私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

カウンセリング4

2005-11-09 23:37:08 | カウンセリング
今日は、本の話と6年~8年前の辛かった時期を中心に話していきました。
一緒に仕事をしていたときには、協力的だった旦那が、私が仕事を辞めたとたん協力的ではなくなった話をしました。
辞めてから、家庭に入ったわけではなく、専門学校へ通っていたので、私の生活自体はあまり変わっていなかったかもしれません。

「女性として子どもを育てながら、専門学校に行って何かを得ようという姿をむしろ応援したいと思うし協力していきたい気持ちになる」という先生の言葉に涙が止まらなくなってしまいました。
”彼”に出会うまでは、父親も含め、身近な男性に、優しくて守ってくれるような態度を取ってもらったことはなかったように思います。
ここへ来て、二人の男性に、優しい言葉をかけられてしまうと、このまま旦那とやり直してもいいのだろうかという気持ちになってしまいました。

私の男性に甘えたいという欲求は、依存的なのかもしれないけれど、もし甘えさせてくれる人がいるのなら、旦那とやり直す努力をするよりも、新たに始めるほうが楽になれるのかもしれないななんて感じてしまいました。


私は、これまでのことを親に埋め合わせてもらいたいとは思わないし、これからは今までのように、親がすべて正しいんだとは思わずに、冷静に判断していけると思う。
ただ、旦那に対しては、過去のことを反省し、自己を知り、これからのことを改めようという姿勢が見えない限り、やっていけない。
なかなか変われないかもしれないけれど、変わろうとする努力を見せて欲しいと思うと話しました。

そこで先生の厳しい一言。
「相手が変わってくれると思っていること自体が依存なんですよ」
思わず声を上げて、笑ってしまいました。
「相手に対して、無力だ」(相手は変えられない)というところかに気が付くことから始まることを言われました。

自分自身はどういうことが問題だったのか?
それに対して、具体的に今後どう行動をしたいか?
を考えることを提案されました。
相手が言ったことに対して動いてしまうのは、行動ではなく反応だと言われ、
自らの思考に基づいたものが行動だといわれました。
自分がしたいと思う行動していくことが、回復につながるという事を話されました。

それと、ブログを読んでいて
「ヒートアップしているようなので、ペースダウンして、一つのことを少しずつ長く続けていくことが大切だよ」ってアドバイスをいただきました。
すぐ、のめりこんでしまうのが私のいいところであり、悪いところなんですよね....

唯一、このブログのことを話している友達がいるのですが、やっぱり心配してくれて電話をくれました。
そんな友達がいること、素直に嬉しいです。ありがとう。そしてこれからもよろしくね。

何故か、二人との電話を終え、心が軽くなっていました。
いつもは、ほとんど食べない(お菓子の食べすぎもあるけれど)昼ご飯を急に食べたくなって、買い物がてらスーパーへ出掛けました。
自分から予定もなく出かけるのは久しぶりです。
思い切って、美容院の予約も入れることが出来ました。

私の勘違い

2005-11-09 00:13:28 | 私のこと
本を読むまでは、私が育った家庭は、一般的な家庭だと思っていた。
だが、違っていたらしい。
きちんと「親離れ」-「子離れ」が出来ていなかったらしい。
結婚するまで、私の部屋は、母が勝手に立ち入り、掃除をしていたし、おまけに机の上の整理までしていた。
私のゴミ箱の手紙を読み、男性関係を問いただされたことも一度や二度ではない。
「あんたのためを思って」の言葉に、私は反省するばかりだった。
不倫をしていたときも母にバレ、父に延々と話をされることになった。

私は、家の外で起こった自分の都合の悪いことと男性関係を除いては、すべてを報告していた。
それは結婚するまで続いていた。
それが普通の親子だと思って疑わなかった。

母は、父に尽くし、子どもに尽くした。
たぶんそれは、母の言う”決め事”だったのであろう。
家の中は、埃一つ落ちていない状態だったし、料理も上手かった。
ただ、それは私の目から見ると、母が好きでやっているようには見えなかった。
そうしなければならない思いでやっていたことに気が付いていた。

結婚後、近くに住んでいた両親に、私は頼りきっていた。
つわりの時は、毎晩訪れ、子供が産まれて働き始めると、母に保育園への子どもの迎えを頼んだ。
なんでも話し合える我が家の関係を見て、
「お前の家は変だ。」そう旦那が言ったことがある。
「あんたの方が変よ。」私はそう言い返した。

子どもが産まれ、少しずつ私は、母に対する息苦しさを感じることになる。
長女が産まれても働き、保育園に預けるようになった時、母は可哀想だといった。
私は、可哀相なことをしているんだと自分を責めながら、長女を保育園に預けた。
長女を預ける際に涙がこぼれ、職場で思い出しては泣いていた。
当時、私と一緒に勤めていた女性が、後になって、あの時はどうなることかと思ったよと話してくれた。

長女は、保育園に慣れることなく、週末になれば熱を出すということを繰り返した。
10ヶ月から歩けているのに、保育園で歩くことがなく、先生に足を見てもらったほうがいいのではないかと言われる。
ある日、メソメソ別れを惜しんでいる私を見て、保育園の先生が一喝した。
「お母さんがそんなにメソメソしているから、子どもが保育園に慣れないんです!!」
でも、私には、その意味がわからなかった。
保育園に行き始めて8ヵ月後に次女が産まれ、慣れることなく、保育園を辞めるのであった。

