく出かけるのは久しぶりです。
思い切って、美容院の予約も入れることが出来ました。

私の勘違い

2005-11-09 00:13:28 | 私のこと
本を読むまでは、私が育った家庭は、一般的な家庭だと思っていた。
だが、違っていたらしい。
きちんと「親離れ」-「子離れ」が出来ていなかったらしい。
結婚するまで、私の部屋は、母が勝手に立ち入り、掃除をしていたし、おまけに机の上の整理までしていた。
私のゴミ箱の手紙を読み、男性関係を問いただされたことも一度や二度ではない。
「あんたのためを思って」の言葉に、私は反省するばかりだった。
不倫をしていたときも母にバレ、父に延々と話をされることになった。

私は、家の外で起こった自分の都合の悪いことと男性関係を除いては、すべてを報告していた。
それは結婚するまで続いていた。
それが普通の親子だと思って疑わなかった。

母は、父に尽くし、子どもに尽くした。
たぶんそれは、母の言う”決め事”だったのであろう。
家の中は、埃一つ落ちていない状態だったし、料理も上手かった。
ただ、それは私の目から見ると、母が好きでやっているようには見えなかった。
そうしなければならない思いでやっていたことに気が付いていた。

結婚後、近くに住んでいた両親に、私は頼りきっていた。
つわりの時は、毎晩訪れ、子供が産まれて働き始めると、母に保育園への子どもの迎えを頼んだ。
なんでも話し合える我が家の関係を見て、
「お前の家は変だ。」そう旦那が言ったことがある。
「あんたの方が変よ。」私はそう言い返した。

子どもが産まれ、少しずつ私は、母に対する息苦しさを感じることになる。
長女が産まれても働き、保育園に預けるようになった時、母は可哀想だといった。
私は、可哀相なことをしているんだと自分を責めながら、長女を保育園に預けた。
長女を預ける際に涙がこぼれ、職場で思い出しては泣いていた。
当時、私と一緒に勤めていた女性が、後になって、あの時はどうなることかと思ったよと話してくれた。

長女は、保育園に慣れることなく、週末になれば熱を出すということを繰り返した。
10ヶ月から歩けているのに、保育園で歩くことがなく、先生に足を見てもらったほうがいいのではないかと言われる。
ある日、メソメソ別れを惜しんでいる私を見て、保育園の先生が一喝した。
「お母さんがそんなにメソメソしているから、子どもが保育園に慣れないんです!!」
でも、私には、その意味がわからなかった。
保育園に行き始めて8ヵ月後に次女が産まれ、慣れることなく、保育園を辞めるのであった。

次女が産まれ、長女がいたずらを始める時期、遊びながら食べている長女を見て母が怒った。
「なんで遊んでいるのに怒らないの?」
「怒ってもわからないじゃない」私は答えた。
「こういう時は叩いて教えるの」母は言った。
2歳になる長女に、私は手を挙げたことはなかったし、どちらかというとのんびりと子育てしていた。

ただ、早期教育に走ったことがある。
寝てるだけの3ヶ月の長女に、絵カードなるものを見せていた。
そのせいか5ヶ月になると、絵本をじっと聞くようになり、「きんぎょがにげた」五味太郎作 を見せると、金魚を探して、指を刺した。
これには、感動し、いろんな人にお披露目をしていたある日、長女は本を破った。
そして、それからは指を刺すことを止めた。
私も、強要するのを止めた。

母が傍にいると、子どもにどう接していいのかわからなくなった。
そして悪い行動をしているのを見ると、怒らなければならないような気がしてきた。
母に、ちゃんと親をしている自分を見せなくてはならない思いに駆られた。
母が家に来るとわかっているときには、徹底的に掃除をした。
母だけではなく、来訪者が来る時にはそうだった。
綺麗にして、出迎えなければならないのであった。
だが、掃除が出来るのは、休みの日のみだったので、完璧とはいえなかった。
それを見つけ、母は掃除をして帰るのが当たり前になっていた。

