カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スリランカ(その2)

2013-03-01 | スリランカ
ヘリタンス ティー ファクトリーホテル(Heritance Tea Factory)で朝を迎える。ホテルは、スリランカ中部州の紅茶で有名なヌワラ エリヤから北東に車で40分ほどの標高1980メートルの高所に立つ高級ホテル(5つ星)である。紅茶工場を改築して建てられたため、外観は簡素だが、内装は、中央部が吹き抜けで、高級感がある木材に、緑のカーペット、赤く塗られた柱や梁が張り巡らされお洒落な雰囲気がある。


ホテル前の広場の先は、手すりで覆われた展望台で、向かい側(北側)の斜面には茶畑が広がっている。


ホテルに向かって左側に進むと、ティー ファクトリーと書かれた看板があり、下の斜面沿いに小さな農園がある。


午前8時、ガイドの車に乗りホテルを後にした。これからスリランカ中部州の州都キャンディに向かう。昨日上ってきた山道を下りながら振り返るとホテルが遠ざかって行く。ピドゥルタラーガラ山の南側からA5号線を北西方面に進み、昨日見学したマックウッズ紅茶工場を過ぎ、更に山道を進んでいく。ホテルからキャンディまでは、約100キロメートルの道のりだが、大半が山道の走行となり時間がかかる見込みとのこと。


ガイドと相談して、最初にキャンディから南西10キロメートルに位置するキャンディ近郊の古寺「エンベッカ寺院(木の寺)」を見学することにした。時刻は午前10時を過ぎ、まもなく到着するころ、突然、道路工事の現場に遭遇し10分ほど待たされた。通行許可が出た後、悪路を500メートルほど進むと、周りに立ち並ぶ民家が見えてきた。

車を降りて、入口で入場料を支払い敷地内を進むと、切妻屋根の木製の建物が見える。近づいてきた細面で白ひげを生やしたエンベッカ寺院のガイドに従い、靴を脱いで廊下に入る。廊下は、一定間隔に設けられた左右の木造柱に支えられた大きな屋根で覆われている。周りには壁がないため開放的な空間となっている。一番突き当りのアーチ扉が本堂になる。


屋根の内側には天井はなく棟木と垂木がむき出しになっており、梁の上の束柱と「マドル クルパワ」と呼ばれるキャッチピンで固定されている。キャンディ地方で見られる伝統の木材工法とされている。


雲状にデザインされた大きな力垂木によって深い軒がささえられている。柱と梁が交差する所には、蓮の花弁の彫り物が組み込まれている。横から見ると下に垂れ下がって見える。


エンベッカ寺院は、ガンポラ王朝の14世紀の王、ヴィクラマバーフ3世(在位1356~1375)により、カタラガマ神であるスカンダ神を奉るために建てられた木造寺院である。建設当時は集会場としても利用されていた。廊下突き当たりの本堂の扉口の内側には「カタラガマ神」の布製絵像がかかげられているが、奥に祀られた本尊は見ることはできない。


カタラガマ神とは、スリランカ南部にある地名に由来するが、もともとヒンドゥ教神話に登場するムルガンという戦士の神を表わしている。ムルガンは、ヒンドゥ教徒には大変人気があり、破壊神シヴァの息子とされ、軍神スカンダと同一視されるようになった。6つの顔と12本の腕を備え、孔雀に乗り槍を持つ青年の姿であらわされる。仏教では韋駄天(異名クマーラからは鳩摩羅天)となった。

本堂に向かって右側の大きな扉の奥には、仏陀像が祀られている。


しかし、何と言っても見どころは、渡り廊下の木製柱の中ほどに施された浮彫パネル(ボワズリー)である。人の目の高さにあり、動物、女神、人魚、スポーツする人物、風習など、異なる514ものモチーフが柱の4面に彫りこまれている。こちらは、剣と盾を持つ勇士のモチーフである。


こちらは、羊と象だろうか。象は手なずけられているように見える。


こちらは踊るアプサラ女神像。キャンディアン ダンスかもしれない。


象と雄牛が組み合わさった動物のモチーフ。


西洋では古来より紋章などで良く見られる双頭の鷲だが東洋では珍しい。比翼の鳥だろうか。


エンベッカ寺院で30分ほど見学して後、次に、北方面に車で15分ほど離れたピリマタラワにある「ガダラデニヤ寺院(石の寺)」(キャンディからは西に約13キロメートル)にやってきた。門を入ると、緩やかに起伏する岩盤が現れ、その岩盤がそのまま寺院の境内地になっている。門の脇には、ストゥーパがあり、その上を屋根で覆っている。岩盤の上を歩いて行くと、奥に石造りの本堂と隣に赤い瓦屋根の礼堂がある。1344年、最初のガンポラ王ブヴァネーカバーフ4世(在位1341~1351)によって建立された。


