私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

崖っぷち

2005-10-31 22:10:03 | 独り言
私は、ずっと崖っぷちに立っていた。
目の前には、広い野原が、花畑が広がっているというのに・・・・・
そして、ちょっとの攻撃でその崖から落ちそうになった。
落ちそうになったという、腹立ちで、反撃した。
相手からの攻撃がひどいと、崖から落ちた。
そして傷だらけになる。ボロボロになる。
ようやく崖を登る。でも、また崖っぷちに立ち尽くす・・・・・
そんなことを繰り返していたのではないだろうか。

もっと、危険ではないところへ移動すればいいのに、
動くことも出来ずに、うずくまっていたのではないか?

どうすれば、安全な場所へ移動できるのだろう?
少しのことでは、崖から落ちることの無いその場所へ・・・・

そうすれば、楽になれるのではないだろうか?
少なくとも今よりは、幸せになれるのではないだろうか?

私は、花畑の中にいたい。
季節ごとに香る花畑の中で、私は、笑顔でいたい。
一歩、そして一歩。
歩いていこう。私が幸せになれる場所へ。
誰の力でもなく、自分の力で。

カウンセリング効果?

2005-10-31 15:37:31 | 日々つれづれ
2回目のカウンセリングを受けた翌日の29日。
朝起きると、旦那からメールが入っていた。
「いろいろ考えました。ねこがわしと同じことすれば、やはり許せないと思います。もうダメなのかな」
今までは、メール一つで動揺していたのに、苦しくも悲しくもならなかった。

よく考えると、1回目終了後のメールでは、動揺して辛かったけれど、
「私が悪いのかもしれないと自分を責めてしまったけど、私だけが悪いのなら、そうはならない」
と考えることが出来た。
少しずつ、自分の考え方をカウンセラーの先生やここで共感してもらうことで、
気持ちが落ち着いていっているのかもしれないなと思った。

私は旦那へ返信した。
「たぶん、同じことがあると自分の心が壊れてしまいそうです。
別居してから、やり直すための本を3冊読みました。
たくさんの人のブログも読みました。今、カウンセリングを受けています。
今のままでは、私の主観と、あなたの主観が違いすぎると言われました。
このままでは、同じことを繰り返してしまうだろうと言われました。
変わろうという気持ちを具体的にし、36年・37年間の人生において築き上げてきた価値観の枠組を変えていかないと無理だろうとも。
これは私だけの問題ではないし、私だけが変わればいいものでもないと思う。
もし、あなたが変わる気があるのなら、同じようにカウンセリングを受けてみてください。」

返事は無い。でも、何も感じない私が居る。
返事が無くても、私は困らない。私は、私のためにカウンセリングを受けているのだから。
旦那も同じように受ければ、やり直せるかもしれないし、そうでもないかもしれない。
でも、そのことは私にとっては、そんなに重要でないように思えてきた。
とても、不思議な感覚。今までの自分とは明らかに違う。
動揺しないという事が、これほどまでに平穏な気持ちにあるということを知らなかった。
いつも旦那の言葉に心を乱されていたのに・・・・・・


8年前~6年前

2005-10-31 14:30:34 | 私のこと
私は、旦那に話したことがある。
「どうしても、父親としてのあなたを愛することができない」と。
それが何故なのか判らない。だけど、自分の父親のことも愛することが出来ない。
それは、母が、祖父を愛せなかったことに繋がっているのかもしれないということを。

私が、自分の気持ちを旦那に話すことは、二つの意味を持っていた。
一つは、自分の苦しさを伝えたかった。
そして、もう一つは、旦那にも心を開いて欲しかった。
私が、心の中を話すことで、旦那も話してくれることを期待した。
その時の旦那の反応は、よく覚えていない。
ただ、心を開いてはくれなかった。

時に私は、とても旦那に対して攻撃的で、時に私は、悲観的で、
そんな私の扱いに戸惑っていたのは確かだった。
旦那は、いつも攻撃的で、それが続くと、私は逃げ場を失い、悲観的になる。
反撃することも出来なくなり、自分を責め続け、死にたいと思ってしまうくらいに・・・・
そうなると、さすがに心配になるのか、仕事を休み、付き合ってくれたこともある。
そんな私に、カウンセリングを受けることを進めていた。


あの頃、私の身体もボロボロだった。
子育ての忙しさに加え、1997年8月、職場への復帰。
3日に1日は、旦那もおらず、一人ですべてをこなしていかなければいけなかった。
今思えば、あんな生活よく出来ていたと思う。
でも、そんなことにすら気が付いていなかった。

それは、体調に現れていった。
夕方4時を過ぎると、ものすごい倦怠感が襲ってくる。
熱を測れば、37℃ちょっと。毎日微熱が続く。
階段を上れば、激しい息切れ。
生理は、いつが始まりで、いつが終わりなのか判らないほど、出血が続き、
量も、すごく多かった。

それでも、私は、仕事に付けば、笑顔で過ごし、仕事をこなしていた。
人前では、どんなに辛くても笑っている私がいた。
しかも、とてつもなく、ハイテンションで。
同僚にも恵まれ、楽しい職場であった。
体調不良は、運動不足のせいかもしれないと思った。
1歳7ヶ月違いで、次女を産み、長い間、運動することもなく、筋力が落ちていたのは事実だった。
そして、職場で流行っていた、マラソンを始めた。
職場までの4kmを走って行ったり、帰ったり。

