ディーヴァ
嬰ヘから2点ホまでの驚異的な音域、メゾソプラノ(「セヴィリアの理髪師」のロジーナ)からコロラトゥーラ(ノルマ)までをカバー。
毀誉褒貶
その生涯はスキャンダラスでもあり、まさに「歌に生き、恋に生き」だったのでしょう。
一種の社会現象---カラヤンと似ています---にもなったといえます。
公式サイトのbibliographyのページにリストがありますが、書籍名が111も並んでいます。
Googleでキーワードを入れて検索すると
マリア・カラス の検索結果 約 307,000件
レナータ・テバルディ の検索結果 約 10,800 件 (テバルディで 約 18,700 件)
ロス・アンヘレス の検索結果 約 11,500 件
と桁違いの結果です。
この3人の名歌手は、同世代です。
レナータ・テバルディ Renata Ersilia Clotilde Tebaldi 1922年2月1日-2004年12月19日
ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス Victoria de los Angeles 1923年11月1日-2005年1月15日
マリア・カラス Maria Callas 1923年12月2日-1977年9月16日
ちなみに何人かの指揮者を見てみると
カラヤン の検索結果 約 555,000 件
フルトヴェングラー の検索結果 約 209,000 件
トスカニーニ の検索結果 約 125,000 件
クレンペラー の検索結果 約 85,700 件
小澤征爾 の検索結果 約 324,000 件
小澤さんを別として、素直に頷ける結果です。
没くなって30年。時間は、虚飾、表層の見せかけといったものを洗い流し、その人が残したもの(だけ)を浮かび上がらせるでしょう。
極私的なことを書けば(といっても、このブログの内容はすべてそうなのですが)
音楽を学び始めたばかりのころのピアノの先生が、声楽家、それもコロラトゥーラ・ソプラノの方で
した。声楽家といっても、ピアノがとても上手く、門下生が歌う歌---それはコンコーネからオペラ
アリアまで---の伴奏をきちんと弾き、なお歌の指導をしていました。そこへ通うようになり、自分
のレッスンを待つ間に、オペラ、それもイタリア・オペラの様々なアリア---それらは、まさしくマリ
アのレパートリーと重なっていました---を聴くことになります。しばらく後には、そういった耳に親
しんだアリアやトスティ、ベッリーニ、ドナウディなどの歌曲の伴奏をすることにもなるのですが。
1974年には、先生が門下生と一緒にカラスの来日公演に行くといって話題になっていたのを記
憶しています。
当時はレコードを聴く程度でしたが、その声は、テバルディと比較すると、それほど美しいとも思え
ませんでした。その後まもなくパゾリーニ監督の映画「王女メディア」(公開は1970年)を名画座で
見たこともあり、単なるソプラノ歌手というよりも、オナシスとのゴシップなども含めて、「音楽」の枠
を飛び越えたすごいヒトだな、と思っていました。
このような環境があったから、今、様々な歌を聴いて楽しむことができると思っています。あまり
上演されることなく埋もれていた作品がマリア・カラスという稀有の歌手によって改めて光をあてら
れ、歌われるようになったオペラの数々を好む私にとって、今ではかなり気にしている歌手の一人
です。
そんなマリア・カラスを、さらに知るために、その大量に残された録音を聴くだけでなく、彼女について書かれた伝記なども気になり、次の本を読んでみました。
マリア・カラスは、両親がギリシャからアメリカ、ニュー・ヨークへ移り住んでまもなく生まれた、
つまりギリシャ系アメリカ人であることを、知りました。
「五線譜の薔薇」(以下 o:)
萩谷由喜子 ショパン社 ISBN4-88364-154-6
女性と音楽をテーマとして書かれており、ジョルジュ・サンド、アルマ・マーラー、クララ・シューマンなどと一緒に取り上げられています。ページ数もすくなく、さらっとした紹介にとどまります。
「マリア・カラスという生き方」(以下 a:)
Anne Edwardsアン・エドワーズ 岸 純信訳 音楽乃友社 ISBN4-276-21779-2