また、この寺院は、パラークラマ バーフ4世(在位1421~1467年)の時に、修復工事がなされ、寺の表面に漆喰が塗られた。上部には、修復中でよく見えないが、ストゥーパかドームを思わせる構造物がある。


本堂に向かって左の柱には仏教のシンボルである法輪が彫られているが、右の柱にはヒンドゥー教の破壊神、踊るシヴァ神(ナタラージャ)が彫られている。ガダラデニヤ寺院は、仏教とヒンドゥ教が融合している。


基壇の側面にも細かい彫刻が施されている。楽しそうに踊るキャンディアン ダンスを表わしている。


本堂内に入ると黄金に輝く南インド風の仏陀像が祀られている。高さ2.43メートルあるディヤーナ ムドラ(瞑想の印)の坐像である。創建時の像はポルトガル人によって破壊されため、現在の像は18世紀に造られた二代目である。


仏陀像の後背には、インド神話に登場する怪魚マカラのアーチがある。両肩上部の口が、怪魚マカラで、水の神ヴァルナ(水天)の乗り物として知られている。日本の鯱のルーツとされている。


アーチの頂上には獅子の彫刻がある。水場にある彫刻蛇口のようである。


仏陀像の左右には、立像が施されている。そして、更に両側面壁にも、立像があるが、こちらは最近修復されている。


本堂を出て、右側手前に建つ仏塔(ストゥーパ)に向かう。高台の上の高さ約3.4メートルの仏塔を中心に周囲に4基の小仏塔を配置している。仏塔に屋根が設けられているのは珍しく、これはヒンドゥ教の影響らしい。


中を覗くと、赤い衣を身に着けた黄金の仏陀坐像が祀られている。やはり背後には、獅子と怪魚マカラがデザインされたアーチが見える。アーチの上には、4体の護神像が見える。


壁面はフレスコ画である。こちらには、仏弟子が描かれてる。


午前11時半を過ぎ、もう一か所予定していた「ランカティラカ寺院(絵の寺)」には時間の都合で行けなくなった。もともと当初の行程には入っていなかったので、2か寺行けただけでも良かったかもしれない。途中のレストランでカレーを食べて、次は西に30キロメートルほどの距離にある「ピンナワラの象の孤児園」に向かう。

午後1時半に到着すると、大勢の人が象の前に集まっており、哺乳タイムの最中だった。午後2時からは、マハオヤ川での水浴びが予定されており何とか間に合った。このピンナワラの象の孤児園は、サバラガムワ州ケーガッラにあり、親を亡くしたり、はぐれてしまった子ゾウを保護している施設である。入園料は、外国人用価格があることから、現地の20倍の2,000ルピーと高額に設定されている。


マハオヤ川までの途中にはお土産屋及び、レストハウスが並んでいる。お土産屋には、象の糞に残った葉っぱの繊維を利用したエコノートなどの紙製品が販売されていた。午後2時になると、象が水浴びのために行進してくるため、お店の入口横で見学のために陣取ったが、見物人の多さに驚かされた。しばらくすると、ラッパの合図と共に次から次へと象が行進してきた。


一般的に見る、動物園でののんびりとした象とは異なり、目の前を象の群れが通りすぎるのは、大変迫力があった。本来、象は時速40キロのスピードで移動するとのこと。この孤児園には、現在70頭ほどの象が、マハウトと呼ばれる世話人50人程により世話されている。象の1日は哺乳タイムが3回と、川での水浴びが午前10時からと午後2時からの2回行われる。


マハオヤ川での水浴びは、気持ちよさそうだ。これだけの象を養うことを考えれば、外国人料金設定もやむを得ないかもしれない。。


午後4時を過ぎ、キャンディ湖が見える高台のビューポイントに到着した。キャンディ市街は標高465メートルのスリランカ中央高地に位置している。対岸に見えるのが、旧王朝の行政府があった場所で、現在は、キャンディ王宮、キャンディ国立博物館、国際仏教博物館(旧裁判所)、ダラダー マーリガーワ寺院(仏歯寺)(新宮殿)などの観光名所が集結している。


これから、ダラダー マーリガーワ寺院の見学に向かうことにしている。寺院は仏歯寺と呼ばれ、紀元4世紀にインド東部のカリンガ国からもたらされた仏陀の犬歯が納められている。もともとは王権正統性の証としてアヌラーダプラの寺院に納められたが、都がポロンナルワへ移動すると共に仏歯も一緒に移動し、キャンディに王朝が築かれた1592年以降は仏歯寺(1603年建築)に祀られた。