婦人科にも、通院を始めた。
排卵がなかった。そこで誘発剤を使っての治療が始まった。
以前にも、書いたのだが、そこで不妊治療と間違われることになる。
しかも二度も・・・・・・
そんなこともあって、通院を止めた。

1998年4月、上司の転勤。慕っていた同僚の転勤。
仕事を支えてくれ、同じくらいの子供を持ち、相談相手にもなってくれていた同僚に対して、私は淡い恋心を抱いていた。
同僚の後任は無いまま、新採用の指導まで、任されることになる。

家庭では、その間、引越し。
引越しの荷物の準備は、すべて私がした。旦那は、荷物の運搬作業。
保育園へのお迎えの前後に、運ばれた荷物を片付けた。

そして、8月に、職場内での配置換え。
前任者は男性で、朝7時に職場に着き仕事を始め、夕方7時頃、職場を出ていた。
私は、8時に過ぎに出勤。夕方6時に職場を出る。
同じように、仕事をこなすために、事務の合理化をはかり、パソコンで処理できるものは有意義にそれを使いこなした。
それとは別に、他の部署との連携を大切にするための仕事をした。

新しい上司は、とてもワンマンだった。
ことあるごとに
「わしの言うことが聞けないのか?」
「わしに逆らう気か?わしは○○(階級名)だぞ!!」
誰もが、逆らうことが出来なかった。
それが、間違っているとわかっていることでも。

上司は、女性としての仕事をしない私を嫌っていた。
その職場で、初めて女性の配属となり、以前の上司は、同じように仕事をしてもらうのだから、
お茶汲みは、私がいなかった時と同様、若い者が交代でしなさいと言う考えで、新しい上司が来ても、それは守られていた。
しかも、自分より遅く来て、早く帰る。
そのくせ、頼みもしない、しなくてもいい仕事まで余分にしている。
私が行くはずだった研修などを、すべて無しにした。

それを、直属の係長から聞き、私の頭は真っ白になった。
否定されること、それに立ち向かう余裕が無いまでに、私はいっぱいいっぱいだったのだった。
それから、ずっと涙が止まらなかった。
翌朝も起きる事が出来なかった。
旦那に、休暇の電話をしてもらい、昼過ぎ、心療内科へと向かったのだった。

そこでの診断は鬱だった。
その場で「自律神経失調症」で1ヶ月の休暇の診断書を書いてもらった。
仕事には行きたくなかった。
休暇は、残っていたし、休んで体調を直そうと思った。
その1ヶ月、私は好きなことをして過ごした。
ベランダの植物の世話に明け暮れた。それだけで、心が癒された。

1ヵ月後、職場に復帰した。それでも、私は、底抜けに明るかった。
異動前の評価表を課員が書かされた。
そこで、上司に呼ばれた。
次の異動先の希望の書き方がおかしいと言われたのだった。
そこで見たもの。
「この職場には、不適切な人材である」に丸をつけられていた。

その数ヵ月後の8月の終わり。
私は、以前から、その職場に転勤になったら通えないことを回りに話していた職場への人事異動が降りたのだった。
異動通知を見た私の気持ちは、即決。
仕事を辞めることだった。
朝7時前に、家を出て行き、ペーパードライバーで車を運転し仕事に通うことは、私にはもはや出来ないと思った。

カウンセリング2

2005-10-28 13:41:40 | カウンセリング
今日は、2回目のカウンセリングでした。
最初に、1回目を受けた後からの心の動きを聞かれました。
それとブログを読んでの感想を聞かせていただきました。
「とても文章が優しい」と言って頂き、少し恥ずかしかったです。
その時に、優しいという言葉の語源について話してくださいました。

優しいというのは、身も心も痩せてしまうくらいに辛い思いに耐えるという意味があるそうです。
ここで、出会った方々の言葉が、とても優しいのも、暖かいのも、もしかしたら、そんな思いをなさっているからなのかもしれないなと思いました。

家族機能の不全というものを、日本はあまり考えずに来ていて、今、世代間連鎖を断ち切るときに来ているということを話されました。
それをすることによって、子供たちが解放されると言われました。

最初に、このブログを立ち上げた時は、旦那と私の問題であったのに、考えていくうちに、家族のあり方や、自分の生い立ちまで考えるようになってしまっています。
そして、自分と同じ思いを、子供たちにさせたくないし、そういう意味でもカウンセリングを受けたいと思ったことを伝えると、
「もしかしたら、神様が与えた役割かもしれませんね」と言われました。

私は、無宗教ですが、神様の存在を信じていています。
何かしらする時に、神様が導いてくださったのだなぁと考えてしまいます。
なので、そう言われた事で、本当にそうなのかもしれないなぁと思ってしまいました。
こうやって、別居することもなければ、考えることもなかっただろうし、もしかしたら、私の人生の中の分岐点なのかもしれないなと。

旦那の持つ価値観と私の持つ価値観の違いが、夫婦の衝突の原因で、この価値観を具体的にどう変えるかをはっきりしない限り、同じようになってしまう。
その前に、私がしっかり癒されないと再構築することは出来ないってことを言われました。

ブログを書いていて気が付いたことがあります。
もう、忘れてしまっていた過去の出来事が、一つのことを書いているうちに思い出されていくこと。
旦那のことを書いているつもりが、それが過去の子供のことだったり、両親のことに繋がっているのはとても不思議なことです。
すでに、何の目的から書き始めたのか、焦点がずれてしまっているような気もします。
ただ、すべて書いてしまおうと思っています。
私の心の引き出しから出てくるものは、すべてここに書いてしまおうと思っています。
それが私の醜い姿であっても、目をふさぎたくなるようなものであっても、吐き出してしまおうと思っています。
そして、いつかきれいに、引き出しに収めてやろうと思っています。

昨日、衣替えをしました。実は6月、長女と次女の衣替えが出来ませんでした。
毎年していたことなのに、何故か出来ませんでした。
子供たちも、お気に入りの洋服を着ることが多いせいか、夏物は着ていない服がいっぱいでした。
きちんと整理していれば、着る事が出来た服もあったのに・・・・・
もしかしたら、私自身の心を引き出しがいっぱいで、余裕が生まれなかったのかもしれません。
その余裕が少し生まれたのでしょうか?


