カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スリランカ(その3)

2013-03-02 | スリランカ
今日はキャンディの北に約70キロメートル先の「ダンブッラの黄金寺院」に行くことにしている。ダンブッラは、キャンディから北に位置するアヌダーラプラを結ぶA9号線の中間にある。まずは「スパイスハーブ園」に寄ってダンブッラに向かうこととし、そのハーブ園では、日本語が流暢なガイドの説明で見学をする。こちらは " クルクマ " というウコンの仲間で、根茎部を粉末にするとスパイスになり、主に黄色の着色料(カレー)として利用される。


見学コースには見本が置かれており、それぞれ手に取って香りを確認することができる。


こちらの赤い実は胡椒である。一通り見学して、現地のスタッフの説明を聞き、買い物を終え、引き続きA9号線を北上する。


1時間ほどで「ダンブッラ黄金寺院」(Dambulla Cave)に到着した。黄金寺院は、A9号線沿いでダンブッラ南側の旧市街にある。時刻は、午前12時になったところ。車を降りて歩くと、正面に巨大な黄金の大仏「Golden Buddha」が見えてくる。その黄金大仏の下には、テーマパークの雰囲気のある獅子があしらわれた派手なエントランスがあるが、こちらは博物館への入口であり、石窟へは大仏の横にあるチケットオフィスから、左側にある石段を上って行った先になる。


15分は上っただろうか、日差しが強く汗だくになった。ようやく階段を上りきると、右前方に波打つような岩山が見える。ダンブッラ岩山は高さ355メートルある。


階段先に建つ(岩山の中腹左側)建物が石窟群の入口となる。


ここからは、土足厳禁なので、靴を預けて靴下で歩いていくが、地元の人たちは、熱い岩にも関わらず素足で歩いて行く。。先に進むと、洞窟の入口には、アーケードのある白い建物が築かれ、ここから日差しを避けながら見学することができる。石窟は、アヌラーダプラ時代(紀元前1世紀~紀元10世紀)と、ポロンナルワ時代(紀元10世紀~紀元12世紀)に建設されたものが中心で、計5つの石窟寺院から構成されている。


手前の建物が、第1窟「デーワ ラージャ ヴィハーラ」(神々の王の寺)と名付けられた最古の石窟で、入口には1世紀のブラフミーの碑文が残されている。石窟内には、台の上に約14メートルもの巨大な仏陀像が切り出され横たわっている。仏陀の顔の前面から足先にかけて、ぎりぎり人がすれ違うことができる幅狭い通路だけが延び、全身を写真に収めることはできない。。


横たわる仏陀像は、日本では亡くなる際の「涅槃像」として一般的だが、スリランカやタイでは、目を開けた像が多く最後の説法を寝姿で行う「寝釈迦像」として知られている。英語では「The Reclining Buddha」(Sleeping Buddha)と標記されることが多い。天井や側面には、仏陀の坐像や立像、弟子たちが描かれているが、石窟壁画の多くは17世紀に修復されたもので、その後も頻繁に修復や改変が行われている。

手前の狭い通路から回り込むと仏足裏には、花模様が描かれている。赤く塗られているのは、紀元前5世紀にインドから来たスリランカの最初のウイジャヤ王(紀元前543頃~前505頃)の手のひらが赤かったことに由来している。


仏足の先には、ややスペースがあり、側面には、鮮やかに描かれた光背の前面に、半跏趺坐で禅定印を結ぶ仏陀像と、弟子のアーナンダ(阿難)立像が並んでいる。仏の教えを各地に伝えた仏陀は、死期を悟り、唯一アーナンダをお供に最期の旅を続け、最後の地クシーナガルで「頭を北に向けて床を用意してくれ、わたしは疲れた。横になりたい。」と言い、横たわれたと伝えられている。


次の第2窟は「マハー ラージャ ヴィハーラ(偉大な王の寺)」と呼ばれ、数メートル離れた2か所の入口がある。石窟内は、左右が横広の長方形で、垂直に切り出された入口側の4~5メートルほどの天井から奥にかけて徐々に低くなっている。黄金寺院では最大規模の石窟で、石窟というより大ホールといった感じ。窟内には、40体の坐像と16体の立像の計56体もの仏像が切り出されている。

こちらは、奥に並ぶ仏像群を、右奥の側面から中央側を眺めた様子で、仏龕に納められた仏陀立像を中心に、華やかな台座に大きな光背を備えた仏陀坐像や、多くの立像と坐像(半跏趺坐に禅定印)が20数体並んでいる。そして、手前には、大人の腰よりやや低い位置に、お供え台として木製テーブルが置かれている。
クリックで別ウインドウ開く

