気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

四国旅行Ⅴ

2013-05-31 00:52:41 | 写真
 その寺は最近立て替えられたようで、本堂も母屋も真新しかった。妻を車に残し、二間巾のりっぱな玄関の引き戸を遠慮がちに開けて声を掛けた。
 出てきたのは24、5の女性で、寺の娘と思われた。訪問の理由を告げ、突然の非礼を侘びた。夕飯の支度で忙しい時間に、見知らぬ人間に煩雑な相談を持ちかけられたのに、若い女性は笑顔で応対した。お寺の大切な過去帳を引っ張り出してきて、藤井姓の檀家の過去帳に惣三郎の名前がないか探し始めた。
 「ここにありました。お尋ねの方と違うかもしれませんが。」
 過去帳なので、故人の生年月日はわからないが明治5年5月4日に79歳で亡くなっていた。カメが死んだ年が明治30年だから親子の可能性は高い。
 奥から品の良い老婦人が現れた。娘から事の次第を聞くと、玄関先で失礼と思ったのか私に家に上がるように勧めた。私が遠慮すると、土間で使う椅子を差し出して「ではこちらにお掛けになって」と言った。女性が正座して応対しているのに、上から見下ろすように腰掛けるわけにはいかないので、私はしゃがんだままの姿勢で話を続けた。
 「惣三郎の長女のカメなんですが、戸籍に配偶者の名前がないんです。曽祖父は私生児だったんでしょうね。過去帳にもカメの名前がありません。」
 老婦人は微笑みながら答えた。
 「このあたりの昔の頃は、婚姻の形式が今みたいにきっちりしていなかったのよ。好かれて夜這いにあい、子供が出来ることもあるし、子供が出来たあとで、男が漁に出て帰らぬ人になることもある。父親の名前が戸籍にない子供はいくらでもいたの。苗字すらなかった昔のことだから、引っ越して檀家じゃなくなるとお寺には記録が残らないから…。」
 和やかに三人で話していると寺の住職が帰って来た。30代の若いお坊さんで、最初に応対した女性は住職の奥様で、老婦人は祖母だったことに気づいた。
 住職も私たちの話に加わった。住職はこの頃檀家の過去帳のデータベース化に取り組んでいるという。つい最近、藤井姓が終わったばかりだそうで、私に関わるデータの印刷をしてくれるという。暫くして過去帳の一部をプリントアウトしたものを手に戻ってきた。
 「個人情報をお渡しすることになりますので、檀家の施主様の手前、情報の管理には気を付けてください。」と微笑みながら私にデータを渡してくれた。
 データに惣三郎の父親の名前があった。文政12年(1829年)7月9日に亡くなった藤蔵だ。カメはお祖父さんの名前の一字を取って、わが子に伴蔵と名づけたのだと確信した。因みに過去帳にある一番古い年は元文2年(1737年)だった。
 現在の施主、藤井の本家の名前が分かり、会ってみたい気はしたが、時間も遅く、突然訪ねても先方が困惑するだけだろう。
 親切な寺の住人にお礼を述べ、車で待っている妻のもとに戻った。

 清々しい気持ちで帰路に着いた。5時35分に鳴門ICから高速道路に入った。津田の松原SAで讃岐の釜揚げうどんと天麩羅で夕食タイムを30分費やした後は瀬戸大橋経由でひたすら走り続け、10時35分に門司港ICを出た。眠りから覚めた妻は帰宅が午前になると予想していたので、帰路の速さに驚いていた。505KMを正味4時間30分で走っており往きと大違いだ。10時50分、家に無事辿り着いた。 完

四国旅行Ⅳ

2013-05-30 00:38:31 | 写真
私の曽祖父の伴蔵は、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変の翌年、アメリカで南北戦争の始まった年の文久元年6月28日に藤井カメの長男として生まれた。昭和11年2月8日午前9時42分に没しているので私は会ったことはないが、藤井家具店の創業者なので親近感を持っている。
私が中学生の頃、藤井家の先祖は爺さんの方は呑百姓だけど、婆さんの方は武士だと、父から自慢げに何度も聞かされた。封建社会でもないのに武士も百姓もないが、爺さんが婆さんよりも大人しかったのはそのせいだったのかもしれない。
 二十年ほど前になるが、思うところがあって各地の役所から除籍簿を取り寄せて自分の家系を調べた。その時に分かったのだが、曽祖父は私生児で、曽祖父の母親のカメは今でいうシングルマザーだったようだ。藤井カメは明治30年5月14日に亡くなっているが、除籍簿の限界で、カメが藤井惣三郎の長女であったことまでしか分からなかった。惣三郎の本籍地の徳島県板野郡撫養堂浦村を訪ねれば他に何か分かるかもしれないとずっと機会を待っていた。

