カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その5)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
ここは、シチリア島南西部、アグリジェントの考古学地区(Area Archeologica di Agrigento)の「神殿の谷(Valle dei Templi)」である。現在午後3時半を過ぎたところ。ここ神殿の谷は、前方(北側)に見えるアグリジェント市街地の眼下に広がっており、中央には南北にSP4号線が走り、左右に考古学地区への入口がある。まず最初に右側から入り東に向けて一本道を歩く。なお、北側の高台に見える市街地は、中世以降に発達した街だが、西側地区には、古代のアクロポリスがあったという。
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神殿の谷は、東に流れるサン・ヴィラージョ川(San Villaggio)(古代:アクラガス川)と西に流れるサン・レオーネ川(San leone)に挟まれており、東のアクラガス川の名称が、古代都市アクラガスの由来となっている。現在、このあたりは、アーモンドやオリーブの樹が生える田園地帯で、毎年2月には、アーモンドの花が咲き観光客で賑わう。なだらかな一本道を上っていくと、正面に「コンコルディア神殿」が現れる。
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コンコルディア神殿は、紀元前450~440年に建てられたドーリア式神殿で、シチリアでは最大(42×19.7メートル)規模を誇る。名称については、近くで16世紀に発見された古代ラテン語の碑文に関連して、女神コンコルディアに捧げられた神殿と仮定されたが、実際のところ、誰に捧げられた神殿かは不明である。
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アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿と並んで、世界で最も保存状態の良いドーリア式神殿とされ、こちらの神殿の谷の中においても最も保存状態が良い。神殿は地面と同じ黄土色の砂岩質凝灰岩からできているが、建設当時には白い漆喰で塗られ、装飾部分は極彩色に塗られていたという。

側面から神殿を見ると神殿内の神室側面がアーチ状になっているのが見える。これは、6世紀にアグリジェントの司教グレゴリウスによってキリスト教のバシリカに転用(聖ペテロと聖パウロに奉献)された際の名残りである。1748年に教会は廃止され、1787年に元の神殿の姿に戻されている。
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入口からここまでの間にも、いくつかの遺跡が見受けられたが、日の入りが近いため、まずはメインの神殿を優先し見学することとし、それ以外の遺跡は戻り時に見学することとする。このあたりには、整然と巨大な岩のブロックが並んでいる。
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アグリジェントは、紀元前581年、クレタ島とロードス島の植民によりゲラ(現:ジェーラ)の副都市アクラガスとして建設された。

歴史上、アクラガスが、注目されるのは、紀元前480年に勃発した「ヒメラの戦い」である。領土拡大を目指したアクラガスの僭主テロンは、シチリア北岸にあったヒメラ(現在のパレルモと現在のチェファルの間にあった。)を支配したため、ヒメラがカルタゴのハミルカルに救援を要請した。これに対し、僭主テロンは、シュラクサイの僭主ゲロンに救援を要請し、両軍は、ヒメラの地で激突する。結果、アクラガスとシュラクサイの同盟軍が、カルタゴ軍を破ったことから、アクラガスは、繁栄し絶頂期を迎えることになる。