頭上の飾りは、シラスパタ(火焔形頭飾)という宝珠光で、衣は肌と同色の黄金で、薄く身体に密着している。今まで見たスリランカ仏もそうだったが衣の羽織り方は、偏袒右肩である。ところで、ガンダーラ地方の仏像は、通肩で厚手の衣が多く、インド・マトゥーラ地方は偏袒右肩に薄手の衣が多いが、マトゥーラ地方でもグプタ朝時代に入ると通肩が主流になってくる。偏袒右肩とは、清浄な右肩を露わにする(或いは、利き手の右腕が攻撃のないことを示す)ことによって、国王など高貴の者に対して崇拝と畏敬の念を表す意味がある。

こちらは、20数体の仏像群の中央付近から、やや右側の光背を持つ坐像3体のうちの1体である。光背は赤を基調に燃え上がる火炎をイメージしている。


20数体の仏像群の中央付近にあるのが、仏龕に納められた大きな仏陀立像で、二層の円形蓮台の上に、鮮やかな赤い偏袒右肩の衣を纏って立っている。右手のひらは赤く塗られている。仏龕自体も、左右の柱や上部の獅子、マカラなど細かい浮彫と美しい色彩で彩られている。
クリックで別ウインドウ開く

20数体の仏像群は、中央付近から左側にも続くが、壁面より手前には、大きく幅の分厚い仏龕が、天井と直結して柱の様に切り出されている。2つある石窟内への入口のうち、左入口から入ると、正面に豪華な仏龕に納められた仏陀立像を拝観できる様に配置されている。仏像の前面にはドネーション箱(浄財)や、お供え台が置かれ、カーテンの様な簡素な幔幕が設置されている。立像は、頭部が螺髪(らほつ)で、火焔形頭飾はなく、金の偏袒右肩の衣を纏い、手を上げ手の平を前に向けた「施無畏印」(恐れなくてよいというサイン)をしている。そして、仏龕の左右には宝冠を被る菩薩菩薩立像を配している。
クリックで別ウインドウ開く

左右の2つの入口の間には、ストゥーパ(仏塔)があり、円形基壇の上には仏陀坐像が配されている。対角線上の2体は、竜王に護られた仏陀坐像となっている。仏陀が悟りを得た際、雨風から仏陀をとぐろ巻にして護ったとされる姿を表現している。中央の仏塔の形状は、仏教初期の「塚」で、頭部に円錐の塔がある。仏陀像は、等身大で、顔を眺めながら、仏塔を周回できるようになっている。
クリックで別ウインドウ開く

次に第3窟「マハー アルト ヴィハーラ」(偉大な新しい寺)に向かう。入口を入った正面で石窟の中心付近には、左右に立像を従えた豪華な仏龕に納められた仏陀坐像があり、手前にお供え台、ドネーション箱が置かれ、第2窟であった簡素な幔幕が設置されている。
クリックで別ウインドウ開く

入口側の天井は高く、奥に行くほど下がっており、周囲には、その高さに即したサイズの仏陀坐像、立像が切り出されている。第2窟の半分よりやや狭い印象。こちらは、仏龕の裏側の奥の壁に並ぶ仏像群で、右側にある坐像。坐像の光背が天井にめり込んでいる様に岩が切り出されている。この辺りの天井は低く、手を伸ばすと天井に届きそうである。坐像の周りには、多くの立像群となっており、小さな仏像も多く合計57体の仏像がある。


こちらは右側側面にサイズの異なる4体の仏陀坐像のうち、右端の一番大きな坐像である。しかし、仏陀の肌や衣の色は金箔というより黄色に近い色合いに見える。対する左側面には、第3窟では一番大きな仏像(寝釈迦像)が入口側を頭に切り出されている。


天井は、千体仏を思わせるような円形光背を持つ坐像画が隙間なく描きこまれている。堂内の天井には亀裂が入っており、湧水が岩の隙間から滴り落ちている。ちなみに「ダンブッラ」とは、”水の湧き出る岩 ”を意味している。


入口側の壁面の右端には、18世紀頃、キャンディ王宮時代のキルティ スリ ラジャシンハ(在位:1747~1782)王が、合掌し直立する像があり、背後の壁面には御付の者が描かれている。


次の第4窟は、「パッツイーマ ヴィハーラ」(3人の王の寺)と名付けられている。こちらにも、カーテンの様な簡素な幔幕が取り付けられ開帳している。手前には、やはりお供え台やドネーション箱が置かれている。坐像の光背はパステルカラー調の色合いで、頭上には獅子とマカラが配されている。


最期の石窟寺院となる第5窟「デワナ アルト ヴィハーラ」は、1915年に造られた最も新しい石窟である。切り出された寝釈迦像がメインとなる第1窟とよく似た構成であるが、やや小ぶりな寝釈迦像で、少し奥行がある。両側面には、彩り鮮やかな光背の仏陀坐像と立像が飾られ、壁全体に彩色が施されている。


