雲はないのに太陽が霞んでいる。
大陸からやってきた黄砂のせい。
車のウインドガラスにもべったり。
かつての黄砂とは違い有害物質を含むから厄介だ。
”春霞なに隠すらむ桜花”
春の風物詩と風情を楽しんでいたのは過去のこと。
早く列島を通り抜けてくれ。
IOCに巨額の放映権を支払い影響力を持つNBC。
そのNBCが「聖火は消されるべきだ」とする記事を掲載した。
記事は、聖火リレーが被災地でスタートしたことに「被災地では復興の遅れを五輪のせいだと考える人が多い」とも指摘している。
「復興五輪」を前面に掲げて誘致を勝ち取った日本。いつの間にか復興五輪は口実だけにされ、菅総理は延期開催の意義を「人類がコロナにうちかった証」だと言い出した。
「商業五輪からレガシー五輪」に舵を切ったIOCへ、アピールを優先するあまり、その場しのぎで「理念」を置き去りにしてきた日本政府ら。理念の無さが組織委のゴタゴタに象徴された。
それでも、聖火リレーはまた見切り発車された。
放射能汚染でいまなお故郷を奪われている被災者がいる。だが、無人となったまちの姿が聖火リレーの中継に映し出されることはなかった。「復興五輪」とするのなら復興に立ちふさがる放射能汚染の「現実」も世界に伝えることこそレガシーのはずなのに。
五輪誘致では、「アンダーコントロールされている」と原発事故を嘯いた安倍。そのウソの帳尻合わせをするように、復興の「光」だけをアピールし、「影」を覆い隠した聖火リレーの演出は残念すぎた。
世界はコロナウイルスとの闘いの最中にある。練習すらできないアスリートもいる。五輪憲章の「フェアープレーの精神」が奪われている現実だ。
そんなアンフェア―な五輪を、中途半端に強行するレガシーはまったく見えてこない。
感染を国民の自制心でなんとか抑えている日本だが、日本の感覚で世界をおしはかるのはフェアーではないし身勝手すぎる。
「聖火は消されるべきだ」NBCの記事は現実を鋭く突きさす。
変異ウイルスの感染拡大が心配されるなか聖火リレーがスタートする。
そういえば、誘致に際しては「3・11からの復興五輪」だとアピールしていた安倍らだった。そしてコロナ禍で延期されると「人類がコロナに勝利した証の五輪」だと菅総理らは言いだした。
ロックダウンが繰り返されるヨーロッパ。北米や南米でも感染の拡大は止まらない。五輪代表の選考会すらできていない国もある。練習環境さえも奪われた世界のアスリートたち。
ワクチン接種も国家間の格差が生じ不平等で深刻な事態にある。
世界の状況はとても「人類がコロナに勝利した」ような現実とは程遠い。コロナ禍で「スポーツをする機会」が奪われた国やアスリートがいるのに強行開催することは、オリンピズムに反することになってしまう。
エンブレムの盗作騒動に始まり、競技場の設計問題の混乱。誘致活動の賄賂疑惑まで取り沙汰され、トラブル続きでスタートした今回の五輪。挙句には「何が何でも開催する」と強弁しオリンピズムを否定した女性差別発言で辞めていった森前会長の騒動。それに追従するかのように女性への侮蔑で辞任した演出家と、オリンピック憲章の精神とは程遠い失態続きが、国民の嫌気を招いてしまった。
経済効果最優先で「何が何でも強行開催する」と言う面々に漂うのは、湯水のごとく垂れ流される巨額のオリンピック利権が付きまとう。そのうさん臭さが失態や失言や疑惑の病巣となっている。
いくら政府が「復興五輪」を世界にアピールしても、10年が過ぎた今、「復興を実感」している被災地の人々は半数に満たない。被災地に非礼な「復興」の政治利用はやめてもらいたい。
ましてや「人類がコロナに勝利した五輪」などと、無神経なことを声高にすることは、彼らが得意とする国益にも反するのではないか。
延期や中途半端な開催を強行するよりも、オリンピズムにのっとり、スパッと中止して、次の開催権を優先してもらえる国際的な雰囲気を醸し出すべきだ。
オリンピズムの根本を否定する利権優先の五輪開催などあり得ない。
接待疑惑に揺れ続ける国会。
接待が行政をゆがめたかどうかの真相は不明のまま。
ウソの外資比率で放送事業の認可を得ていたが、追及により国は取り消した。
ところが、渦中の東北新社の証言と総務官僚の答弁が食い違う。
総務省の課長に外資比率のウソを報告したという東北新社。今日の国会でも社長が明確に細かく証言した。
一方の官僚は「記憶にない」の一点張りだった。
あのロッキード疑獄以来の罪に問われた人物らの常套句「記憶にない」を連発する官僚。中継を見ていた国民の誰一人、そんなまやかしを信じるものなどいない。
事態は総理の長男のいる会社の許認可に関わるもの。違法申請の事実を知りながら、霞ヶ関の得意の忖度で、その違法を隠すために子会社化させたのではという疑惑が見え隠れする。
お手盛りの調査委員会で時間稼ぎをし逃げようとする総務省。
「記憶にない」のか、東北新社が「ウソ」をついているのか。
真相をはっきりさせない菅政権に国民のイライラは募るばかりだ。
菅総理の長男らの不正接待疑惑の闇が暴かれてきた。
