カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・エミリア ロマーニャ

2013-02-15 | 中央イタリア
リミニ(Rimini)は、エミリア ロマーニャ州にあり、その周辺地域を含む人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)である。古くはローマ時代に起源を持つアドリア海沿岸の都市で、夏季は隣接するカットーリカやリッチョーネとともにマリンリゾートで大変賑う。また、近郊のサンマリノ共和国への玄関口でもある。そのリミニ観光前に、旧市街の手前にある「リストランテ ダ マルコ(Ristorante Da Marco a Rimini)」で昼食を頂くことにした。


時刻は午後2時で、他の客は既にランチを終え引き上げたらしく、貸し切り状態だった。店内は開放的な明るい雰囲気で、久しぶりのシーフード料理店に期待しながら料理を注文した。しかし、最初に運ばれてきた「魚介のサラダ」を見て驚いた。皿から溢れんばかりの量が盛られていたのである。


続いて、魚のマリネ、ムール貝、アサリが運ばれてきたが、こちらも凄い量だった。。極めつけは「魚介のリゾット」で、5~6人分はありそうな量で、とても食べ切れず大半を残してしまった。他に客がいれば様子を伺い、少しはセーブして注文できたかもしれない。とはいえ、料理は新鮮で美味しかったので量の多さ以外は満足だった。最後にデザートを頼むとリキュールをサービスしてくれた。。


リストランテの駐車場すぐ南側にはマッキア川(旧:アリミヌス川)が流れ、そこに重量感のあるアーチ橋「ティベリオ橋(Ponte di Tiberio)」が架かっている。紀元14年、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:前27~14)時代に建設が始められ、第2代皇帝ティベリウス(在位:14~37)時代の紀元21年に完成した歴史的な橋である。先の鐘楼は「サンタ マリア デイ セルヴィ教会」(1317年築、1894年改築)である。


橋を渡った先をそのまま直進すると、旧市街のメインストリート「アウグストゥス通り」となるが、ここは橋を渡ってすぐ右折し、外環道を通って旧市街反対側の南側から入場することとした。

こちらが旧市街入口となる南門「アウグストゥスの凱旋門(Arco di Augusto)」で、入場した旧市街側の「アウグストゥス通り」から眺めている。凱旋門の表裏はほぼ同じデザインで、高さ9.92メートル、幅8.45メートルあり、両端に城壁の痕が残っている。古代ローマ時代の凱旋門では、現存する最古のもので、紀元前27年に元老院が皇帝アウグストゥスに贈ったもの。ローマを発するフラミニア街道の終端に位置するこの場所に建てられた。


アウグストゥスの凱旋門から、北(正確には北北西)に向けアウグストゥス通りを歩いていくと華やかなお店やカフェなどが連なるショッピングストリートとなり、300メートルほどで旧市街の中心広場「トレ・マルティーリ広場」に到着する。広場は、古代ローマ時代には幹線道路が十字に交差するフォロ・ロマーノ(ローマ市民の広場)だった。現在は南北(長辺)130メートルほどの長方形の広場で、北へ500メートルほど直進するとティベリオ橋に到着する。


「トレ・マルティーリ広場」前方左側(北西側)には、柵で囲まれた遺構が残されている。こちらは、1944年8月16日、ドイツのナチスに抵抗した3人のパルチザン(マリオカペリ、ルイジニコロ、アデリオパリアラニ)が吊るされ亡くなった絞首台の足場があった場所で、瓦礫がそのまま残されている。現在の広場の名称(マルティーリ(Tre Martiri))は、その3人に共通する文字に因んで1946年に名付けられている。


広場前方右側(広場北側)の建物前には、共和政ローマ末期の政治家、軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、前100~前44年)の銅像が飾られている。ルビコン川を越えたカエサルが、自分が指揮するローマ第13軍団に対して、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入したことを演説した場所を記念して1555年に建てられた。現在の「トレ・マルティーリ広場」は、それまで「ジュリオ・チェーザレ広場」(ユリウス・カエサルのイタリア語読み)と呼ばれていた。