40分ほど石窟内を見学して外に出ると、一層日差しが強くなり、靴下を履いていても岩が熱い。。


上ってきた方向を眺めると、一面緑が広がっている。遠くに2つの山が見えるが、右側が次の目的地の「シーギリヤ ロック」になる。


階段の手前に、たわわに実るジャック フルーツ(パラミツ)の木がある。実は、幹や太い枝から生じ、大きいもので、長さ70センチメートル、幅40センチメートル、重さ40~50キログラムに達することもあり、世界最大の果実といわれている。


午後1時を過ぎた。お腹が減ったので、ガイドにお任せで昼食に行く。


昼食は、毎回カレーだが、スリランカのカレーは、スパイス中心でなく日本の鰹節似たモルディブ フィッシュでうま味を出す煮込み料理が多いので、飽きることなく食べることができる。次は北東へ約20キロメートル離れた、古都シーギリヤに向かう。


午後3時半、シーギリヤに到着した。外国人料金チケット(DVD付)を購入し、西の城壁址のエントランスから入場する。都があったシーギリヤは環濠都市で、南北には濠が延びていた。今も残る濠を過ぎ、遺跡公園に入り、東への参道を歩いて行くと、いたるところに煉瓦が積み上げられた「王の沐浴場」(ウォーターガーデン)の遺構が残されている。


ウォーターガーデンは、シーギリヤ ロックの南側にある大きな人工湖と濠との軸上に作られており、地下に水道管を通して供給されており、こちらは、5つの穴から水が吹き出す噴水口である。


ウォーターガーデンの遺跡からは、正面に高さ約180メートルの巨大な岩山「シーギリヤ ロック」を望むことができる。シーギリヤの遺跡は、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲むこちらの水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構から構成されている。


シーギリヤ ロックに王宮を建造したのは、シンハラ王朝のカーシャパ1世(在位:473~495)である。王は、先王のダートゥセーナ王(在位:455~473)の長男で、母は平民出身のため、王族出身の母を持つ弟モッガラーナに王位を奪還されると思い、477年にクーデターを起こし、父王に王家の財宝を明け渡すよう迫った。しかし、父王は、国の農業を強化するため情熱を賭けて築いたアヌラーダプラの貯水池が全財産だと伝えたところ、怒りに燃えたカーシャパは父王を殺し王位を奪った末、首都アヌラーダプラからシーギリヤへ遷都する。なお、シーギリヤとは、シンハ(ライオン)とギリ(山或いは厳)に由来する。

600メートルほど参道を歩いた先の石階段を上ると岩山の下に到着する。正面はそそり立った巨大な壁となっている。その壁には、観光用として、鉄製階段と、その先に赤い「ミラー ウォール」と呼ばれる回廊壁と、垂直に伸びる螺旋階段が築かれている。


参道から続く石階段は岩山の割れ目に続いており、上って振り返ってみる。


石階段を上りきり、左に曲がった先には、先ほど見えた壁面沿いの急勾配の鉄製階段と螺旋階段を上って行く。足元を見ると目が回りそうである。エントランスのある西口から伸びる参道がみえる。周りは一面ジャングルが広がっている。


螺旋階段を上り終えると、庇のように突き出た岩壁(オーバーハング)があり、内側に、美しい壁画が現れる。こちらが、最大の見どころの一つ、「シーギリヤ レディ」のフレスコ画で、カーシャパ1世が自ら殺した父王の魂を慰めるために描かせたものと言われている。建造当初は500体ほど描かれたとされるが、現在では、風化も進み18体だけが残っている。通路の側面には、光が直接壁面に当たらないように、防護布で覆われている。


右側の冠、耳飾り、首飾りを身に付けている裸の女性は王妃で、左側の衣を身につけて器に花を持つ女性は侍女である。


赤い帯(雲)の上の妖艶な雰囲気の女性は蓮の花を持っている。左の女性はアプサラス(インドの神話に登場する天女)であろう。


雲から上半身姿をあらわし、踊っているところなのだろう。大変優雅な姿である。


こちらの壁画は大きく剥離しており、痛々しい。


花を持つ女性は、すべて北側を向いているが、これは、北側の小高い山の山頂にある寺院に花を供えに向かうためとの説がある。また、適度な隈取り(陰影法)は、人物の輪郭線に沿って、赤で影を添え立体性を持たせる手法との評価がある。