右手前方の高台に神殿が見えてきた。
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ジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿 (Tempio di Giunone Lacinia hera)である。ヘラは、ギリシア神話に登場する最高位の女神で、ローマ神話においてはユーノー(ジュノー)と同一視された。ラチニアとは、崖の上にそびえる姿が、カラブリア州最東端のコロンナ岬(古代:ラキニオン岬)を連想させたことから名付けられた。
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180度回り込んで、東側からヘラ神殿を見てみる。ヘラ神殿は、紀元前450年頃に建てられたが、紀元前406年の火災の痕跡が発見されている。その後、ローマ時代に復元されている。高さ6.44メートルの34本の柱の内、現在は25本がほぼ完全な形で残っているが、18世紀後半、北側のいくつかの柱は再建されている。基壇部分に白い漆喰の跡が残っている。
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ヘラ神殿は、高台にあるため、見晴が良い。歩いて来た方角を眺めてみる。左手には、先ほど通ってきたコンコルディア神殿が見え、右手には、アグリジェント市街地が見える。中央に見える高架橋は、東はシラクーザからシチリアの南海岸沿いを通り西のトラパニまで続く大動脈の幹線国道SS115線である。さて、だいぶ日が陰ってきたようなので、急ぎ戻ることにする。
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コンコルディア神殿まで戻ってきた。先ほど素通りしたが、近くに巨大な青銅のイカロス像が置かれている。ポーランドの彫刻家イーゴリ・ミトラジ(1944~)の作品で、2011年以来、こちらに展示されている。
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午後4時半を過ぎたので、そろそろ日の入りを迎える。夕陽がコンコルディア神殿に照らされ、赤く染まって美しい。
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引き続き、素通りしてきた遺跡群を見学して、入口まで戻ることにする。コンコルディア神殿を過ぎると右側(北側)の下り斜面に、3世紀~4世紀ローマ時代の、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)が広がっている。この辺りは、紀元前2世紀にあったジャンベルトー二墓地(Giambertoni)の流れをくんでいる。この墓地からは、質素なものから豪華な石棺にいたるなどの遺物が発掘されている。
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こちらには、神殿建設のために重い石材を運んだ当時の轍の跡が残っている。深い轍に当時の神殿建設の苦労が偲ばれる。
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入口の手前から左側への小道を進むと、左手の高台に8本の柱が並んでいる。
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エルコレ(ヘラクレス)神殿(Tempio di Ercole)で、紀元前520年頃に建造されたアグリジェント最古のドーリア式神殿である。柱には、建設当時の白い漆喰が残っている。
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ヘラクレス神殿の先には、連絡橋があり、道路(SP4号線)を下に見ながら神殿の谷の西側エリアに向かう。すぐ北側には、辺りには瓦礫の山と化した「ゼウス・オリンピコ神殿」(Tempio di Zeus Olimpio)(別名:ジュピター=ゼウス神殿)の遺跡が広がっている。午後5時を過ぎたためすっかり薄暗くなった。
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ゼウス・オリンピコ神殿は、紀元前480年、ヒメラ戦争に勝利したアクラガスの僭主テロンにより、戦勝記念として、ゼウス神に捧げて建設が始まった。当時のギリシャ建築における最大級の神殿となる予定だったが、紀元前406年、ヒメラの戦いで弱体化していたはずのカルタゴが、ハミルカルの長男ハンニバル・マーゴを先頭に再びシチリアに進撃してきたことで、建設中だったゼウス・オリンピコ神殿は、完成の姿を見せる前に、粉々に破壊されてしまったという。

瓦礫の中に、7メートルを超える巨人像が横たわっている。神殿を飾っていた人像柱テラモーネ(Telamone)である。ちなみに、この像はコピーでオリジナルは、近くの考古学博物館に保管されている。
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更に、200メートルほど、西にある神殿が「ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿」(Tempio di Dioscuri)で、紀元前5世紀末に建造された周柱式ドーリア式神殿である。この辺りは豊穣を司る地下神の母娘を祀った神域だったという。やはり瓦礫の山になっているが、1832年に一部だけ復元され現在の姿となった。
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急ぎ足であったが、なんとか神殿の谷の見学はできた。少し安堵していると神殿がライトアップされた。先ほどとはまた違った神々しさを感じ素晴らしい。背後にはアグリジェント市街地の夜景が見える。
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さて、次に、SP4号線を1キロメートル北上した左側にある「アグリジェント考古学博物館」に向かった。14世紀に建てられたこの「サン・ニコラ教会」の扉口の左側から、教会に沿って周りこみ敷地を通り過ぎた奥に博物館の入口がある。閉館時間は午後7時半なので、まだ約1時間以上は見学が可能である。このサン・ニコラ教会の側面(西隣)には、古代の円形状の集会所跡が残っているが、日が暮れてしまい、あまり良く見えなかった。


考古学博物館には、アクラガス時代やそれ以前の時代からの出土品も多く展示されている。こちらは、1905年にアグリジェントの港から出土した、紀元前15~14世紀のミケーネ文明時代の壺で、何とも気が遠くなるほどの昔の作品である。
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アグリジェントの神殿を飾っていた様々なライオンの頭の形をした雨樋が展示されている。
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多くのアッティカ陶器のコレクションが並んでいる。
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ゴルゴーンのアンテフィクサ(紀元前6世紀)。アンテフィクサとは、屋根を覆うタイルの終端にある垂直なブロックのことである。一般的な建築物ではテラコッタの人物像などがよく使われていたため、このゴルゴーンのテラコッタは、個人宅の突出した切妻(出っ張り)部分の端に一定間隔並んで、屋根を飾っていたものかもしれない。