次女が産まれ、長女がいたずらを始める時期、遊びながら食べている長女を見て母が怒った。
「なんで遊んでいるのに怒らないの?」
「怒ってもわからないじゃない」私は答えた。
「こういう時は叩いて教えるの」母は言った。
2歳になる長女に、私は手を挙げたことはなかったし、どちらかというとのんびりと子育てしていた。

ただ、早期教育に走ったことがある。
寝てるだけの3ヶ月の長女に、絵カードなるものを見せていた。
そのせいか5ヶ月になると、絵本をじっと聞くようになり、「きんぎょがにげた」五味太郎作 を見せると、金魚を探して、指を刺した。
これには、感動し、いろんな人にお披露目をしていたある日、長女は本を破った。
そして、それからは指を刺すことを止めた。
私も、強要するのを止めた。

母が傍にいると、子どもにどう接していいのかわからなくなった。
そして悪い行動をしているのを見ると、怒らなければならないような気がしてきた。
母に、ちゃんと親をしている自分を見せなくてはならない思いに駆られた。
母が家に来るとわかっているときには、徹底的に掃除をした。
母だけではなく、来訪者が来る時にはそうだった。
綺麗にして、出迎えなければならないのであった。
だが、掃除が出来るのは、休みの日のみだったので、完璧とはいえなかった。
それを見つけ、母は掃除をして帰るのが当たり前になっていた。

小さい時の嫌な思い出の一つと重なる。
母の実家でのことだった。おばあちゃんが梨を剥いてくれ、私は両手に持った。
その時だった。
母の手が、私をぶち、そして灸をすえられた。私は、何故だか判らなかった。
同じ事を家でもしていたし、灸をすえられたこともない。
痛かったこと、黒い大きなかさぶたが出来たことを覚えている。
その時のことを後に、私は、母がおばあちゃんにいいところを見せるための行為だと解釈していた。

自分では気が付かぬまま、母と同じ事をしていた。
だが、それに気が付かなかった。

次女が産まれ、職場復帰した後、両親は故郷に帰っていった。
定年退職後、父は嘱託として働いていたが、妹も結婚をし、家庭を持ったので、
今度は、親の面倒を見るために、契約を延長しないまま仕事を辞めた。

今思えば、私が体調を崩し始めたのはその頃かもしれない。
頼るものを失い、一人ですべてをこなしていた。
たまに来る母が帰るたびに、私は、体調を崩していた。
熱を出したり、お腹が痛くなったりと、病気ではない症状に違和感を覚えた。
1998年6月に出版された「アダルトチルドレン・マザー」橘由子を読み、母と私の関係のようだと思った。

そして、いつものように掃除をする母に、
「落ち着かないから、止めて。お母さんがいいお母さん過ぎるから、私が同じように出来ないことが辛くなるんよ。お母さんが来るたびに体調を崩すよ。」
私は言った。
母は怒った。
「あんたがなかなか出来ないだろうから、やってあげてるのに、そんな事言われてまでしないよ。もう金輪際しないから」とさっさと家に帰ってしまった。
その後、父と妹に言いすぎだと怒られ、母は寝込んだ。
私は言いすぎたと謝罪し、この本の存在を忘れた。

この頃から少しずつ、両親との距離が出来始めたのではないかと、今思う。
親に頼ることを悪いと思い、両親の生活を考えるようになった。
私は、遠い地に行ってしまった両親に、自分達の都合で、呼び出すことを嫌い、出来るだけ自分達で乗り越えようと考えるようになった。
旦那も、私が仕事をしているうちは協力的だった。
夜の飲み会も、先に予定が入っているほうが優先だった。
家事も積極的にこなしてくれていた。
でも親に対して気を使い始めた私を、そこでもまた、旦那はおかしいと言った。
「親なんだから、頼ればいいじゃん」
「じゃあ、あんたの親に頼んでよ。うちの親のほうが遠くなれば、あんたの親が協力してくれるはずって言ってたじゃない。」
私は言った。
だが、旦那の期待は見事に崩れる。
「仕事だ、ゴルフだ、組合だ」と子守を引き受けてくれなかった。
ただ一度引き受けてくれた時、4時間フライパンを火にかけっぱなしという事態が起こり、頼ることも出来なくなってしまった。

仕事を辞め、旦那が単身赴任となり、長男が産まれた。
長男を産んだ直後から、私は自分で仕事を始め、自信が少しずつ持てるようになった。
今まで受けなかった評価をしてもらえるようになった。
母にしか相談できなかったことも、相談できる友達も出来た。
自分のことが大嫌いでたまらなかったのに、少しずつ自分のいいところを認めることが出来るようになった。

10代にすべき親離れを、私は30近くになってやってしまったのではないかという気がする。
母はあんなに可哀想だといっていた保育園のことを、今は好きになっている。
のびのびと育つわが子を見て、親がストレスを貯めて子育てするよりよっぽどいいと。
もちろん私も、別れに泣く長男を見て、一緒に泣くようなことはしなかった。
「お母さんが行ってしまったら、笑って遊ぶくせに」と笑顔で手を振っていた。
あの先生の言っていたことが正しかったことを思い出し、同じように心配しているお母さんに、「大丈夫よ。お母さんが笑顔だと安心して保育園で遊べるよ」って言っている。
そして、母は相変わらず、うちの家に来て掃除をしている。
私は、普通に掃除をして母を向かえ、掃除をする母にありがとうと感謝をするけれど、体調を崩すことはない。