広場から、ここまで歩いてきた方向に振り返った左側(南東側)には、時計塔の建つ戦争記念館があり、三軒向こうには、近年再建された大きな八角形の「サンフランチェスコ ディパオラ教会」がある。その教会前面に建つ小さな八角形の東屋風の礼拝堂は、1518年に建築され、1672年の地震後にバロックで再建された「サンアントニオ神殿」で、パドヴァの聖アントニオ(1195~1231)が聖体拝領を行っていた場所である。ここで、ラバが聖人に近づき、ひれ伏したとされる「ラバの奇跡」が後世に伝わっている。
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サンアントニオ神殿の手前の建物から左折して、100メートルほど進んだ右側に「テンピオ・マラテスティアーノ(大聖堂)」のファサードがある。ポータルの中央の大きなアーチ内には、三角形のペディメントと幾何学文様の装飾が施されている。9世紀に建設が始まり12世紀にゴシック様式で再建されたが、1447年からは、「リミニの狼」と呼ばれた領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ(1417~1468)(在任:1432~1468)の下、聖シジスモンドに捧げられた礼拝堂として、ルネッサンス様式で改修工事が始まっている。


左右の身廊壁は、寓話、物語的な浮き彫り柱で装飾された尖塔アーチと、下部の大理石の欄干で仕切られ、それぞれ礼拝堂となっている。これらの装飾は、イタリアの彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(1418~1481頃)による、優雅でやや冷たい印象のネオ・アッテカ技法で施されている。身廊の天井は、梁とタイルを備えた木製のトラスで覆われている。教会内にはリミニ領主シギスモンドとその妻イゾッタの墓などがあり、主祭壇には、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)作品とされる「キリスト十字架像」(1309年頃)が飾られている。
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ところで、リミニは、13世紀から15世紀初頭にかけてマラテスタ家に支配されていたが、中でも、シギスモンドは、教皇軍の有能な司令官・将軍で、コンドッティエーレ(傭兵隊長)としても外貨を稼ぐなど、リミニを豊かにした領主として知られている。そのシギスモンドは、こちらの祭壇の壁面に聖シジスモンド(San Sigismondo)の前で祈りを捧げる姿で描かれている。作品は「シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像(1451年)」(フレスコ画)で、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412~1492)の手によるもの。なお、ルーヴル美術館には、ピエロにより同時期に描かれた領主シジスモンドの横顔胸像の絵画が所蔵されている。


聖シジスモンドはブルグント王国(ブルゴーニュ)の王(在位:516~523)で聖人となった人物。フレスコ画は渦巻きの偽の大理石のレリーフで囲まれた長方形で、中央上部にマラテスタ家の紋章があり、左側の聖シジスモンドが椅子に腰をかけ、中央には聖人を礼拝する領主シジスモンドが描かれている。そして、足元には、忠実の白と警戒の黒を象徴するとされる2匹のグレイハウンド犬が優雅に座っている。右端のトンドには、リミニのシジスモンド城の要塞が描かれており、現在も、旧市街の西端に遺構が残っている。
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次に、リミニから北西方向に10キロメートルほど先の「サンマリノ共和国」に向かう。人口約3万人、国土面積は山手線内とほぼ同じ約60平方キロメートル程度の小さな国家で、中心地は、ティターノ山の山頂付近(標高739メートル)にある。1631年にローマ教皇によって独立を承認されて以来、独自の歴史と文化を育んできた、世界最古の共和国国家である。

サンマリノ共和国では、中心部のリベルタ広場やサンマリノ大聖堂(バシリカ ディ サン マリノ)からも近い「ティタノ スイーツ ホテル サンマリノ(Titano Suites Hotel San Marino)」にチェックインした。夕食はそのホテル併設の「ラ テラッツァ」(La Terrazza)を予約しており、案内された窓際席からは、真下に「スタト美術館」が見下ろせ、その先にはパノラマが広がっている。


