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国際関係研究における「夢と禁欲」

2015年11月09日 | 研究活動
国際関係理論の構築と実証、反証は、方法論上、最も重要な学問的営為といってもよいでしょう。専門誌では、斬新な仮説や理論が発表されては、それを棄却する論文が掲載される「知的バトル」が、何度も何度も繰り返されているのは、皆さんが知っての通りです。そして、国際関係研究者は、こうした「理論の検証」問題に頭を悩まされるものです。もちろん、私もその一人です。

そこで、大学院生のころに読んだ、佐和隆光氏のエッセー「夢と禁欲」(浅田彰ほか『科学的方法論とは何か』中央公論社、1986年所収)を再読してみました。ここでは経済学の「発展」の軌跡が、科学的方法論の観点から論じられています。これを読んで私が考えさせられたのは、ここで述べられていることが、国際関係研究にも多かれ少なかれ当てはまるのではないか、ということです。

いくつか羅列して引用してみます。

「複数個の理論のいずれもがデータと整合的なまま同時に併存しているのが、社会科学の世界ではしごく当たり前の姿なのである」(85ページ)。

「理論には流行り廃りがつきものである…それでは一体、こうした流行り廃りは何故に起こるのだろう。少なくとも、ポパーのいう反証主義の図式に倣って学説の盛衰が起こった、とはとうてい考え難い。栄枯盛衰の鍵を握るのは、どうやらその時代その社会に棲む人々の日常的な生活感覚(日常的知)の変遷のようである」(85ページ)。

リアリズムの国際政治学は冷戦の産物だったといわれることがあります。冷戦の終焉とともに、リアリズムやリアリズムとの対話としての「イズム論争」も衰退しています。こうした学問的変遷は、佐和氏のいう「日常的知」が変わったからだと説明できるかもしれません。しかしながら、そうだとすれば、「社会科学」としての国際関係研究は可能なのか、という疑問がわいてきます。そもそも、われわれは「日常的知」の呪縛から、どこまで逃れることができるのか、どうすれば逃れることができるのでしょうか。

このことについて、佐和氏はこうも言っています。

「社会科学の理論のリアリティーは、仮説、演繹、帰結の三者をトータルで眺めたうえで、われわれが感得するもっともらしさなのである」(87ページ)。



このエッセーが掲載された『科学的方法論とは何か』からは、当時のポストモダンの影響力を感じます。現在の国際関係研究が、その余光に照らされているとすれば、実証主義の理論研究者にとっては、誠に悩ましい限りです。結局、論理実証主義に基づき国際関係研究が理路整然と発展するのは「夢」にすぎず、研究者は「反証逃れ」をしないよう「禁欲」して、自らを律することに期待するしかないのでしょうか。