今回も、カウンセリング中、いっぱい泣いてしまいました。
話していると、過去の色んな思いが、溢れてきます。
こんなこと誰にも話したことなかったなぁ。そんなことまで思い出して泣きました。
まだまだ、自分探しは続きそうです。
もっと自分を見つけて、自分こと自分で認めてやれたらなって思います。
この経験も、いつか何かに繋がったらいいなと思っています。

取りあえず・・・・・

2005-10-26 21:19:34 | 自分考察
今日は、月に1度の勉強会でしたが、朝から憂鬱な気持ちから抜け出すことが出来ず、
行くことの出来ないまま、家に居ました。
おまけに、宿題も全然出来ていなかったし・・・・・
でも、先生が電話をくださって、昼からの勉強会に行くことにしました。
困らない程度に宿題を済ませたのですが、一向に行く気になれず・・・・・

ブログを覗くと二人の方がコメントをくださっていて、一人で悩んでいるつもりだったけど、
こうやって支えてくださる方がおられることが嬉しくて、嬉しくて、背中を押された感じで、出かけることが出来ました。
ただ、自転車で出かけたものの、ふと我に返ると、いつもと違うところを走っていました。
方向は合っていたのですが、そこに行くために使ったことのない道でびっくり・・・・・
変なところに行かなくて良かったです。

仕事のために行っている勉強会ですが、趣味を仕事にしてしまったので、行ってしまえば楽しくて、気分転換して帰ることが出来ました。
家で一人仕事をしているから、どうしても上手に気分を変えることが出来ず、落ち込んだら落ち込みっぱなしになり気味です。
外に出て、誰かと話をすることって大切だなぁって思います。

そんなわけで、憂鬱気分から、抜け出すことが出来ました。
あと何度、こんなことを繰り返すのかなって考えたら、複雑ですが・・・・

ここ数年、深く物事を考えずに暮らしてきたなぁと思います。
それまでは、色々と考え事をすることが多かったのに、だんだん肝が据わってきてくよくよしない性格になってきたのだなぁと思っていたのですが、知らず知らずのうちに、心を閉ざしたまま過ごして来たのだなぁと気が付きました。
心の悲鳴を、聞こうともせず、癒してやることもせず、放置してきただけなのだなって。

昨夜は、本当に誰かにすがりつきたい気持ちでいっぱいでした。
甘えたくて、誰かにしがみついて泣きたくて・・・・・
誰かに頼ることは簡単だけれど、よけいに自分の心見えなくなりそうで、我慢しました。
今までは、いつもそうやって誰かに頼ることばかりしていたんだなって、それを愛だとか恋だとか思ってきたのかな?
自分のことなのに、わからないことだらけです。
でも、いつか本当に心から愛せるといいな。
その相手が、旦那なのか、彼なのか、違う誰かなのか、今はわからないけれど、心の隙間を埋めてくれる誰かではなくて、自分の足りない何かを相手に求めるのではなくて、二人で築きあうことの出来るそんな関係が持てたらいいな。

一歩後退・・・・・・

2005-10-26 10:41:49 | 自分考察
昨日、色んなことを乗り越えられて、現在ラブラブ生活を送られている方のブログを目にして、
いつか、こんな生活が出来るのだろうかと想像してしまった。
そうしたら、私が、こんな風に、旦那に接することが出来れば、良かったのかもしれないとか、
こんな風に甘えれば良かったのかもしれないとか、そんなことばかりが頭の中をよぎってしまって・・・・・・

旦那は、マンションの理事長で、保管場所証明やら、管理会社からの書類やらが届くのだが、私は、別居しても引きつかず、旦那に任せている。
そして、何か書類が入っているたびに、事務的に、
「○○がポストにあります」とメールを送る。
昨日も書類があって、メールを送ったのだが、昨日に限って
「どうも、ありがとう」なんてメールの返信があって・・・・・
もしかしたら、変わってくれているのかなって、思ってしまって。
ゴミをベランダに出すと、駐車場には、車が止めてあって、今日は車で寝るのかな、かわいそうだななんて思ってしまって、家に入れてあげたいなんて考えてしまって・・・・・

長女と次女が寝た後に、食器を片付けながら、自分が情けなくなって涙が出始めた。
「おかあさん、泣いてる??」
と長男が、ティッシュを持ってきて涙を拭いてくれて、
また、情けなくて涙がこぼれた。

自分を責めるのは止めようと思ったばかりなのに、誰かにすがるのはよそうと思ったのに、
すがりたくなる私がいる。
旦那を求めてるのは、私の弱い心。すがりたい心。
今まで、そんな風にして、旦那と離れられずに居たのかな。