小さい時の嫌な思い出の一つと重なる。
母の実家でのことだった。おばあちゃんが梨を剥いてくれ、私は両手に持った。
その時だった。
母の手が、私をぶち、そして灸をすえられた。私は、何故だか判らなかった。
同じ事を家でもしていたし、灸をすえられたこともない。
痛かったこと、黒い大きなかさぶたが出来たことを覚えている。
その時のことを後に、私は、母がおばあちゃんにいいところを見せるための行為だと解釈していた。

自分では気が付かぬまま、母と同じ事をしていた。
だが、それに気が付かなかった。

次女が産まれ、職場復帰した後、両親は故郷に帰っていった。
定年退職後、父は嘱託として働いていたが、妹も結婚をし、家庭を持ったので、
今度は、親の面倒を見るために、契約を延長しないまま仕事を辞めた。

今思えば、私が体調を崩し始めたのはその頃かもしれない。
頼るものを失い、一人ですべてをこなしていた。
たまに来る母が帰るたびに、私は、体調を崩していた。
熱を出したり、お腹が痛くなったりと、病気ではない症状に違和感を覚えた。
1998年6月に出版された「アダルトチルドレン・マザー」橘由子を読み、母と私の関係のようだと思った。

そして、いつものように掃除をする母に、
「落ち着かないから、止めて。お母さんがいいお母さん過ぎるから、私が同じように出来ないことが辛くなるんよ。お母さんが来るたびに体調を崩すよ。」
私は言った。
母は怒った。
「あんたがなかなか出来ないだろうから、やってあげてるのに、そんな事言われてまでしないよ。もう金輪際しないから」とさっさと家に帰ってしまった。
その後、父と妹に言いすぎだと怒られ、母は寝込んだ。
私は言いすぎたと謝罪し、この本の存在を忘れた。

この頃から少しずつ、両親との距離が出来始めたのではないかと、今思う。
親に頼ることを悪いと思い、両親の生活を考えるようになった。
私は、遠い地に行ってしまった両親に、自分達の都合で、呼び出すことを嫌い、出来るだけ自分達で乗り越えようと考えるようになった。
旦那も、私が仕事をしているうちは協力的だった。
夜の飲み会も、先に予定が入っているほうが優先だった。
家事も積極的にこなしてくれていた。
でも親に対して気を使い始めた私を、そこでもまた、旦那はおかしいと言った。
「親なんだから、頼ればいいじゃん」
「じゃあ、あんたの親に頼んでよ。うちの親のほうが遠くなれば、あんたの親が協力してくれるはずって言ってたじゃない。」
私は言った。
だが、旦那の期待は見事に崩れる。
「仕事だ、ゴルフだ、組合だ」と子守を引き受けてくれなかった。
ただ一度引き受けてくれた時、4時間フライパンを火にかけっぱなしという事態が起こり、頼ることも出来なくなってしまった。

仕事を辞め、旦那が単身赴任となり、長男が産まれた。
長男を産んだ直後から、私は自分で仕事を始め、自信が少しずつ持てるようになった。
今まで受けなかった評価をしてもらえるようになった。
母にしか相談できなかったことも、相談できる友達も出来た。
自分のことが大嫌いでたまらなかったのに、少しずつ自分のいいところを認めることが出来るようになった。

10代にすべき親離れを、私は30近くになってやってしまったのではないかという気がする。
母はあんなに可哀想だといっていた保育園のことを、今は好きになっている。
のびのびと育つわが子を見て、親がストレスを貯めて子育てするよりよっぽどいいと。
もちろん私も、別れに泣く長男を見て、一緒に泣くようなことはしなかった。
「お母さんが行ってしまったら、笑って遊ぶくせに」と笑顔で手を振っていた。
あの先生の言っていたことが正しかったことを思い出し、同じように心配しているお母さんに、「大丈夫よ。お母さんが笑顔だと安心して保育園で遊べるよ」って言っている。
そして、母は相変わらず、うちの家に来て掃除をしている。
私は、普通に掃除をして母を向かえ、掃除をする母にありがとうと感謝をするけれど、体調を崩すことはない。