席に着き料理を注文したものの、昼の影響も残り、お腹が全然減らない上、やや重めの料理でもあったことから、ほとんど食べずに引き上げた。。
少し寝て目が冷めた午前0時頃に、部屋のカーテンを開け、南側に広がる広場と、西側のティターノ山の中腹から続く丘陵地を眺めてみた。広場には人通りもなく、薄明かりの中、静寂の世界が広がっていた。。

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翌朝午前6時半、部屋から外を眺めると、真下の広場はまだ薄暗く、昨夜と同様に静けさが広がっている。広場の右隣に建つロッジアのある建物は「サン・フランチェスコ絵画館」で、その先隣りの鐘楼は「サン・フランチェスコ教会」である。
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そして、右側に視線を移したティターノ山西麓には、朝日の光が差し込み、丘陵地の稜線を美しく見せてくれる。その先が明日以降に訪問するトスカーナ地方になる。これほどの雄大な景色は、サンマリノ共和国に宿泊しないと経験できないと思った。
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朝食会場で食事をし、歩いて市内観光に出かけた。最初に街から徒歩10分ほどで「グアイタ(第1の砦)」に到着した。石で囲まれた砦内には、大きな塔が聳えており、その塔内の急な木の階段で一番上の部屋まで上ると縦長の小窓がたくさん並ぶ5角形の部屋に到着する。小窓には、蔀(しとみ)の様に、外側に向け跳ね上げられた厚手の木扉があり、窓枠からの金棒で固定されている。小窓からは、周囲を見渡すことができ、特に南側のティターノ山頂の最高点(755メートル)の切り立った岩の上に建つ「チェスタ(第2の砦)」の眺めはまさに絶景の一言である。第2の砦は、13世紀に建築されたが、ローマ時代には既に見張り塔があったと言われている。
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第1の砦は、刑務所として1975年まで使用されており、現在も部屋が残されている。次に、尾根沿いの通りを進み、チェスタ(第2の砦)に向かった。第2の砦は、現在では兵器博物館となっており、銃や鎧などが展示されている。こちらの砦からは、先程までいたグアイタ(第1の砦)方面を望むことができる。こちらからの眺めも素晴らしい。。東側の切り立った崖側はリミニの方向で、西側の斜面に旧市街が広がっている。白い立方体に塔が建つ建物が「サンマリノ政庁」で旧市街の中心部にあたる。
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第1の砦は、11世紀に建設されたが、まさに街を守る位置に建てられているのが分かる。1463年に勃発したリミニ(領主シジスモンド)との間の争いの舞台となったが、結果はリミニに勝利して領土を麓の周囲に拡大することになる。難攻不落の岩山に築かれたサンマリノ共和国の歴史では、それが最後の戦いとなった。なお、北側には、ロッカ・モンターレ(第3の砦)(14世紀築)があるが、やや離れた箇所にあることや、塔には上れないこともあり行くのを諦めた。

砦の見学後は、旧市街の中心にあるリベルタ広場(Piazza della Liberta)にやってきた。その広場に建つのが「サンマリノ政庁」(プッブリコ宮殿) (Palazzo Pubblico)である。1884年から1894年にかけ建設されたネオ・ゴシック様式の宮殿で、観光客も政庁内で開かれる議会を見学することが可能とのこと。手前には、白いカララ大理石の「自由の女神」が建っている。


サンマリノ政庁前で、30分毎に行われる衛兵の交代儀式を見学した。政庁前で常に警備にあたる衛兵は1人だが、儀式には他の3人の衛兵も加わって行われる。衛兵の制服は、内側から白い裾を見せる赤いズボンに、深緑のジャケットを着てベルトで締め、紅白のリボンを付けている。そして頭に赤いポンポンが付いた帽子を被っている。こちらの衛兵の交代式は、5月から9月の夏季期間にのみ行われている。