なんでこんな風になっちゃうのだろう。
すっかり割り切れていたつもりで居たのに、また嫌な私に戻っちゃったよ。
強い私と弱い私。弱い私なんて、どっかに行ってしまえばいいのに・・・・・・・

揺れる心

2005-10-24 23:56:03 | 自分考察
離婚したいと離婚した友達に話すと、必ず、よく考えたほうがいいよって答えが返ってくる。
何故なんだろう。きっと離婚しても割り切れない何かがあるからなんだろう。
以前、どうして自殺をするのかということを考えたことがある。
その時に、私が思ったこと。
”嫌な出来事、苦しい出来事から逃げることが出来ても、自分から逃げることが出来ない”からだと・・・・・・
たぶん、離婚したところで同じなのであろう。
離婚したら終わりになるのではなく、自分との対決は続くのであろう。

私が、最初このブログを始めた時、そんなことにさえ気が付いていなかった。
ただただ、今の状況から逃げ出したいばかりだった。
すべてを旦那のせいにして。
でも、それは違った。違うと思った。
まだ、ハッキリとは見えてこないけれど、
旦那と私の問題以前に、私自身の問題があるべきことに気が付き始めている。
その問題に向き合わない限りは、旦那とのことは見えてこないだろう。

人それぞれ、懐の広さは違うだろう。
私自身が耐えられないと思った旦那のことも、こんなことぐらいでと思う人も居るだろう。
離婚して、再婚した友達に別れたいと話したら、
「なにが不満なの?ちゃんとお金入れてくれてるんでしょ」そう言われた。
彼女の旦那は、次々と職を代え、夢を見て、次々とお金を使い果たした。
おまけに、女が出来たから別れたいとしゃあしゃあと言ってのけた。
それでも彼女は、耐え続けた。
結局、お金のために、保険金詐欺まがいなことを始めたことをきっかけに別れたようだ。
そして、彼女も一緒に破産宣告。
彼女も、働いてはいたが、生活費と自分の遊ぶお金ですべて使い果たしていた。
そうやって遊ぶことで、彼女は旦那との関係をバランスを取ろうとしていたのだろうか。

私には、優雅な暮らしに移っていた彼女の生活。
しょっちゅう旅行へ行き、毎晩友達と外食し、とてもうらやましく思っていた。
私には、どれも出来ないことだったから。
それぞれが置かれた立場の上で、どのように大変かは、その当人しかわからないであろう。
そして、それぞれの生き方、価値観によっても違ってくるのだろう。

だから、あの人に比べたら、私は大変だとか、幸せだとか、頑張りが足りないとかそんなことを考えるのは辞めようと思う。
そんなことをして、自分を苦しめたところで、何も残りはしない。
人を基準に考えているから、人の言葉に惑わされたり、心が揺れたりするのだろう。
私は、自分の物差しで、自分の気持ちを考えればいいのだと思う。
誰のためでなく、自分のために、自分のことを見つめればいいのだと思う。

今は、じっと揺れる心を見守ろう。
些細なことで揺れ、濁ってしまう私の心が、澄んでちゃんと見えるようになるのを自分の目で見届けよう。
誰のためでもなく、自分のために。
時間がかかるかもしれない。
また揺れ動いてしまうかもしれない。だけどそれでもいい。
自分の心を、抱きしめていよう。

別居生活

2005-10-24 18:08:57 | 私が離婚を決めた理由
別居生活が始まって、2ヶ月が過ぎた。
旦那とは、2005年8月10日以来、顔を合わせて話をしていない。
8月20日に家から追い出してしまって、現在に至っている。
その間、2回ほど家に帰ってきている。
一度目は、居ない間に、荷物を取りに帰り、
二度目は、次女を学校の近くで待ち伏せして、一緒に家に入ったようだ。
一度、私もマンションの玄関前で待ち伏せされたが、無視・・・・
未だ、逢うどころか、電話でも話す気は起こらない。

一つは、嫌悪感から、
そしてもう一つ、優しい言葉を掛けられると、許してしまいそうだから。
相反する二つの気持ち。でも、両方とも私の気持ち。

私は、別居に至るまで、何度も旦那との離婚を考えた。
だから、こうなるに至っては、何の後悔もない。
でも、旦那にとっては予期せぬ出来事だったと思う。


私は、この二ヶ月、色んなことを考えた。
本を読み、いろんな人の話を聞き、変わろうとしている。
このままの状態ではダメだと思っている。
旦那は、どのように思い、過ごしているのだろう。

しばらくは、駐車場の車の中で、寝起きし、最近は実家へ帰っているらしい。
皮肉なことに、家から単身赴任先だった職場よりも、家から実家のほうが遠い。
やる気になれば、仕事が忙しくても通うことが可能なんだなぁと思ってしまう。
それでも、たまに車が止まっていることがある。
車の中で、寝ているのだろうか?気にすることがとても辛くなる。
いっそのこと、車を他の場所へ動かして欲しい・・・・・・
車がある限り、玄関の音がするたびに怯えなければいけない。
玄関の2重ロックを切って、入ってきた旦那。
その後、大声で罵倒された、あの時のことよみがえるから・・・・・

玄関口まで来なくなり、ようやく安心できるようになった。
私の気持ちが、本気なことをようやく気が付いたのだろうか?
電話の電話帳機能を使って、電話が出来るようになった長男が、たまに旦那に電話する。
それが、嬉しいらしい。メールで報告してくる。そして逢いたいと・・・・・
同じように、私の実家にも、妹にも電話していることを旦那は知らない。
子供は、自分のことを思ってくれていると安心しているのだろうか?