失笑

2005-11-08 17:43:51 | 本箱
先週、カウンセリングの時に薦めていただいた「男の勘違い」斎藤学著を、昨日、一気に読み上げた。
帯についている「自分が何をしていたって女は待ってくれるはず」の言葉に、笑わずにいられなかった。

本の中で、著者はそんな男のことを「子どもの男」と呼んでいる。
そして”まず自分こそ保護されるべきだと彼らは思っているので、女は、自分を何よりも大切に思ってくれているはずと考え、女性を母親にしてしまうから女のほうは堪らない。
「やめてよ、私、あなたのママじゃないのよ」などと言っているうちに鉄拳の嵐を浴びることになる。”

まさしくこれは、我が家の図式だった。
三人の子供がいながら、自分の気の向くままに生活する旦那に、
「私は、あんたのお母さんじゃないよ。そんなに好き勝手したいなら実家で暮らせば!」と言い放ち、その反撃を浴びていた。
そして、それが何度も繰り返される。
たまに旦那が反省の色を示す、うなだれる姿を見て、何故だか「かわいい」と思ってしまい、許してしまうのだった。
”この「甘えさせ体質」が結局は女性の幸せを危険にさらすのである”
こう書かれていて、もう笑うしかなかった。

母と娘の関係として
”「不幸な母」タイプの母を持った娘”について書かれてあり”母親自身は自分は不幸だと心から思っているわけではないが、誰かに依存したくて、愚痴の垂れ流しをしてしまう。”
私自身、この娘役に当たりそうだと思った。そのせいで、父のことを心のどこかで嫌っていた。そして、母が時折見せる「父への尊敬の念」にこの間まで混乱していた。
ある時、母が言ったことがある。
「自分で何でもできるのに、誰かがいると頼ってしまうから愚痴が出る」と。
まさしくその通りだ。
悪いことをすることは、母を悲しませる。何かにつけ、そんな気持ちでいた。
そして、なお悪いことに、私もまた、この「不幸な母」を演じつつあった。

そして”家父長制的な男性優位な家風が保たれている中で育った長男や一人息子などの場合に母が果たす「家父長ドラマ」の演出者としての役割”について書いてあり、”男児の地位は同胞たちから区別され、食事の質から進学する学校の選択にまで及ぶ”
旦那の父親は、旦那に「家長になるのだから、しっかりすべきだ」と言うような事を言っていた。
そして食卓において、旦那は平然と、おばあちゃんや妹の皿から、欲しいものを奪い、母親はそれを容認していた。
わざわざ養子までとって守ってきた「100年も続く仏壇のある家」とされ、お腹の中の子が男であると知った時、私は長男を産んでしまう前に離婚してしまおうと考えたのだった。

”結婚した男達の多くは妻たちが必要としているものを勘違いしていると思う。妻たちは夫に望まれ関心をもたれていると感じられるという極めてささやかな幸せを確認したいだけなのではないか”
まさしくその通りだった。私は、旦那にそれを求め、もがき続けていた。伝わらぬ思いに苛立ちを感じながら.......

今日、仕事に行く道すがら、著者のいう「子どもの男」に職場でも振り回されていたことに気が付き唖然とした。
そして私は職場でも「かあちゃん」を演じていた。
病気で休んでいる人には、過剰な労力を使って、いかに休みが有効的に使えるか、いかに給料が出るようにするかを考え、道を外れそうになるものに叱咤をした。
そして、過剰なまでに、道から外れることを嫌い、理論や常識で何事も片付けようとした私のことを「子どもの男」は気にくわず、権力によって除外したのだった。
職場でも、家庭でもこの「子どもの男」に振り回され、悩んでいる私に気が付き、
自転車で走りながら、声を出して笑ってしまった。
もう、笑うしかなかった。どうやったら「子どもの男」から逃げることができるのだろうか?

