カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その3)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
シラクサ(シラクーザ)の街は、新市街の本土と旧市街のオルティージャ島との2つに別れている。昨夜の宿泊ホテルは、「グランド ホテル デ エトランジェ」(Des Etrangers Hotel & SPA)で、オルティージャ島の西海岸沿いの通りに面している。ホテルの後方となる東側にはドゥオーモ広場に面した「聖ルチア教会」がある。


ホテル前の通りの先(西側)には、海を見渡せる展望テラスがあり、その南隣の下にある大きな半円形の水場が、シラクサの観光名所の一つ「アレトゥーザの泉(Fonte Aretusa)」になる。こちらの泉はすぐ隣が海にも関わらず、古代から淡水が湧き出ているとのこと。伝説によると、ギリシャの川の神(アルフェイオス)に言い寄られた森の妖精(アレトゥーサ)が地底を逃げ、この場所にたどり着き、アルテミス女神により泉に変身させてもらったという。中ほどにあるパピルスのまわりには、赤い鯉が泳いでいる。


アレトゥーザの泉から、南側を眺めると「マニアーチェ城塞」を望むことができる。オルティージャ島の最南端にある城塞跡で、400メートルほど先に位置している。しかし今日はシラクサを離れるため、再び戻った明後日にオルティージャ島の観光を予定している。
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シラクサ(シラクーザ)は、古代、ギリシア語でシュラクサイと呼ばれ、ギリシャ人の僭主ディオニュシオス1世(紀元前432頃~紀元前367)の支配を受けていた。この時代、シチリア島内の多くの都市は、西地中海の覇者となりつつあったカルタゴ(アフリカ大陸の北岸(現:チュニジア)を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家)の支配下にあったことから、ディオニュシオスは、カルタゴ勢をシチリア島から一掃しようと全力を傾け、シュラクサイにはオルティージャ島と本土を全長27キロメートルにも及ぶ巨大な城壁で要塞化していた。

こちらのオルティージャ島には、神殿、王宮、兵舎などの行政の中心が置かれ、本土側にはオルティージャ島に接するアクラディーナ(Akradina)、その北方にテュケー(Tyche)、北西部のネアポリス(Neapolis)と3地区に市民の大半が暮らしていた。

そのオルティージャ島から北西部に2キロメートルほどの距離となるネアポリスにやってきた。この地は、石灰岩の大地で、現在は「ネアポリス考古学公園」となっている。チケットを購入して、大通りから左折して細い遊歩道を100メートルほど南に進むと「円形闘技場」跡に到着する。紀元3世紀後半に建設され、シチリアでは最も大きい闘技場だったが、現在では、遺跡の上部のほとんどは破壊され、下部の岩から掘り抜かれた部分のみが残っている。
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1839年にイタリアの建築家、考古学者のセラディファルコ公爵(1783~1863)により発掘され、長さ140メートル、幅119メートルと推定されている。円形闘技場は、アクラディーナ地区からネアポリスに到達する道路軸にあった。こちらは、競技場の北側から南東方向を眺めた様子で、この先がオルティージャ島の方角となる。ちなみに中央の正方形の穴は、舞台の奈落の仕掛け跡である。

大通りに戻り、西方向に歩くと、すぐ左側の手すり越しに「ヒエロン2世の祭壇跡」が望める。当時、こちらの祭壇での儀式は、解放者ゼウス(ゼウス・エレウテリオス)に敬意を表して行われた。また、最大450頭以上の牛を生贄にすることができる巨大な規模を誇っていたとされる。現在では、長さ(南北)198メートル、幅(東西)22.8メートルのテメナイトの岩だけが残っているが、これは、地下にあった土台の跡で、上部の構造物は16世紀にほぼ完全に取り除かれて市内の要塞の建設に再利用されている。


ヒエロン2世とは紀元前3世紀におけるシュラクサイの僭主で、共和政ローマとカルタゴとの間で行われた第一次ポエニ戦争時には、ローマ側に付いてカルタゴと戦い勝利して王に擁立された。彼は卓越した農業・商業政策でシュラクサイに繁栄をもたらしている。

