あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2011年葉月 蝶人狂歌三昧

2011-08-31 14:32:06 | Weblog

ある晴れた日に 第96回


天青咲きてわたしの夏が来る

喨々と油蝉鳴く正午かな

むざむざと車に轢かるるキリギリス

ギースチョンを2匹助けてやりました

このススキ持って帰っていいかしら

横須賀で長崎チャンポン食べました

つばくらの低く飛ぶ駅を出でにけり

原発や一億の民が核の傘

五十名の生徒が走らせるシャーペンの音

もう飽きか明きか空き缶かあ。秋だ!

こんなことしでかしてしまってあんたどうするんよ

炎昼や目覚めればまたマリナーズ逆転負け

源爺ときたらこっちから挨拶しても知らん顔してる

カワセミは笑わずに土菅めがけてまっすぐ飛んで行く

領土を取り返すために君はもう一度戦争をしますか


古の森川町なる本郷館生まれ変わりて住みたきものを
 
お父さん浮輪潰して下さいと頼まれて浮輪の空気を抜くああまた一つ夏が逝く

今日からは時給40円となったことも知らず君はいそいそと出勤する

あんたなら立派な看護師になれたわよと姉に太鼓判押されしわが妻

うしみつどきに灯りをつけて働いているわが町内の二軒の家

この頃は来なくなりぬわが義母を余命一週間と断言せし医師

一億の民が一本の傘の下ヒロシマナガサキフクリュウフクシマ

核不滅ヒロシマナガサキフクリュウフクシマ

東電のフクシマ原発恐ろしや一億の民被爆者と化す

誰か助けて下さいと鳴き叫びながら少年が滑川を歩いている

物喰えば歯がボロボロとかけていくいずれは全部消えて無くなる

小便すれば付着す黄色い滲みこれぞわが耄碌の証なりけり

あんたは初体験で舞いあがってるが俺たちはいやんなるほど知り抜いているんだよ

魚屋は死んだ魚を肉屋は死んだ動物を八百屋は死んだ植物を売る

何の花が好きかと尋ねれば山百合が好きと答えし人ありき




三十日の真夜中に啼く油蝉 蝶人

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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第11回

2011-08-30 18:42:16 | Weblog

bowyow megalomania theater vol.1


「い、い、いつから、ヨ、ヨ、洋子はお前のものになったんだ、エッ!」

と、のぶいっちゃんは少しどもりながら野太い声を出しました。

僕はなにも答えませんでした。またその質問には、僕はなにも答えられませんでした。

「洋子はなあ、もうとっくの昔からおれの女なんだ。ひとの女に勝手に手を出すな!」

と、のぶいっちゃんは口じゅうチバだらけ、鼻じゅう鼻水だらけ、お尻じゅう糞だらけにして、またしても激しくドモリながら、冬の浜松の砂丘の上で絶叫しました。

しかし僕にはおれの女という意味がまったく分かりません。
女、ならだいたい分かるのですが、「おれの女」になるといったいどういう意味なのか全然分からない。

だから、のぶいっちゃんがどうして怒っているのか、全然分からなかったのです。




源爺ときたらこっちから挨拶しても知らん顔してる 蝶人
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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第10回

2011-08-29 17:22:21 | Weblog

bowyow megalomania theater vol.1


僕はそんなかっこうで洋子のやわらかな身体をしっかりと抱きとめたまま浜松の郊外にある田島砂丘の向こうに輝く冬の太平洋の群青色をいつまでも眺め、ドオーン、ドオーンと鳴り響く大波の遠吠えを子守唄のように気持ちよく聞いていました。

そのまま僕と洋子は、眠っていたようでした。

その時、突然後頭部に鈍い痛みが走り、僕は洋子を離して白い砂の上にうつ伏しました。

今度は横隔膜をガツンと蹴りあげられました。

見上げると、のぶいっちゃんが僕の上におおいかぶさるようにして仁王立ちになっていました。

顔は太陽の影になっていて暗くて見えませんでした。黒い影はぺえっとツバを吐き、ツバは僕の右眼の上のところでベッチョとへばりついたまま、なかなか下へ下りてきませんでした。