楽しい思い出

2005-11-07 11:08:27 | 私のこと
昨日、アニメの「ワンピース」を見ていた長男が、お父さんに逢いたいといい始めた。
春に、私は遊園地へのバスツアーを企画して、友達家族と出掛けた。
たまたま休みだった旦那も参加した。
上の子二人は友達と回り、私と旦那と長男で遊園地内を回ることになった。
途中、上の子を見るために、旦那と長男は二人で「ワンピース」の催しを見たようだった。
その事を思い出したらしい。
その時の楽しかったことから始まり、昨年の3歳の誕生日に、お父さんといったデカレンジャーショーの話をした。

今朝、「お父さんに電話してもいい?話があるんよ」と自分で電話を掛けた。
一通り、楽しかった思い出を話し、また一緒に行こうと話していた。
聞いていると辛くなってその場を離れてしまった。
勤務中だったのに、ちゃんと付き合って話をしていた旦那。
二人の逢いたいという気持ちを引き裂いてしまっているのかと思うと悲しくなってしまった。


過去を思い出したとき、辛かったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと、そんなことばかりが思い出されてしまう。
そして楽しかった思い出の中に、両親の姿が見つからない。
私はどこにいても、何をしていても楽しいと感じられなかったのか?
私は、「笑顔がいい」とよく言われた。
その笑顔は、どこから生まれていたのだろうか?
私はいつも悲観的だったのか?
私の楽しかった思い出を消してしまったのは何なのだろう。

楽しいと感じた長男の運動会。今まで、何が私を縛り付けていたのだろう。
心を解放させることもなく、どこかで、そんな気持ちにブレーキを掛けていたのか?


子供達が、お父さんのことを楽しそうに語るとき、私はとても許せない気持ちでいた。
何故、一生懸命やっている私より、旦那ことばかり言うのか?
テレビばかり見ていて、家族の存在を無視したように生活している父親に対して、腹を立ててる様子もないのに、何故私ばかり、子供達に要求されるのか?
私はそんな思いでいっぱいだった。
旦那は子供達から愛される価値のない人間だと思った。

でも、今は長男の中に、楽しいお父さんとの思い出があることに安堵感がある。
気が付かなかったら、子供達の心の中のお父さんの姿を醜いものに変えてしまうところだったと思う。
旦那を悪く言う度に、子供達の心を傷つけてきたことに私は気が付いた。
どんな父親であっても、子供からは愛される存在だったのだ。

私の会話から、旦那の不貞を知ってしまった次女が
「浮気している人を殺したい」と言った。
浮気をしているお父さんではなく、浮気相手が憎いと言った。
お父さんのことを愛してるんだなそう思った。
知ってしまった事実を否定することしか出来ないけれど、子供たちの心の中のお父さんを守っていかなければいけないそう思った。

次女は友達に、私と旦那のことについて話していて、友達からも自分の親を聞いたらしい。
怒ってあちこちを殴り、家中穴が開いていて、朝も、お父さんが投げたガムテープが足に当たって痛くて遅刻した友達の話や、
離婚しているお母さんがいつも一緒にいる男の人と再婚することになっていて、その人のことは嫌いではないけれど、お父さんと会えなくなるかもしれないと危惧している友達の話を聞かせてくれた。
友達の話に、少し安心した様子の次女を見ていると、このままじゃあいけないなと思った。

今、母親である私が、自分自身を見つめていかないと、もう一人の私を育ててしまうことになると思った。
色んな本を読みながら、自分の子育てについてもあれこれと反省してしまう。
だけど、今までは変わらない。今からをどうしていくかが大切だなんだ。
まだ間に合うのだろうか?
子供達の心の中の楽しい思い出は、色褪せることなく、きちんと残せるのだろうか?
逃げないでまっすぐに立ち向かう強さが欲しい。

