こちらは、標高500メートルの高地、ラグーザ(Ragusa)スペリオーレ地区のコルソ・イタリア(イタリア通り)(西から東に向けて下り坂)になる。右先のクリーム色の建物が、昨夜の宿泊ホテル「アンティカ バディア ルレ」(Antica Badia Relais)で、イオニア式円柱で囲まれた門を入った中庭に入口がある。
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ホテル前のコルソ・イタリアを少し下った向かい側に「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂」がある。ファサードの左側には、約50メートルの高さの鐘楼が立つ(右側は未完)など、シチリア島で最大の教会の一つで、1718年、建築家ジュゼッペ・レキュペロとジョヴァンニ・アルシディアコノの設計により、バロック様式で工事が始まっている(1778年奉献)。大聖堂は、ラグーサ・スペリオーレの守護聖人、聖ジョバンニに捧げられている。
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ファサードにあるポーチの上には、聖母マリア(無原罪の御宿り)像と、左右には洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの像があるが、現在は修復中で確認できない。この時間(9時50分)、ちょうど陽光がファサードにあたり輝いている。ファサード手前には、大きなサン・ジョバンニ広場があり、傾斜を平面にするため、中央を階段で結んだ2段テラス構造となっている。
こちらは、大聖堂の交差部付近を北側のコルソ・イタリア沿いの小庭園から眺めた様子で、中央には、1783年に建てられたドームが確認できる。ドームは20世紀に入り施された銅板で覆われている。
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コルソ・イタリアを400メートルほど東に下り、左折して100メートルほど更に下ると、昨夜訪れた見晴らしの良い展望台に到着する。前方には、イブラ地区(旧市街)の建物が折り重なる姿まで、はっきりと確認できる。高台に建つ三階建ての赤い屋根の建物「ヴィラ・カステル・ヴェッキオ」が頂上となり、その先は見えないが、街は東側のなだらかな斜面沿いに続いていく。ヴィラの北隣に見えるドームは、サン・ジョルジョ大聖堂である。
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イブラ地区の手前にはファサードと3つの身廊を持つ「プルガトーリオ教会」が望める。その教会手前の通りが、スペリオーレ地区とイブラ地区との境目になる。ちなみに、左側のスペリオーレ地区斜面沿いに見える青いドームは「サンタ・マリア・デッレ・スカレ教会」になる。
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このイブラ地区は、イタリアで1999年から放送されている人気テレビシリーズ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」のロケ地の一つとして知られている。主に、タイトルバックでの空撮影像、サン・ジョルジョ大聖堂前のドゥオーモ広場、プルガトーリオ教会前(長距離バスの停留所として)などが登場する。ドラマでは、架空の街ヴィガータの警察署が舞台となるが、アグリジェント県、ラグーザ県を中心としたシチリア島南東部で広く撮影が行われている。
昨夜同様に階段を降りポンティ谷にある橋を渡ると「プルガトーリオ教会」の前に到着する。プルガトーリオ教会のファサードは、コリント式の柱頭により3つのパートに分かれている。それぞれ扉口があるが、中央のみが実際の門となり、その門上部には、植物文様の浮彫が施され、パーガトリー(煉獄)を表わした彫刻が飾られている。この時間、昨夜と異なり、ファサード前の階段には誰もいなかった。
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教会に向かって、左に2つ目の通りを進むと、左側に豪華なバロック様式の建物が建っている。「コゼンティーニ邸」(Palazzo Cosentini)で、ラッファエーレ・コゼンティーニ男爵とその息子のジュセッペ・コゼンティーニ男爵により1779年に建てられた。ラグーサ・バロック様式の貴族の邸宅を代表する建物で、バルコニー下のユニークでグロテスクなバロック彫刻が見どころである。
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こちらは、コゼンティーニ邸を通りから見上げた様子で、3階部分の3か所のバルコニーの下に、それぞれ彫刻が施されているのが確認できる。
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こちらは、建物に向かって左端の彫刻で、それぞれ楽器を持ち演奏している様子が躍動的に表現されている。下部にある大きな顔は、それぞれの演奏者の内面を反映しているとされる。
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さて、次に「モディカ(Modica)」に向かうべく、両市街の間のポンティ谷から道路を南に下って行く。向かって左が新市街のスペリオーレ地区で、右側がイブラ地区である。横から見ると、谷間の深さがよくわかる。
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こちらは、イブラ地区の頂上付近で、ヴィラ(カステル・ヴェッキオ)や、その右側のやや奥に「サン・ジョルジョ大聖堂」のファサードとドームが見える。
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ラグーサまでの往路は南西方向からだったが、これからは一旦、東に向かい、SS115号線を経由した後、SS194号線で南下する。30分ほどで、大きなラウンドアバウトを過ぎ、渓谷に架かる陸橋を横断すると、まもなくモディカに到着する。
モディカは、ラグーザ県にあり、周辺地域を含む人口約5万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ラグーザ、ヴィットーリアに次ぐ県内では第3位のコムーネ人口を有している。1693年の壊滅的な地震の後に再建された歴史的地区は、後期バロック建築の最も重要な例の一つとされている。2002年には、ヴァル・ディ・ノートのいくつかの町とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、スペイン支配時代から伝わる伝統的な製法で作られる素朴な味わいのモディカ・チョコレートが人気である。
こちらはモディカにある「サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会」(S Giovanni Evangelista)になる。最初の寺院は1542年、1693年の地震で深刻な被害を受けている。18世紀に入りバロック様式で再建されるものの、1848年のさらなる地震により損傷を受けたため、1893年にサルヴァトーレ・リッツァの設計によりファサードをさらに改修し1901年に現在の姿となっている。教会は街の歴史的中心部の高台エリアとなるモディカ・アルタ(Modica Alta)にあり、尖塔の頂部の十字架の場所は、標高449メートルと、モディカの最高地点を表している。