接待によって「行政がゆがめられたことはない」と菅政権は答弁してきた。
だが、菅総理の長男のいる東北新社が放送事業認可の際に、外資比率をごまかし違法なウソ申請をし、まんまと認可を手にしていた。
野党の追及に追い込まれ慌てた菅政権は「認可の取り消しをする」と表明。必死でボロ隠しに走っている。
問題なのは、なぜそんなデタラメな認可を総務省がしたのかということだ。認可した直前に総務省官僚らは接待を受けていた。認可を担当した人物も接待を受けていたようだ。
これでは、接待によって「行政がゆがめられた」と国民が思うのは当然だろう。
菅総理が総務大臣時代から絶大な影響力を持ち続けている総務省。人事を一手に握り官僚らを平伏させてきた菅流の掌握術でだ。
そんな菅総理の絶対的権力を知る官僚らが、菅総理の長男のいる会社の接待を断れるはずがない。そして接待を受けるということは「便宜」を図ることを意味する暗黙の了解があったのではないかと推定できる。
菅総理から具体的な指示など必要ない。何も言わなくても「忖度」が命令自動で機能するからだ。ましてや菅総務大臣の秘書官をしていた長男だったのだから、かつて知ったる総務省の官僚など簡単に操れる。
矜持のないだらしない官僚にもあきれるが、利権をあさり行政を私物化する政治こそ悪の権化であり許されない。
権力は必ず腐敗する。絶対的な権力ほどその腐敗は激しい。
不正認可の背景に蠢く忖度政治の闇は深い。
「3・11」のあの日から10年。
ニュース映像に身体が固まったのを思い出す。
「ぬくもり」の大切さを深く学んだ。
行方不明や関連死などの犠牲者は22,000人を超える。
真の復興を阻み続けるフクシマ原発事故。
原発事故で理不尽にも故郷を奪われ続けている多くの人々。
半数を超える被災者が復興を実感できないままでの今日だ。
「できることを」息長くと呼びかけた支援の輪。
「できることを」これからも。
かけがえのない命の犠牲の冥福を祈る。
変異ウイルスの感染が各地で報告される。
感染力が強く再感染するなど厄介なことが多いようだ。
できることを出来るだけきっちりやる。
ウイルスとの気の抜けない闘いを息長くやるしかない。
赤ワインにちょっとはまっている。
映画のシーンを見ていて飲みたくなった。
旨そうに飲むその雰囲気が何ともいえない。
早速、翌日買いに行く。
今日は5本目、甘口をを愉しむ。
棚ぼたで首相の座を手にした菅総理。
運の良さで総理大臣になった。 だが、その運がここに来て尽きてきたようだ。
就任早々に、気に入らない学術会議メンバーを排除し、「あれっ」と国民に思わせた。前宣伝の「苦学した農家出の庶民派」というイメージとはかけ離れた非情さにギャップを感じたからだ。
苦学した庶民派のイメージは、情に厚く正直者といったもの。なのに人を排除する非情さは真逆。どちらが本当の菅総理なのか。多くの国民はそう感じ始めた。
コロナ対応の判断間違いも、「あれっ」と期待外れを思わせた。そこへ、長男の不正接待が火を噴く。 総務大臣のとき秘書官をしていた長男。その立場を悪用したかのような接待は、許認可の便宜を図らせるためではと思わせた。その目的以外の接待など考えられないからだ。
実際に長男のいる会社は放送許認可を得ている。専門家は認可の経済的な価値は数百億円というから凄い。
この長男の不正接待で「なんだ菅総理も忖度の利権あさりかよ」と多くの国民は失望した。内閣支持率がはっきりとそれを物語る。
さらに、高額接待を受けた山田広報官のしどろもどろの国会答弁が、ますます疑惑の根深さを思わせた。中継を観ていたが、菅総理の長男が接待の席にいたのを「知らなかった」と言う。いくらなんでも無理が過ぎるだろう。こんな答弁をさせた官邸の危機管理は最低だ。
他の接待官僚らが処分される中、山田広報官は特別扱いでおとがめなしで「続投」を決めた菅総理。だが、そんなご都合主義を世論が許すわけがない。
結局は、病気入院の挙句、辞任するというお粗末な結末になってしまった。運が尽きて、けちがつくとはこんなことだ。
コロナ対策で醜態をさらした後手後手は、長男の不正接待問題でさらに後手を晒す破目に。自業自得の苦しい政権運営は一層深みにはまっていく。
運だけで上り詰めた菅総理。 政治家としての国家観は何も見えてこない。見えてこないのは、もともと持っていなかったからだろう。その政治家としての深みや厚みの無さが、顔の表情にもろに表れている。 深みや厚みの無さは、危機に対する弱さとして露呈することになる。
どんな世界であれトップリーダーは孤独だ。 ナンバーツーとは全く違う。逃げ場のない重圧と重責が24時間365日襲ってくる。
背中の荷が限界を超えたとき、最後は藁一本の重さに耐えかねてラクダは砕けてしまう。「ラストストロー」の喩えだ。
菅総理のラストストローが間近に迫ろうとしている。
ペンを握りしめての最期だった。
30冊を超える著書が書棚に並ぶ。
喋りも痛快で面白かった。
現世から解き放されたのか実に穏やかな顔だった。
ひとつの時代が終わったような気がした。
冥福を祈りたい。