別居してからの変化

2005-11-07 01:25:44 | 自分考察
別居し始めて変わった私の生活

①夜更かしするようになった。
それまでは、旦那に占領されていたリビングで思う存分夜更かしできるようになった。
最初のうちは、旦那が帰ってきて開けたまま帰っていく玄関の鍵を閉めるために起きていたけれど、現在は溜まったDVDを見たり、仕事をしたり、本を読んだりする時間に使っている。

②アルコールを飲むようになった。
別居するまで5年間くらい、アルコールを口にしたことがなかった。別居後の友達とのビアガーデンで久しぶりに飲んで、初めてアルコールを飲むことが楽しいことを知った。
ビールは身体になじめず、甘いチュウハイやカクテルは毎日飲めないけれど、
それまでは、冷蔵庫の中で賞味期限が過ぎていたが、常備品となった。
最近は、熱いウーロン茶にあんず酒を入れて夜のお供に......

③読書するようになった。
元々、本が好きだったのに、退職してから読書の時間を作れなくなってしまい、本を読むことが少なくなったが、今は、あの頃と同じくらい読んでいる。

④仕事の量が減った。
落ち着いて仕事が出来なくなった。一応デザインすることが仕事なのだが、心に余裕がないとなかなかアイデアが浮かんでこない。
それとあまりやる気が起こらなくて、仕事を計画的にこなすことが出来なくなった。

⑤ネット依存が強くなった。
それまでも、結構依存していて、パソコンの前に座る時間が多かったが、最近は何かに繋がっていたいという気持ちが強くて、わけもなく、あちこちのサイトを見る事が多くなった。

⑥買い物が少なくなった。
仕事の関係上、買い物が多かったのだが、仕事関連のサイトを見るよりも、違うサイトを見る事が多く、あまり買い物をしなくなった。
仕事上、欲しいものをすべて購入していたのに、最近は、必要なものを必要なだけ買うようになった。

⑦電話をしなくなった。
実家や友達に電話が掛けられなくなった。掛かってきたら普通に話せるのに、何かにつけ行動を起こすことが面倒になった。

⑧お菓子の量が増えた。
4月からダイエットをしていて、甘いものを控えていたのに、気持ち悪くなるくらいまで食べ続けてしまう。
ダイエットするまでもそうだったと思うが......
最近は、お菓子を作ってまで食べてしまう。

⑨あまり怒らなくなった。
子どものことを冷静に見る事が出来るようになった。
子どもからお父さんを奪ってしまったことに対して、とても引け目を感じている。その分、コミニュケーションが取れるように考えている。
子供達を意識的に抱きしめるよう、好きだよ、大切だよっていうメッセージを伝えるようにしている。

⑩台所がきれいになった。
今まで、することが出来なかった台所の掃除が出来るようになった。
まだまだ仕事関係の荷物が片付けられなくて、大変なことになっているのだが.....

今、思いつくのはこれくらいかな。
夜更かしするとホルモンのバランスが崩れてしまうことはわかっているのだけれど、研ぎ澄まされた時間なので、とても大切に思う。
一人きりでいると、寂しくて辛くて、何もかも忘れて逃げ出したい気持ちになる。でも、だんだんそういう感覚にも慣れてきたような気がする。
最近は、泣くことが少なくなった。
(アルコールのせいもあるのかな??)

癒すということ

2005-11-06 23:28:11 | 私のこと
仕事を辞めた後、私は、1年制の専門学校へ通った。
そこに惹かれた一つの理由として、園芸療法を取り入れていることだった。
1ヶ月仕事を休んでいる間、私は、ベランダに花を植えることで癒されていた。
そのこともあって、もっとその摂理について知りたいと思ったのが、きっかけだった。
でも、本当は、自分自身が癒されたかったのかもしれないと思った。
結局、そこでは癒されることはなかった。
どちらかというと学校運営自体が、あいまいで、形ばかりにとらわれた中身のないものであったから。