クイーンホテルの横で車を降り、道路向い(東側)の石造りに瓦屋根のある正面門から入場する。セキュリティ チェックを終えると、広い公園内になり、幅5メートルほどの石畳の道がまっすぐ東側に続いている。その石畳の両側(南北)には芝生が敷き詰められ、南側にはキャンディ湖が望める。石畳の道を200メートルほど歩いた先は丁字路の広場で、北隣には、ストゥーパ(仏塔)が見える。


広場の前(東側)には白いオブジェ風の石垣が設けられ、その先に「パスティリプワ」(タミル語で”座って周りを見る”の意味)と名付けられた、赤い屋根の八角形のパビリオンが建っている。南側に回り込むと、石垣との間には水濠があり、キャンディ湖から水が引き込まれている。


パスティリプワと濠は、1802年シンハラ王スリ ヴィクラマ ラジャシンハ(1780~1832、在位:1798~1815)により建てられた。彼はキャンディ王朝(1469~1815)最後の王で、その後、1972年までスリランカ全島は、イギリスの植民地となっている。

パスティリプワの北隣に、水路を階段で渡る仏歯寺の正面玄関(マハワハルカダ)がある。寺院の正面を飾るマハワハルカダとパスティリプワは、1998年6月25日、タミル人のテロ組織「タミル イーラム解放のトラ」(LTTE)の爆発物を積んだトラックにより爆発し大きく損傷している。この事件は、当時、仏歯寺がイギリスからの独立50周年祝賀会の中心会場でもあり、世界に大きな衝撃を与えた。


その後、この事件に対する報復として、シンハラ人は、タミル人が経営する店舗やヒンドゥー教寺院などを襲撃し対立抗争は泥沼化していく。スリランカは、シンハラ人(74%、主に仏教徒)やタミル人(18%、主にヒンドゥー教)、スリランカ ムーア人など約2,000万人が住む多民族国家で、1983年から2009年にかけて政府とLTTEによる内戦が繰り広げられた。

現在では修復されたマハワハルカダを入るとトンネルになっており、入口の上部には、仏陀像の後背のアーチと同じ怪魚マカラと獅子があしらわれている。トンネル内部には壁画が描かれている。


トンネルを抜けると広いスペースがあり、中央に木造2階建のお堂(本堂)がある。


柱には、細かい装飾がされている。本尊前には、仏歯の入った舎利容器と礼拝する飛天たちが織り込まれた覆いがかけられている。


まわりを見渡すと、後ろに石壇があり両端には守護神像(ガードストーン)が配されている。


石壇を登ると、回廊があり、奥に礼拝堂がある。比較的新しい印象で、黄金の仏陀像(本尊)が見える。


黄金の仏陀像の周りにも多くの仏陀像が祀られている。世界各国から寄贈された仏像であり、象牙などで厳かに装飾されたものもある。


回廊の両側には仏陀の誕生から入滅までと、その後の仏陀の歯の歴史が、21枚の絵と共にシンハラ語と英語で説明されている。こちらは、仏陀がインドのクシナーガルで荼毘に付された後、仏歯がインド東部のカリンガ国のブラフマダッタ(Brahmadatta)王に手渡されているところ。


こちらは19世紀半頃のペラヘラ祭の様子で、左側に着座する集団の中心で足を組んでいる人物はイギリス植民地時代の第5代セイロン総督、エドワード バーンズである。向かい側には、装飾された象を中心に音楽隊やダンサーなどの群が見える。右上に八角形に赤い屋根のお堂があり象の後方には歯を納めた舎利容器が光を放っている。


ペラヘラ祭(行列の意味)は、スリランカの各地で行なわれているが、ここキャンディのエサラの月の新月から満月にかけて2週間行なわれるペラヘラ祭りが中でも最大の規模である。この期間は、国内外からの観光客でキャンディのホテルは大変混み合う。歯を納めた舎利容器を背に乗せた、装飾された象を先頭に、100頭もの象が音楽隊や数百人のダンサーと一緒に夜の街を歩いてパレードする。圧巻の祭りで、ペラヘラ祭の際に仏歯の入った仏舎利を入れて運ぶケースが展示されている。


2階に向かう途中に、仏歯がスリランカへ持ち込まれた様子が描かれている。インド東部のカリンガ国王は娘ヘーママーラを島に嫁がせる際に仏歯を持参させた。ヘーママーラは髪の毛の中に仏歯を入れて持ち込んだと言われているため、髪の頭部が光って表現されている。向かって右がヘーママーラ、左はダンタ王子。


2階に上がると、お堂があり、内陣の手前は献花台になっており、多くの花が供えられている。


毎日朝、昼、夕の3回「ブージャー(礼拝)」が行われ、この間、仏歯がおさめられた舎利容器が公開される。時間が近づくと、みるみるうちに、多くの参拝者が集まって来た。拝観の列がつくられ、行列はまたたく間に伸びていく。時間になると、列は進みだすが、停まって拝観は出来ない。小さな窓から、一瞬、黄金の舎利容器が見える。ちなみに歯そのものは10年に一度だけ公開されるそうである。大混雑の中、あっと言う間であった。。


