あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

四方田犬彦著「映画の領分」を読んで

2020-08-31 17:05:12 | Weblog


照る日曇る日第1457回

2018年から2019年まで「世界」に連載された「映像世界の冒険者」に補足、全面改訂された映画評論家の最新論考である。

陳凱歌、王兵、テオ・アンゲロプロス、ジャン=リュック・ゴダール、デレク・ジャーマン、アレチャッポン・ウイラーセータクンなどは名前と作品は知っていたが、その他のクリス・マルケル、センベーヌ・ウスマン、アレクサンダー・クルーゲ、ラウル・ルイス、アレウセイ・ゲルマン、マルコ・ベロッキオ、ジョアン・セザール・モンテイロ、楊徳昌、ジョスリーン・サーブ、タル・ベーラ、モフセン・マフマルバフ、ヌリ・ビルゲ・ジェイランなどの映画監督とその主要作品などは、恥ずかしながらみたこともきいたこともない不勉強なわたくしゆえ、いろいろご教授頂いて有難うございます、としか言えない体たらくずら。

残された日々の中でこれからどれくらいフォローできるだろうと不安と楽しみが入り乱れるような気持ちである。

なお著者は「JRGは1冊の書物を読み通すということにまったく関心がない。若き日に映画観から映画館へとハシゴをし、何本ものフィルムを断片の連続としてしか観ようとしなかったように、書物においても気ままにひょいとと取り上げ、飽きたらただちに次の書物に移るという読み方をしているはずである」という指摘をしていて興味深い。

それで思い出したことがある。1985年6月29日、スイスのロールで彼に会った時、坂本龍一の「音楽図鑑」のカセットと、最近鬼籍に入った戸田ツトムの「東京図鑑」をお土産に渡したら、彼はその二つを目にもとまらぬ素早さで吟味し、前者を取り置くと同時に、後者を可哀そうにもあっさりと捨てたのであった。

その翌日の夜、私は偶然パリのサンラザール駅の向かいにあるHotel Concorde St.Lazareのバーで偶然JRGに会ったのであるが、その時彼は、私が声を掛けるまでドイツ語の分厚い本を熱心に読み耽っていた。

余談ながら岩波の本に誤植があるのは残念だ。

   この夏もまた生き延びて葉月尽
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聖書協会2018年版旧約聖書続編で「マナセの祈り」を読んで

2020-08-30 10:54:16 | Weblog


照る日曇る日第1456回

マナセにもいろいろあるが、ここではバビロン捕囚中に異邦人の女と結婚したマナセのことだろう。

マナセはおのが罪業について深く反省し、主の赦しを乞うているのだが、果たして万軍の主は許されるのだろうか?


  7年と8か月務めた男でも辞めればすぐに忘れ去られる 蝶人

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小和田哲男著「明智光秀・秀満」を読んで

2020-08-29 10:55:11 | Weblog


照る日曇る日第1455回

よくテレビに出て大河ドラマの監修?もしている人の本なのでちょっと読んでみました。
一知半解の生硬な学術用語を外国語のように書き下ろす今どきの生意気な若手歴史家と違って、温厚な紳士の筆で淡々と記してあるのは流石なり。あの顔貌通りの大人の印象でした。

公凶放送では私の嫌いななんとかいう痩せた役者が明智光秀に扮して、戦国時代の大物武将や公家の周辺をうろうろしているが、本書を読んでも分かるように、1568年永禄11年の5月以前に将軍足利義昭に足軽衆として臣従する以前の彼の確固とした史実は何もないことははっきりしているのに、ドラマであの斎藤道三やその子義龍と近しかったように空想逞しく描くことはいかがなものだろうか。

そもそも明智光秀が明智家や土岐家といかなる関係にあったかすら杳として知れない人物なのに、それを勝手に特化していくのは歴代の歴史家の歴史からの逸脱だろう。何が「麒麟が来るだ、馬鹿野郎!」と私は何度も怒鳴ったことでしたあ。

そんな怪しい素性の持ち主も、1970年元亀元年に信長の知己を得てからはトントン拍子に出世して歴史の表舞台に登場し、秀吉と1、2を争うまでの大物になりおおせます。

そして運命の1582年天正10年6月2日、光秀は本能寺で信長を暗殺するのですが、著者は夥しい光秀謀反真相説の中から「信長非道阻止説」を支持しているようです。

信長の天人倶に許すべからざる悪逆や朝廷への無礼の数々を身近に観察してきた光秀選手は、「平」姓暴君のこれ以上の暴走を阻止し、「源氏」である自らが将軍となって幕府を再興したいと願ったというのですが、さてその真相はやいかに?



 何ひとつ碌な仕事はしなかった最低にして最悪の男 蝶人
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竹内浩三著「愚の旗」を読んで

2020-08-28 13:51:42 | Weblog


照る日曇る日第1454回


1945年4月9日、フィリピンのルソン島で23歳の若さで戦死した詩人の殆どの作品と日記、書簡を納めた1冊である。

兵隊の死ぬるや あわれ
遠い異国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
(以下省略)

と戦地へ行く前に歌い、そしておそらくはそのような「ひょんと」ではない死に方で死んだであろう詩人のこれが代表作であるが、そもそも自分の死に方を「ひょんと死ぬ」と書いてしまう、書けてしまうところが、この若者の凄いところである。

詩もいいけれど、彼が戦地へ送り込まれる前に「決死のグライダー攻撃」の訓練を受けていた当時の日常を、知力と意力を駆使して、懸命に明るく書き残した「筑波日記」が、優れた詩人が記録した帝国軍人の日常を描破していて感動的ですらある。