サンマリノ共和国を発ち、次にラヴェンナに向かっている。アドリア海沿いの道路を通っていると「ルビコーネ川(Rubicone)」を渡る。こちらが、カエサルが越えた「ルビコン川」(イタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界だった)と言われているが、実際にカエサルが渡った川か、他にもいくつか候補の川もあり論争が絶えない。なお、こちらのルビコーネ川は、手前に標識など案内板がないため、予め調べておかないと通り過ぎてしまう


午後1時、ラヴェンナまで北へあと30キロメートルほどの場所にある小さな町ピナレッラ(Pinarella)で昼食をいただくことにした。お店は、リストランテ・ラ クッチーナ(la cucina)で、すぐ東側には、松林のある海岸線が続いている。ピナレッラは、すぐ北側にあるチェルヴィア(人口約4万弱の基礎自治体(コムーネ))から続く人気のリゾートエリアである。


清潔感のある白を基調とした店内は、明るく開放的で、植栽の緑が癒しの空間を演出してくれる。こちらは、ルッコラとパルメザンチーズのエビで、パルミジャーノ・レッジャーノとバルサミコ酢との相性が素晴らしく、新鮮野菜とエビの旨味を一層引き立てる一品。


こちらは、ムール貝とアサリのパスタ。さわやかなオイルの香りと魚介の旨味がパスタに絡まり食欲をそそる一品。大変美味しい。昨夜の料理は、昼の影響もあり、食べることができず残念だったが、こちらの料理を食べてみて、これが昨夜なら、美味しく頂けたような気がした。。


ピナレッラからは、30分ほどで、ラヴェンナ(Ravenna)に到着した。ラヴェンナは、エミリア ロマーニャ州ラヴェンナ県にある県都で、人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)である。古代ローマ時代から中世にかけては、西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府になるなど、大変繁栄した。その繁栄した5世紀初頭から6世紀末にかけて建設された初期キリスト教の聖堂・礼拝堂(8箇所)は、現在、ユネスコの世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として登録されている。

最初に、ラヴェンナ近郊(東南)のクラッセを通る幹線道沿いの広い芝地「ヨハネ・パウロ2世公園」東側に建つ「サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂」(Basilica di Sant'Apollinare in Classe)から見学することにした。イン・クラッセとは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:前27~14)によって築かれた港クラッシス(現クラッセ)(艦隊の意味)を守るために形成された町だが、現在は堆積物によって海岸が後退し、内陸部の寒村となっている。公園には、アウグストゥス帝を称えるブロンズ像が建っている。


これから向かう聖堂・礼拝堂等は、ラヴェンナの観光案内図を参照。

さて、そのアウグストゥス像の後方に建つのが「サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂」(観光案内図は⑧)で、初期キリスト教建築(ビザンティン建築)のバシリカの一つである。東ゴート王国時代の533年、ラヴェンナの24番目の司教ウルシキヌス(在任:533~536)が、東ローマ帝国の銀行家ユリアヌス・アルゲンタリウスなどに資金を要請し建設が始まり、549年に完成し、聖アポリナリス(ラヴェンナ初代司教)に奉献されている。ちなみに595年以降、765年に至るまで、歴代のラヴェンナ司教はこちらの聖堂に埋葬されている。


北東部には、高さ38メートルの円筒鐘楼があるが、こちらは11世紀に追加されたもの。聖堂内へは、ファサードにある前室に入り左端の扉から入室する。

東ゴート王国(493~555)とは、476年に西ローマ帝国が滅亡しイタリア領主として君臨していたオドアケル(433~493)を倒し建国したテオドリック(454~526)の王国である。テオドリックは、東ゴート族(ゲルマン人の一派)の有力指導者の子として生まれ、東ローマ帝国の軍人から最高官職である執政官の地位にも上り詰めた人物である。東ローマ帝国は、そのテオドリックに王の称号を公認はするものの、領土や住民はこれまでの西ローマ帝国のもので、東ローマ帝国からの命令でイタリアの軍司令官としてラヴェンナに遠征した皇帝臣下の一人に過ぎないと考えていた。