旦那の実家からも、真夜中に電話がかかって以来、何の連絡もない。
そしてわざわざ話をするために出かけてきた、私の両親に対しても、何も連絡がない。
毎日、家に帰らずに戻ってくる息子を見て、どう考えているのだろうか?
あの時のように、一人の大人だがやったことだから自分で責任を取るしかないと思っているのだろうか?

せめて、旦那は、私よりも苦しんでいて欲しい。そう思うのはわがままで自分勝手だろうか?

役員仲間

2005-10-23 17:24:06 | 私のこと
数年前から、保育園の役員をしてきた。
最初は、親しいお母さんに誘われ、もう6年目になる。
クラスからの選出ではなく、立候補制で、強制的な労働もなく、どちらかと言えば、母親同士のコミニュケーションの場として成り立っているように思う。
いつもお世話になっている保育園に対して、何か役に立てればと思う気持ちで続けてきた。
そして、他のメンバーもそんな気持ちなので、一緒にやっていて気持ちがいい。

よく、役員の集まりに参加しないと、子供の友達関係が悪くなるからと無理をして役員をするお母さんの話を聞く。
休むと嫌がらせを受けるので、役員会を休めないとか・・・・・・
そんなものは全くない。
「明日は、遊びに行くから、休むね~」「楽しんできてね~」
そんな会話で成り立っている。
無理がない形で、やっていこうね。それでないと続かないからね。そんな気持ちで続けてきた役員会。
やることに対して愚痴もなく、不満も出ない。
与えられた仕事を、みんな楽しそうにやってのける。一緒に居て、気持ちのいい仲間だ。
本当は、みんな働いて自分の仕事が忙しいはずなのに・・・・・

でも、最近、気になったことがある。
それは、私の思い過ごしかもしれないし、考えすぎかもしれない。
人のために何かをしてあげようと思う気持ちが強い人の集まりだと言うこと。
そして、その中の旦那様の中には、私の旦那と同じようなタイプの人が多いかもということ。

今までは、愚痴でしかなかった旦那への気持ちを、同じようなタイプの旦那を持つ人に話してみた。
「私も、別居を考えている。」その人は言った。話を聞くと、なんだか同じような境遇にあった。
以前も、保育園の役員友達に話したら、
「私の周りにそんな人多いよ。今、そういう時期かもしれないよ~。
私も、一緒に居ることが嫌でたまらないよ~。」
話を聞くと、やっぱり旦那と同じような行動パターン。


世の中の男性は、みんなこんなものか・・・・・?
少なくとも、仕事で知り合ったり、学生時代の友達には、そんな旦那様、あまりいない。
他人の芝生は青いと言うが、ちょっと違う気がするのは気のせいじゃないはず。

役員仲間は、同じようなタイプの人が集まり、同じような人を選んだのでは?
ちょっと気になってしまったのだった。
でも、これは、私の思い過ごしであって欲しい・・・・・・・・

誰の家??

2005-10-21 20:42:12 | 私が離婚を決めた理由
7年前、今の住居に引っ越してきた。もちろん引越しの準備は、すべて私だった。
もともと、一戸建ての家が欲しくて、あちこち見て回っていた。
出かけるたびに、「ここは狭い」「ここは寒い」「ここは駅から遠い」「ここは古い」
すべての住居に、難癖をつけた。多分、買う気なんかなかったのであろう。
半分冷やかしのつもりで、見て回っていたのだろう。
長男である旦那は、親の土地を貰うつもりで居た。
でも、2人の子を持ち、保育園の送り迎えだけで、疲れきっていた。
おまけに、官舎は、掃除当番や管理人当番(交代で管理人の役割をする)が回ってきて、その度に仕事を休むのも私だった。
もっと便利のいいところに住みたかった。
しかも、当時は近くに住んでいた、私の両親が、父の定年退職と同時に、隣の県の家に帰ることとなっていた。

2人目の子の育児休暇中に、建ち始めたマンションを購入したいと旦那に告げた。
「マンションなんて欲しくない」また、難癖をつけた。
私が提案したことを素直に認めることが悔しいのだ。
旦那の両親も、賛成した。そしてみんなで説得し、しぶしぶ購入を決めたのだ。
でも、旦那はみんなの前で、ちゃんと納得し、必要性も認めたはずだった。

”お前が勝手に決めたマンション”それ以降、ことあるごとにそう旦那は言う。
大声でわめき散らすので
「恥ずかしいからやめて」と言えば、
「わしには関係ない。ここにずっと住む気はない」
(あんたは、関係なくったって、私も子供も恥ずかしいじゃない・・・・)

「町内の行事、手伝って」と言えば、
「わしには関係ない。わしはここの土地には関係ない」
(子供はお世話になっているんだけれど・・・・)

「夜中にドアをばたばたするのはやめて、近所迷惑よ」
「マンションにしようと言ったのはお前だ」
(あんただって、ここでいいって言ったじゃん・・・・)

そのくせ喧嘩をすると
「気に食わんのなら、出ていけや、ここはわしの家だ」
(結婚前に持っていたお金も、退職金も支払いに回したんで、私のほうが支払った金額多いんだけど・・・・・)

「離婚するんなら、このマンションはやらない。売って処分するから」
(私はいいけど、子供が困るようなことして、子供は可愛くないわけ?売ったってローン支払ったら、残りはわずか。
それを分けたら、慰謝料にもならないんだけど・・・・)

だいたい、私が勝手に買ったマンションで、ずっと済む気がないんなら、お前にやるよって言ってもいいじゃん。
あんたには、”先祖代々から伝わる土地”があるんだろぉ~
親も、金をいっぱい持っているんだろぉ~
”おまえんちみたいな貧乏人じゃない”って言ってたじゃん!!
ケチケチするなぁ~!!ケチ男!!!