ヒエロン2世の祭壇跡を望む大通りの向かい側の北側に遺跡公園への入口がある。こちらではチケットチェックがある。公園内には、多くのレモンの木が茂り、遊歩道が続いている。200メートルほど北に進むと、西側に、周囲を削り取られ棒状に残った石の塊や、壁の様に残る石の巨大な切面が望める。こちらの公園は、神殿や住居を建てるための石切場跡「ラトミア・デル・パラディーゾ」(楽園の採石場)と呼ばれている。


石切場跡の石の切面は高さが20メートルほどあり、北から西南にかけて、切壁が途中でL状に屈折して200メートルほど続いている。その屈折する場所に、裂け目の様な洞窟入口があり、内部は35メートルの奥行がある。洞窟の上には「ギリシャ劇場」があり、これを破壊しないように、歪曲して採石された。また、この洞窟は、僭主デイオニュシオス1世治世には牢獄として使われた。


洞窟内に入り、声を発すると反響して音が増幅される。当時ここを訪れた画家のカラヴァッジョは猜疑心の強いディオニュシオスにちなんで「ディオニュシオスの耳」と名付けた。


再び、遺跡公園入口まで戻り、今度は、左方向の通路を歩いて「ギリシャ劇場」に向かう。なだらかな坂道を上っていくと、劇場の北東側の観客席後方に到着する。こちらの場所が、ちょうど「ディオニュシオスの耳」のすぐ上に位置している。ギリシャ劇場は、紀元前5世紀に岩盤をくり抜いて建設されたが、南向きの直径130メートルの大規模なもので、当時は61段、約15000人もの観客を収容できた。劇場は、重要な娯楽の場であり、政治においても重要な場所だった。現在も、毎年5月から6月にかけて古代ギリシャ悲劇等が上演されている。
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観覧席の後部となる背後の小高い丘はギリシャ人たちのお墓で、ここから、石切場のディオニュシオスの耳とが繋がっており、牢獄の様子を盗み聞きすることができた。また、いくつもの小さな洞窟があり、特にアーチ状の「ニンファエウムの洞窟」(La Grotta del Ninfeo)は見どころの一つである。


こちらが、「ニンファエウムの洞窟」で、アーチ状の天井下には、長方形の浴槽があり水が注ぎ込んでいる。発掘時には、入口に神殿があり、ミューズに捧げられた彫像(紀元前2世紀)が発見された。近隣の「パオロ オルシ考古学博物館(Museo Archeologico Rgionale Paolo Orsi)」に所蔵されている。


こちらは、シュラクサイ出身で最も有名な人物の一人、古代ギリシャの天才科学者アルキメデス(前287?~前212)が製作した兵器の一つ「投石器」である。アルキメデスは、カルタゴとローマとの第二次ポエニ戦争(前219~前201)の際、シュラクサイがカルタゴ側についたことから、ローマによるシュラクサイ包囲戦に対抗するため多くの軍事兵器を考案した。
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シュラクサイは、アルキメデスの兵器などにより、ローマ軍を大いに苦しめ3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、ローマの将軍はアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と知らなかったローマ兵によって殺された。75才だった。

次にノートに向かう。ノートはシラクーザ県にある基礎自治体(コムーネ)で、シラクサから南西に31キロメートルのイブレイ山脈の台地に属する丘陵地帯にある。シラクサからは高速E45号線で行けるためアクセスが良く、最寄りのインターチェンジを出ると、前方の高台にノートの町並みが見えてくる。
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ノートの街は、1693年の大地震でほぼ完全に瓦解したため、それまでの古い街ノート・アンティカを完全に放棄し、南約10キロメートルの丘の上に新たにバロック様式の美しい建築物を建てた。現在、「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。ヴァル・ディ・ノートとは、アラブ時代、ノート、マザーラ、デモーネと3つのヴァル(行政区分)で統治されていた当時の名残である。