聖堂は、幅約30メートル、奥行き約55メートルの3廊式バシリカ教会堂で、身廊と側廊は左右それぞれ12本の円柱とアーチで仕切られている。その突き当り後陣に、ビザンティン美術で彩られた最盛期のラヴェンナのモザイク画が現存している。アプスには、黄金の十字架を中心としたキリスト教世界が広がり、下の窓に挟まれて主なラヴェンナの4人の司教(ウルシキヌス、オルソ、セヴェロ、エクレシウス)のモザイク画が配されている。
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アプスの上部は黄金の天空で、頂部にキリストの手があり、左右に預言者モーセと預言者エリヤが配されている。その中心に十字架のある青い球体が浮かんでいる。大地は気持ちが和らぐような緑色で、樹木や草花が広がっている。左右には、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを表現する3匹の白い羊が球体の十字架を見上げ、その下には左右12匹の羊に囲まれた聖アポリナリスが、両手を挙げ十字架(キリスト)を讃えている。
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窓部分の右端のアベル、メルキゼデク、アブラハムが神に犠牲を捧げる部分と、同じく窓左端にある司教レパラトゥスと東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝コンスタンティノス4世(在位:668~685)の図像は、7世紀に司教レパラトゥス自身により追加制作されたもの。

次に、ラヴェンナ中心部に移動し「サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(Basilica di Sant'Apollinare Nuovo)」(観光案内図は⑥)を見学する。聖堂は505年、東ゴート王国のテオドリック王により「テオドリコ宮殿」(パラティウム)の宮廷教会として建設された、標準的なバシリカ式教会堂である。当時、テオドリック王はアリウス派に属していたことから、アリウス派聖堂として建設されたと考えられている。


テオドリック王は、ローマのインフラ整備や、諸宮殿の修復も実施するなど、帝都ローマへの敬意も忘れなかったことから、安定的な王国の統治が続いていた。しかし、東方(東ローマ帝国)でユスティニアヌス王朝の第2代皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~565)が就任し、テオドリック王が信仰していたアリウス派への迫害を始めたからことから、テオドリック王は、ローマ教皇をコンスタンティノープルに派遣して解決策を探るが、結果、妥協案が示されるものの根本的解決に至らず、東方との緊張関係の中、亡くなっている。その後、東ゴート王国は、将軍ベリサリウス(505頃~565)率いる東ローマ帝国軍により540年に占領されてしまう。

そして、東ローマ帝国に再編入されて以降は、アリウス派は異端とされ、テオドリコ宮殿の宮廷教会は、聖マルティヌス(トゥールのマルティヌス、316頃~397頃)の聖堂として奉献し直され、856年には、港クラッシス(現クラッセ)から聖アポリナリスの聖遺物がもたらされ、現在の名称となっている。

6世紀の制作当初のまま存在していたモザイク画は、長い年月の間に、たびたび高潮の被害に遭うようになり、16世紀以降に、当初の4段構成から最下段を取り壊し、床面を持ち上げて現在の3段構成となっている。


最上段はキリストの奇跡と受難の26場面があり、その下の高窓部分には旧約聖書の預言者または福音記者と12使徒と推察される16人の聖人像が配置されている。ちなみに、こちらは、北身廊壁側の拝廊近くにあるモザイク画で、左右に、赤い衣の天使(善)と青い衣の天使(悪)を配したキリストが、羊と山羊を2つのグループに分けられ、善と悪の分離を象徴している。