寺院の北側には2列の柱に支えられた重厚な屋根を持つ「王の集会所」がある。1783年に、スリ ラジャディ ラジャシンハ(在位1782~1798)により建てられた。木製の屋根を支える木製の柱に、キャンディ伝統の木彫りが施されている。エンベッカ寺院に似ているが、はるかに大きく柱の高さが7メートルある。敷地は建設時は、17.7メートル×10.9メートルだったが、1872年に、プリンス オブ ウェールズ(後のイギリス王エドワード7世)訪問の際に改装され、横幅が9.6メートル延長された。


西側の濠のそばにラージャ タスカー博物館ある。北隣に王宮があり、もともとは、王の休憩所だった。こちらに、ペラヘラ祭で最も重要な役目は歯を納めた舎利容器を背中に乗せて行進する象が展示されている。この剥製は、ラージャという象で65歳で亡くなるまで1987年まで50年もの間勤めていた。ラージャは1985年には当時にジャヤワルダナ大統領からスリランカ国宝の指定を受けている。


ラージャと大統領との写真が展示されている。


時刻は午後5時半になった。仏歯寺裏のカルチュラル ホール(キャンディ芸術協会)にキャンディアン ダンスの鑑賞にやってきた。激しいドラム演奏と共にショーはスタートし、踊りが展開される。


キャンディアンダンスは、数分程度の10ほどの趣向の異なる踊りが組まれている。


最後は会場に炎を持ち込んで、ファイヤーダンスが行われた。こちらは口から火を吐くギニ シシーラ。観客席にまで炎の熱気が届く。そして燃える焚火の上を裸足で歩く(火渡りの儀式)迫力のある演出で締めくくる。


仏歯寺の裏のキャンディ国立博物館を見学した。かつての王妃の宮殿の建物で、主にキャンディ王国時代の宝物やキャンディアン ダンスで使用される装飾品などが展示されている。こちらは仏舎利塔である。


スリランカの北西部州クルネーガラで造られた。貝葉で造られた最古の経典とある。


これで今日の予定は終わりである。ホテルに到着後、早々に館内にあるレストランに食事に行く。午後9時と、遅い夕食になったが、充実した1日を終えた。

(2012.9.13)
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スリランカ(その1)

2013-03-01 | スリランカ
バンダラナイケ(コロンボ)国際空港で入国手続きを済まし到着ロビーに出ると、赤見を帯びた唇と肌に密着する衣裳が印象的な仏陀坐像が飾られている。今回、9月9日(日)~9月18日(火)の日程でスリランカにやってきた。利用したスリランカ航空は、成田からの直行便(週4日運行)のため、飛行時間も9時間20分と大変アクセスが良い。


時差は-3時間半で日本の方が3時間進んでいる。現在、コロンボ(現地)時間で午後7時半になったところ。今夜の宿は、コロンボ中心部から、約13キロメートル南にある「マウント ラビニア ホテル」を予約している。バンダラナイケ国際空港からコロンボ市内までは35キロメートルなので、ホテルまでは約50キロメートルほどの距離となる。

タクシーに乗りホテルまでは、約1時間半ほどかかった。フロントでチェックインを済まし、ホテルの外にあるシーフードレストランに食事に向かった。レストランは、砂浜に建つ茅葺屋根の木造建築で「海の家」と言った雰囲気である。テラス席に案内してもらったが、周囲は暗く、海岸線も真っ暗で波の音だけが聞こえてくる。


注文は、店内に並べられた魚介類から、食べたい食材を選んで調理してもらうシステムになっている。テラス席でビールを飲みながら待っていると美味しそうに調理された料理が運ばれてきた。内容は、生牡蠣、海老のピリ甘辛と白身魚の照り焼きのプレート、デザートだった。ロウソクの炎に照らされ食事をしていると、南国に来たことを実感させてくれる。


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翌朝は、少し遅めに朝食(ブッフェ)を食べることにした。昨夜は暗くて良く分からなかったが、ホテルは、北西方向にやや突起した半島にあり、中央棟の3階がホールで朝食会場となっている。北隣は半屋上でプールとテラス席が広がっており、その先はヤシの木が伸びる岩海岸となっている。そして、シーフードレストランは、ホテルの南西側の砂浜が続く海水浴場側にあった。


マウント ラビニア ホテルは、もともとイギリス提督の別荘で、当時のコロニアル様式(植民地様式)のまま保存されている。白い外観が特徴の4つ星ホテルで、提督が恋に落ちた現地の娘の名前に因んで名付けられている。今日は、コロンボ市内にある「コロンボ国立博物館」に行く予定にしており、午前10時前にホテルを出て東側の通りを右折して、最寄りのマウント ラビニア駅に向かった。こちらは、その通りから振り返った様子で、手前の4階建ての白い建物は、中央棟の東南側にある客室棟になる。