著者は、カラス演じる「トスカ」を見たことがあります。すでに出版されている伝記や伴奏者などカラスの周囲にいた人からの聞き取りをベースに執筆しています。
大学では音楽を専攻した、英国の女流伝記作家。伝記作家ということで、取材も周到に行ったようであり、様々な人のマリアに対する印象が語られているのが面白い。
また女性ということもあるかもしれませんが、マリアの家庭環境、姉を可愛がる母との確執に比重を置いています。
本としての体裁は、マリアのイメージに合わせた造本(色使い)で
原著"Maria Callas An Intimate Biography "を「マリア・カラスという生き方」という
どこか日本人好みのうまい書名にしています。
「真実のマリア・カラス」相補版 「La vera storia di Maria Callas」(以下 r:)
Renzo Allegri レンツォ・アッレグーリ 小瀬村幸子訳 フリースペース
アッレグーリ とありますが、14歳のモーツァルトが、システィーナ礼拝堂で門外不出の曲を、
その演奏を聴いて覚えてしまい、楽譜にしたという「ミゼレーレ」の作曲者アレグリと同じスペルです。
原音の発音を尊重したということでしょう。ベルリーニが、今ではベッリーニと同じですね。
著者は、晩年の4年間ですが個人的に知っていました。さらにマリアの死後、元夫であるメネギーニの回想録「わが妻 マリア・カラス」の草稿作成のための作業(執筆協力)をするなど、マリアおよびその周辺と近いところにいたこともあり、生の資料に基づく話が多く見られます。
著者のスタンスとして、マリアに対する尊敬と強い思い入れがあり、さらに(それゆえに、ともいえますが)、メネギーネに対する強い反発がうかがえます。基本的なトーンとしては、「マリア・カラス」に対する世間一般のイメージである、強欲(ギャラのつりあげ)、様々なわがままは、マリア本人のものではなく、マネージャ役(あまり役には立たなかったようですが)であるメネギーネによって引き起こされたものである、という意見を持っています。全体に、a:と比較すると男の視点を感じさせます。
「五線譜の薔薇」を別として、他の2冊はどちらも、その最初の方にマリアの写真を多数載せています。それらを見ると、若いころ(10代から20代)は、そのスタイルはたしかに肥満といえます。足はいわゆる「大根足」。
どこか「きつさ」が(それなりに美しいが)感じられる若いころの顔が、晩年のころの写真では、様々な激動の時を経て、どこか「臈たけた」とでもいうしかない「美しさ」に変わっています。
それぞれ1回読みきって後、3冊をならべて、渡りあるくように比較して読んでみました。その視点の差は当然としても、細かい部分、日付などが微妙に異なっています。
マリアの体格について:
o: 体重約100キロ、身長190センチに近い無名の新人歌手と身長160数センチの田舎紳士(メネギーネのこと) p86
a: 身長は165cmなのに体重は80kgを超えていた p48
r:「アメリカで痩身療法を受け、218ポンドから170ポンドに、つまり100キロから80キロに減りました。」背丈は175センチである。 p89
「腰から下がひどく肥えていて、太くて、足首はまるでふくらはぎみたいに膨らんでいた」というメネギーネの言葉 p93
r: の写真 メネギーネとの幸せだったころの写真(キスをしている)では、どちらからといえばマリアの方が小さい(やや上を向きながらキスをしている)。
r:カラヤンとの並んだ写真(スカラ座でのルチアのリハ)では、ほぼ同じ背丈に見える。
小男だったカラヤンと同じということは、190cmはありえない、です。そもそも、これだけ身長があると、つりあう男性歌手はほとんどいなくなってしまうでしょう。
アメリカからギリシャへ移った日について:
o:1937年5月 母と姉とともにギリシャへ移る p99
a:1937年3月14日 出航
r:1937年2月はじめ サトゥルニア号に乗船 3月はじめにギリシャへ到着
初めてのオペラ出演デビューについて:
o:1941年 アテネ歌劇場で初めて「トスカ」のタイトルロールを歌って大成功
a:1942年8月27日
r:1942年 かなりの水準ではあったが、絶賛とは無縁であった。 p69
公式サイトの記録によれば、1941年と42年にトスカがあがっています。
ただし、41年のほうにはただ、場所名としてアテネと書いてあるだけですが、42年のほうには共演者名などもあます。