そして、圧倒されるのは、その下部の身廊壁を覆うモザイク画である。こちらの北身廊壁の拝廊近くには、当時アドリア海全体で最大規模とも言われた、ローマ帝国の主要な艦隊本部の一つ「港クラッシス」(現クラッセ)の様子で、一対の高い石の塔の間に3隻の船が停泊している。右隣には、巨大なラヴェンナの城壁が聳え、城内には、円形劇場、ポルチコ、大聖堂、円錐形の屋根で覆われた建築物などが建ち並んでいる。
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城壁の右隣からは、背の高いヤシの木を背景とした花咲く牧草地に移り、ベールで顔を覆い、王室のローブを着た聖女22人が、神聖な供物のしるしとして、貴重な王冠を持って出立している。
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聖女の行列の先頭には、マント姿にフリジア帽をかぶった3人のマギ(東方三博士)が捧げものを差し出している。その先には、4人の天使に囲まれた聖母子像が座っており、キリストの顕現を記念する「公現祭」が表現されている。
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南身廊壁の拝廊側には、聖堂や建物が建ち並ぶラヴェンナの街を背景に、エントランスの列柱に白と金で装飾されたカーテンが掛けられた宮廷「テオドリコ宮殿(パラティウム)」がある。白い柱には、手が出ている箇所があることから、もともと柱の間にはテオドリックを始めとするアマル王家の人物が表現されていたと推定されている。
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そして、テオドリコ宮殿の先からは、聖マルティヌスに導かれ、白いトガを身に着け、神聖な供物のしるしとして王冠を持参する、聖なる殉教者の26人の行列が続いている。殉教者は、髪型や色、年齢もまちまちで、王冠の持ち方、立ち姿、足の向き、膝を曲げるなどそれぞれ個性的に表現されている。
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聖マルティヌスの先には、宝石が散りばめられ、赤く厚手の柔らかそうなクッションの王座に座るキリストと、左右に4人の天使が配されている。肌の赤味や筋肉表現まで濃淡を使い分け、光と影をも感じさせる精緻なモザイク技法が凄い。。
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次に「サン・ヴィターレ聖堂」(Basilica di San Vitale)(観光案内図は①)にやってきた。ラヴェンナの23番目の司教エクレシウス(在任:521~532)が、東ローマ帝国の銀行家ユリアヌス・アルゲンタリウスなどに資金要請し532年に建設が始まり、547年大司教マクシミアヌス(在任:546~556)によって完成された、ビザンティン建築・初期キリスト教建築の代表的な聖堂(教会堂)で、八角形の集中式平面という特殊な構造をしている。


サン・ヴィターレ聖堂は、聖ウィタリスの聖遺物を信仰するためのマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)として建てられた。ウィタリスはミラノ出身で3~4世紀頃に殉教し、ラヴェンナに埋葬されたとされているが、著名な殉教者でないことから、何故、聖堂建設に至ったのか、理由は今も解明されていない。。
聖堂建設中の545年は、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世により、ラヴェンナの座が司教から大司教に引き上げられた時期であり、初代大司教には、イストリア半島プーラ出身で東ローマ帝国宮廷側近のマクシミアヌスが選出されている。

内部には、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世と皇帝テオドラを中心とした人物群を描いたモザイク壁画が描かれており、ビザンティン様式美術のもっとも重要な作品となっている。緑と金を基調とし、後陣から天井へ、そして左右身廊壁面に至るまで眩いばかりの美しいモザイク世界が広がっている。
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ラヴェンナは6世紀以降、東ローマ帝国のイタリア統治の拠点として総督府が置かれ繁栄を謳歌していくが、8世紀初頭には東ローマ帝国から分離し、衰退していく。しかし、このことにより東ローマ帝国での聖像破壊運動(イコノクラスム)の影響を受けることなく、現在も初期ビザンティン美術の美しいモザイク画が残ることとなった。