当時に描かれた大半の壁画は失われたと言われているが、現存する壁画の保存状態や芸術性は、まさしくスリランカ美術を代表する最高傑作であると言える。


螺旋階段を降りて、ミラー ウォールと呼ばれる回廊璧を北方面に進み、振り返ると先程まで見学した「ダンブッラ黄金寺院」がある山並みを見ることができる。


ちなみに、ミラー ウォールとは、真珠の様な輝きを持ち、鏡の様な光沢があることに因んでいる。しかし、落書きが多いのは悲しい。。


ミラー ウォールを過ぎ、岩壁の北面に回り込むと広場に到着する。この場所が、獅子の爪の形をした天空宮殿への入口となる。現在は、石段を登り、その後、岩山の壁面に取り付けられた鉄製の階段を登ることになるが、当時は、獅子の胴の中に階段が続き山頂へ登れることができた。


急な鉄製階段を上りながら北側を眺めると、山頂に寺院(僧坊)があった山や、北西側に貯水池が見える。その周囲は、ジャングルが広がっている。


鉄製の階段を上り終え、石階段を登り終えるとシーギリヤ ロックの頂上に到着する。無数のレンガが積み重なる頂上から東方面を眺めると、こちらも一面にジャングルが広がっている。


かなりの高所であり、この場所に王宮を建設したことは信じがたいが、カーシャパ王が犯した父王殺害の罪悪感か、弟のモッガラーナからの反撃に対する恐怖心からなのか、憑かれたように、難攻不落の王宮の建造にのめり込んだと言われている。そして即位から7年後、シーギリヤ ロック上の王宮は完成している。

南方面を眺めると、シーギリヤ ロックは、北側が標高が高く、南に向かって下がっているために、滑り落ちて行く感覚に襲われる。


さて、一方、カーシャパからの難を逃れて南インドに亡命していた弟モッガラーナは、遂に軍隊を引き連れ兄に戦いを仕掛けた。対するカーシャパ王は、難攻不落の王宮に立てこもらず、シーギリヤ ロックから降りて自ら象に乗って戦った。しかし乗っていた象は突如現れた沼に足を取られてしまう。統制を乱したカーシャパ軍は、次々と退却してしまい、残されたカーシャパは、運が尽きたのを悟り、自ら短刀で喉を切り自害した。享年36才。シーギリヤ ロック上に王宮を完成させて11年後のことだった。

それにしても、カーシャパは、何故せっかく築いた、難攻不落の王宮にこもらずに、自ら先頭に立ったのであろうか。シーギリヤ ロックでの王宮生活は、彼の心に何をもたらしたのだろう。南東方面を眺める。風が吹くと、飛ばされるのではないかと足がすくんでしまう。


王宮の中ほどに沐浴地がある。階段を降りてみる。遺跡内を散策したが、風も強く、今一つ落ち着かない。


王位についたモッガラーナは、このシーギリヤの地を仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへ遷都した。その後、シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するが、徐々に衰退し、人々から忘れ去られていったという。そして建造から1400年後の1875年(イギリス統治下)に、イギリス人によって岩山に描かれた「シーギリヤ レディ」が発見され今に至っている。

さて、頂上から、再び鉄の階段を通り獅子の入口へ降りる。途中で蜂がまとわりつく。足元も含め危険が一杯である。何とか無事に獅子の爪の広場に降り、ミラー ウォールを通って、もと来た鉄製の階段を通り、南出口への階段に向かう。その階段を降りていくと、右側にホール跡がある。
ここはカーシャパが会議を開いていた会議堂である。奥がカーシャパの座った玉座といわれる。カーシャパ王はあの玉座から立ち上がり、自ら象に乗り、最後の戦いに向かったのであろうか。


その先、左手には、仏陀の玉座があったという、アサナ礼拝堂である。僧侶たちの瞑想していたであろう場所である。


「コブラの岩」と名付けられた鎌首を持ち上げた様な巨石の横を通り、迎えのガイドの車に乗りホテルに向かった。


今夜のホテルは、シーギリヤから直線距離で約10キロメートル南西にあるカンダラマ湖そばの「ヘリタンス カンダラマ」である。最寄りの幹線道路からは、北に分岐する細い私道を3キロメートル弱走った終点の斜面の西側上にある。車寄せで車を降り、手前に大きく傾斜した天蓋の奥に続く、トンネルを模した坂道(左側面に大岩が並ぶ)を上ると到着する。ホテルは、1995年、スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏設計で建てられたコロニアル様式で、ロビーからは、カンダラマ貯水池(kandalama)のパノラマビューが広がっている。


午後9時過ぎ、ホテルにあるレストランに食事にやってきた。ブッフェだが、かなり料理の種類が多い。


少し盛りすぎたかもしれない。


最期にデザートを頂き、今日も一日を無事終えた。

(2012.9.14)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スリランカ(その2) | トップ | スリランカ(その4) »

コメントを投稿