私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

失笑

2005-11-08 17:43:51 | 本箱
先週、カウンセリングの時に薦めていただいた「男の勘違い」斎藤学著を、昨日、一気に読み上げた。
帯についている「自分が何をしていたって女は待ってくれるはず」の言葉に、笑わずにいられなかった。

本の中で、著者はそんな男のことを「子どもの男」と呼んでいる。
そして”まず自分こそ保護されるべきだと彼らは思っているので、女は、自分を何よりも大切に思ってくれているはずと考え、女性を母親にしてしまうから女のほうは堪らない。
「やめてよ、私、あなたのママじゃないのよ」などと言っているうちに鉄拳の嵐を浴びることになる。”

まさしくこれは、我が家の図式だった。
三人の子供がいながら、自分の気の向くままに生活する旦那に、
「私は、あんたのお母さんじゃないよ。そんなに好き勝手したいなら実家で暮らせば!」と言い放ち、その反撃を浴びていた。
そして、それが何度も繰り返される。
たまに旦那が反省の色を示す、うなだれる姿を見て、何故だか「かわいい」と思ってしまい、許してしまうのだった。
”この「甘えさせ体質」が結局は女性の幸せを危険にさらすのである”
こう書かれていて、もう笑うしかなかった。

母と娘の関係として
”「不幸な母」タイプの母を持った娘”について書かれてあり”母親自身は自分は不幸だと心から思っているわけではないが、誰かに依存したくて、愚痴の垂れ流しをしてしまう。”
私自身、この娘役に当たりそうだと思った。そのせいで、父のことを心のどこかで嫌っていた。そして、母が時折見せる「父への尊敬の念」にこの間まで混乱していた。
ある時、母が言ったことがある。
「自分で何でもできるのに、誰かがいると頼ってしまうから愚痴が出る」と。
まさしくその通りだ。
悪いことをすることは、母を悲しませる。何かにつけ、そんな気持ちでいた。
そして、なお悪いことに、私もまた、この「不幸な母」を演じつつあった。

そして”家父長制的な男性優位な家風が保たれている中で育った長男や一人息子などの場合に母が果たす「家父長ドラマ」の演出者としての役割”について書いてあり、”男児の地位は同胞たちから区別され、食事の質から進学する学校の選択にまで及ぶ”
旦那の父親は、旦那に「家長になるのだから、しっかりすべきだ」と言うような事を言っていた。
そして食卓において、旦那は平然と、おばあちゃんや妹の皿から、欲しいものを奪い、母親はそれを容認していた。
わざわざ養子までとって守ってきた「100年も続く仏壇のある家」とされ、お腹の中の子が男であると知った時、私は長男を産んでしまう前に離婚してしまおうと考えたのだった。

”結婚した男達の多くは妻たちが必要としているものを勘違いしていると思う。妻たちは夫に望まれ関心をもたれていると感じられるという極めてささやかな幸せを確認したいだけなのではないか”
まさしくその通りだった。私は、旦那にそれを求め、もがき続けていた。伝わらぬ思いに苛立ちを感じながら.......

今日、仕事に行く道すがら、著者のいう「子どもの男」に職場でも振り回されていたことに気が付き唖然とした。
そして私は職場でも「かあちゃん」を演じていた。
病気で休んでいる人には、過剰な労力を使って、いかに休みが有効的に使えるか、いかに給料が出るようにするかを考え、道を外れそうになるものに叱咤をした。
そして、過剰なまでに、道から外れることを嫌い、理論や常識で何事も片付けようとした私のことを「子どもの男」は気にくわず、権力によって除外したのだった。
職場でも、家庭でもこの「子どもの男」に振り回され、悩んでいる私に気が付き、
自転車で走りながら、声を出して笑ってしまった。
もう、笑うしかなかった。どうやったら「子どもの男」から逃げることができるのだろうか?