青い地球儀に座ったキリスト(全能者ハリストス)が、片方の手に7つの封印の巻物を持った2人の大天使の間にあり、もう一方の手に持つ殉教の冠を左端の聖ウィタリスに渡そうとしている。聖ウィタリスは、手を衣で覆って受け取ろうとしている。右側が司教エクレシウスで、聖堂のモデルを持っている。
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後陣に向かって左側に「ユスティニアヌス1世と随臣」のモザイク画がある。中央の金の器を持つユスティニアヌス帝は3人の高官に囲まれ、その前に十字架を持つ大司教マクシミアヌス、福音書を運ぶ執事、香炉を運ぶ副執事がいる。高官の背後には、警備兵が続いている。ユスティニアヌス帝に向かって左隣の高官は東ローマ帝国の将軍ベリサリウスで、対ペルシア戦争(530年)、首都コンスタンチノープルでニカの乱の鎮圧(532年)、アフリカのバンダル征服(534年)、東ゴート征服(540年)などで活躍し「大スキピオの再来」と言われた。
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後陣に向かって右側で「ユスティニアヌス1世と随臣」と対になる場所に「皇妃テオドラと侍女たち」のモザイク画がある。テオドラは、紫色のマントで覆われ、裾にはマギが贈り物を持って現れる姿の金の刺繡が施されている。そして、手には、宝石がちりばめられた金の杯をキリストに捧げようと持っている。周囲には市民高官と、女官や法廷の女性のグループが続いている。左側には、洗礼を思わせる象徴の噴水がある。
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鮮やかに彩られた衣やマントに身を包む上流社会の人物たちが、豪華な宮殿風な装飾を背景に集合写真の様に並ぶ姿は荘厳そのもので、周りの幾重にも連なる幾何学文様の色鮮やかな縁取りも、芸術性を一層引き立てている。まさにモザイク画の頂点ともいえる作品。

後陣に向かって左側のルネットは「アベルとメルキゼデクの犠牲」で、神に羊と穀物を捧げている。ペンダントクロスには、クリペウスを支える2人の空飛ぶ天使と、左右に、モーセと預言者イザヤがいる。モーセは連画で、石の板を受け取るためにシナイ山に登っていき、サンダルを脱いで燃える茂みに近づこうとしている。その上、左には、福音書家聖マタイとシンボルである天使、右には、聖マルコとシンボルであるライオンが表現されている。
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後陣に向かって右側のルネットには「イサクの燔祭」のモザイク画がある。アブラハムのもてなしを受ける3人の天使を中心に、アブラハムは刀を振り上げ、息子イサクの首をはねようとしているが、神の手が出て、止めようとしている。

そして、サン・ヴィターレ聖堂に隣接する「ガッラ・プラキディア廟堂」(Mausoleo di Galla Placidia)(観光案内図は②)にやってきた。現在では、サン・ヴィターレ聖堂に付属しているように見えるが、本来は道路向かいのサンタ・クローチェ教会堂(観光案内図は⑩)の付属霊廟(埋葬所)として5世紀に建設されたもの。16世紀に道路が建設されサンタ・クローチェ教会堂とは分断されている。


サンタ・クローチェ教会堂とガッラ・プラキディア廟堂は、ローマ帝国の最後の皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)の娘ガッラ・プラキディア(390頃~450)により建設されたことから、ラヴェンナの初期キリスト教建築群の中では最も古い時代(西ローマ帝国の首都時代)のものとなる。

建物の構造は、ギリシャ十字型で、室内のドーム空間の側面に4つのルネットが隣接している。それぞれのルネット下部の分厚いヴォールトは、幾何学文様や草花をモチーフにした高度で繊細なモザイク画で覆われている。
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中央部の天井には、星がちりばめられた濃紺の天空を中心に黄金十字架が輝き、四隅には福音記者をも表すセラフィムが画かれている。その下の四方のルネットには、それぞれ2人づつの使徒が、その十字架に向かって腕を上げている。そして、半透明のアラバスターが嵌め込まれた小窓と、泉を飲む神の聖霊を象徴する鳩が配されている。
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入口方向のルネットには、書物と十字架を持ったヒスパニア(スペイン)の殉教者聖ウィンケンティウス(~304頃)と4つの福音書を収蔵した棚、そして聖人が殉教の際に使用された炎の鉄格子が表現されている。そして、入口側を除いた3箇所のルネットの下にはそれぞれ石棺が安置されているが、4世紀と5世紀のものであることから、ガッラ・プラキディアの親族のものと言われている。