あんたは初体験で舞いあがってるが俺たちはいやんなるほど知り抜いているんだよ 蝶人

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バガテルop142&ある晴れた日に 第95回

2011-08-28 17:46:52 | Weblog


8月13日の土曜日に7回目の海へ行って、その翌日お父さん浮輪を潰して下さいと息子に言われて今年の海水浴はもう終わりと思っていたのに、今日突然僕海へ行きますと言いだしてまさか本気かよと思ったがやはり本気だったので午後2時半に3人で由比ヶ浜へ行き、浮輪は500円で借りて遊泳注意の海に浮かんだら、海面すれすれにボラの大群が酸欠状態のように大口をパクパク開けながら
「あ、また来たの、海来たの、あ今年の夏休み」
と輪唱したので、息子と一緒に
「あ、また来たよ、海来たよ、あ今年の夏休み」
と返歌してやると、彼奴等一斉に回頭してより一層波穏やかな逗子海岸の方へ行っちまいやがった。



日経の朝刊に小泉淳作氏の私の履歴書が連載されているが、この日本画家の絵が売れ始めたのはようやく50歳になってからで、それまでは明治チョコレートのデザインのアルバイトをしたり趣味だった陶芸で食いつないだりして亡くなられた奥様も大変だったらしい。

東京からやって来たお客さんのために娘さんに命じてそこらの田んぼにいるザリガニをつかめてきてテンプラにして食べさせたら淳作氏に叱られたらしいが、そのザリガニの泳いでいた田んぼの後に私のちっぽけな家が建っているのだ。当時はこの辺りは夏になると蛍が気味が悪いほど飛び回っていたそうだが、近年ではごくわずかな数であり、雲泥の差がある。

1995年の9月に亡くなられた奥様は風流な方で、近所の滑川の川っぷちに茂っているススキを摘んで自宅に生けておられたが、御主人の絵が売れるようになったのは彼女が亡くなってからのことだった。葬儀には同じ鎌倉に住む平山郁夫氏が訪れたそうだが、私はこの著名な日本画家よりも小泉画伯の作品を好む。



このススキ持って帰っていいかしら 蝶人


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林望訳「謹訳源氏物語六」を読んで

2011-08-27 11:29:01 | Weblog


照る日曇る日第450回
 
かつて桐壺帝が寵愛する藤壺を犯した源氏は、このたびは朱雀帝より拝受した皇女女三の宮を政敵である太政大臣の息子柏木に犯され、またしても最愛の妻紫上を襲う六条御息所の怨霊と戦いながら、おのれの業の深さに懊悩する。まさに因果応報の地獄絵図がこれでもか、これでもかと繰り広げられて読者の目をくぎ付けにします。


最近丸谷才一の「樹液そして果実」を読んだところ、源氏物語について興味深い指摘がありました。本巻の「若菜上」では朱雀帝に乞われて源氏は彼の娘である女三の宮をめとるのですが、丸谷氏は折口信夫とともに、その理由を彼女の財産であると喝破しているのです。

古代から平安時代までは女性に幅広く財産相続の権利が認められていた母権制社会であり、源氏の時代の皇女は荘園から上がる莫大な資産を所有していました。その財産を政治的ライバルである太政大臣(元の頭中将)に奪われるということは単なる経済的な損失のみならず政治的な打撃でもあったのです。

そこで源氏は愛妻紫上を悲しませ、正妻の地位をはく奪するというリスクを払ってまで超セレブの皇女を手に入れたというのですが、この卓抜な説を知った私は源氏物語を新しい光のもとで見直すようになりました。

このほか丸谷氏は、源氏物語の本編と宇治十帖を流れる時間を比べて、後者が光彩を失った灰色の現代であるとすれば、前者が香気に満ちた、もう二度と戻ってこない遠く懐かしい昔である、というような感想を述べていますが、これまた卓見であると言わざるをえません。源氏物語を流れている時間こそ、栄枯不変の永遠のなう、なのです。


カワセミは笑わずに土菅めがけてまっすぐ飛んで行く 蝶人
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丸谷才一著「樹液そして果実」を読んで