マウント ラビニア駅までは歩いて7分ほどだった。アーチ窓がある洒落た黄色の石造りの平屋駅舎だが、屋根はトタン屋根でややアンバランスな印象。入口を入るとすぐにホームとなる地上駅で4ホームあり跨線橋で繋がっている。運賃は2クラスで20ルビーだった。しばらくすると重厚な造りの列車がやってきた。


列車は西の海岸線を見ながら北に向かう。スリランカの西側はラッカディブ海で、その先はアラビア海となる。コロンボから北西側には200キロメートル先にインド大陸があるが、西側は1000キロメートル先のモルディブ諸島しかない。何処までも続く水平線は眺めが良いが、乗降口の扉の開けっ放しは、少し危険である。。


コロンボ国立博物館は、コロンボ フォート駅の3駅手前のコッルピテヤ駅(マウント ラビニア駅からは乗車時間30分ほど)を下車し、東へ約1キロメートル行ったヴィハーラ マハー デーウィ公園の一角にある。歩くには暑かったのでスリーウィラー(小型の三輪車両)に乗ったが、一方通行が多く回り道をしたので遠く感じた。博物館の敷地内には、日本では御目にかかれない巨大な菩提樹「ベンガル菩提樹」(バンヤン ツリー)が聳えていた。


コロンボ国立博物館は2階建で、1階が主に仏教関係の遺物の展示スペースとなっている。正面入口を入り、左手に進み最初の展示室を入ると、正面に菩薩像が展示されている。紀元9世紀、アヌラーダプラ時代のブロンズの観音菩薩像である。


スリランカでは、多くの国民が仏教を信仰(仏教徒が70%、ヒンドゥー教徒が10%、イスラム教徒が8.5%、キリスト教徒が11.3%)している。しかし、日本、チベット、中国、朝鮮などの大乗仏教(北伝仏教)とは異なり、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどに伝えられた上座部仏教(南伝仏教)である。諸国の中では、紀元前三世紀、インドのアショーカ(阿育)王の子マヒンダ長老によって最初に上座部仏教がスリランカにもたらされている。

ちなみに、現在もスリランカは仏教国と言われるが、スリランカ憲法では、仏教に「第一の地位」を与えると明記されていることから、仏教が国教ではない。

スリランカの仏教は、上座部仏教のマハー ヴィハーラ(大寺派)であり、大乗仏教のように諸仏を崇拝しない。しかし、12世紀以前までは、大乗仏教を受け入れていた無畏山寺派があったことから、観音菩薩をナータとして崇拝されてきた。像は、冠を被っているが、瓔珞は着けていない。髪の毛は長髪で肩にかかっている。半跏趺坐や結加趺坐でもなく、無造作に片足を上げてくつろいだ姿をしている。


こちらには、9世紀~10世紀制作のアヌラーダプラ時代のブロンズのサマーディ仏陀坐像が4体展示されている。サマーディとは、三昧のことで、瞑想を行った結果訪れる精神的な状態を表している。アヌラーダプラは、スリランカ北中部州にある古都で、紀元前5世紀から紀元11世紀に至る間、北部を根拠地としたシンハラ人を主とする王朝の都として繁栄した。


こちらも同時代の9世紀アヌラーダプラ時代に制作された黄金の仏足石で41センチメートルある。


こちらは、12~13世紀、古都ポロンナルワ期のヒンドゥー教の神、踊るシヴァ像(ナタラージャ)。ポロンナルワは、スリランカ北中部州にある中世の古都で1017年から1255年までスリランカの首都があった。


ヒンドゥー教の女神、ドゥルガー神。ドゥルガー神は悪魔の水牛マヒシャースラを退治する構図が多いが、こちらは立像である。10世紀、アヌラーダプラ時代のもの。


7世紀、シーギリヤの三仏陀像。大乗仏教では、左右に菩薩像を配置する三尊像が有名だが、三体の仏が並ぶ姿は珍しい。七仏像は、過去七仏として信仰されていることから、損壊して三体になったのかも知れない。シーギリヤは、スリランカの中部州のマータレーにあり、シンハラ王朝の5世紀に、カッサパ1世(在位477~495年)により、それまでのアヌラーダプラから都を遷都し発展した。しかし数年後、再び、都はアヌラーダプラに戻っている。


博物館の2階には、工芸品、仮面、人形などが展示されている。こちらは、スリランカの南西部海岸地域に伝承されている仮面舞踊劇コーラムの仮面、蛇神面(ナーガ・ラクシャ)である。かなり重量がありそうである。