あーすっとした・・・・・・・・

旦那の存在

2005-10-21 15:35:57 | 日々つれづれ
前よりずっと、色んなことを考える時間が増えてしまったけれど、時間はとても早く流れていく。
子供が3人いると行事も多く、落ち込んでいる暇も少なく、あっという間に現実に引き戻されてしまう。
でも、その生活に旦那がいないことは、何の不自然さもなくて・・・・・
行事のたびにいなかった旦那。その度に、不満を抱いた私。
いて欲しいそう願ったのはどうしてだろう。自分のため?子供のため?
何故、子供の姿を見たいと思わないのか不思議だった。
子供たちは、どんな風に思っていたのだろう。
行事のたびに、言い争う私たちを見て、何を感じていたんだろう。

父親が来ないことは当たり前のことで、口うるさい母親だと思っていたのだろうか?
子供たちは、おじいちゃん、おばあちゃん、叔母である私の妹には、
「今度○○があるから来てね」
そうお願いしていたのに、お父さんには、お願いすることがなかった。
どうせ来てくれないと諦めていたのだろうか?
諦めが悪いのは私だけだったのだろうか?

行事に参加できないことよりも、それをなんとも思わない旦那の姿に、腹を立て、
せっかく撮ったビデオも写真も見ようとはしてくれない旦那の態度い、腹を立て、
例え参加できても、家族のことは省みず、自分勝手な行動をする旦那にも腹を立て、
自分の思うように、旦那に動いてもらいたかっただけなのだろうか?
思い通りにならない旦那のことに腹を立てていたのだろうか?
いなければいないでいて欲しいと思い、いれば居たで、何もしない旦那を疎ましく思っていた。
私のわがままだったのだろうか?旦那に頼りすぎていたのだろうか?

でも、居ない今、不平不満に思う心が無くなって、とても心が軽い。
存在を気にしないで居られる、今は正直言ってとても楽な気持ち。
駐車場にある車・たまに来るメール、それが無くなったら、もっと楽になれそう。
私の中の、旦那の存在も無くなってくれたら、もっともっと幸せになれるのに・・・・
今まで、なんで一緒に居ることが出来たんだろう。毎日、顔を合わせながら生活できたんだろう。
時々、そのことすら不思議に思える。
たぶん、もう、旦那とはやり直せない・・・・・・・

返事

2005-10-20 21:35:11 | 日々つれづれ
4歳の長男の保育園のクラス(年少)では、なぜか「ハイッチョー」という返事が流行っています。
何を意味するのか、全然わからないのですが・・・・
先生の呼びかけにみんな「ハイッチョー」
「明日も元気で参りましょう」と先生が挨拶しても手を上げて、「ハイッチョー」

家で「○○しなさい!!」って怒っていても、返事は、「ハイッチョー」
「保育園に行くよ~」って声を掛けても、返事は、「ハイッチョー」
なんだかとっても楽しい気持ちになってきます。
イライラした気持ちも飛んでいき、一緒に「ハイッチョー」って言いたくなります。

「ハイハイ」や小さな声で「ハイ」って言われるより、「ハイッチョー」って大きな声で言うほうが、言うほうも聞くほうも、とっても楽しい♪
上の二人の娘にも呼びかけて、我が家でも「ハイッチョー」
なんだか、愉快な気持ちになってきます。
「ハイッチョー」に感謝!!

カウンセリング1

2005-10-19 13:43:27 | カウンセリング
今日から、カウンセリングが始まった。
メール・電話・対面の中で、結局、電話という手段をとった。
メールだと、時間がかかりそうなこと。
対面だと、どうしても移動時間などを要してしまうこと。
そして、以前心療内科に通って上手くいかなかったこともあり、カウンセリング専門でありながら、
色んな療法を取り入れているところがいいと思っていたこと。
それが、自分の住んでいることに見つからなかったこと。
私は、電話という手段を選んだ。

見えない相手と話すということは、緊張したが、すぐにそれは変わった。
知らない相手だからこそ、自分のことが見えないからこそ、素直になれたと思う。
このブログに吐き出しながら、楽になれたと思っていたのに、
電話で話しながら、涙がこぼれた。
もう、泣くことなんてないかなとすっきりしていたはずなのに、カウンセリングの間中、私は泣き続けていた。

カウンセリングで、過去の一つ一つの、自分でも忘れてしまっているような出来事を、話すことによってその時の気持ちに引き戻される。
悲しみがよみがえる。でも、辛かったね、頑張ったねの一言で、あの時の私は救われる気がした。
どこまで自分の心を解放してやることが出来るだろう。
電話の間中、泣き続けていたのに、電話を切った後、心が軽くなっていることに気が付いた。

今の段階で、旦那に逢っても同じ事を繰り返すこと。
カウンセリングを続ける上で、もし旦那と話し合いの場を持つことになったとしても、
旦那も一緒にカウンセリングを受けて、変わろうという気がなければ、離婚するほうがいいかもしれない。
そう言われた。自分自身が考えたことと同じだったのでちょっと安心した。
「考え方がおかしい」と言われ続けてきたので、たいした事でなくても、共感されたり、同じ意見を聞くと、ホッする私がいる。
2回目が楽しみだ。