2011-08-26 14:06:40 | Weblog


照る日曇る日第449回


甘味滴る書名に惹かれて読んでみたが、柔らかな表皮の内部は博学才知をもって鳴るこの著者ならではの広く深い考察に満ち満ちていた。前半はジェームス・ジョイスの「若い藝術家の肖像」と「ユリシーズⅢ」を巡る才走った文芸評論、後半は八代集や源氏物語、王朝和歌、後鳥羽上皇、折口信夫などを、筆が疾走する思考に追いつこうと必死に飛び回る刺激的なエッセイだが、もちろん後者が抜群に面白い。

折口の推測では、源氏物語の主人公がやたら王朝の女性をものにしようと齷齪するが、これは彼が色狂いしているのではなく、女の財産を狙っているからで、その代表が光源氏が朱雀院の懇望を入れて女三の宮を引き受ける箇所だという。
もちろん源氏は「皇女」を蒐集したい気持ちもあったが、この豊かな財力を持つ少女が政敵の太政大臣の息子の柏木に収蔵されたらマズイ、というので紫上の正妻の地位を格下げにしてまで結婚したというのです。 

これに関連して著者は、男子が単独相続する父権制社会の成立は鎌倉時代からで、それ以前は女性が荘園領地内の不動産や物権を相続する母権制の名残が色濃く残っていたのだ、と主張しています。目から鱗とはこのことでしょう。

また著者は、偉大なる学者、高群逸枝の驥尾に付して、天皇家という家系は存在しない。その証拠に天皇には名があっても姓がない、と説いて我々を驚かせます。確かに神武以来歴代天皇の系譜は存在するが、それは家系図ではなく、単なる皇統譜であるというのです。

例えば源氏物語を読んでも桐壺の更衣は里の実家に下がって源氏を産んでいる(源氏は天皇ではないけれど、天皇の場合も同じことです)。
つまり母権制の社会では、帝は皇居をあちこち移動させながら、複数の后の実家に婿入りをしているのだが、帝名義の家族は、ない。家族がなければ、姓もない。だから現代でも裕仁だの明仁という名前しかないというのですが、どうやらこの人は筋金入りのフェミニストのようですね。


ギースチョンを二匹助けてやりました 蝶人


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バリー・レヴィンソン監督の「グッドモーニング・べトナム」を観て

2011-08-25 17:15:17 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.143

1987年に製作されたアメリカから見たベトナム戦争のお話。誰から頼まれた訳でもないのに、太平洋を渡ってアジアの人々に戦争を仕掛け、完膚なきまでに一敗地にまみれた愚かな国のささやかなエピソードをロビン・ウイリアムズが熱演する。

しかしいくら彼が扮する米軍放送のDJのキャラクターが好ましいといっても、彼が行っているのは兵士たちへのつかの間のおしゃべりや音楽の慰めであり、彼が現地の人々に
親愛の情を抱いたり、少女から好意を抱かれたり、ベトコンの少年から裏切られても、ああそうですかという通り一遍のあいさつしか送ることができないのが残念である。

 しかし意地悪な上官によってベトナムを追放されたこの熱血DJは、その後どこへ消えたのであろうか? まさかイラクやアフガニスタンの米軍基地で活躍しているのではあるまいな、とちょっと気になる。


どいつもこいつも小沢詣 菅を追い出し闇のフィクサー高笑い 蝶人
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本郷森川町界隈を歩く

2011-08-24 17:27:51 | Weblog


茫洋物見遊山記第62回&勝手に建築観光第43回


本郷館のすぐそばに、昔ながらの旅館鳳明館の森川別館がひっそりと立っていました。昔はどこへ行ってもこういうひなびた日本旅館ばかりだったのですが、いまでは洋風のビジネスホテルに圧倒されて少し肩身が狭そうです。

鳳明館には森川町のほかに本館と台町の別館があり、本館は有形文化財に登録されていますが、三館とも質素で静謐な佇まいを備えており、どうせ都内に宿泊するなら値段も安いしこういう昔風の宿屋に限ります。

私はこの鳳明館ではなく、石川啄木が明治の終わりに寄宿した蓋平館を再見したいとあたりをうろついたのですが、とうとう見つけることが出来ませんでした。なんでも現在はその由緒ある名前を捨てて太栄館という名前に変わったそうですが。

