marca-miaさんからいただいたコメントによって、私の心が、引き出されたので、ここに転記させていただいて考えてみたいと思います。
「ねこさんは、ご主人が変わってくれないから愛せないのですか...?愛しているから変わってほしいのですか...?愛していないけど、変わってくれたら一緒に居られるという気持ちなのですか...?」
私は、旦那のことを愛しているのか、わかりません。
私が愛だと思っていたものは違っていたような気がします。
何かに「別居した人がどうしているだろうと心配するのは愛で、やり直したいという気持ちは愛ではない」と書かれていました。
もしそうだとすると、私の中には、旦那に対する愛が、存在しているのかもしれません。
marca-miaさんのコメント
「お子さんたちのために、無理してご主人を愛する必要はないですよ。愛は能動的なものだと私は思います。愛したいから、愛するのではないでしょうか。または、愛さずにいられないから、愛するのでは...?
ねこさんの文章の中で「愛するべき理由」...と、「愛」に「...するべき」をつけている気持ちが私には分からなくて...詰問に感じたらごめんなさい。夫婦間の亀裂をはっきりと感じられるまでの間、ねこさんはご主人を「愛するべき」と思って愛していたのでしょうか...?何だかそんなのって、悲しいです。」
そうですね。指摘されるまで気が付かなかったのですが、私は旦那のことを愛するべきなんだと思っていました。
だんだん薄れていく旦那への愛情を不安に思いながら、愛するべきなんだと縛り付けていたのかもしれません。
そして私の思うように、愛せないことを旦那のせいにしたかったのかもしれません。
短大の時に、親離れできない子どもの感情についてこう聞いたことがあります。
「キャラクターの鉛筆が欲しかったのに、普通の鉛筆を買ってきたお母さんに対して、『キャラクター鉛筆が欲しい!!』とキャラクター鉛筆が買ってもらえるまで親から離れられなくなる。最初から、欲しかった鉛筆を貰うことが出来た子供は、安心して親から離れていられる」
これと同じだったのかも知れません。
私の思う通りの行動をしてくれない旦那に、それをしてもらおうとしがみつく。
もし要求が通れば、安心するが、また違う要求をしてしまう。
要求が通らないと、なんとかそれをしてもらおうと思う。
そして、自分の思う通りの行動、最初のうちは、約束を守るとか時間を守るとかそういったことだったと思いますが、それを守ってくれない旦那のことを、私を愛していないからだと思い、時間や約束を守ることに対してしがみつく。
それは、私と旦那の価値観が違うために、そうなってしまうということを考えることも無く、過ごしてきたのだと思います。
marca-miaさんのコメント
「私がねこさんのブログを読んでいて、ちょっと不安になってしまうのは、ねこさんがご主人とのやりとりの中で感じた不快感や、傷つけられたという気持ちを「愛している・愛していない」という気持ちと混同してしまわないかということです。」
まったく、その通りです。そんな風に思っていました。
旦那の行動を想像して、愛されていないからなんだと思っていました。
それでも、愛されているという形が欲しくて、何度も要求を変えていたように思います。
旦那は、はりねずみのように鋭いとげを持っているかのようで、私がいくら気持ちをぶつけても、とげよりも先には、近づくことを許してはくれませんでした。
私は、そのとげで傷だらけになりながらも、何度も何度も、ぶつかっていき、仕舞いには、その傷の痛みさえも気付かなくなってしまっていたように思います。
旦那が、私の思う通りに動いてくれないことを、私が悪いんだというように捉え、自分を責め、旦那を責める。
その繰り返しでした。
そして、旦那は次々に、私を傷つけるような行動を取っていく。
でも、何とか受け止めてもらおうという思いから、好きな鉛筆を買ってもらえていない子どものように旦那にしがみつく。
昨日のようなことがあって、今までの私だったら、満たされない思いが、また違った要求に繋がっていたと思います。
例えば、ポストに入れたビデオカメラを玄関先まで持ってきて欲しいとか......イライラと旦那に対する欲求不満が渦を巻いていたと思います。
昨日は、ビデオカメラを下まで取りにいき、間に合ったことで安堵感を得ることが出来ました。
冷たい空気に触れたのが良かったのか、旦那が上まで持ってきてくれなかったのは、旦那が思いやりに欠けるからだと思えたのです。
持ってきてくれないこと=愛されていないと考えなかったのは、一歩前進できているのかなと、自分自身を認めてやろうと思います。
まだまだ、胸の苦しさは継続中です。
この胸の苦しさがあると気分がふさいでしまいます。
何が、どんな形で、詰まっているのでしょう?