当時のギリシャはナチス・ドイツ占領下であり、マリアだけでなく若い女性にとってかなり「複雑な環境」であったことも書かれています。そして終戦となり、いったんアメリカへ戻り、2年後イタリアで道を開こうとします。
メネギーネとの出会いについて:
o:47年6月 イタリアのヴェローナに到着。メネギーネと初めて出会う p85
a:7月29日 早朝ナポリに入港し、10時間かかってヴェローナに到着し、その夜に出会っている。 p102
r:ナポリに入港し、1昼夜かけて、6月29日 ヴェローナ 30日メネギーネに会う
当時のメネギーネについて:
o:1日20時間働き、結婚を考える暇もなかった。しかしヴェローナ屈指の実業家となり、歌手たちの援助もできるようになっていた。 p86
a:建築資材の工場を経営 背が低く、太鼓腹、フクロウのような目をして、二重顎、生え際は後退 p104
r:52才 中背でずんぐり 父親から譲り受けたレンガ工場を発展させ、12の工場を持っていた。 p90
そのメネギーネのマリアに対する気持ちは:
o:自分こそが彼女の力となり、歌手として大成させてやりたいという騎士道精神の駆られた。 p86
a:マリアの声を聴いてから、さらに熱い感情へと進んだ p106
r:金持ち、未婚。女性に対しては金の力でものにするタイプのように書かれている。
「マリアの美しい声の魅力に発した恋であると。しかし、それはすべて捏造である。男としての欲望の都合である。」 p90
マリアに対しては、まだその声を聴く前に援助を申し出ている。p96
先の見通しが何もない状況において、目の前に現れた実業家(29才も年の離れている)にすがり付いてしまうのもいたしかたないのでしょう。
r:には、マリアの、可憐なともいえる気持ちを綴ったメネギーネに宛ての多数の手紙が引用されています。その内容は、いわゆる「一般的なイメージ」からすると、意外でもあります。
そんなマリアが、指揮者トゥリオ・セラフィンに認められ、1949年「ワルキューレ」(1月8/12/14/16日)のブリュンヒルデを歌って3日後にはベッリーニ「清教徒」エルヴィーラを歌い大成功を収める(1月19/22/23日)、と多くの本にあります。
その前の年1948年の11月30日、12月5日には同じくセラフィン指揮で「ノルマ」を歌っているのですから、ノルマからブリュンヒルデ、そしてエルヴィーラへと、歌手としては、驚くべき幅を感じさせるに十分です。
そしてスカラ座出演(1951年)にまで駆け上がります。
その後、トラブルなどもあり、自分を取り巻く環境が悪化します。
r:第19章「毒を含んだ手紙」p278-357
79ページにわたってマリア(夫であるメネギーネ宛も含めて)に宛てられた、マリアを非難、誹謗中傷する多くの手紙が紹介されています。これは、マリアが、自分へ寄せられた賞賛の手紙は残さず、このような、読むものをして不快にする手紙を、それも大量に残していたために、今読むことができるもので、著者がこの本を書く大きな動機となりました。
前書きで、マリアの気持ちを代弁しています。「これがわたしの人生なの。この手紙は私の生涯そのものだから貴重なの。そう、わたしは生涯、侮辱の連続、侮辱と無縁になれなかったんですの」と。
1957年9月3日 マリアのために、世界の富豪を集めてヴェネツィアで催されたパーティで、オナシスに出会います。
1959年 オナシス(53才)からの招待があり、マリアがこれを受け、ヨットクリスチーナ号で旅へ出ます。7月22日(モンテカルロ) - 8月13日 (モンテカルロ)にわたるこのヨットの旅には、英国元首相チャーチル夫妻も乗船していたそうです。この時、マリア 36才 メネギーネ(65才)
この旅がきっかけとなり、悪化する一方の環境を一気に打開することを考えていたマリアは、その後9年間 オナシスの愛人となるものの、オナシスは4年目には、ケネディ家 ジャクリーンへ興味を移してゆきます。
マリアの生涯において、その現実的な面で、大きな意味を持つのは、メネギーネ、オナシスとなるのでしょう。気が強い性格(実際そうだったと思いますが)のマリアですが、a:の家庭環境に関する記述などから考えると、どこか愛情(家族愛も含めて)に満たされない部分もあり、それを補完してもらえそうな存在を求めていたのだと思います。