街の東側にあるラウンドアバウトから、西に緩やかな並木道の直線道(ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り)を200メートルほど上ると、レアーレ門(Porta Reale)に到着する。この先は、ノートの中心部へと続く歩行者エリアとなる。
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200メートルほど進んだ右側に、噴水のある小さな広場に上り階段があり、その先に「アッシジの聖フランチェスコ教会」のファサードがある。1704年から1745年にかけて、ヴァル・ディ・ノートの再建の主要な建築家の2人、ヴィンチェンツォ・シナトラ(1707~1765)とロザリオ・ガリアルディ(1690~1762)の設計により建てられた。
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路地を挟んで向かい側が「サンティシモ・サルヴァトーレ教会」で、奥に隣接して「ベネディクト会修道院(現:神学校)」と続く。教会、修道院ともに1700年代前半にヴィンチェンツォ・シナトラによって設計されたが、彼は完成前に亡くなっている。

引き続き、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りを西に歩くと、すぐ左側の通り沿いに「サンタ・キアーラ教会」(Chiesa di Santa Chiara)のファサードがあり、左右の柱の上はそれぞれ鐘楼となっている。そして、その鐘楼の屋上が展望台になっている。

そのサンタ・キアーラ教会の鐘楼の上の展望台には、教会内から上ることができる。内部は12本の円柱で支えられた楕円形のプランで、1758年にロザリオ・ガリアルディにより完成している。展望台からは、向かい側のサンティシモ・サルヴァトーレ教会や、東隣りに建つ「アッシジの聖フランチェスコ教会」、街への入口となる「レアーレ門」などが見渡せる。
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西方向には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りが続き、バロック様式の壮観な街並みが広がっている。左側のロッジアが取り巻く建物は「ドゥチェツィオ宮殿」(Palazzo Ducezio)(現:ノートの市庁舎)で、17 世紀のフランスの宮殿からインスピレーションを得て、建築家ヴィンチェンツォ・シナトラによって 1746年に設計されたが、完成したのは 1830年で、2階はトラーパニ出身の建築家フランチェスコ・ラ・グラッサ(1876~1952)により20世紀前半に建てられた。
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ドゥチェツィオ宮殿の向かい側の広々とした前階段の先には「ノート大聖堂」が聳えている。18世紀初頭に建設が開始され、1776年に完成している。バロックの3大巨匠、ロザリオ・ガリアルディ、パオロ・ラビシ、ヴィンチェンツォ・シナトラが参加して完成させた、ノートでは最も重要なカトリックの礼拝所で、ミラのニコラオス(聖ニコロ)に捧げられている。内部はラテン十字のレイアウトで、3つの身廊に分かれ、中央の身廊は側面の身廊より大きいのが特徴となっている。中央のドームは1996年の身廊の崩壊により損傷したため、修理が行われ2007年に完成している。
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ファサードは、柔らかな石灰岩を使用し、19世紀初頭に改装されたもの。左右の鐘楼は、ノルマン時代から続くシチリア建築の伝統を受け継いでいる。上部に並ぶ4体の彫像は伝道者を表しており、1796年に彫刻家ジュゼッペ・オルランドによって制作された。細いコリント式の柱に挟まれた中央ポーチにはブロンズ製の扉があり、こちらは、1982年ジュゼッペ・ピローネにより制作されたもので、守護聖人聖コラードの生涯が表現されている。この日は、聖堂内部の祭壇画や天井画に覆いがかけられ修復が行われていた。
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大聖堂は、アラン・ドロン主演の映画「ビッグ・ガン」(伊仏1973年)のラストシーンの舞台となった。引退を決意した組織の殺し屋トニー(アラン・ドロン)は、裏切り者として組織に命を狙われ、身代わりとして彼の妻子が爆殺されてしまう。復讐の鬼となったトニーは、次々と組織幹部を血祭にあげていくが、そんな中、和解を提案してきた組織幹部の娘の結婚式に招待されて大聖堂にやってくる。トニーが結婚式を終え大聖堂の階段を下りていると、突如車で現れた友人の裏切りにより撃たれてしまう。寡黙な一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンの哀愁漂う姿が印象的な作品だった。

ノート大聖堂の向かいにある「ドゥチェツィオ宮殿(現:庁舎)」は、高さ2メートルほどの基壇上に建っている。ファサードは半円状に突出した形状を持ち、入口へは曲線の階段を上っていく。1階部分は、正面と左右側面までをイオニア式柱で支えられた20のアーチがロッジアを形成している。
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2階は、後年に追加されたもので、長方形の窓に、モダンスタイルな窓上飾りと左右に装飾柱(ピラスター)を配した外観とし、屋上には装飾欄干を備えている。2階部分の装飾欄干はバルコニーとしての役割もある。

