少しずつ、自分のことが見えてきて、これまでのことを振り返った時、
私の取ってきた行動一つ一つに意味があることがわかった。
発してきた言葉一つ一つに理由があることがわかった。
それと同時に、旦那がしてきたこと一つ一つにも意味があることがわかった。
だから、それに対してはもう、責められない。
私も辛かったし、旦那も辛かったと思う。
私だけが辛かったわけでも、旦那だけが辛かったわけでも、
私だけが悲しかったわけでも、旦那だけが悲しかったわけでもない。
私は旦那ではなく、旦那は私ではない。
だから、お互いの怒りの理由はわからない。
でも、その一つ一つに理由があるとすれば、その理由を明白にしていかなければ、
私はもう、旦那とは一緒にやっていけないだろう。
お互いのやり場のない怒りが、傍にいるというだけで相手にぶつけ合ってきた。
それを癒すこともなく、ただ相手を責めることで、その怒りを静めようとしていた。
怒りの理由が、もっと別のところにあったことにも気が付かないで....
私は、甘えたかった。認められたかった。それを旦那に求めていた。
頑張れば頑張るほど、苦しくなってしまう私を、抱きしめていて欲しかった。
自分で自分を認めることが出来れば、私はそれで報われたのかもしれないのに、
私は、それを旦那に求めていた。
何かをしてもらえることで愛されていると感じたかった。
旦那は、それを受け止められる相手ではなかった。
私がそれを求めれば求めるほど、疎ましげに逃げていった。
今でも、誰かに抱きしめられたいという感情は変わらない。
抱きしめられたら、私は幸せになれるのか?
抱きしめられた腕を、緩められる時、また私は不安に陥ってしまうのだろう。
抱きしめられているその瞬間だけ、私の心は満たされているのではないだろうか?
アルコール依存症の人が、飲んでいる時だけ幸せになれるのと何の代わりもない。
その時だけの幸せの為に、求めてしまうことは間違っているのかもしれない。
振り返れば、25年近くもこんなに長く誰かに抱かれなかったことはないかもしれない。
一番苦しいときに、一番辛い時に、誰にも頼らずにいられるということに自信を持つべきなのか?
誰かに依存したい気持ちを、今、抑えることが出来ていること、私は変わり始めることが出来ているのだろうか?
切ない寂しいやりきれない気持ちは、どこから生まれてくるのだろう。
他の人は、そんな気持ちをどう処理しているのだろう。
私の取ってきた行動一つ一つに意味があることがわかった。
発してきた言葉一つ一つに理由があることがわかった。
それと同時に、旦那がしてきたこと一つ一つにも意味があることがわかった。
だから、それに対してはもう、責められない。
私も辛かったし、旦那も辛かったと思う。
私だけが辛かったわけでも、旦那だけが辛かったわけでも、
私だけが悲しかったわけでも、旦那だけが悲しかったわけでもない。
私は旦那ではなく、旦那は私ではない。
だから、お互いの怒りの理由はわからない。
でも、その一つ一つに理由があるとすれば、その理由を明白にしていかなければ、
私はもう、旦那とは一緒にやっていけないだろう。
お互いのやり場のない怒りが、傍にいるというだけで相手にぶつけ合ってきた。
それを癒すこともなく、ただ相手を責めることで、その怒りを静めようとしていた。
怒りの理由が、もっと別のところにあったことにも気が付かないで....
私は、甘えたかった。認められたかった。それを旦那に求めていた。
頑張れば頑張るほど、苦しくなってしまう私を、抱きしめていて欲しかった。
自分で自分を認めることが出来れば、私はそれで報われたのかもしれないのに、
私は、それを旦那に求めていた。
何かをしてもらえることで愛されていると感じたかった。
旦那は、それを受け止められる相手ではなかった。
私がそれを求めれば求めるほど、疎ましげに逃げていった。
今でも、誰かに抱きしめられたいという感情は変わらない。
抱きしめられたら、私は幸せになれるのか?
抱きしめられた腕を、緩められる時、また私は不安に陥ってしまうのだろう。
抱きしめられているその瞬間だけ、私の心は満たされているのではないだろうか?
アルコール依存症の人が、飲んでいる時だけ幸せになれるのと何の代わりもない。
その時だけの幸せの為に、求めてしまうことは間違っているのかもしれない。
振り返れば、25年近くもこんなに長く誰かに抱かれなかったことはないかもしれない。
一番苦しいときに、一番辛い時に、誰にも頼らずにいられるということに自信を持つべきなのか?
誰かに依存したい気持ちを、今、抑えることが出来ていること、私は変わり始めることが出来ているのだろうか?
切ない寂しいやりきれない気持ちは、どこから生まれてくるのだろう。
他の人は、そんな気持ちをどう処理しているのだろう。