ガラスケースには、4体の人形が展示されている。天井から操作する糸操り人形である。東南アジアで見られる棒つかい人形と比べると写実的であり、ヨーロッパ系統のマリオネットを思わせる。


1時間半ほど見学した午前12時半に、博物館を後にして、スリーウィラーでヴィハーラ マハー デーウィ公園の北にあるパーク ストリート ミューズに食事に行った。もともと倉庫が並ぶエリアだったが、改造して出来たコロンボで一番おしゃれなレストラン街である。


最初に、百獣の王といった雰囲気たっぷりのライオンがデザインされた「ライオンビール」を飲む。ライオンビールは、1881年創業のアジア最古の醸造所を持つライオン ブリューワリーの定番商品で、さっぱりとした後味とモルトの香りが楽しめる。中央高地ヌワラ エリアの滝の水が使用されており、2006年にはモンドセレクション金賞に輝いている。しかし、スリランカにはライオンはいないらしい。


昼ご飯を食べて、そばの「スパセイロン」で1時間ほどマッサージをしてもらう。。


体力も回復したため、パーク ストリートの西側にあるベイラ湖上に建つ「シーマ マラカヤ寺院」に歩いて向かう。湖畔沿いの大通り沿いには、多くの人が並ぶ行列が続いている。道路脇には、装飾された車も置かれており、警官もあちこちに立っている。近くのギャンガラマヤ寺院が行列の先頭になっている。スリランカでは毎月満月の日に満月際(ポヤデー)という満月をお祝いする仏教のお祭りがあるが、時期的にはまだ先のはずである。行列の理由は分からなかった。


ギャンガラマヤ寺院を過ぎると湖が現れる。桟橋を渡り途中にある涅槃像と仏足石を過ぎた湖面に浮かぶ寺院が、目的の「シーマ マラカヤ寺院」である。赤い屋根が多いスリランカにおいて青い屋根瓦は珍しい。寺院は10メートル四方の本堂を中心に、北側に小さな会堂と南側に小さなストゥーパと菩提樹がある島から成り立っており、それぞれ橋で結ばれている。スリランカを代表する建築家ジェフリー バワ氏による設計で、湖上に浮かぶヴィラを連想させてくれる。


本堂の周りには様々な印を結ぶ頭部が尖った宝冠を思わせるタイ風の仏陀像が鎮座している。


ストゥーパの横には、仏陀像が立っている。なだらかな曲線と穏やかな表情をした典型的なスリランカ像である。


一通り見学が終わると、もうすぐ午後6時である。コッルピテヤ駅から再び列車に乗る。


車内からは、ラッカディブ海に沈む夕日を見ながらマウント ラビニア駅に戻った。


ホテルの部屋でお風呂に入り汗を流した後、昨夜に続いて砂浜沿いのシーフードレストランに夕食を食べに行く。


今夜は店内のテーブル席に案内してもらった。エビ、イカなどをグリルしてもらいチリソース風味でいただく。


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今日は、マウント ラビニア駅から、列車「Rajarata Rajini」(北中部地方の女王号)に乗り、スリランカ南西海岸の先端部に位置する「ゴール」(スリランカ南部州ゴール県の州都で県都)に向かう。約2時間の旅(運賃は2クラス170ルビー)である。到着した列車は、ドアからはみ出すほど人が乗っていたため、連結付近で、すし詰め状態で乗っていたが、途中の駅で多くの人が降りて、ようやく座席に座ることができた。


今回、ゴールで、ガイドと車を雇っており、世界遺産「ゴールの旧市街と要塞」の見学を皮切りに、他の5つの世界遺産「聖地アヌラーダプラ」、「古代都市ポロンナルワ」、「古代都市シーギリヤ」、「聖地キャンディ」、「ダンブッラの黄金寺院」を7日間で見学する予定にしている。

列車は、定刻どおりゴール駅に到着した。乗車中にスコールがあったが、こちらゴールは快晴だ。


今夜のホテルは、ジェットウィング ライトハウス(Jetwing Lighthouse)である。ゴールの中心部から海岸線の通りを北西に2キロメートル行ったやや高台に位置する建築家ジェフリー バワ氏設計のコロニアルスタイルのホテルである。フロントのすぐ先はテラスになっており、すぐ先には、岩に打ち寄せる波しぶきが見える。


椅子の背もたれの上を猿が通って行った。


案内された3階の部屋のベランダから外を眺めるとプール(横30メートル×縦10メートルほど)があったので、夕食前にひと泳ぎしてお腹を減らすことにした。


ホテル内のレストランで、夕食を食べる。昨夜のマウント ラビニア ホテルもそうだったが、こちらのジェットウィング ライトハウスも海岸沿いにあることから、シーフード料理が大変美味しい。この日は、最初に、春巻きを頼み、メインにロブスター(オマール海老)などを頂いた。他に2~3組の客がいたが、店内は空いていた。


