気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

銭湯にノスタルジーを感じる理由

2017-05-27 23:40:13 | イメージ画
「もはや戦後ではない」と言われた1956年当時、私は3歳だった。太平洋戦争が終わって11年が過ぎても、我が家(店)の向かいにあったエーワン食堂の外の一角で、戦闘帽に白い服の松葉杖をついた数人の傷痍軍人がアコーディオンやハーモニカを演奏して物乞いをしていた。傷痍軍人がいない日は靴磨きが店を開いていた。もう一方の向かいの好々亭には、ジープを横付けて進駐軍が焼きそばを食べによく来ていた。夜になると我が家のニ階の外人相手のダンスホールがたいそう繁盛していた。
 あの頃の門司の町は貧しくても活気があった。我が家はダンスホールの一階を借りて、父が家業の家具屋の支店を開いたのだが、居住スペースは店の奥の6畳の板張りと3畳の台所しかなかった。だが子供たちにしてみれば生活空間は広大だった。商品の洋服たんすでカクレンボをしたり店の前の道路にチョークで絵を描いたり、商店街のあちこちに遊び友達がいた。商品の椅子で電車ごっこをしているうちに、チンチン電車の軌道に出て叱られたこともあった。
 二つ上の姉が小学校にあがる頃、子供部屋が必要になったので店から歩いて3分のところに3件長屋の真ん中を借りた。6畳と3畳の続きの和室に2畳の台所がついてあり、右隣の家との境にそれぞれの家から引き戸で出入りするような落ち着かない和式のトイレは共用だった。右隣の住人は裁縫で生計を立てる独身の女性だったので、新参者の我が家側のトイレの引き戸は開かないように釘で打ち付けられた。店で夕飯を済ませてそろそろ眠たくなると、父と姉と私は店でトイレを済ませて長屋に寝に行った。店で母と一緒に寝る弟がうらやましかった。
 私が小学5年の時、倉庫兼アパートを店から車で10分くらいの地に建てて引っ越すことになった。一つ屋根の下で家族揃って過ごせることが嬉しかった。そして私が一歳のときから続いた銭湯通いが終わった。
 

昭和10年に建った旭湯の内部



旭湯の下駄箱



旭湯のロッカー



旭湯外観


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