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教会に向かって細い路地を左に200メートル進むと、展望台がありモディカの街並みを一望できる。こちらは南の方向になる。モディカは、19世紀まで急流で削り取られた二つの峡谷にまたがって町が広がっていたが、20世紀初頭まであった川は「ウンベルト1世通り」(Corso Umberto I)となり、街の主要道路となっている。高台がモディカ・アルタで、低い町がモディカ・バッサ(Modica Bassa)と呼ばれている。中腹には、大きなドームとファサードが聳える「サン・ジョルジョ大聖堂」があり、そのファサードから下り階段が、モディカ・バッサに向けて続いている。
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これまでは、丘の上に広がる街並みを見ながら、麓から上っていくケースが多かったため、突然眼下に街並みが広がる景色は圧巻だった。こちらの眺めは、前述のドラマ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」で、ラグーサ同様にタイトルバックでの空撮影像として登場する。
その「サン・ジョルジョ大聖堂」前にやってきた。ファサード前から延びる階段の途中には、車通行可能のコルソ・サン・ジョルジョが横断している。こちらは、その更に下にある踊り場から見上げた様子で、この下からは、左右階段となり再び直線階段となって、ウンベルト1世通りまで計250段の階段が続いている。
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サン・ジョルジョ大聖堂は、12世紀初、ノルマンのルッジェーロ1世により建てられたが、1542年、1613年、1693年とモディカを襲った度重なる地震で被害を受けて1738年に再建された。バロック様式のファサードは、ロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計による。再建プロジェクトの終了後も、いくつかの鐘と時計の設置や、尖塔に鉄の十字架が取り付けるなどの改修が行われたが、1842年に完了し、今では全高62メートルの堂々たる塔を持つファサードとなっている。
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教会の内部は、ラテン十字の形をしたバシリカプランで、コリント式の柱頭が乗った22本の柱が支える5つの身廊に分かれている。主祭壇には、マニエリスムの画家ベルナルディーノ・ニグロ(1538~1590)による「多翼祭壇画」(10枚の絵画で構成)があり、聖家族、キリストの生涯、聖マルティヌス、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)と竜が描かれている。中央交差部には高さ36メートルのドームがある。
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時刻は昼の12時となり、モディカを後にし、再びシラクサ(シラクーザ)に戻るべく出発した。高速E45号線を経由して、午後2時前、ネアポリス考古学公園にある「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に到着した。「ネアポリス考古学公園」からは、600メートルほど東に位置しており、緑豊かな面積9,000平方メートルの大きな庭園内に建つ近代的な博物館である。
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もともと博物館は、1878年にオルティージャ島のドゥオーモ広場にオープンしたが、展示品・出土品が年々増えたため、1988年に現在の場所に移転している。シチリアの考古学研究に大きな貢献をしたパオロ・オルシの名前に因んでいる。ギリシャ時代の陶器や彫刻、神殿のレリーフなど時期や場所ごとに4つのブロックに分けられ展示しており、展示品数は18,000件を誇っている。
今日は年末のためか、来館者が非常に少なく、ゆっくり見学できそうである。こちらは、シラクーザ県レンティーニから出土した紀元前6世紀の大理石クーロス(青年)像である。
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こちらのテラコッタは「翼のあるゴルゴーン」で、オルティージャ島にあった神殿の屋根を飾っていたもの。ゴルゴーンは、ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物で、魔除けに用いられた。こちらの作品では、邪眼を強調するため、正面を向いた姿で表されている。
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コレー像(若い女性の彫像)が並んでいる。古代ギリシャでは、奉納像や墓像として数多く作られた。
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こちらのコレー像は、紀元前6世紀「玉座の女神デメテル・ケレス」(テラコッタ)で、カターニア県グランミケーレから出土したもの。女性の表情からアルカイック期のものとわかる。
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こちらは、考古学博物館を代表する「恥じらいのヴィーナス」(Venus Pudica)で、シラクーザ考古学者ヴェーネ・ランドリーナの名前にちなんで「ランドリーナのヴィーナス」とも呼ばれている。フランスの自然主義の小説家、劇作家で詩人のモーパッサン(1850~1893)が、夢中になり賞讃した大理石の彫像で、紀元2世紀のローマンコピーである。
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エトナ山の麓、カターニア県アドラーノ(Adrano-Mendolito)で出土した、高さ19.5センチメートルのブロンズ像「アスリート」(紀元前460年頃)で、彫刻家ピタゴーラ(Pitagora)の手によるもの。
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こちらは、ギリシャ神話に登場する名医「アスクレピオス」の頭部像である。アスクレピオスが持っていた、ヘビが巻きついた杖は「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。作品は、紀元前5世紀前半アテネで活躍した彫刻家アテナ・プロマコスのローマンコピー(Augustan copy)である。
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黒像式のアンフォラ(右)とレキュトス(左)。アンフォラはワインやその他の必需品を運搬・保存するためのもので、レキュトスはオリーブ油の貯蔵に使われた。黒像式とは、人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法で紀元前7世紀に発明された。
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こちらは、赤像式アンフォラである。赤像式は、紀元前6世紀末から造られ始めた。黒像式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がった。
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1時間半ほど見学した後、今夜の宿のチェックインのため、オルティージャ島に戻ってきた。今夜は、ユダヤ人地区、ジュデッカ通り沿いにある、「B&Bラ・ヴィア・デラ・ジュデッカ」(La Via Della Giudecca)に泊まることにしている。周辺は、細い路地が入り組んだエリアだが、宿は、サン フィリッポ アポストロ教会前の小さな広場に面して建っており一息つける。部屋も清潔で、台所、テーブル、広いバスタブもあり居心地が良い。