小規模な廟堂で、光が入りにくく、やや暗めの色調であることから地味な印象を受けるが、細かい様々な文様を効果的に組み合わせて大胆に表現されており、他をも凌駕するほどの大変高度なモザイク技法が展開されている。

時刻は午後6時になったので、「アリアーニ洗礼堂」(現:聖霊教会)(Battistero degli Ariani)(観光案内図は③)の見学で最後となる。サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂と同時に、5世紀の終わりから6世紀の初めにかけ東ゴート王国のテオドリック王によって建てられたアリウス派の洗礼堂である。洗礼堂は八角形で、上部に小さな後陣とアーチ型の開口部があるが、もともとは大きな複合施設の一部だった。


天井のドームに「キリストの洗礼」のモザイク画がある。中央には髭のないキリストが、ヨルダン川に下半身を浸け、鳩の形をした聖霊から水を吹きかけられている。右側には、まだら模様のヒョウ柄の皮を身に付けた洗礼者ヨハネが洗礼を行い、左側には、緑のマントを腰にまとった白髪の老人が革のバッグをかけて座っている。周りには、宝石で飾られた十字架の王座を中心に、12人の聖殉教者が、捧げものをしている。
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テオドリック王が深く信仰したアリウス派の名称を冠した礼拝堂で、モザイク画は、ヨルダン川の透き通る表現や、くっきりとした輪郭線、濃淡のある色使いなどが、とても美しく、モザイクとは思われないほどの高度な技が駆使されている。ところで、テオドリックの遺骨は「テオドリックの霊廟」(観光案内図は⑦)に収められたが、ゴート戦争で、取り除かれ、その後キリスト教の礼拝堂となっている。

以上で、ラヴェンナにおけるモザイク画の見学は終了である。8箇所の内、6箇所の見学となり、全部とはいかなかったが、メイン所は何とか訪問できた。どのモザイク画も古い時代に制作されたにも関わらず、損傷がほとんどなく、長年に渡り大切に保存されてきたことに感銘を受けた。

今夜は、ズヴィッツェリ広場に建つ「テアトロ・ダンテ・アリギエーリ」(Teatro Dante Alighieri)(観光案内図は22)で、午後9時開演のバレエ「カルメン」(ジョルジュ・ビゼー作曲、1838~1875)を鑑賞した(後方サイドステージ18ユーロ)。主演、ロレーナ・フェイホー(Lorna Feijóo)、イニャキ・ウルレザガ (Iñaki Urlezaga)。ストーリーは、ジプシーで情熱的で自由な性格のカルメンを中心に、恋人ミカエラがありながら、カルメンに恋する真面目なホセと、やはりカルメンに恋する、ホセと対照的な性格の闘牛士エスカミーリョとが織りなす人生絵巻である。


今夜の公演は毎年5月から7月にかけて行われる「ラヴェンナ フェスティバル」の一環で、もともと1990年に、指揮者リッカルド・ムーティ夫人のクリスティーナ女史が創設した音楽フェスティバルがスタートとなっている。

劇場は、フィレンツェ生まれの詩人ダンテ・アリギエーリ(1265~1321)に因んで建てられたもので、1929年から、現在の5層の25のパルコとガレリアのある美しい劇場となっている。なお、ダンテは、晩年にこの街で「神曲」を書き、亡くなり、サン・フランチェスコ教会そばの霊廟(観光案内図は28)に納められている。

終演は午後11時前となった。今夜のホテルは、ラヴェンナから北西に25キロメートルほど離れたフォルリのホテル(ミケランジェロ)で、お腹も減り、急ぎ向かった。到着後、ホテルの道路を挟んで斜め向かいに、ピッツェリア・スカルピーナ(Scarpina)があり、まだお客がいたので、食事できるか聞いたところ、にこやかに迎え入れてくれ大変嬉しかった。
(2006.7.13~14)

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