旦那の両親

2005-10-19 13:18:29 | 私が離婚を決めた理由
昨日、結婚生活を書きながら、旦那の両親の話が出てきてしまったので、こちらでもう少し。

旦那の実家は、山の中にある。日本昔話に出てきそうな風景だ。
近くにある家は、2件。とはいえ、庭から叫んでも隣の家には声が聞こえないだろう。
結婚当時、大きな声で、ハッキリと話す旦那のことを頼もしいと思っていた。
でも、怒鳴り始めると、騒音になりかねないほどの大声だった。
官舎住まいの時には、隣の家にも聞こえていたらしい。それは、後でわかるのだが(苦笑)
私は、
「声が大きい、ここは○○(旦那の実家の地名)じゃないんだから」よく注意した。

周りにある山々は、ほとんど実家のものらしい。
敷地の上を国道が走ったので、その下の土地を、山にトンネルが走ったので、山の一部を国に売ったと話していた。
私は、山が好きだった。
舅と一緒に山に入り、蔓を取ってかごを編んだり、木の実を拾い集めたりして楽しんだ。
山に住みながら、旦那も妹も見向きもしなかったと舅は喜んだ。
秋になれば、柿や栗がなり、自然がたくさんあって、子供はこんなところで育てたいなんて思っても見た。
それは、だんだん、打ち砕かれていくのだが・・・・・


結婚前、旦那から
「うちの仏壇は100年以上のものだ」と言われていた。
それを聞いたうちの両親、由緒正しい家柄って事が言いたいのか?ちょっと疑問を感じたらしい。

結婚後、何故かそれをお目にかかることがない・・・・・??
私の両親は、父が5人兄弟姉妹の4番目3男、母は5人兄弟姉妹の5番目3女。
なので、家に仏壇というものが存在しなかった。
でも、両方の祖母の家(物心ついたときには祖母しかいませんでした)に行くと、真っ先に、仏壇に参っていたし、お墓参りにも行っていた。
隣の県に住んでいることもあって、せいぜい年に2回のことでしたが、それが当たり前のように思っていた。

だが、旦那の実家に行っても、旦那が仏壇に向かうことはない。
炊き立てのご飯をつぐ時も、仏様のご飯はない。
この家って、本当に仏壇があるの??
結婚当時は、帰省すると、私たちは旦那の部屋がある離れで過ごしていたので、
母屋の仏間に入ることはなかった。せいぜい台所と居間程度。
案内されないのによその部屋を見て回るのは失礼だと思っていた。

彼岸に帰ろうとお墓参りに行く様子もない。
あれっと思いながらもそのまま過ごす。
でも、子供が産まれ、やはり先祖は大事にすべきだと仏壇の場所を聞き、手を合わせた。
仏壇は、埃まみれだった。
(のちにわかるのだが、みんなが食べ終わった後、おばあちゃんが仏さんのご飯を持って、仏壇に供えていた。
舅や姑が、それをするのは見たことがなかった。
そして、仏様のために仏壇を掃除するのではなく、お坊さんが来て、そのままでは恥ずかしいので、自分たちのために仏壇の掃除をするのだということも・・・・)

そして、彼岸の日に、墓に行く準備をして、墓に連れていってもらった。
びっくりしたことに、墓は敷地の中にあった。
ただ敷地といっても広いので、車が必要であったが。
もっと驚いたことに、そこにはたくさんの墓があった。
多分、一族の墓が、すべてここにあったのだろう。
そして、彼岸だと言うのに、掃除一つされていなかった。
私は、ここには入りたくない。そう思った。知らない土地で、知らない人とこの狭い空間の中に埋められ、誰も来ないここにいるのか???
絶対に、旦那よりも先に死にたくない。ここには入らない。ひそかにそう思った。

11年という結婚生活。私が墓に参ったのは、その時だけだった。
誘っても、行かなくてもいいというのが旦那の意見だった。
たぶん、旦那はその時と、おばあちゃんの納骨の時だけだろう。
おばあちゃんの納骨も、死後3年以上過ぎてからだった。


帰省すると、帰りにいつもたくさんのものを貰った。
お礼を言って帰るが、家に帰ると、愕然とすることになる。
箱を開けると腐ったくだもの。賞味期限を何年も過ぎている海苔。
ほとんどがゴミだった。
舅は、県の管理職。姑は小学校の校長。お中元やお歳暮がひっきりなしに届くのであろう。
結婚当初、帰省するたびに、私は何か持っていった。
最初のお正月は、何時間もかけて選んだプレゼントを用意した。
姑には、姑の好きな色の手袋を用意した。
「手袋、何年していないかね~」その一言だった。

私の実家が送ったお中元。何の連絡もないままで、送った母は届いていないのではないかと心配した。
旦那が実家に確認すると「届いている」とのこと。
お礼の言葉もなかった。
なのに、長女の出産時、実家に届いた祝いは、渡してくれてもいないのに
「○○にお礼の電話、忘れずにしておいてね。」
自分たちの親戚へのお礼は、当たり前のように要求された。

おかしい?と思うことは山ほどある。
でも、姑は優しい人だったので、喧嘩することもなく、旦那に愚痴をこぼしながらやっていた。
自分に利益のある人に対しては、体裁を整えるが、そうではない人に対しては誠意を見せないのが旦那の両親だったのである。
それは、見事に旦那に引き継がれていた・・・・・・・。