# ながながと脱線しすぎました。週刊新潮の「黒い報告書」ではありませんし....
さて本筋の音楽面では、指揮者セラフィンもさることながら、マリアが歌手としての基礎を形成する上で、スペイン出身のソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴElvira De Hidalgo(ソプラノ・レッジェーロ 1892 - 1980)の存在が大きいようです。
r:によれば、デ・イダルゴは、16歳で「ロジーナ」役でデビューし、メットでは、カルーソーとの共演でデビュー、1916年「セヴィリアの理髪師」初演100周年の記念公演では、トスカニーニに選ばれロジーナを歌うキャリアもあります。
つまり単なる教師ではなく、実際にオペラの舞台、それも超一流のそれを経験した歌手というバックグラウンドを持った教師として、マリアの真価を認め、その才能を伸ばしたといえます。その指導は、音楽だけでなく、イタリア語や立ち居振る舞いにまで及びます。マリアがプリマ・ドンナになるための基礎を、自分の経験を踏まえて教えたのでしょう。
デ・イダルゴとマリアの師弟関係
1939年、人の紹介で、アテネ音楽院の声楽とオペラの教師であったデ・イダルゴと出会います。
a:「名声に彩られた過去を持つデ・イダルゴだが、若くして高音域を失い(彼女は当時まだ41歳だった)、ステージをあきらめて教えるほうを選んだ。彼女自身のプロとしての経歴を考えると、デ・イダルゴが、トリヴェラ夫人(マリアの当時の先生)やリッツァ(マリアの母)の前例に従って、まだ若い生徒に、声の力をだめにしてしまいかねない歌い方を強いたことに心が痛む。」とあります。
訳のせいか?前後の文脈とうまくつながらない気がします。訳文から想像すると、英文の特徴をつかみ損ねているのかもしれません。
r::に書かれているデ・イダルゴとマリアの師弟関係は
マリアの「荒けずりだが、とても個性的なすごい声」を聴き「まるで彼女の歌が私の中に何か不思議なものを目覚めさせたみたいでしてね。私、直感しました、彼女を助けなければって、私だけがそれができるんだって」と確信します。しかし周りはみな反対するので「この生徒は私が自費で受け持ちますから」といって個人で引き受けることになります。
マリアは、デ・イダルゴに付きっ切りとなり、そのすべてを吸収しようとしたのでしょう。「1日中先生の教室に残り、すみのほうで、静かに、他の生徒のレッスンをきいていた。」
また近眼なマリアは、現役のころは、「何十曲というオペラを指揮者をぜんぜん見ずに歌ってました。出だしを間違えないために、オペラ全曲を、テノールもバリトンもメゾもソプラノもバスも合唱も、すべて覚えてましたから...」だそうで、デ・イダルゴに習っているときも、「オペラの全曲をそらんじてました」とあります。
a:とr:では、だいぶ温度差があります。
r:をそのまま受け入れるならば、マリアの成功は、単に持って生まれた声(とその美貌)だけによるものではなく、「人並み以上の努力」といった並の言葉では表せない「血と涙と汗"Blood, Sweat & Tears"」があり、それが、マリアを今日我々が知っている「マリア・カラス」にしたといえます。
そんなマリアは多数の録音を残しています(bootlegも含めると膨大になる)。それらは「誹謗・中傷」と闘いながら、「歌に生きた」マリアの記録といえるのかもしれません。
いくつか関連リンク:
パゾリーニ「王女メディア」Maria Callas in Pier Paolo Pasolini's Medea
お墓(散骨され何も残ってはいないが)
official siteで興味深いのは
なぜか黒柳徹子さんが...
水着姿のカラス(わかいころ) 確かに大根足....
シュワルツコップと一緒に
召喚状 1954年シカゴでの騒動の写真に基づくカリカチュア
デ・イダルゴの若いころ
メネギーネ ほぼ同じくらいの背丈だということがわかります。少なくとも190cmではない。