今までは、そんなことにも気が付かなかったのですね。
これまでの私の愛だと思っていたものは、単なる旦那への執着心でした。
今更ながら、愛というものについて考えないといけませんね。
marca-miaさん、私に色んなことを気付かせてくださってありがとうございます。
いろんな方とコメントでやり取りする中で、すっと心に引っかかっていた何かがするすると解けてしまうことが度々あります。
その度に、見守ってくれる誰かがいることの暖かさや心強さを感じずにはいられません。
ネットというバーチャル的な社会かもしれませんが、私はとても救われています。
本当にありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
「ねこさんは、ご主人が変わってくれないから愛せないのですか...?愛しているから変わってほしいのですか...?愛していないけど、変わってくれたら一緒に居られるという気持ちなのですか...?」
私は、旦那のことを愛しているのか、わかりません。
私が愛だと思っていたものは違っていたような気がします。
何かに「別居した人がどうしているだろうと心配するのは愛で、やり直したいという気持ちは愛ではない」と書かれていました。
もしそうだとすると、私の中には、旦那に対する愛が、存在しているのかもしれません。
marca-miaさんのコメント
「お子さんたちのために、無理してご主人を愛する必要はないですよ。愛は能動的なものだと私は思います。愛したいから、愛するのではないでしょうか。または、愛さずにいられないから、愛するのでは...?
ねこさんの文章の中で「愛するべき理由」...と、「愛」に「...するべき」をつけている気持ちが私には分からなくて...詰問に感じたらごめんなさい。夫婦間の亀裂をはっきりと感じられるまでの間、ねこさんはご主人を「愛するべき」と思って愛していたのでしょうか...?何だかそんなのって、悲しいです。」
そうですね。指摘されるまで気が付かなかったのですが、私は旦那のことを愛するべきなんだと思っていました。
だんだん薄れていく旦那への愛情を不安に思いながら、愛するべきなんだと縛り付けていたのかもしれません。
そして私の思うように、愛せないことを旦那のせいにしたかったのかもしれません。
短大の時に、親離れできない子どもの感情についてこう聞いたことがあります。
「キャラクターの鉛筆が欲しかったのに、普通の鉛筆を買ってきたお母さんに対して、『キャラクター鉛筆が欲しい!!』とキャラクター鉛筆が買ってもらえるまで親から離れられなくなる。最初から、欲しかった鉛筆を貰うことが出来た子供は、安心して親から離れていられる」
これと同じだったのかも知れません。
私の思う通りの行動をしてくれない旦那に、それをしてもらおうとしがみつく。
もし要求が通れば、安心するが、また違う要求をしてしまう。
要求が通らないと、なんとかそれをしてもらおうと思う。
そして、自分の思う通りの行動、最初のうちは、約束を守るとか時間を守るとかそういったことだったと思いますが、それを守ってくれない旦那のことを、私を愛していないからだと思い、時間や約束を守ることに対してしがみつく。
それは、私と旦那の価値観が違うために、そうなってしまうということを考えることも無く、過ごしてきたのだと思います。
marca-miaさんのコメント
「私がねこさんのブログを読んでいて、ちょっと不安になってしまうのは、ねこさんがご主人とのやりとりの中で感じた不快感や、傷つけられたという気持ちを「愛している・愛していない」という気持ちと混同してしまわないかということです。」
まったく、その通りです。そんな風に思っていました。
旦那の行動を想像して、愛されていないからなんだと思っていました。
それでも、愛されているという形が欲しくて、何度も要求を変えていたように思います。
旦那は、はりねずみのように鋭いとげを持っているかのようで、私がいくら気持ちをぶつけても、とげよりも先には、近づくことを許してはくれませんでした。
私は、そのとげで傷だらけになりながらも、何度も何度も、ぶつかっていき、仕舞いには、その傷の痛みさえも気付かなくなってしまっていたように思います。
旦那が、私の思う通りに動いてくれないことを、私が悪いんだというように捉え、自分を責め、旦那を責める。
その繰り返しでした。
そして、旦那は次々に、私を傷つけるような行動を取っていく。
でも、何とか受け止めてもらおうという思いから、好きな鉛筆を買ってもらえていない子どものように旦那にしがみつく。
昨日のようなことがあって、今までの私だったら、満たされない思いが、また違った要求に繋がっていたと思います。
例えば、ポストに入れたビデオカメラを玄関先まで持ってきて欲しいとか......イライラと旦那に対する欲求不満が渦を巻いていたと思います。
昨日は、ビデオカメラを下まで取りにいき、間に合ったことで安堵感を得ることが出来ました。
冷たい空気に触れたのが良かったのか、旦那が上まで持ってきてくれなかったのは、旦那が思いやりに欠けるからだと思えたのです。
持ってきてくれないこと=愛されていないと考えなかったのは、一歩前進できているのかなと、自分自身を認めてやろうと思います。
まだまだ、胸の苦しさは継続中です。
この胸の苦しさがあると気分がふさいでしまいます。
何が、どんな形で、詰まっているのでしょう?
今までは、そんなことにも気が付かなかったのですね。
これまでの私の愛だと思っていたものは、単なる旦那への執着心でした。
今更ながら、愛というものについて考えないといけませんね。
marca-miaさん、私に色んなことを気付かせてくださってありがとうございます。
いろんな方とコメントでやり取りする中で、すっと心に引っかかっていた何かがするすると解けてしまうことが度々あります。
その度に、見守ってくれる誰かがいることの暖かさや心強さを感じずにはいられません。
ネットというバーチャル的な社会かもしれませんが、私はとても救われています。
本当にありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。