亡くなった私の父が生前語っていたとおり、東京の下町の人はみな親切です。本郷を久かたぶりに訪れた私は、本郷館がわからず煙草屋のおばさんや酒屋の兄さん、宅急便配達のオネエちゃん、本郷の女子中学生などに次々に所在地を訪ねたのですが、じつに懇切丁寧に教えてくれました。
七〇近くの煙草屋のおばさんは本郷館を惜しみながら、その近所にある徳田秋声と宇野浩二の旧跡を教えてくれたので、ついでに足を運んでみました。宇野邸後は駐車場になっていましたが、秋声宅は健在でミンミンゼミがここを先途と泣き叫んでおりました。以前訪れた時にはもう少しこのあたりに明治の趣があったような気がしましたが、いまはやたらマンションだらけ。しかし彼はこの木造住宅の書斎で「黴」や「あらくれ」などのエグイ私小説を書いたのです。

ああそうだ、ついでのついでに樋口一葉の旧居を見ておこうと思って菊坂に向かいました。確かこの路地を入るはずだと思ってあたりをうろうろしていたら、幸い近所のおばさんと行き合ったのでこれ幸いと尋ねてみたら、彼女も知らないという。

仕方なく一緒にうろうろしていたら、彼女の知り合いのもう一人のおばさんがやって来て、「あんたも馬鹿ねえ、この路地の奥じゃないの」と教えてくれたので、この土地に何十年も住んでいるおばさんと共に一葉ゆかりの井戸を見物することができました。やれやれ。


本郷の西片町をわれ行けば一葉漱石順二の声す 蝶人


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本郷館を訪ねて

2011-08-23 13:39:25 | Weblog
茫洋物見遊山記第61回&勝手に建築観光第42回


東京本郷森川町の「本郷館」が近々取り壊されるという悲しいニュースをマイミクさんから耳にして、久しぶりに現場に立って見ました。

 本郷館は築106年の古い木造建築で、東大の正門から200メートルほど離れた細い下り坂に沿って雲にそびえる3階建の下宿なのです。延べ面積は約300坪、中庭を囲むようにしてなんと76室があり、かつて作家の林芙美子や多くの学生がここで青春時代を送りました。

今年の3・11の激震にも耐えて1世紀の風雪を越えてきたこの歴史的建造物を保存しようと、地元の住人をはじめ「本郷館を考える会」や多くの人々が努力を続けてきましたが、家主の意向でとうとう8月から解体工事が始まってしまいました。
私がここをはじめて訪れたのは今から20年以上前で、森川町をぶらぶら散歩していた私の目の前に突然出現した建物の思いがかない巨大さと周囲を圧倒するような独特の存在感に圧倒されたものです。

すぐ近所では本郷館を題材にした絵や写真、詩などが街頭に掲示され、この由緒ある建造物の名残を惜しんでいました。


古の森川町なる本郷館生まれ変わりて住みたきものを 蝶人

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フィッシャー・ディースカウ&ジェラルド・ムーア「シューベルト歌曲全集」を聴いて

2011-08-22 15:26:22 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第216夜


ドイチェ・グラモフォンに彼らが録音したシューべルトの男声用の全てのリート408曲21枚組のCDを続けて聴くと、ディースカウの前にディースカウなく、ディースカウの後にディースカウなしと思わずつぶやいてしまう。

それはあまたの指揮者あるにかかわらず、フルトヴェングラーの前にフルトヴェングラーなく、フルトヴェングラーの後にフルトヴェングラーなしとツイートするようなものである。

あるいはまた、あまたのピアニストあるにかかわらず、バックハウスの前にバックハウスなく、バックハウスの後にバックハウスなしと独語するようなものである。

なかんずく「水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」の3大歌曲集の絶唱が心にしみる。1枚当たり265円のバジェット価格も、げに懐に優しい。


 お父さん浮輪潰して下さいと頼まれて浮輪の空気を抜くああまた一つ夏が逝く 蝶人


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ストラビンスキー自作自演エディション全22枚組を聴いて

2011-08-21 15:23:52 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第215夜

欲しくて買えなかったLP31枚組が、1枚たった130円の最新録音盤CD22枚に大変身。これでは最低級カナー氏症候群の息子を質屋の抵当に置いても買わずにはいられませんでした。輸出企業には悪いけれどこういうのだけは超円高大歓迎ですが、1ドル75円ならあと3割は安くなるはずだぜ。