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午後4時を過ぎ、宿からは西に300メートルほど、人がすれ違うのが辛いほどの狭い通りを抜けて「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が建つドゥオーモ広場にやってきた。
この時間、夕日が大聖堂のファサードに反射して美しく照らされている。大聖堂は、もともと紀元前480年頃に建設されたアテナ神殿で、当時の神殿入口は、今と逆の神像に朝日が差し込む様に東側にあった。ちなみに、アテナ神殿建設の経緯は、シチリア中央部にあったゲラの僭主となったシュラクサイの僭主ゲロンが、ヒメラの戦い(紀元前480年、カルタゴ軍の来襲を撃破した)で勝利し、賠償金を得たことによる。
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アテナ神殿は7世紀のビザンチン時代に、初期キリスト教のバシリカに改築されるが、9世紀にはアラブ人によりモスクに変えられている。しかし1093年、初代シチリア王ルッジェーロ2世の父親でシチリア伯のルッジェーロ1世(1031~1101)により、再び教会に戻されている。その後は、1542年、1693年の地震で大きな被害を被るが、1728年に建築家アンドレア・パルマの設計で新たに工事が始まり、20年間の工事中断期間をへて1753年に現在の大聖堂として完成している。
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大聖堂のファサードは、下部に、コリント式の6本の柱があり、うち中央の4本の柱は、ポータルを囲み、精巧なティンパヌムを支えている。上層部にも、4本のコリント式の柱があり、中央の小さな2本のコリント柱を持つ壁龕内には聖マリア(無原罪のお宿り)の像が飾られている。他にも、下部から伸びる左右のコリント式の柱の頂部にシラクサのマルシアーノと、シラクサのルチア(283~304)(シラクサの守護聖女)の像があり、広場からの階段左右には聖ペテロと聖パウロの像がある。これらの彫像は、パレルモの彫刻家イグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti、1719~1797)が手掛けたものである。
聖堂内の身廊はノルマン時代のままで、天井は、1518年に木製の梁で覆われたもの。内陣は、バロック様式で両側に木製の聖歌隊席(18世紀後半)があり、天井は木造で、金箔で装飾された小さな八角形の格間天井で構成されている。
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後陣は、ファサードの彫像制作の建築家イグナツィオ・マラビッティが1746年に完成させたもので、装飾、浅浮き彫り、多色の漆喰でバロック様式の漆喰を支える精巧な金色の漆喰を備えた4本のコリント式の柱により形成されている。中央には「マリアのキリスト降誕」(17世紀)の絵画があり、ペディメントには、マリオ・アルベルテッラが描いた「王なるキリスト」(1927年)の絵画が飾られている。
身廊と側廊を隔てるアーチ柱は、他の教会や大聖堂とは異なり、無骨な柱となっているが、ノルマン時代に使用されていたアテナ神殿の壁を削ったものをそのまま使用している。床は、1444年に遡るもので、全体に精巧な幾何学的図形が表現されている。
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側廊側の壁には、アテナ神殿のドーリス式の円柱が、そのまま埋めこまれている。かつてこの場所にバロック様式の祭壇があったが、20世紀初頭の修復工事で取り除かれ、現在は3体の像が飾られている。奥から手前にかけて、アレクサンドリアのカタリナ(制作者不明、15世紀作)、聖母子(ドメニコ・ガジーニ(1430~1492)作)、シラクサのルチア(アントネッロ・ガジーニ(1478~1536)、1527年作)になる。
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ドゥオーモ広場から、直線距離で300メートルほど南にある「ベッローモ(ベッラモ)宮殿博物館(Palazzo Bellomo)」にやってきた。13世紀に造られたカタロニア様式の残る美しい宮殿である。
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中庭には、様々な陶磁器や紋章オブジェなどが展示されている。なかでも、階段を下りた向かい側の北側壁面には、ひと際大きなスペインのカルロス2世(1661~1700)の王室の紋章が展示されている。こちらは、オルティージャ島へのアクセスを規制する目的で、1673年に建設された軍用門(ポルタ・リニー)(~1893)の上部に飾られていたもの。ポルタ・リニーは1893年に取り壊された。
こちらは聖母子像。15世紀初頭、シラクーザの聖ルチア教会の祭壇画。
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神の子羊と受胎告知(13世紀~14世紀、シラクーザ聖フランシス教会)。
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ヤシの左右に向かい合うライオン(モザイクの断片、12世紀)。
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この博物館を代表する作品が、このアントネッロ・ダ・メッシーナの受胎告知である。残念ながら写真不可につき、取りあえず、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像を乗せさせていただく。
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午後6時になり、すっかり暗くなった。次にドゥオーモ広場から200メートルほど北にある、アルキメデス広場(Piazza Archimede)にやってきた。このあたりが、だいたい、オルティージャ島の真ん中に位置している。この広場はややいびつな正方形で、中央に円形の「アルテミスの噴水」(Fontana di Artemide)(Fontana di Diana)がある。
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噴水は南向きで、中央に、弓と犬を持つ狩猟の女神アルテミス(ダイアナ)の姿があり、足元に、ギリシャのアルフェウス川の神アルフェウス(Alpheus)と、ニュムペーであるアレトゥーサ(Arethusa)がいる。周囲には、海豚や海馬に乗るトリトンが4体飾られている。カターニアを中心に活躍した彫刻家ジュリオ・モスケッティが1907年に建設した記念碑的な噴水だが、暗くて良く見えない。
ちなみに、観光客が車で、オルティージャ島を走行するには、本土からオルティージャ島の中央部に向け南下し、こちらのアルキメデス広場から、東海岸に抜ける一方通行の横断道路と、本土からオルティージャ島に入り、西海岸から南に向かい、マニアーチェ城塞の手前から、迂回して、東海岸を上る一方通行の環状道路との2本がメインの通りとなる。
これから、ジュデッカ通り沿い(ホテルから50メートルほど北)にある、オペラ・デイ・プーピ(L'Opera dei Pupi)で、シチリア伝統の人形劇を鑑賞する。プーピは、19世紀初頭にシチリアの大衆芸能として生まれた人形劇で、2001年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。
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座席数は30名ほどで、舞台も横幅は3メートルほどの小ささである。30分前で3名ほどが座っていた。上演時間前には、ほぼ満席になったが、立見客で溢れかえるといった感じではなかった。