ベスの壺。ベスとは、古代エジプト神話に登場する舞踊と戦闘の神。本来は羊と羊飼いの守護神とされていた。それにしてもこのベスはユーモラスであり、小人ドワーフの特徴も見える。


こちらは、初期キリスト教徒の共同墓地(ネクロポリス)から出土した紀元2世紀の子供の石棺で、発掘時の何百もの破片だったものを修復している。石棺には3辺に子供の誕生から死までの人生を描いた浮彫がなされているが、正面には子供がベッドに寝かされ、周りに悲しむ家族の姿が見える。
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この博物館のメインは、この巨大なゼウス・オリンピコ神殿を飾っていた人像柱テラモーネのオリジナルである。人像柱テラモーネは、壁の上部に見上げるように展示されており、座って見学ができる。多くの座席が並べられており、イベント会場のようである。
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顔は、風化して岩の塊と化しているが、じっと見ていると、何とも親近感を覚えてしまう。
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会場の左手には、テラモーネの頭部が3体展示されている。左からアジア、アフリカ、ヨーロッパをあらわしていると言われる。


会場の右手には、神殿模型があり、柱とテラモーネが交互に配置され、上部のまぐさ石を支えていたことがわかる。


神殿の想像図がある。この図を見ると、神殿入口から神像までの中央部分は吹き抜けになっている。ゼウス・オリンピコ神殿の平面積はシラクーザにあったアテナ神殿(現:シラクーザ大聖堂)の4倍もあったとされており、いかに巨大な神殿を建設しようとしていたかがわかる。


時刻は、午後7時になり、お腹も減ってきた。今夜はアグリジェントから、北西に80キロメートル離れたシチリア島西南部メンフィの郊外にあるイル・ヴィニェート・リゾート(Il Vigneto Resort)に泊まるため、食事はそのホテルで食べることにしている。まだ閉館時間まで30分はあるが、急ぎホテルに向かうことにした。博物館を出て、サン・ニコラ教会前からは、ライトアップされたコンコルディア神殿が見える。
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メンフィまでは、海岸沿いを走る国道SS115号線で向かった。最寄りの出口から、メンフィ入口となるラウンドアバウトに、道路標識に加え、リストランテ、ホテル、マーケット、ワイナリーなどのそれぞれ個別の案内表示(イル・ヴィニェート・リゾートもあった)があり、その案内表示に従って、メンフィの西環状道路を通り、街灯もない暗闇の中、蛇行する田舎道を南方面に走行した。

イル・ヴィニェート・リゾートへの到着は午後8時半に近かった。こちらは、周囲に構造物もない、田園風景の中の長方形の敷地内に建つ2階建てのコテージ風の宿泊棟で、他に、リストランテやレセプションルームがある平屋の管理棟、プールなど付属施設があるリゾートヴィラである。最寄りの国道からはかなり離れていたことから、この時間帯に無事に到着できたのが不思議だった。
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食事は、午後9時頃となった。最初に前菜、タコの冷菜(Antipasto Freddo)と温菜(Antioasto Caldo)を頼むと、タコのマリネとタコの唐揚げだったが、新鮮で大変美味しかった。
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プリモピアットとして、パスタ(ファルファッレ)を頼んだ。


飲み物は、白ワインとして、地元メンフィ産マンドラロッサ(Mandra Rossa urra di mare)ソーヴィニオン・ブランを頼んだ。ヴィラの名称のイル・ヴィニェート・リゾートはワイン畑を表わし、この辺りは、ぶどう栽培が盛んなワインの産地である。


セコンドピアットとして、エビを頼んだ。


こちらは、魚のグリルで、共に、手のかかる料理法ではないが美味しかった。メンフィは港町でもあることから、新鮮な素材を、素材本来の味わいで楽しめたのは良かったかもしれない。


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翌朝、テラスに出て外の景色を眺める。地図によると南に2キロメートル弱で地中海なので、正面の小高い丘を超えたあたりが海辺なのだろう。
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短い滞在時間だったが、朝食を食べチェックアウトして、まずは、直線距離で9キロメートル西のセリヌンテ(Selinunte)に向かう。そして、その後は、100キロメートル北部にあるモンレアーレに向かい、見学した後、パレルモで宿泊となるタイトなスケジュールを予定している。
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セリヌンテは、西を流れるセリヌス川(現在のモディオーネ川)と東を流れるコットーネ川(現在は溝が残るのみ)に挟まれた2キロメートルほどの幅の丘の上に築かれた古代ギリシャの植民都市で、現在は、当時のアクロポリスや神殿の遺跡が残る遺跡公園となっている。

