8時15分
ヒロシマの空にむけ手を合わせる
被爆者だった父が
8月6日の8時15分に
やっていたことを同じように
・・・出征して被爆した弟を探し
2日間、焦土のヒロシマを歩きまわった父
やっと探し出した弟を背負って帰る
「同期の兵隊はみんな死んだ・・・」
父の背で泣きながら話したという
1カ月、生死の境をさまよった弟
父さえも髪がすべて抜け落ち
歯ぐきからの出血と高熱が続いたのだと・・・
「あの日」のヒロシマの地獄図を
父は語ろうとしなかった
その父が一度だけ
8・6の平和行動に参加する私に
その前夜、言葉を絞り出すように
話してくれた「あの日」のことだった
「原爆の被害だけを言うのも違う
ばかげた戦争をした挙句の原爆じゃけぇ」
かたくなに「被爆者手帳」を拒み続けた父だった
「どんな綺麗ごとを言おうが、戦争は人殺しじゃ」
徴兵され中国の最前線で
「人殺し」をさせられた父が
徴兵され中国の最前線で
「人殺し」をさせられた父が
怒りと自戒で声を震わせながら
うめくように発した言葉だ