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上演時間は50分ほど。今夜の演目は中世シチリア王国の騎士物語のようだ。ストーリーは操り人形師(プパーロ)が即興で進めていくらしい。人形のサイズは40センチメートルほどで、頭部と右手に付けられた棒で操っている。例えば、乱闘シーンは非常に激しい動きで、人形の動きはなかなか手の込んだものであった。
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さて、鑑賞後、2日ぶりに、カヴール通り沿いのトラットリア、シチリア・イン・ターヴォラ(Sicilia in Tavola)に来た。予約していないし、午後7時半を過ぎており断られるかと思ったが、無事食事にありつけた。今日は赤ワインとして、シラーのバッリョ・ディ・ピアネットを注文する。
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前菜は、ビュッフェテーブルに並ぶいくつかの郷土料理から、少しずつ皿に載せていく。ビュッフェスタイルで前菜の盛り合わせを頂く。
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イカ墨のスパゲッティなどを頼んだ。
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**********************************
翌朝、これから「マニアーチェ城塞(Castello Maniace)」の見学をすることにしている。オルティージャ島の西海岸沿いの通りを南に向かうと、突き当りにマニアーチェ城塞の入口がある。チケットを購入し、ゲートを入ると、周囲に管理棟や、屋外バールなどがある矩形の広場となり、その広場を横断して、胸壁塔のあるアーチ門に繋がる横断橋を渡る。
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アーチ門をくぐると、周囲を城壁に囲まれた、ややいびつな敷地の広場に到着する。そして、その広場の先に、左右に側防塔を持つ横長の城塞がある。
城塞は、1038年に街を包囲して占領したビザンチン帝国のギリシャ将軍ジョルジョ・マニアーチェ(ゲオルギオス・マニアケス)(~1043)により築かれたものだが、現在の要塞は、1232年~1240年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)により拡大改築されたものがベースとなっている。
城塞は、時の支配者や権力者により、改築、強化などが繰り返されている。また、刑務所として使用されたことや、名称が変更されたこともあり、近年では、陸軍兵舎として使用されるなどの変遷を経て現在に至っている。
側防塔を持つ横長の城塞の中央にある大きなアーチ門を入ると中庭で、更に先の門を入ると、尖頭アーチやヴォールトの天井で構成された空間に到着する。ノルマン建築の影響を受けた構造で、設計は皇帝フリードリヒ2世の宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニによるもの。
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城塞内には、ギリシャ時代のブロンズの雄羊が2頭(コピー)展示されている。もともと紀元前3世紀に2頭制作され、シラクサの「アガトクレス宮殿」を飾っていたとされる。その後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、マニアーチェ城塞を再建した際、移設して、要塞の入口を飾るために設置した経緯を踏まえて、コピーが置かれている。現在、オリジナルは、パレルモにある「王立考古学博物館」に所蔵されている。
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ところで、フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)は、フリードリヒ1世(赤髭王)の孫で、父のハインリヒとシチリア王女(ノルマン朝)コスタンツァとの間にシチリア島で生まれている。幼時に父が死んだためローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育つ。当時のパレルモの国際的な環境もあり、開明的な文化人として成長した彼は、宗教観を超えた合理的な政策を推し進めていく。1220年には、シュタウフェン朝として神聖ローマ皇帝に即位し、ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざすものの、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、道半ばにして崩御している。
城塞を出ると、要塞化された半島先端部となる。中央は吹き抜けで、周囲はアーケードで取り囲まれ狭間窓を持つ稜堡となっている。その稜堡の屋上には、大人の身長ほどの高さの防御壁で取り囲まれている。所々に、防御壁の強化のため凹角堡が設けられている。
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こちらは、稜堡の屋上の先端部から振り返った様子で、要塞の左側の側防塔には灯台がある。また、右下の海水面近くに設けられた狭間窓も確認できる。
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さて、そろそろお世話になったシラクーザともお別れである。マニアーチェ城塞を後にし、海岸沿いの歩道をドゥオーモ広場に向け歩く。振り返ると城塞にあった灯台がわずかに見える。最後にドゥオーモ広場の聖ルチア教会で、カラヴァッジョ(1571~1610)の「聖ルチアの埋葬」を見て、オルティージャ島を離れることにした。
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こちらが、ドゥオーモ広場の聖ルチア教会の祭壇に飾られた「聖ルチアの埋葬」で、カラヴァッジョが、1608年にシラクサ滞在中に描いたとされている。もともとは、シラクサ中心部(本土)にあるサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇に飾られていたが、修復後は、オルディージャ島にあるベッローモ宮州立美術館に展示されていた。
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教会の祭壇には聖ルチア(シラクサのルチア)の像が飾られていた。 ルチアは、304年、ディオクレティアヌス帝時代にシラクーザで殉教し、シラクサの守護聖人になっている。こちらの銀製像は、16世紀のピエトロ・リッツォ制作によるもので、喉元に剣が突き刺さった姿を表現している。通常、シラクサ(シラクーザ)大聖堂に祀られているが、毎年12月13日の聖ルチア祭では行列を組んで本土にあるサンタ・ルチア教会まで運ばれ、1週間展示された後、大聖堂に戻されるが、この日はこちらに飾られていた。
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オルティージャ島から本土方面に向かう橋の手前、パンカリ広場に広がるアポロン神殿に寄る。ここは、紀元前6世紀初に建てられた島内最古のドーリス式神殿で、近年太陽神アポロンへの献辞が発見された。遺跡は、多くが原型を留めないほど瓦解しており、巨石が散乱している。このあたりは、本土の新市街に近く、遺跡を取り囲むように周りに新しい建物が立っている。時の流れを肌で感じる風景である。。