大塚美術館から左手に波の穏やかなウチノ海を見ながら県道183号を20分ほど走ると堂浦(ドウノウラ)に入った。堂浦は門司でいえば柄杓田のような小さな漁港だ。浜で漁師らしい60代の男たちが談笑していた。私は挨拶をして、北九州市から自分のルーツを訪ねてきたことを話した。曽祖父の転籍前の本籍地の「堂浦437番」の場所を聞いたが誰も知らなかった。その場を立去ろうとした時、男の一人が村で唯一の食堂に行って聞くことを勧めた。食堂は開いていたが、買出しに行っているのか声をかけても誰も出て来なかった。諦めかけた時、先ほどの男が再び現れて「居らんやったんか。じゃあ、藤井丸の船長の家に行ってみい。」
 数十メートル先の右手に「藤井」の表札のかかった家があった。声をかけると70代のご婦人が応対に現れた。私から経緯を聞くと奥に入ってご主人を呼んできた。80代のご主人は藤井惣三郎を知らなかった。「でも同じ苗字なので先祖が繋がっているかもしれませんね。記念に家の写真を撮らせてください。」と言ってその家を出ると、さっきの男が外で待っていた。「何か分かったかね」「ここのご主人のお祖父さんの時代のことなので分からないそうです。」「じゃあ、お寺に行ったらいい。」
男に教えられた道順を走ったが迷ってしまい、漁業組合の前の住居案内板を見ていると、どこまでも親切な男が現れた。「自分に着いてきな」と言って、軽快に自転車を走らせた。お寺入り口の上り坂でお礼を言いながら自転車を追い越した。
お寺は「吉祥寺」と言い、妻の実家の寺と同じ名だった。

四国旅行Ⅲ

2013-05-29 13:22:00 | 写真
 最初のB3のフロアは古代、中世の時代の絵画が中心で、遺跡を再現した展示室や絵画のいくつかには、映画「テルマエ・ロマエ」の撮影に協力をした旨が表示してあった。
 次のB2フロアはルネサンス、バッロク時代の見応えのある作品が多かった。
 館内のレストランやカフェの食事のオーダーは2時30分までとなっており妻が時間を気にしていた。「モネの大睡蓮」のある屋外庭園に面したカフェに入りホットドッグとサンドイッチで遅い昼食を摂った。
 食事で一息ついた後、鑑賞時間の配分を誤っていた私はピッチをあげて館内を移動した。ほとんど早足で、絵の説明書きを読むのも省略した。つぎのB1フロアは近代の絵画が中心で、有名で見慣れた作品が多く、ピッチを早めた。案内に従ってB1から2Fに進むと、現代絵画で見知った作品が多いことにして、さらりと鑑賞し1Fに降りた。1Fも現代の作品が多く、意味不明の抽象的な絵画は陶板にする価値があるのかさえ解らなかった。ただピカソの門外不出の「ゲルニカ」は迫力があり、このフロアで一番印象に残った。
 すべて鑑賞した達成感ともっと鑑賞したい心残りを抱いて、4時30分に美術館を後にした。閉館まで30分の余裕だったが、帰路につく前に、私が四国旅行で一番行きたかった所を探訪する時間が欲しかった。そもそもソロツーリングを計画した時は、これが目的だった。
 それは藤井家のルーツを辿ることだった。
 
(レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」)