1階には、大きな鏡が置かれた楕円形のホールがあり、天井には、画家アントニオ・マッツァが新古典主義で描いた「シチリアの指導者ドゥチェツィオによるノートの建国」のフレスコ画がある。ドゥチェツィオ(紀元前488~紀元前440)は、ギリシャ語で”ドゥークと呼ばれる人”を意味するが、本名はわからない。彼はノート出身で、紀元前460年、民の王に選出され、ギリシャ人入植者に対する最後の先住民の抵抗の象徴ともみなされている。
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ドゥチェツィオ宮殿から西に100メートル行った左側には「テアトロ・コムナーレ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ劇場」(Teatro Comunale Vittorio Emanuele)がある。街の再建に伴い、市民からの要望もあり資金が集められ1863年に建設が始まった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869~1947)(サヴォイア朝第3代イタリア国王(在位:1900~1946))に捧げられ、1870年に開館した。2階建てでファサードにはハープ、ヴァイオリン、トランペット、花をモチーフにしたコリント式柱頭が施されている。
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小劇場だが、桟敷席が設けられている。座席数は308席で4列ボックス席と88席の桟敷席がある。劇場内の座席や幕は、高級感を演出する深い赤で覆われ、美しいロココ調の装飾が見られる。開館初演は、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」が大成功を収めている。
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劇場は、未完成のまま落成したため、直ぐに玄関ホール前部と装飾が欠落し、機械も状態が悪く、更にメンテナンス作業も行われす危険な状態にあった。1921年から工事が始まり、内装のほとんどを作り直している。天井には古代ギリシャの竪琴(ライアー)を奏でる女性が描かれているが、こちらも1933年に追加されたもの。その後1990年から再修復が行われ、1997年に再オープンしている。
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劇場の向かいには「サン・ドメニコ教会」(Chiesa di San Domenico)が建っている。サンティッシマ・アンヌンツィアータ(最も聖なるお告げの意味)に捧げられ、バロック時代の最も完璧な業績として評価されている。1703年から1727年にかけ、建築家ロザリオ・ガリアルディによってドミニコ会の神父の修道院教会として建てられた。ファサードは下部がドーリア式、上部がイオニア式のオーダーで、中央部は通りに向け突き出た構造となっている。
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来た道を少し戻り、ノート大聖堂の手前を左折すると、緩やかな上り坂のコラード・ニコラーチ通りになる。この通りは、毎年5月の聖体祭の際にインフィオラータ(花祭り)が行われている。すぐ先左手の建物が、通りの名前になった「ニコラーチ・ヴィッラドラータ館」(Palazzo Nicolaci di Villadorata)になる。
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このニコラーチ・ヴィッラドラータ館は、18世紀バロック様式の巨匠パオロ・ラビシの設計である。バルコニー下はユニークで、かつグロテスクなバロック様式の彫刻で有名である。2本の大きなイオニア式柱に挟まれ、バルコニーが乗った大きなポータルと、ライオン、子供、ケンタウロス、翼のある馬、キメラ、人魚の姿をした、互いに異なる彫刻が施されたコーベルで支えられた6つの小さなバルコニー(両側に3つ)で特徴である。
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元々、ニコラーチ・ヴィッラドラータ館は18世紀隆盛を極めていたノートのジャコモ・ニコラーチ男爵の邸宅で、90の部屋がある。現在1階は市立図書館「プリンチペ・ディ・ヴィッラドータ」になっている。こちらは、翼のある馬で、前足を犬のように突き出したポーズがかわいい。
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こちらは人魚の彫刻である。横から見ると背筋を鍛えているようなユニークなポーズをしている。
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ニコラーチ通りの奥にはバロック様式の「モンテ・ベルジネ教会」が建っている。2つの鐘楼に挟まれた凹面のファサードがあり、ニコラーチ通りに奥行きを感じさせてくれる。モンテ・ヴェルジーヌ修道会のベネディクト会修道女のために建てられた。聖ヒエロニムスに捧げられている。教会の建設はヴィンチェンツォ・シナトラが設計し、1762年に完了している。
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近くにあったバールでカフェ休憩をして、ノートを後にした。次にラグーザ県の県都ラグーサに向かうことにしている。時刻はまもなく午後4時半で、日暮れが近づいてきている。夕陽に照らされ黄金に輝いたノートの街並みが美しく見える。ラグーサまでは60キロメートルほどの道のりだが、最寄りのインターチェンジは高速E45号線のため、ノートから行きやすい。
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ラグーサ(Ragusa)も、1693年の巨大な地震で大きな被害を受け、5,000人もの住民が犠牲となったが、その後、西側の標高500メートルの丘の上に新市街(スペリオーレ地区)が、東側の標高400メートルに旧市街(イブラ地区)が、それぞれ渓谷を挟んで、瓢箪状にバロック様式の街並みが再建されている。