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(2012.12.27~28)
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ホテル前のコルソ・イタリアを少し下った向かい側に「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂」がある。ファサードの左側には、約50メートルの高さの鐘楼が立つ(右側は未完)など、シチリア島で最大の教会の一つで、1718年、建築家ジュゼッペ・レキュペロとジョヴァンニ・アルシディアコノの設計により、バロック様式で工事が始まっている(1778年奉献)。大聖堂は、ラグーサ・スペリオーレの守護聖人、聖ジョバンニに捧げられている。
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ファサードにあるポーチの上には、聖母マリア(無原罪の御宿り)像と、左右には洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの像があるが、現在は修復中で確認できない。この時間(9時50分)、ちょうど陽光がファサードにあたり輝いている。ファサード手前には、大きなサン・ジョバンニ広場があり、傾斜を平面にするため、中央を階段で結んだ2段テラス構造となっている。
こちらは、大聖堂の交差部付近を北側のコルソ・イタリア沿いの小庭園から眺めた様子で、中央には、1783年に建てられたドームが確認できる。ドームは20世紀に入り施された銅板で覆われている。
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コルソ・イタリアを400メートルほど東に下り、左折して100メートルほど更に下ると、昨夜訪れた見晴らしの良い展望台に到着する。前方には、イブラ地区(旧市街)の建物が折り重なる姿まで、はっきりと確認できる。高台に建つ三階建ての赤い屋根の建物「ヴィラ・カステル・ヴェッキオ」が頂上となり、その先は見えないが、街は東側のなだらかな斜面沿いに続いていく。ヴィラの北隣に見えるドームは、サン・ジョルジョ大聖堂である。
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イブラ地区の手前にはファサードと3つの身廊を持つ「プルガトーリオ教会」が望める。その教会手前の通りが、スペリオーレ地区とイブラ地区との境目になる。ちなみに、左側のスペリオーレ地区斜面沿いに見える青いドームは「サンタ・マリア・デッレ・スカレ教会」になる。
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このイブラ地区は、イタリアで1999年から放送されている人気テレビシリーズ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」のロケ地の一つとして知られている。主に、タイトルバックでの空撮影像、サン・ジョルジョ大聖堂前のドゥオーモ広場、プルガトーリオ教会前(長距離バスの停留所として)などが登場する。ドラマでは、架空の街ヴィガータの警察署が舞台となるが、アグリジェント県、ラグーザ県を中心としたシチリア島南東部で広く撮影が行われている。
昨夜同様に階段を降りポンティ谷にある橋を渡ると「プルガトーリオ教会」の前に到着する。プルガトーリオ教会のファサードは、コリント式の柱頭により3つのパートに分かれている。それぞれ扉口があるが、中央のみが実際の門となり、その門上部には、植物文様の浮彫が施され、パーガトリー(煉獄)を表わした彫刻が飾られている。この時間、昨夜と異なり、ファサード前の階段には誰もいなかった。
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教会に向かって、左に2つ目の通りを進むと、左側に豪華なバロック様式の建物が建っている。「コゼンティーニ邸」(Palazzo Cosentini)で、ラッファエーレ・コゼンティーニ男爵とその息子のジュセッペ・コゼンティーニ男爵により1779年に建てられた。ラグーサ・バロック様式の貴族の邸宅を代表する建物で、バルコニー下のユニークでグロテスクなバロック彫刻が見どころである。
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こちらは、コゼンティーニ邸を通りから見上げた様子で、3階部分の3か所のバルコニーの下に、それぞれ彫刻が施されているのが確認できる。
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こちらは、建物に向かって左端の彫刻で、それぞれ楽器を持ち演奏している様子が躍動的に表現されている。下部にある大きな顔は、それぞれの演奏者の内面を反映しているとされる。
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さて、次に「モディカ(Modica)」に向かうべく、両市街の間のポンティ谷から道路を南に下って行く。向かって左が新市街のスペリオーレ地区で、右側がイブラ地区である。横から見ると、谷間の深さがよくわかる。
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こちらは、イブラ地区の頂上付近で、ヴィラ(カステル・ヴェッキオ)や、その右側のやや奥に「サン・ジョルジョ大聖堂」のファサードとドームが見える。
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ラグーサまでの往路は南西方向からだったが、これからは一旦、東に向かい、SS115号線を経由した後、SS194号線で南下する。30分ほどで、大きなラウンドアバウトを過ぎ、渓谷に架かる陸橋を横断すると、まもなくモディカに到着する。
モディカは、ラグーザ県にあり、周辺地域を含む人口約5万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ラグーザ、ヴィットーリアに次ぐ県内では第3位のコムーネ人口を有している。1693年の壊滅的な地震の後に再建された歴史的地区は、後期バロック建築の最も重要な例の一つとされている。2002年には、ヴァル・ディ・ノートのいくつかの町とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、スペイン支配時代から伝わる伝統的な製法で作られる素朴な味わいのモディカ・チョコレートが人気である。
こちらはモディカにある「サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会」(S Giovanni Evangelista)になる。最初の寺院は1542年、1693年の地震で深刻な被害を受けている。18世紀に入りバロック様式で再建されるものの、1848年のさらなる地震により損傷を受けたため、1893年にサルヴァトーレ・リッツァの設計によりファサードをさらに改修し1901年に現在の姿となっている。教会は街の歴史的中心部の高台エリアとなるモディカ・アルタ(Modica Alta)にあり、尖塔の頂部の十字架の場所は、標高449メートルと、モディカの最高地点を表している。
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教会に向かって細い路地を左に200メートル進むと、展望台がありモディカの街並みを一望できる。こちらは南の方向になる。モディカは、19世紀まで急流で削り取られた二つの峡谷にまたがって町が広がっていたが、20世紀初頭まであった川は「ウンベルト1世通り」(Corso Umberto I)となり、街の主要道路となっている。高台がモディカ・アルタで、低い町がモディカ・バッサ(Modica Bassa)と呼ばれている。中腹には、大きなドームとファサードが聳える「サン・ジョルジョ大聖堂」があり、そのファサードから下り階段が、モディカ・バッサに向けて続いている。