セリヌンテは、シュラクサイ(シラクーザ)北方にあったメガラ・ヒュブレアが紀元前628年に建設した副都市だったが、その後のヒュブレアからの移住者や人口増加に加え、カルタゴとの交易により、紀元前6世紀初頭にはギリシャ系都市国家として大きく繁栄した。しかし、北に40キロメートルにある先住民の国家セジェスタ(古代の神殿や劇場などの遺跡が残っている。)との小競り合いが続き、紀元前409年には、セジェスタとカルタゴとの同盟軍による来襲を受け(第2次ヒメラ戦争)、徹底的に街を破壊され、カルタゴの勢力下に置かれてしまう。

紀元前264年から、ローマとカルタゴは、地中海の覇権をめぐりポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)で戦った結果、勝利したローマがシチリアを始め、地中海世界を支配することになる。シチリアから撤退したカルタゴは、セリヌンテを徹底的に破壊してしまい、ローマの属州時代以降、再建されることはなかった。

セリヌンテは、約40ヘクタールの敷地の中に主に5つの地区があるが、この「東の丘と神殿」地区と、1キロほど西に離れた「アクロポリスと神殿および城壁」地区とがメインの地区となる。最初に東の丘に建つ神殿群から見学する。駐車場前には、なだらかな丘を横長にくりぬきガラス張りされた近代的な案内所があり、ゲートを抜けて遺跡公園に入場し、北に200メートルほど舗装道路を歩いて行くと、前方に「E神殿」が見えてくる。セリヌンテの神殿の詳細は不明な点も多く便宜上アルファベットで呼ばれている。
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こちらのE神殿は、ヘラを祀る神殿との説もある。いくつかある神殿の中でも、比較的新しく、紀元前460年~紀元前450年頃に建設されている。現在の姿は、1950年代に修復されたもので、敷地が25.33×67.82 メートル、高さ10.19メートルの円柱が、6×15本で配置されている。
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神殿内も良く残っており、ギリシャ神殿のプランを理解しやすい。まず、東側の踏みづらの狭い10段の階段を上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオス(前室)になる。そして、広い、なだらかな階段となり、ナオス(本殿)前に到着する。先の高い位置にアディトン(内陣)があり、背後にオピストドモス(後室)がある。
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E神殿の北隣には瓦解したF神殿があり、その北隣には同じく瓦解したG神殿がある。こちらは、北側からG神殿を眺めた様子。ゼウスを祀る神殿ともいわれ、ギリシア世界の中でも最大級の神殿の一つされている。敷地が113.34メートル×54.05メートル、高さは30メートルあった。柱の直径3メートル以上もある。紀元前530年から建設が始まり、紀元前409年時点でも建設途中であった。
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瓦解した神殿内に入ることは特段禁止されていない。踏み分けて、崩れ落ちた柱の巨石が折り重なっている上を歩いてみるが、石はびくともしない。
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再び、E神殿に戻り、基壇の上の南側の円柱からは、青く輝く地中海を望むことができる。そして、右側のやや遠くに見える神殿群が「アクロポリスと神殿および城壁」地区となる。
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少し距離があるが、「アクロポリスと神殿および城壁」地区に歩いてやってきた。アクロポリスらしく、この辺りは小高い丘になっている。巨大な石が重なり合っており、その先に「C神殿」の円柱が東西に向けて並んでいる。
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こちらは、南東側にある「B神殿」越しに北側の「C神殿」を眺めた様子。C神殿はこの地区では最も古く、紀元前550年に建設されたものである。1925年~27年にかけて、北側の17本の円柱のうち14本が、エンタブラチュアの一部と共に再建されている。24×63.7メートルの敷地に6×17の円柱配列(高さ8.62メートル)を持っている。神殿内へは、東の階段を8段上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオスに繋がる。
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こちらの「アクロポリスと神殿および城壁」地区には、A、B、C、D、Oの神殿があるが、再建された「C神殿」以外は、瓦解したままとなっている。C神殿から「東の丘と神殿」地区を眺めてみると、再建された「E神殿」が、2000年の時を超え雄々しく聳え立っている。ちなみに、右側に見える街並みは、19世紀初頭から漁師を中心に発展してきた港町マリネッラ・ディ・セリヌンテである。
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(2012.12.28~29)

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