LP時代に耳にしてその明快な穏和さに胸のすく思いをした「春の祭典」から聴きはじめましたが、作曲家が自分で作曲した音符を懇切丁寧に音にしていくその過程に耳を傾けていると、それが本家本元の演奏であるというにとどまらず、なるほどこれがストラビンスキーが言いたかったことなのだ、というこの曲の真価が手に取るようによくわかります。

ブーレーズやバレンボイムや小澤やなどの妙な思い入れや派手な演出をきれいさっぱりと四万十川の清流で取り去ったこの曲は、彼らが勝手にそれと思い込んでいる「20世紀の前衛音楽くう」などではさらさらなく、むしろ正統的で典雅な舞踏音楽であることが美しく、柔らかく耳朶に沁みわたるのです。

バレエ曲や交響曲も滋味深い演奏ですが、もっと興味深いのは彼の室内楽やオペラやカンタータやオラトリオで、ここに流れているヘンデル、ヴィヴァルディ、バッハなどの正統的な源流にさまざまな角度から戯れようとする彼の多種多様な試みは、いくら聴いても聴きあきることがなく、それあるがゆえに今世紀最大の多主義作曲家と称されているのでしょう。



     もう飽きか明きか空き缶かあ。秋だ! 蝶人


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ダグラス・サーク監督の「愛する時と死する時」を観て

2011-08-20 17:36:23 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.142

「凱旋門」「西部戦線異状なし」で知られるラマルクの同名の原作をダグラス・サークが演出してなかなか見ごたえのある戦争映画に仕立て上げました。
時は1944年の独ソ戦。ロシアとの死闘を繰り広げるドイツ軍兵士の愛と死の3週間をじっくりと描いて、戦争の悲惨さと人間の愚かさと悲しさをひしひしと訴えることに成功できたのは、やはり原作の素材が映画に適していたからでしょう。前記の2つの映画もよく出来ていました。
しかも作者本人もこの映画の重要人物に扮してゲシュタポ役の懐かしやクラウス・キンスキーとともに錦上に隠花植物を添えています。
しかしポスト・ロックハドソンとして売り出しを図った主人公のジョン・ギャヴィンは真面目だがいまいち魅力に欠けるキャラクターで、映画人としては成功しなかったようですが、同じ映画仲間のレーガン元大統領に指名されてめでたく駐メキシコ大使になったとさ。
めでたし、めでたし。


横須賀で長崎チャンポン食べました 蝶人


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マイケル・カーチス監督の「カサブランカ」を観て

2011-08-19 14:18:05 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.141

1942年製作のアメリカの、というよりは全連合国側共同製作の反ナチス宣伝映画です。基本的にはこの頃キャプラが作っていた打倒枢軸国の国策映画とおなじラインにのっかっているプロパガンダムービーですから、芸術文芸のレベルで厳しく評価するとかなりの駄作と言わねばなりませぬ。
その最大のハイライトが、ボギーの経営するバーで闘われる両陣営の歌合戦。かたや独軍が愛国歌「ラインの守り」を高唱するとこなた連合国側では「ラ・マルセイエーズ」で対抗する。ここは何回見ても涙が流れるのですが、まてよ俺はかつて彼らの敵国であった日本人である。それなのにどうしてフランスやアメリカを応援してしまっている。可笑しいではないかと自問するのですが、いつもそうなる。見事につくられた宣伝映画なのです。
本作はもちろんボガード、バーグマンという美男美女大物役者が特別出演している大恋愛映画でもあるのですが、最後はそんなもの吹っ飛んでしまいます。
我らがボギーは、恋人イルザをわがものにするか、それとも恋敵のレジスタンスの闘士に与えるかについて一晩考えた挙句に、「自分たち3人の運命よりも大事なのは反枢軸国戦争の勝利である」という見上げた結論!に達して後者の道を選び、自分自身もビシー水(政権)を捨てて警察署長ともども再びレジスタンスに参加します。
「恋より戦争」「私事より公事」「酒場のひねくれたオヤジより反ナチの闘士」という選択ですが、どうも割り切りが乱暴かつ早すぎるようで単純明快すぎて私にはあまり面白くない。あんないい女をあんなチエコ人に呉れてやるくらいなら、俺が引き受けて世界の果てまで逃亡しようぜ、という具合の展開にできたらして欲しかったと思うのですが「皆さんいかがでしょうか?」(これは今は亡き菅首相の真似)
この頃のバーグマンは若くてキラキラ輝いているが、その同じ人物が三六年後に「秋のソナタ」のような映画に出るのだから女は怖い、凄い。それが分かっていたらボギーも「君の瞳に乾杯」などという訳の分からぬセリフを何回も繰り返さなかったと思うのですが。