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翌朝、天気は良さそうだが、部屋から見える海は今日も波が荒いようである。


ホテル内のレストランでブッフェ朝食を食べ終え、午前8時にフロントでガイドの迎えを待っていると、やや遅れて、体格のがっちりとしたスキンヘッドのウーパリ氏がやってきた。見た目と異なり日本語流暢に話す姿にギャップを感じる。彼はスリランカ人の約7割を占めるシンハラ族とのこと。ウーパリと言えば、仏陀の十大弟子の一人で「持律第一」と称せられたウパーリ(優波離)と名前が似ている。

自己紹介をした後、車に乗り、一路、ゴール旧市街方面に向かう。ゴール駅やバスターミナルのある信号を右折して、大きな円形のスタジアムを半周回すると、ロータリーの先の東西に城壁が続いている。その城壁にある中央門(フォートエントランス)をくぐって旧市街に入り右折して坂を上ると駐車場がある。駐車場からは、歩いて城壁に向かう。正面にイギリス統治時代の1883年に建てられた「アントニス時計塔」が聳えている。


時計塔は、先端が鋭角に張り出した五角形の「ムーン要塞」の後方の城壁上に建っている。こちらは、時計塔から、城壁を西側に歩いた先から振り返って眺めた様子で、城壁から稜堡が張り出すムーン要塞や、遠くにゴール湾が望める。足元には、緑の中に砂道が続くため堤防を歩いている様に思える。


城壁は、北西から南東に延びる海岸から南に突き出た半島(南北約1キロメール×東西約400メートル)の半島口の東西線と海岸線沿いに築かれている。ゴールは、古くから交易の拠点だったが、1505年、ポルトガル人がこの半島を拠点に貿易を強化し、1625年に稜堡や砲台を設置するなど要塞化を進めた。しかし、1640年にオランダ軍の攻勢により要塞は陥落し、オランダ海上帝国の一部となり、1663年に旧市街を囲む城壁が築かれた。現在残る遺構はこのころ建設されたものである。

1796年には、イギリスの手にわたることになるが、ゴールは、貿易はもとより、ヨーロッパとアジアを結ぶ旅客船の寄港地として頂点を迎えることとなる。1988年に「ゴールの旧市街と要塞」として、ユネスコの世界遺産リストに登録されている。

時計台から西方面に200メートル程歩くと、海岸線沿いの稜堡に到着する。こちらは「太陽の要塞」と呼ばれいくつかの城壁や稜堡が複合的に入り組んでいる。


左(南方面)に曲がり海岸線に沿いに延びる城壁を歩いて行く。太陽の要塞から150メートルほど先には「アイオロス要塞」があり、内側に半円状に彫られた保塁と左右にお椀状のトーチカがある。通り過ぎて、振り返えると、海に張り出す稜堡と、トーチカの緑の膨らみが確認できる。


更に南にしばらく歩いた小さな砦「海王星の要塞」から東側の旧市街方面を眺める。手前にストゥーパ(仏塔)が見え、奥にはイギリス国教会やオランダ改革派教会などが見える。


「太陽の要塞」から600メートルほど城壁を南に行ったところが「トリトンの要塞」(Triton Bastion)になる。前方が海側で、こちらは、半円状に下げられた保塁になる。中央に設置された円形のひな壇は「揚水機」の一部で、駆動には、風車を利用し、旧市街からの取り込んだ排水を海水と共に流す仕組みになっていたという。ゴールが世界遺産に登録された基準の一つに、こちらのトリトン要塞にある17世紀当時のままの排水機構が保存されていることが挙げられている。


ところで、2004年、インドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生したスマトラ沖地震では、スリランカで3万人を超える犠牲者を出す大きな津波被害を受けたが、城壁に囲まれたゴールは、波をそらす構造になっていたため、津波の直撃を免れることができた。

城壁から旧市街に降りていくと、迎えの車が待っていた。時間は午前9時を過ぎたところ。車に乗り、古い門を越えてゴールを後にする。なお、門の上部にはイギリス時代の東インド会社のマークが見える。この古い門(オールドゲート)は、旧市街の北東側にある17世紀後半に建設されたオランダの倉庫(2階建て幅150メートル)の中央を通り抜ける門で、城壁の一部を兼ねている。2010年から倉庫は国立海洋考古学博物館となっている。


ゴールを出発し、30分ほど一般道を北上した後、ハイウェイに乗り、コロンボ近郊まで北上する。そして、ラトゥナプラ県アダムスピーク北の東西に伸びるジニガスヘナ ロード(A7号線)を通って、東方面のヌワラ エリア地方に向かう。ヌワラ エリアは、スリランカの中部州ヌワラ エリヤ県の中心都市で、スリランカ中央高地の南側にあたり、標高1,868メートルに位置している。


