気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

シェルビーコブラ427S/ C 1964

2007-12-31 20:01:45 | 車の絵
 子供の頃、お正月の楽しみは、お年玉を貰えることと、少しだけお酒が飲めることだった。
 亡き母はお酒が飲めなかったが、ワインなら、ほんの少し飲めた。
 父のお屠蘇に対して、母子は、赤玉ポートワインをショットグラスで一杯づついただいた。あの甘く不思議な味が大好きだった。 
 初詣は祖父の家に親戚全員が集まり、大宴会となった。叔父たちが、悪酔いすると、子供たちに面白半分にお酒を飲ませた。
 これがいけなかったようで、私は幼ない頃より、日本酒の味を覚えた。
 一升瓶の蓋を開けたときの日本酒の香りが好きで、一度こっそり口のみしたことがあった。でも幼児ながら罪悪感を感じたようで、以後は、真面目に?大人が飲ませてくれる時だけ飲むことにした。小学校の時、調子に乗って吐くまで飲まされたのが、最初の悪酔い経験だったが、反面教師として、自分の子供には、酒を飲ませなかった、と思う。
 今年最後の投稿になりました。みなさん、よいお年を!

昭和30年代Ⅱ(イメージ)

2007-12-12 22:03:48 | イメージ画
 私が小学4年まで暮らした「川端通り」は、大正時代、道の中央を川が流れていたことから、その名が付いた。上の方に「有楽」という映画館があり、上映が終わるたびに、そこから人々が流れてきた。その当時、門司港だけで映画館が6館あったが、ここは邦画がメインだった。
 有楽の斜めに「旭湯」という銭湯があり、スクラッチタイルを貼った外観は銭湯としては珍しく、当時はかなり前衛的だった。 浴槽は御影石で出来ていた。
 大通りに面した壁一面には、封切映画の宣伝用の看板が描かれ、行き交う人の目を楽しませていた。
 亡父と銭湯に行った帰りに、角の食品店で牛乳を飲んだり、貸本屋で漫画を借りたり、よく寄り道をした。
 やがて、テレビが出回るようになり、映画館が消えていった。
 内風呂があたりまえになると、銭湯もなくなった。

Mini Cooper

2007-12-09 21:50:29 | 車の絵
 私が小学生の頃、45人学級で一学年に3クラスがあった。今は少子化の為に、母校は他の小学校と併合したが、それでも一学年20~30人で、1クラスしかない。「隣のクラス」に名前も知らない子がいるというだけで、子供の世界感は変わるのではないだろうか。小学4年の時、期待と不安を抱えて「クラス変え」に臨んだのを思い出す。
Miniは1959年に、オースチン、モーリスの二つのブランドで生産を開始したイギリスの名車だ。2000年までに530万台が作られた。
 FF式横置きエンジンの2BOX車は、当時としては画期的で、時代を大きく先取りしていた。
 Miniの生産を引き継いでいたローバー社がBMWに吸収されたのち、2001年にフルモデルチェンジしたMINIを発売したが、私は大きくなったMINIよりも旧型のほうがかわいくて好きだ。

昭和30年代Ⅰ

2007-12-04 14:38:30 | イメージ画
 サラリーマンを辞めて、郷里に帰ってきた亡父は、程なく自分の店を出した。
 実家の本店から1kmも離れていない場所だが、その当時は街の中心部になっていた。「川端通り」と「仲町」の交わる角にある木造3階屋の1階を借りた。
 大家は2階でダンスホールを経営しており、3階に住んでいた。
 店舗の奥まった所に50センチほど床を高くした居住空間があり、6帖の板の間に3帖の台所がくっついていた。風呂はなかったので銭湯を利用した。      狭いながらも一家五人が慎ましく暮らしていた。
 夕方になると階上からダンス音楽が流れてきて、夕食はいつもBGM付きだった。 激しいステップで天井の一部が踏み抜かれ、夕食が台無しになったことが二度あった。「蛍の光」を最後にようやく静かになると、私達も眠りについた。 
 私の夜型の生活リズムは、この時に形成されたのだろう。
 家にはチョークがいつも置いてあり、私は大きなコンクリートのキャンパスに絵を描いて遊んでいた。