ただ、そこでの出会いは、私に力をくれたように思う。
園芸を作業に取り入れている、精神障害者の授産施設を見つけ、私は実習地に選んだ。
老人養護施設ではなく、そういった場所を選んだのも、私が自分自身にある心の闇を知っていたからなのかもしれない。
実習が終わってからも、私は、ボランティアとして毎週通い続けた。
職員としての採用の話までいただいた。
家から遠いこともあって、その話は断ってしまったが、自転車に乗り、バスに乗り換え、結構大変だったのにも係わらず、私は、その日の為に、他の仕事の調整もした。

そこで、私は癒された。
職場や専門学校で色んな権力に疲れていた私を、そこにいる方々は包んでくれた。
そんなものには無縁で、温かい心の人たちばかりだった。
精神障害者ということで、社会からも親からもレッテルを張られてしまって苦しんでいる人たちだったけれど
そこにいると、そんな権力を振り回している人たちのほうが病んでいて異常者なのではないかと思えた。

親からも見離され、帰る家もなく、生活保護を貰うことで生活している人もいた。
どこに障害があるのかわからなかったのに、アルコール依存症の後遺症で、ふと家に帰れなくなってしまう人。
障害の為に、入籍も子どもも持たないままに暮らしている人。
他人に迷惑をかけまいと、必死だった。
一生懸命に働いても、わずかな賃金しか得ることの出来ないけれど、それぞれが自分に出来ることに前向きだった。

階級社会の中で、悲鳴をあげていただろう心は、少しずつ癒されていった。
人の温もりっていいなと思わせる体験だった。
縁というのはとても不思議なことで、何も知らずにそこの施設を見つけたのに、そこの理事長は、短大の時の心理学(児童心理学・発達心理学)を担当していた教授だった。
短大時代、意気投合してしまい、ずっと年賀状の交換もしていたが、卒業以来逢った事もなかった。
そこでまた、再会してしまうことは本当に驚きだった。

学校での出会いも合った。
同じクラスメイトとして知り合った年下の女性が、私と似ていた。
話を聞くと同じような家庭で育っていた。
そして同じような男性遍歴があった。
彼女の人生を知ることは私にとって大きな衝撃だった。
破談・買い物依存・自己破産・風俗での仕事...........
話を聞けば聞くほど、私もその道を歩んでいたのではないかと思うほどだった。
自分との共通点を多く見つけながら、それがどうしてなのかわからなかった。

楽に生きられたら......

2005-11-06 01:24:06 | 日々つれづれ
先日、同じような悩みを持った方と直接話をさせていただきました。
斎藤学先生の講演会場で、行われたオープンカウンセリングの場で壇上に上がられ話をされた女性を呼び止めてしまいました。
その女性の気持ちが痛いほどわかってしまって、どうしても話がしたいと思ってしまいました。

なかなか自分の悩みやしてきたことを客観的に受け止めることが難しいのですが、その女性の話を聞いていると、とても真剣で、とても真面目で、なんでこんな人がここまで苦しまないといけないんだろうと思ってしまいました。
ここで知り合った方のブログを拝見していても、本当に同じ思いに駆られてしまいます。
その方の苦しみや悲しみが、手に取るように伝わってきて、一生懸命に悩んで、苦しんで、相手に対しての愛情も持ち合わせていながら、何故、一番伝わって欲しい相手に伝わらないんだろうと悲しくなります。

両方の話を聞かないままで、判断するのは、間違っているのかもしれないけれど、ここまで追い詰めてしまう相手のことを、腹立だしく思えて仕方がありません。
当の本人よりも、客観的に見ている私のほうが、相手に対して、怒りの感情を持ってしまうことはおかしいのでしょうか?
本当に、一生懸命生きて、痛いほど真面目に自分自身を見つめられていて、もっと楽になっていいよ。
このままで充分だよ。これ以上苦しむ必要なんてないよって。抱きしめてあげたいそんな気持ちになってしまいます。

私のこと、人から見たらどうなんだろう。自分のことは客観的に見る事が出来なくてよくわかりません。
ここでコメントをいただきながら、自分のことが少し見えてくる状態です。
私も、楽に生きられていないのかな?
自分で、自分を苦しめているのかな?