今日からは時給40円となったことも知らず君はいそいそと出勤する 蝶人


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ダグラス・サーク監督の「悲しみは空の彼方に」を観て

2011-08-18 13:21:09 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.140

昔からラナ・ターナーという女優が好きだった。その派手の容姿の奥に隠された定めなき不安、動揺、いわく言い難い負の要素が気になって仕方がない。
事実彼女はゲーブル、タワー、シナトラ、コネリー、ヒューズなどの男優や実業家のみならずマフィアのギャングとも浮名を流し、本作公開の前年の1958年には、SMとDBの日々を過ごしていたそのギャングを娘が刺殺してハリウッドを驚倒させたように、終生汚辱とスキャンダルにまみれた女優生活を送った。
ダグラス・サークが演出したこの映画で彼女は夫の死後娘を育てながらニューヨーク演劇界のスターを目指すろうたけた熟女を演じるが、それがさながら実生活の葛藤を肥しにしたように壺にはまり、最後まで眼を離せないメロドラマの傑作となった。
映画の冒頭1940年代のコニーアイランドの海岸でヒロイン母子は偶然後の彼女の人生に決定的な影響を与えるカメラマンと黒人母子に出会う。住み込みとなった黒人女性の娘は外見が白人と変わらなかったので自分の出生を隠して偽りの人生(原題はIMITATION OF LIFE)を歩もうとするのだが、ラストではその模倣的人世の虚妄を悟る。
しかしそういう人種問題をうんぬんするよりも、ヒロインが芝居の名声と真正の恋のはざまに立って苦悩し、自分の恋人を娘も愛していたことを知って衝撃を受けつつ、それらの矛盾をハリウッド的に解決しないままにこの映画を現在進行という形で終わらせたところがダグラス・サークの素晴らしい知恵だった。黒人女性の盛大な葬儀で熱唱するマヘリア・ジャクソンの歌声も感動的である。
なお、現在原美術館で開催されているシンガポールの美術家ミン・ウオンの作品「LIFEOFIMITATION 」は、この映画にインスパイアされた作品である。



失われた領土を取り返すために君はもう一度戦争をしますか 蝶人


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溝口健二監督の「新・平家物語」を観て

2011-08-17 14:13:55 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.139

吉川英治の原作を依田義賢らが脚色して溝口が1955年に映画化した。

貴族主人公の清盛を若き市川雷蔵が熱演しているが、この人はどんな映画に出てもけっしてうまい演技をしたと思ったことはない。さしずめ日本のアランドロンというところか。
本作でもむしろ母親祇園女御役の木暮美千代や父親忠盛役の大矢市次郎、妻時子役の久我美子などの脇役が充実している。

清盛には白川上皇の落胤ではないかという説があり、この疑惑をめぐって主人公の内部的な物語が進行する。一方外的世界では藤原氏の摂関政治が随所でほころびはじめて武家が台頭するが、清盛父子などの「地下」の身分の者どもが軍事力を政治力に転化させながら権力闘争に乗り出していく辺りを溝口はそれなりにいきいきと描いている。

しかし気勢を挙げる比叡山の悪僧どもに単身飛び込み、神輿に弓を射て僧兵を退去させるなどの描写は講談的といわんよりは漫画的であり、観客の常識を逆なでする不自然な演出である。私には溝口のどこがどのように名監督なのかいまいち理解できないところがある。



うしみつどきに灯りをつけて働いているわが町内の二軒の家 蝶人
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