A7号線に沿ってケラニ(Kelani)川が流れている。午前12時半を過ぎたので、キトゥルガラ(Kitulgala)レストハウスのブリッジ レストランで昼食を食べることとした。


レストランの壁には「The Bridge on The River Kwai」と書かれ、写真が数枚貼られている。1957年の映画「戦場にかける橋」で、アラビアのロレンス、ドクトル ジバゴなどの大作を世に送り届けた巨匠デヴィッド リーン監督による作品。撮影は、キトゥルガラの密林にあるケラニ川を映画のクワイ川に見立てて架橋し行われたとのこと。


レストランでは、カレーを注文した。スリランカで、カレーは、スパイスのきいた煮込み料理全般を意味している。目の前に多くの種類が並ぶので、ビールが進んでしまう。


食事を終えカーブの連続するA7号線を東方向に向かい道なりに北上すると、A5号線に向かう丁字路にぶつかる。右折するとヌワラ エリアだが、ここは左折して北に向かう。キトゥルガラから2時間が過ぎた頃、スリランカ最高峰のピドゥルタラーガラ山(標高2,524メートル)を右側に見ながら、北西側にある「マックウッズ社の紅茶工場」の見学に向かう。


カーブが連続する山あいの道を進んで行くと、正面にやや横広の5階建ての近代的なマンションを思わせる建物が現れる。マックウッズ社の工場に到着した。周囲に広がる山の斜面には、一面茶畑が広がっている。

スリランカでは、茶葉の育つ場所の標高によって、品質を1.ハイグロウンティー(高地産、標高1,300メートル以上)、2.ミディアムグロウンティー(中地産、標高670~1,300メートル)、3.ローグロウンティー(低地産、標高670メートル以下)と分類している。中でも、ハイグロウンティーは、高級品にランクされ、独特のデリケートな味と爽快な渋み、香気をもち、水色は明るいのが特徴で、ウバ、ディンブラ、ヌワラ エリアが「セイロン3大紅茶」とされている。


そのヌワラ エリア紅茶は、スリランカの最も高地(標高1800~2000メートル)で栽培されている。夕方は5~14度、日中は20~25度と一日の温度差が激しいため、茶葉のタンニンの含有量が増え、強い渋味を生み出すので、とてもシャープな口当たりになるとのこと。また、この温度差は口当たりだけでなく、茶葉の香りを高めると言われている。一般的にハイグロウンティーは、花のような香りが特徴とされるが、ヌワラ エリアは更に高貴な香りがすると言われ「セイロンティーのシャンパン」と称されている。

最初に工場内を見学する。こちらは、最初の工程「萎凋(いちょう)」で、葉っぱに含まれる水分を萎凋棚で飛ばして、しんなりさせている。


萎凋の後は、「揉捻(じゅうねん)」という葉を揉む工程があり、その次に塊となった茶葉をほぐす、「玉解き・篩い分け(たまどき・ふるいわけ)」という工程を経て酸化発酵させる。こちらは、仕上げ前の熱風で乾燥させる最後の工程で、熱風により酸化酵素の働きが止まり、茶葉の外観は乾いて濃い褐色となることから、貯蔵や輸送に耐えられる品質となる。


見学が一通り終わると試飲のサービスがあった。マックウッズ社は1841年、イギリス人ウイリアム マックウッズにより創業された。2002年には、バッキンガム宮殿で行われたエリザベス女王戴冠50周年を記念して献上紅茶も作られている。


その後、今夜の宿泊場所「ヘリタンス ティー ファクトリーホテル」に向かう。ホテルは、ピドゥルタラーガラ山の東側に位置していることから、一旦ヌワラ エリア市内方面に戻り、ピドゥルタラーガラ山の南側を抜けた先に位置している。せっかくなので、途中で、ヌワラ エリアの市内に立ち寄った。


こちらに、ガイドお勧めの地元民が集まるバーがあるとのことで、連れて行ってもらいカウンターで一杯飲むことにした。時刻は午後5時半を過ぎたところ。店内は、既に賑わっており驚いた。


その後、市内のマーケットを少し散策し、お勧めの紅茶店で茶葉を買い、ホテルに向かった。


今夜のホテルは、ヌワラ エリア市内の東側にある。茶畑が広がる中、車1台がやっと通れるような細い道を縫うように上って行く。高所にあるヌワラ エリア市内よりも、更に標高が高いところにある。ホテルはマックウッズ社の紅茶工場とよく似た建物である。ホテルは、もともと紅茶工場を改造したものらしく、館内には当時の機械が展示されている。


チェックインを済まし、午後8時に、ホテル内のレストランで夕食を食べる。レストランはブッフェだった。入口では、カンガニー(茶園の監督)の制服を着た等身大人形が迎えてくれる。

(2012.9.9~12)
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