ラグーサまでは、最寄りのインターチェンジから5キロメートルほどの近距離だったが、日が暮れたことで道がわからなくなった。そのため、地元らしき人に途中まで先導してもらい、何とか無事にラグーサ新市街(スペリオーレ地区)にある宿泊ホテルに到着することができた。そして、チェックイン後は、荷物を部屋に置き、下り坂の通りを歩いて、見晴らしの良い展望台までやってきた。
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夕食は前方の明かりが灯る旧市街(イブラ地区)にあるリストランテを予約している。展望台からは、折り返し石階段を下り、スピンカーブの続く車道の陸橋下をくぐりながら更に下りて行く。途中、ライトアップされた聖母マリア像が祀られた石の祠を過ぎると、狭いなだらかな通りになる

最後の下り階段の手前から、多数の道路が交わる交差路(ポンティ峡谷の橋)の先に「プルガトーリオ教会」(Chiesa del Purgatorio)を望むことができる(名称は”煉獄”を意味する)。教会自体は1658年創建で、1693年の大地震に耐え抜いたが、1740年に3つの身廊を持つバジリカで再建され、ファザードは1757年に完成している。こちらの教会から東側の高台の街並みが、ラグーサの旧市街(イブラ地区)となる。
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まもなく午後8時になるが、まだ教会は開いていたので、ファザード前の階段を上って入ることにした。身廊は、太いコリント式の柱頭を持つ10本の石柱で分けられ、後陣は身廊の2段上にあり4本のコリント式の柱で縁取られている。多色大理石で制作された浮彫の主祭壇には、大きな「煉獄の魂(1800年)」の祭壇画が飾られている。パレルモの画家、建築家のフランチェスコ・マンノ(Francesco Manno、1754~1831)によるもので、画面には、死するキリスト、聖母マリア、聖ジョルジョ(ゲオルギウス) 、使徒たち、預言者、その他の聖人たちが描かれている。
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翼廊の後陣には、それぞれ礼拝堂がある。向かって右側となる南翼廊には、聖バルバラを描いた聖餐式礼拝堂があり、対する北翼廊には「聖十字架礼拝堂」がある。荒野が描かれた絵画を背景に、木製浮彫の磔刑像(1769年作)が飾られ、左右に、ねじれた柱を備えた、大変豪華な祭壇額に納められている。更に、ねじれた柱は、左右側面にも設置され、それぞれ内側に、悲しみの聖母(左)、福音記者ヨハネ(右)の浮彫像が祭壇の磔刑像を見守っている。

リストランテへは、まず、プルガトーリオ教会に向かって左側に延びる上りの道路を歩いていく。次に、右側の階段を上り、幅の狭い、いかにも旧市街といった石畳の上り坂を進んで行く。しばらく進むと、前方に青い光でライトアップされた「サン・ジョルジョ大聖堂」のドームが見えてくる。
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ドームを右上に見ながら、大聖堂の北翼廊、身廊沿いを通り過ぎると、視界が広がり、ドゥオーモ広場に到着する。振り向くと階段の上に「サン・ジョルジョ大聖堂」(Duomo di San Giorgio)のファサードが聳えている。こちらは、イブラ地区の守護聖人、聖ジョルジョ(ゲオルギオス)に捧げられた教会で、もともとはゴシック様式で建てられていたが、1693年の地震倒壊を受け、1738年にノート出身のバロック建築家ロザリオ・ガリアルディにより工事が始まり、1775年に完成している。
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ファサードは、鐘楼が組み込まれ、尖塔が球根状などの特徴を持っている。左右上下にある渦巻き状の文様浮彫の先端には、聖ペテロ(左上)と聖パウロ(右上)、聖ジョルジョ(左下)と聖ヤコブ(右下)の彫像が飾られている。凹凸をつけた3層の優美なファサードのデザインは地震に倒れにくいとの判断があったとも言われている。そして、前面の鉄製のフェンスは1890年に取り付けられたもの。