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これまでは、丘の上に広がる街並みを見ながら、麓から上っていくケースが多かったため、突然眼下に街並みが広がる景色は圧巻だった。こちらの眺めは、前述のドラマ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」で、ラグーサ同様にタイトルバックでの空撮影像として登場する。
その「サン・ジョルジョ大聖堂」前にやってきた。ファサード前から延びる階段の途中には、車通行可能のコルソ・サン・ジョルジョが横断している。こちらは、その更に下にある踊り場から見上げた様子で、この下からは、左右階段となり再び直線階段となって、ウンベルト1世通りまで計250段の階段が続いている。
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サン・ジョルジョ大聖堂は、12世紀初、ノルマンのルッジェーロ1世により建てられたが、1542年、1613年、1693年とモディカを襲った度重なる地震で被害を受けて1738年に再建された。バロック様式のファサードは、ロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計による。再建プロジェクトの終了後も、いくつかの鐘と時計の設置や、尖塔に鉄の十字架が取り付けるなどの改修が行われたが、1842年に完了し、今では全高62メートルの堂々たる塔を持つファサードとなっている。
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教会の内部は、ラテン十字の形をしたバシリカプランで、コリント式の柱頭が乗った22本の柱が支える5つの身廊に分かれている。主祭壇には、マニエリスムの画家ベルナルディーノ・ニグロ(1538~1590)による「多翼祭壇画」(10枚の絵画で構成)があり、聖家族、キリストの生涯、聖マルティヌス、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)と竜が描かれている。中央交差部には高さ36メートルのドームがある。
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時刻は昼の12時となり、モディカを後にし、再びシラクサ(シラクーザ)に戻るべく出発した。高速E45号線を経由して、午後2時前、ネアポリス考古学公園にある「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に到着した。「ネアポリス考古学公園」からは、600メートルほど東に位置しており、緑豊かな面積9,000平方メートルの大きな庭園内に建つ近代的な博物館である。
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もともと博物館は、1878年にオルティージャ島のドゥオーモ広場にオープンしたが、展示品・出土品が年々増えたため、1988年に現在の場所に移転している。シチリアの考古学研究に大きな貢献をしたパオロ・オルシの名前に因んでいる。ギリシャ時代の陶器や彫刻、神殿のレリーフなど時期や場所ごとに4つのブロックに分けられ展示しており、展示品数は18,000件を誇っている。
今日は年末のためか、来館者が非常に少なく、ゆっくり見学できそうである。こちらは、シラクーザ県レンティーニから出土した紀元前6世紀の大理石クーロス(青年)像である。
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こちらのテラコッタは「翼のあるゴルゴーン」で、オルティージャ島にあった神殿の屋根を飾っていたもの。ゴルゴーンは、ギリシャ神話に登場する醜い女の怪物で、魔除けに用いられた。こちらの作品では、邪眼を強調するため、正面を向いた姿で表されている。
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コレー像(若い女性の彫像)が並んでいる。古代ギリシャでは、奉納像や墓像として数多く作られた。
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こちらのコレー像は、紀元前6世紀「玉座の女神デメテル・ケレス」(テラコッタ)で、カターニア県グランミケーレから出土したもの。女性の表情からアルカイック期のものとわかる。
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こちらは、考古学博物館を代表する「恥じらいのヴィーナス」(Venus Pudica)で、シラクーザ考古学者ヴェーネ・ランドリーナの名前にちなんで「ランドリーナのヴィーナス」とも呼ばれている。フランスの自然主義の小説家、劇作家で詩人のモーパッサン(1850~1893)が、夢中になり賞讃した大理石の彫像で、紀元2世紀のローマンコピーである。
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エトナ山の麓、カターニア県アドラーノ(Adrano-Mendolito)で出土した、高さ19.5センチメートルのブロンズ像「アスリート」(紀元前460年頃)で、彫刻家ピタゴーラ(Pitagora)の手によるもの。
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こちらは、ギリシャ神話に登場する名医「アスクレピオス」の頭部像である。アスクレピオスが持っていた、ヘビが巻きついた杖は「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、医の象徴として世界保健機関(WHO)、米国医師会(AMA)等のマークにも使われている。作品は、紀元前5世紀前半アテネで活躍した彫刻家アテナ・プロマコスのローマンコピー(Augustan copy)である。
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黒像式のアンフォラ(右)とレキュトス(左)。アンフォラはワインやその他の必需品を運搬・保存するためのもので、レキュトスはオリーブ油の貯蔵に使われた。黒像式とは、人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法で紀元前7世紀に発明された。
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こちらは、赤像式アンフォラである。赤像式は、紀元前6世紀末から造られ始めた。黒像式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がった。
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1時間半ほど見学した後、今夜の宿のチェックインのため、オルティージャ島に戻ってきた。今夜は、ユダヤ人地区、ジュデッカ通り沿いにある、「B&Bラ・ヴィア・デラ・ジュデッカ」(La Via Della Giudecca)に泊まることにしている。周辺は、細い路地が入り組んだエリアだが、宿は、サン フィリッポ アポストロ教会前の小さな広場に面して建っており一息つける。部屋も清潔で、台所、テーブル、広いバスタブもあり居心地が良い。