四国旅行Ⅱ

2013-05-29 09:26:12 | 写真
大塚国際美術館は、大塚製薬グループが創立75周年事業として鳴門市に設立した、常設展示スペース294124㎡、展示作品数1000余点という国内最大級の美術館だ。1998年の開館までに展示物を入れて550億円の費用をかけたらしいが、オロナイン軟膏に始まり、オロナミンC、ポカリスエット、等で得た莫大な利益を創業の地に還元するという意味があったのだろう。山を繰り抜いて作った地下5階、地上3階の建物は㈱竹中工務店が請け負って施工したが、難工事で大赤字となったらしい。
余談だが私の商売も古くから大塚グループに関わってきた。徳島は漆を使った座卓や鏡台の産地として歴史があり、大塚化学工業の系列に家具製造部門が設けられた。座卓、鏡台でシェアを拡大するうちに、製薬のノウハウを活かして25年間防虫剤不要の婚礼タンス「銀婚」を開発し、テレビCMを流して全国的にヒットさせた。大塚グループはアイデアを活かした商品の開発が的確かつ迅速で、マスメディアを駆使した宣伝も常に先を走っている。(因みに家具小売の大塚家具は大塚グループと何ら関係ない。)
昭和の終わる頃、大塚化学の私の店の担当者が転属となった。若い人のライフスタイルが変わって、婚礼セット、鏡台、座卓が売れなくなり、主力のダイニングセットは海外で製造するようになって、家具部門が大幅に縮小されたのだ。担当者の配属先の陶板事業部は、鳴門海峡の浚渫砂を原料にした陶板に特殊技術を使った写真を転写して焼き上げた肖像画を受注販売する仕事だった。私の母が亡くなった時、8号くらいの肖像陶板を作ってもらったが、一般のユーザー価格で20万円程かかったようだ。
 大塚オーミ陶業㈱の技術により、世界25ヶ国190余の美術館が所蔵する作品を現地で調査、写真撮影し、同じ大きさで複製した作品群は、陶板故に、2000年以上も変色せず、触ることも写真撮影することも許されている。

(スクロヴェーニ礼拝堂)

スマホを頼りに漸く大塚国際美術館に辿り着いた。車は海岸沿いの広大な駐車場に停めてシャトルバスに乗らなければならない。美術館の正面玄関を入ると長いエスカレーターがあり、地下3階から展示が始まる。鑑賞案内の矢印に従って館内を進んだ。
 最初に見る「システィーナ・ホール」のミケランジェロの壁画に先ず圧倒される。「エル・グレコ」の部屋では、世界中に散っているキリストの生涯を描いた5枚の作品を大きな祭壇衝立に収めたものが圧巻で、金色に輝く祭壇はイタリアで1億5千万円をかけて特注したという。
最近話題となったフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」はここでも人気があり、原画の細かくヒビ割れた頬の絵の具の状態まで再現されていた。
 各作品には絵の由来などの詳しい説明が掲示してあり、古代の作品群をじっくり鑑賞するうちにギリシャ神話の世界に浸っていく。
 中世の作品群の展示コーナーに辿り着く頃には、幼い子供の泣き声が所々聞こえてきた。子供には退屈極まりないだろう。
 妻が「疲れた」と言うので、「ベンチに座ってれば…」と突き放して、マイペースで鑑賞を続けた。
 妻は私のペースで全部を鑑賞するのは時間的に無理だと確信したのだった。


(ラファエッロ「アテネの学堂」)

四国旅行Ⅰ

2013-05-22 16:08:26 | 写真
ゴールデンウイーク中の仕事が顧客の都合で延期になり、急遽、妻の休日に合わせて5月5、6日の二日間休みをとることが可能となった。
仕事を終えて帰宅した妻に、休みがとれたので翌日から四国へ一泊旅行にでかける旨、宣言した。夜、ネットで検索して徳島グランヴィリオホテルのツインルームを予約した。朝食付一泊一室料金19000円には、大塚美術館の入館料(一人3150円)2名分が含まれており、たいへんお徳なプランが見つかった。
高速道路は5日が上りのピークと予想されたので、10:40AMに家を出ると国道10号線を下り、宇佐別府道路に入った。別府SAで昼食をすませ、佐賀関3PM発の九四フェリーに乗った。4:10PMに四国の三崎に上陸したが、ここから渋滞が始まった。四国高速の大洲北ICに入ったのが5:50PMで、6PMのチェックイン予定には到底無理なので、ホテルに電話をいれた。高速道路の渋滞で車が完全に停車をする経験は久しぶりだ。妻に計画が甘いと横から言われながら、8:30PMにホテルに辿り着いた。
 部屋に荷物を置いて、さっそく徳島市内一の繁華街、栄町に繰り出した。ホテルで貰ったパンフレットで見つけたお目当ての郷土料理店は2軒とも閉まっていた。一見の観光客が溢れるGWを嫌って、店を開けなかったのだろう。いかにも頑固親父の店らしい。
 新装開店したばかりのような、若い夫婦?が切り盛りしている居酒屋で郷土風料理を食した。
 6日は大塚美術館の開館時間9:30AMに合わせてホテルを出たが、道に迷い30分近いロスがでた。


(ミケランジェロ「システィーナ礼拝堂天井画および壁画」)