結婚生活1

2005-10-18 10:29:42 | 私が離婚を決めた理由
新婚当時、旦那は3交替だった。当時は、残業もなく時間通りに終わるような仕事であった。
8時に、勤務について、翌朝10時頃、帰宅して、次の日は、休日というパターン。
私は、8時に勤務について、だいたい夜7時頃まで、仕事をしていた。
遅い時には、帰るのは9時頃だったかもしれない。

私は、毎日お弁当を作り出かけた。洗濯も毎日した。
旦那の制服やYシャツ、ハンカチにもアイロンをかけた。
休みの日は、念入りに掃除もした。
彼は、2日間家にいて、ずっと寝ていた。
遅く帰宅しても、洗濯物もそのままだったし、ご飯を作ってくれていることもなかった。
それでも、私は、あまり気にならなかった。

結婚して、4ヵ月後、旦那が新婚旅行に行きたがっていた沖縄旅行へ行った。
新婚旅行は、私の希望でヨーロッパに行き、代わりに、夏休みに沖縄へ行く約束をしていた。
旅行中は、旦那の好きなステーキを毎日食べた。旅行から帰って、旦那の実家へ寄っても、やっぱりステーキだった。
そのせいか、私は家に帰る頃、吐き気に襲われていた。
でも、もう一つ、気になることがあった。
沖縄へ行くまでは、妊娠しないように気をつけていたのだが、もう大丈夫だと解禁したこと・・・・・・・
検査薬を買って、早速試すと、見事に陽性。嬉しくてたまらなかった。

吐き気の症状は日を追って悪くなり始めた。
職場のトイレで、日に何回も吐く。ご飯も思うように食べられなくなった。
お弁当も作ることが出来なくなった。
幸い、実家が近いこともあって、夕食は頼ることにした。
朝は、旦那がご飯にお茶をかけて渡してくれた。
その他の家事は、相変わらず私だった。

旦那が、家にいる非番と公休は職場まで迎えに来てもらった。
バスで帰ると、バスの中の化粧もしくは、バスから帰る途中の家々からの夕食の匂いに反応しすぎてしまったからだ。
この時、旦那が時間にルーズだということに気が付いた。
7時と約束しても、居てくれた事がなかった。
家に電話を掛けても留守。家から20分くらいだったので、家を出たのだろうと待ち続けるも一向にくる様子がない。
お腹がすきすぎて、必需品のビニール袋を使うこともしばしばだった。
悪びれた様子もなく8時頃現れる。
怒りをぶつけると、「来てやったのだから、いいじゃないか。」
何故遅くなったかというと、寝ていたらしい。。。。。。

逆に、10分でも私が待たせた時は、謝っても機嫌が悪かった。
「車が多いところで、待たせやがって、仕事が終わらんのんなら、迎えに来い言うなやぁ・・・・・」
自分が寝坊して、つわりの私を1時間待たせることは平気で、
仕事をしていて遅くなった私は何故、責められるのかどうしても腑に落ちなかった。
仕事をしていたら、10分20分、予定が狂うこともある。
ましてや当時携帯電話など普及していない。連絡も取りようがない。
こんなつまらないことで、よく喧嘩になった。


つわりで体重は減っていった。点滴を打つこともしばしばだった。
そんな折、旦那の実家から、地域の人に結婚のお披露目会をすると言われた。
8月で、じっとしているだけでも辛かったので、日を変えてもらうように頼んだ。
でも、聞き入れてもらえなかった。
私たちの都合は聞かず、日にちから段取りからすべてが整っていたからだ。
幸い、主役は私ではなかった。乾杯が終わると、私は別の部屋に移された。
主役は、あくまでも嫁を貰い、跡継ぎとなった旦那とその両親だった。

私は、田舎の変な風習に巻き込まれるようだった。
地域の食器というものがあって、それは旦那の実家で預かっていること。
今度何かが行われる時には、私がそれを引き継ぐこと。
料理は、仕出屋からは頼めないこと。
貧富による差が出るといけないので、会費は300円で、みんなで料理を作ること。
これは、冠婚葬祭すべての行事においてそうだということ。
当時は、おばあちゃんと旦那の両親においてそれが行われていたが、そこに家や土地が存在する限りは、代々引き継がれること・・・・・・。

まだまだ、先のこと、そう思っていたし、その時、私は寝ていたので、どんなことが行われていたのかも知らなかった。
それを知るのは、それから5年後、旦那の友達夫婦と話をした時だった。
友達夫婦は、実家に同居していた。2階の一室に、親子3人で住んでいた。
家事はすべて奥さんに任され、他の人は、農業が主だった。
大姑・舅姑・夫婦・子供(あかちゃん)の食事もすべて任されていたらしい。
大姑用の食事・離乳食は別に作るため、3種類の食事の用意。
ただでさえ、子供が小さいと、外との交流が取れない時期に、奥さんは孤立せざる得なかった。
大阪の都会暮らしから、一転したこの生活。
地域に不幸がある度に、借り出され戦力として、こき使われる。
一人の姑でも大変なのに、それがたくさん集まり、針のむしろ状態だと言う。
おまけに、家の外を歩いても、誰にも出逢うこともない、ジュース一つ買うにしろ、
車で、何キロも走らならければならない。
初対面の私に対して、奥さんは、涙ながらに生活の苦しさを訴えた。
幸い、ノイローゼ気味の奥さんの様子に気が付いた、旦那の友達。
その後、近くの街に引っ越していった。