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午後4時を過ぎ、宿からは西に300メートルほど、人がすれ違うのが辛いほどの狭い通りを抜けて「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が建つドゥオーモ広場にやってきた。
この時間、夕日が大聖堂のファサードに反射して美しく照らされている。大聖堂は、もともと紀元前480年頃に建設されたアテナ神殿で、当時の神殿入口は、今と逆の神像に朝日が差し込む様に東側にあった。ちなみに、アテナ神殿建設の経緯は、シチリア中央部にあったゲラの僭主となったシュラクサイの僭主ゲロンが、ヒメラの戦い(紀元前480年、カルタゴ軍の来襲を撃破した)で勝利し、賠償金を得たことによる。
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アテナ神殿は7世紀のビザンチン時代に、初期キリスト教のバシリカに改築されるが、9世紀にはアラブ人によりモスクに変えられている。しかし1093年、初代シチリア王ルッジェーロ2世の父親でシチリア伯のルッジェーロ1世(1031~1101)により、再び教会に戻されている。その後は、1542年、1693年の地震で大きな被害を被るが、1728年に建築家アンドレア・パルマの設計で新たに工事が始まり、20年間の工事中断期間をへて1753年に現在の大聖堂として完成している。
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大聖堂のファサードは、下部に、コリント式の6本の柱があり、うち中央の4本の柱は、ポータルを囲み、精巧なティンパヌムを支えている。上層部にも、4本のコリント式の柱があり、中央の小さな2本のコリント柱を持つ壁龕内には聖マリア(無原罪のお宿り)の像が飾られている。他にも、下部から伸びる左右のコリント式の柱の頂部にシラクサのマルシアーノと、シラクサのルチア(283~304)(シラクサの守護聖女)の像があり、広場からの階段左右には聖ペテロと聖パウロの像がある。これらの彫像は、パレルモの彫刻家イグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti、1719~1797)が手掛けたものである。
聖堂内の身廊はノルマン時代のままで、天井は、1518年に木製の梁で覆われたもの。内陣は、バロック様式で両側に木製の聖歌隊席(18世紀後半)があり、天井は木造で、金箔で装飾された小さな八角形の格間天井で構成されている。
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後陣は、ファサードの彫像制作の建築家イグナツィオ・マラビッティが1746年に完成させたもので、装飾、浅浮き彫り、多色の漆喰でバロック様式の漆喰を支える精巧な金色の漆喰を備えた4本のコリント式の柱により形成されている。中央には「マリアのキリスト降誕」(17世紀)の絵画があり、ペディメントには、マリオ・アルベルテッラが描いた「王なるキリスト」(1927年)の絵画が飾られている。
身廊と側廊を隔てるアーチ柱は、他の教会や大聖堂とは異なり、無骨な柱となっているが、ノルマン時代に使用されていたアテナ神殿の壁を削ったものをそのまま使用している。床は、1444年に遡るもので、全体に精巧な幾何学的図形が表現されている。
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側廊側の壁には、アテナ神殿のドーリス式の円柱が、そのまま埋めこまれている。かつてこの場所にバロック様式の祭壇があったが、20世紀初頭の修復工事で取り除かれ、現在は3体の像が飾られている。奥から手前にかけて、アレクサンドリアのカタリナ(制作者不明、15世紀作)、聖母子(ドメニコ・ガジーニ(1430~1492)作)、シラクサのルチア(アントネッロ・ガジーニ(1478~1536)、1527年作)になる。
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ドゥオーモ広場から、直線距離で300メートルほど南にある「ベッローモ(ベッラモ)宮殿博物館(Palazzo Bellomo)」にやってきた。13世紀に造られたカタロニア様式の残る美しい宮殿である。
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中庭には、様々な陶磁器や紋章オブジェなどが展示されている。なかでも、階段を下りた向かい側の北側壁面には、ひと際大きなスペインのカルロス2世(1661~1700)の王室の紋章が展示されている。こちらは、オルティージャ島へのアクセスを規制する目的で、1673年に建設された軍用門(ポルタ・リニー)(~1893)の上部に飾られていたもの。ポルタ・リニーは1893年に取り壊された。
こちらは聖母子像。15世紀初頭、シラクーザの聖ルチア教会の祭壇画。
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神の子羊と受胎告知(13世紀~14世紀、シラクーザ聖フランシス教会)。
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ヤシの左右に向かい合うライオン(モザイクの断片、12世紀)。
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この博物館を代表する作品が、このアントネッロ・ダ・メッシーナの受胎告知である。残念ながら写真不可につき、取りあえず、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像を乗せさせていただく。
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午後6時になり、すっかり暗くなった。次にドゥオーモ広場から200メートルほど北にある、アルキメデス広場(Piazza Archimede)にやってきた。このあたりが、だいたい、オルティージャ島の真ん中に位置している。この広場はややいびつな正方形で、中央に円形の「アルテミスの噴水」(Fontana di Artemide)(Fontana di Diana)がある。
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噴水は南向きで、中央に、弓と犬を持つ狩猟の女神アルテミス(ダイアナ)の姿があり、足元に、ギリシャのアルフェウス川の神アルフェウス(Alpheus)と、ニュムペーであるアレトゥーサ(Arethusa)がいる。周囲には、海豚や海馬に乗るトリトンが4体飾られている。カターニアを中心に活躍した彫刻家ジュリオ・モスケッティが1907年に建設した記念碑的な噴水だが、暗くて良く見えない。
ちなみに、観光客が車で、オルティージャ島を走行するには、本土からオルティージャ島の中央部に向け南下し、こちらのアルキメデス広場から、東海岸に抜ける一方通行の横断道路と、本土からオルティージャ島に入り、西海岸から南に向かい、マニアーチェ城塞の手前から、迂回して、東海岸を上る一方通行の環状道路との2本がメインの通りとなる。
これから、ジュデッカ通り沿い(ホテルから50メートルほど北)にある、オペラ・デイ・プーピ(L'Opera dei Pupi)で、シチリア伝統の人形劇を鑑賞する。プーピは、19世紀初頭にシチリアの大衆芸能として生まれた人形劇で、2001年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。
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座席数は30名ほどで、舞台も横幅は3メートルほどの小ささである。30分前で3名ほどが座っていた。上演時間前には、ほぼ満席になったが、立見客で溢れかえるといった感じではなかった。
