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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2018年版「誰もが泣いて喜ぶ冠婚葬祭その他諸々スピーチ集」第26回

2018-03-08 16:43:50 | Weblog


蝶人狂言綺語輯&バガテル―そんな私のここだけの話op.289


○創立記念式典/社長のあいさつ

*1ただいまご紹介に預かりました朝風龍一郎であります。

*2本日は朝風産業株式会社の創立100周年の式典にご出席を賜りましてまことにありがとうございます。皆さまのご支援、ご協力のお蔭をもちまして本日創立100周年を迎えることができましたことを心よりお礼申し上げます。

*3思い返せば1世紀の昔、わが社の前身朝風社は、祖父朝倉一郎の手によって銀座7丁目に呱々の声を上げました。当時の銀座は、明治維新後の文明開化の象徴として繁栄し、レンガ作りの商店街を鉄道馬車が走り、夜の柳にガス灯が煌々と輝き、銀ブラを洒落込む高等遊民たちがゆったりと徘徊いたしておりました。


*4初代の一郎は、こうした都会文化の先進的な担い手たちをターゲットとして西陣織のネクタイ専門店を開店したところ、帝都の人気を独占したのがわが社の出発点です。
因みに、当時の顧客リストには鴎外、荷風などの文学者や大隈重信、金子堅太郎といった貴賓、政治家の名が残されております。

以来幾星霜、大震災と第1次大戦を経過する中で、わが朝風産業はひとたびは首都撤退を余儀なくされ、京都西陣に逼塞するのでありますが、その窮状を打破したのが2代目の父光一郎でありました。

帝国大学理学部で植物学を専攻していた父が、祖父の急逝によって急遽会社経営の責任者となったのは大正9年のことでした。
父は持ち前の理学的センスを活かして、顕微鏡下に蠢く微生物の姿を柄にしたネクタイを開発。その大胆なデザイン意匠が欧米諸国で爆発的にヒットし、わが朝風産業発展の第2の礎が築かれました。父朝風光一郎こそは名実ともにわが社の中興の祖であったといえましょう。

その後、第2次大戦によってわが社の東京工場は焼失しましたが、京都の西陣工場を拠点として戦後の復興と再出発が始まった訳です。

昭和39年、東京オリンピックの年に3代目の社長に就任した私は、「和魂洋才ネクタイ革命」をスローガンに、国内外の伝統技術の融合を提唱。西陣織技術者をイタリアコモ市の生地メーカーに派遣して東西の技術移転を図り、近年ではコンピュータ導入によるITネクタイ製造を試みるなど幾多の構造改革に挑戦し、多大の成果を収めることができたと自負いたしております。

*4本日ご臨席の皆さま。「レボリューション・フォーエバー、(果てしなき革新)」をモットーにたゆまぬ前進を続ける朝風産業に、来るべき100年も暖かく指導ご鞭撻を賜りますよう伏してお願い申し上げる次第です。


○アドバイス

*1 社長らしく、悠揚迫らぬ落着いた態度で、背筋を伸ばしてゆっくりスピーチすること。

*2 まずは来賓、列席者一同に対して丁重な謝辞を述べる。

*3 ここからは会社の来歴を述べるが、故事の由来や事実関係のデータについては事前によく調査研究して誤りのないようにしておく必要がある。社史が刊行されていればそれを利用し、なければ当時のOBを取材などすること。

4「温故知新」ではないが、過去の偉大な思い出話の列挙にとどまることなく、新しい時代への飛躍、未来への挑戦といった前向きなイメージを演出し、最後はこれからも変わらぬ愛顧を願って全体を締めくくる。


   一度聞けば分かるニュースを朝昼晩繰り返すのがメディアの仕事か 蝶人