ファサードの前のドゥオーモ広場の先は、ヤシの木が並ぶ広い歩道と、なだらかな下りの直線道の参道が貫いている。歩道沿いには、ホテル、カフェ、ショップなどがある。年末で遅い時間でもあり人通りは少ないが、狭い石畳の通りの旧市街のイメージとは違い、お洒落で開放的な目抜き通りと言った印象がある。
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では、リストランテに向かう。一旦来た道を戻り、サン・ジョルジョ大聖堂の北翼廊を過ぎた右側に、今夜の目的地「リストランテ・ドゥオーモ」 (Ristorante Duomo)がある。こちらは、シェフのチッチョ・スルターノ氏が提供するミシュラン2つ星店になる。入口は、木の開き扉と、隣に小さな灯りに照らされた店名パネルと一枚ものの本日のメニューがあるだけで、場所が少し分かり辛い。

この日はヌーベルキュイジーヌ(nouvelle cuisine)とフランス語で書かれた「テイスティング・コース」10皿を頂くことにした。ワインはペアリングでお願いする。こちらは、リコッタチーズ、キャビア、エビなどを使った、アミューズグール(amuse-gueule)になる。
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アペリティフ(aperitif)として、エンリコ・ガッティ フランチャコルタ ブリュット(Enrico Gatti Franciacorta Brut)から始まる。

アントレ・フロワド(Entrées froides)。
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アントレ・ショード(Entrées chaudes)。
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2番目のワインは、白のシャルドネで、グルフィ ヴァルカンツィリア2011(Gulfi Sicilia Valcanzjria)になる。

オードブル(hors d'oeuvre)として、 イワシとアンチョビのスパゲッティである。こちらはお勧め料理の一つ。
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フレイバー風スープ。
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次はPoisson(ポワソン)で、ナスをクリーム状にし、魚卵に見立て、その上にヒメダイ(赤ボラ)を乗せたもの。こちらもお勧め料理の一つ。
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3番目も白ワインで、アヴィデ リフレッシ・ディ・ソーレ インソリア2008(Riflessi di sole Insolia Vittoria D.O.C.)になる。

少し驚いたが再びスパゲッティが提供された。
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お口直しのトリュフ・アイスクリームになる。ここまでは、サイズが小さいので、軽くいただける。ワインと料理が見事にあっており、ここち良い。
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メインのViande(ヴィアンド)の一皿目は、鴨肉で、様々なソースと合わせていただく。
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4番目のワインは赤ワインで、パオロ・カーリ氏のマネーネ・チェラスオーロ・ディ・ヴィットーリア(MANENE Cerasuolo di Vittoria DOCG)(Paolo Cali)になる。ワインが少なくなると継ぎ足してくれる。

メインのViande(ヴィアンド)の二皿目は子羊になる。このころになると、プレートの量は少ないとはいえ、お腹が一杯になってきた。
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グラニテ(granité)は、洋梨のソルベ。
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ワインの最後は、ディジェスティフ(digestif)(デザートワイン)で、カポファーロ マルヴァジア(Malvasia Capofaro )になる。

デセール(dessert)は、シチリア名物のカンノーロで終了となった。
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シチリアの郷土料理を再構築した新しい料理ということで、品質の良い素材(特に魚介類)とシェフの巧みな料理テクニックが見事に調和しており、全ての料理が重く感じず美味しく頂けた。シェフ始めスタッフもフレンドリーで、大変居心地も良かった。

帰りは、満腹感と一日の疲れも合わさって、とても歩けず、タクシーに乗った。歩いてきた距離とは異なり、一方通行が多いことや、谷越えのヘヤピンカーブなどを走行したことから、かなりの距離を感じたが、無事ホテルに到着し一日を終えた。
(2012.12.26)

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