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上演時間は50分ほど。今夜の演目は中世シチリア王国の騎士物語のようだ。ストーリーは操り人形師(プパーロ)が即興で進めていくらしい。人形のサイズは40センチメートルほどで、頭部と右手に付けられた棒で操っている。例えば、乱闘シーンは非常に激しい動きで、人形の動きはなかなか手の込んだものであった。
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さて、鑑賞後、2日ぶりに、カヴール通り沿いのトラットリア、シチリア・イン・ターヴォラ(Sicilia in Tavola)に来た。予約していないし、午後7時半を過ぎており断られるかと思ったが、無事食事にありつけた。今日は赤ワインとして、シラーのバッリョ・ディ・ピアネットを注文する。
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前菜は、ビュッフェテーブルに並ぶいくつかの郷土料理から、少しずつ皿に載せていく。ビュッフェスタイルで前菜の盛り合わせを頂く。
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イカ墨のスパゲッティなどを頼んだ。
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翌朝、これから「マニアーチェ城塞(Castello Maniace)」の見学をすることにしている。オルティージャ島の西海岸沿いの通りを南に向かうと、突き当りにマニアーチェ城塞の入口がある。チケットを購入し、ゲートを入ると、周囲に管理棟や、屋外バールなどがある矩形の広場となり、その広場を横断して、胸壁塔のあるアーチ門に繋がる横断橋を渡る。
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アーチ門をくぐると、周囲を城壁に囲まれた、ややいびつな敷地の広場に到着する。そして、その広場の先に、左右に側防塔を持つ横長の城塞がある。
城塞は、1038年に街を包囲して占領したビザンチン帝国のギリシャ将軍ジョルジョ・マニアーチェ(ゲオルギオス・マニアケス)(~1043)により築かれたものだが、現在の要塞は、1232年~1240年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)により拡大改築されたものがベースとなっている。
城塞は、時の支配者や権力者により、改築、強化などが繰り返されている。また、刑務所として使用されたことや、名称が変更されたこともあり、近年では、陸軍兵舎として使用されるなどの変遷を経て現在に至っている。
側防塔を持つ横長の城塞の中央にある大きなアーチ門を入ると中庭で、更に先の門を入ると、尖頭アーチやヴォールトの天井で構成された空間に到着する。ノルマン建築の影響を受けた構造で、設計は皇帝フリードリヒ2世の宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニによるもの。
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城塞内には、ギリシャ時代のブロンズの雄羊が2頭(コピー)展示されている。もともと紀元前3世紀に2頭制作され、シラクサの「アガトクレス宮殿」を飾っていたとされる。その後、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、マニアーチェ城塞を再建した際、移設して、要塞の入口を飾るために設置した経緯を踏まえて、コピーが置かれている。現在、オリジナルは、パレルモにある「王立考古学博物館」に所蔵されている。
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ところで、フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)は、フリードリヒ1世(赤髭王)の孫で、父のハインリヒとシチリア王女(ノルマン朝)コスタンツァとの間にシチリア島で生まれている。幼時に父が死んだためローマ教皇インノケンティウス3世を後見人としてパレルモで育つ。当時のパレルモの国際的な環境もあり、開明的な文化人として成長した彼は、宗教観を超えた合理的な政策を推し進めていく。1220年には、シュタウフェン朝として神聖ローマ皇帝に即位し、ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざすものの、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、道半ばにして崩御している。
城塞を出ると、要塞化された半島先端部となる。中央は吹き抜けで、周囲はアーケードで取り囲まれ狭間窓を持つ稜堡となっている。その稜堡の屋上には、大人の身長ほどの高さの防御壁で取り囲まれている。所々に、防御壁の強化のため凹角堡が設けられている。
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こちらは、稜堡の屋上の先端部から振り返った様子で、要塞の左側の側防塔には灯台がある。また、右下の海水面近くに設けられた狭間窓も確認できる。
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さて、そろそろお世話になったシラクーザともお別れである。マニアーチェ城塞を後にし、海岸沿いの歩道をドゥオーモ広場に向け歩く。振り返ると城塞にあった灯台がわずかに見える。最後にドゥオーモ広場の聖ルチア教会で、カラヴァッジョ(1571~1610)の「聖ルチアの埋葬」を見て、オルティージャ島を離れることにした。
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こちらが、ドゥオーモ広場の聖ルチア教会の祭壇に飾られた「聖ルチアの埋葬」で、カラヴァッジョが、1608年にシラクサ滞在中に描いたとされている。もともとは、シラクサ中心部(本土)にあるサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇に飾られていたが、修復後は、オルディージャ島にあるベッローモ宮州立美術館に展示されていた。
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教会の祭壇には聖ルチア(シラクサのルチア)の像が飾られていた。 ルチアは、304年、ディオクレティアヌス帝時代にシラクーザで殉教し、シラクサの守護聖人になっている。こちらの銀製像は、16世紀のピエトロ・リッツォ制作によるもので、喉元に剣が突き刺さった姿を表現している。通常、シラクサ(シラクーザ)大聖堂に祀られているが、毎年12月13日の聖ルチア祭では行列を組んで本土にあるサンタ・ルチア教会まで運ばれ、1週間展示された後、大聖堂に戻されるが、この日はこちらに飾られていた。
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オルティージャ島から本土方面に向かう橋の手前、パンカリ広場に広がるアポロン神殿に寄る。ここは、紀元前6世紀初に建てられた島内最古のドーリス式神殿で、近年太陽神アポロンへの献辞が発見された。遺跡は、多くが原型を留めないほど瓦解しており、巨石が散乱している。このあたりは、本土の新市街に近く、遺跡を取り囲むように周りに新しい建物が立っている。時の流れを肌で感じる風景である。。
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(2012.12.27~28)
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