もしも竹内浩三が無事に生還していたら、間違いなく詩はもとよりもっと多面的に活躍する偉大な文学者になったことだろう。

鎌倉に鎌倉時代の物はない大仏と円覚寺大鐘くらいか 蝶人
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聖書協会2018年版旧約聖書で「マラキ書」を読んで

2020-08-27 12:07:51 | Weblog


照る日曇る日第1453回


旧約聖書の終わりになっても、相変わらず主は民の背信を恨み、嘆き、責め続け、その合間に未来への希望を語る。

そんなにユダヤやイスラエルの民が愚かで唾棄軽蔑すべき連中なら、いい加減で手を切れといいたくもなるのだが、万軍の主はあいかわらず愛と救済の手を差し伸べるのである。

切っても切れない腐れ縁とはこのことであろう。しかしこの砂漠の地域神がどのような過程を経て世界宗教の大をなしたか、その謎は新約聖書に隠されていいるのであろう。


ユニクロがあれば衣服の用は足るドウと倒れし老舗レナウン 蝶人
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ザンネンだった2冊の本

2020-08-26 11:27:49 | Weblog


照る日曇る日第1451&1452回


病気で仕事ができないなら即辞めればいい安倍蚤糞と高給取りの700名の国会議員が2か月にわたってなーーにもしないでゴロゴロ夏休みを取っているのにドタマに来て、次から次に本を読んでいたら、たいていの本はそれなりに面白くて読みどころもあると信じて隅から隅までザザッと目を通したけれど、いっこうに活字が立ち上がってわが目においでおいでをしない本も稀にあって、それが黒田夏子の「わすれこうじ」と多和田葉子の「献灯使」という本のようで、前者は表題作以下全部で12の組曲から出来ていて、「組曲」というからにはオンワードか音楽と関連があるのかと思って、 矯めつ眇めつするのであるが、あんまりそういう節は感じられず、どうやらそれは作者の若かりし頃に刻まれた記憶の12の断片らしいのであるが、作者にとってかけがえのない思い出が、読者にとってもそうであるとは限らないのが世の常というものではなかろうか、とかんがえているうちにも、誰かが書けばたった3行ですむはずの文章が延々と何行何行も続き、これはもはや難業ではないか、それともプルースト選手の下手な真似をしているのではないかとしばらく怪しんだが、別にそういうことでもなさそうなので、ひたすら冗漫な文章を並べるのは安倍蚤糞の答弁だけにしてもらいたいとボヤきつつ多和田葉子の「献灯使」に移ると、これがなんとテンスを震災後のいつかの日本に設定した「未曽有の超現実近未来小説集」であり、なおかつ「デストピア文学の傑作」であると誰かがほざいているらしいので驚愕していくら読んでもどこが「未曽有の傑作」なのかさっぱり分からず、かててくわえて2作目の「韋駄天どこまでも」という短編では、ほとんど気まぐれに特定の活字をゴシックにしてあるが、こういうお遊びは顔と私家本だけにしてちゃぶだい。

肌着はアツギ外着は小泉アパレルに買い叩かれて零無運滅ぶ 蝶人
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聖書協会2018年版旧約聖書で「ゼカリヤ書」を読んで

2020-08-25 11:28:51 | Weblog


照る日曇る日第1450回

主はダレイオス王の治世2年の第6と第9の月に預言者ハガイに臨まれたが、ちょうどその中間にあたる第8の月に、預言者ゼカリヤにも臨まれた。

そしてゼカリヤは同年の11月24日に8つの幻を見たのだが、その内容はハガイの神殿に関する情報についてはいっさい触れていない。

そして、それから2年後のダレイオス主の治世第4年の9月4日にも、主はゼカリヤに臨まれたが、それはエルサレムの回復についての詳細なプロセスガイダンスではあっても、神殿再建の進捗については触れられていない。

おそらくそれは細工は流々仕上げを御覧じろといった具合に、着々と進展していったのだろう。そしてこの時期、主はコロナの感染と経済の再生のバランスをとるように、イスラエルの民の悔い改めの深さと信仰復活のバランスをいつどの時点でとるか、微調整されていたのだろう。


車窓から飛び込んできた雀蜂おいらを刺すな刺されたら死ぬ 蝶人
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岩波文庫版・中地義和編・対訳「ランボー詩集」を読んで

2020-08-24 14:12:54 | Weblog


照る日曇る日第1449回

岩波文庫から出始めたフランス詩人選の第1冊であるが、これから左に原文、右に邦訳を律儀に並べた叢書がアメリカ詩人選と同様に陸続と刊行されるのだろうか。恐ろしいような楽しみなような企画である。

さてランボー(1854-911)であるが、この人は10代半ばから20歳までのわずか5年間しか詩を書かなかったにもかかわらず、あの超ややこしい規則だらけのアレクサンドラン体韻文詩から現代的な口語自由詩まで、あたかもヘッケルの法則のように、全地球詩の系統発生を一個体の肉体と精神に凝縮して再現したような奇跡的進化の姿を観察することができる。

わが小林秀雄や中原中也の翻訳では自由奔放な空想や抒情の歌とばっかり思っていた「最も高い塔の歌」や「永遠」や「季節よ、城よ」が、厳密なコードによって規矩された正統的な韻文詩だときかされると、意外の感にも打たれるが、パリ・コンミューン崩壊後の72年2月作の「ジャンヌ=マリの手」においても、不滅の革命魂の顕彰が8音節、交叉韻という自縄自縛の下で行われているのである。

1875年10月14日のドラエー宛の書簡に、「夢」という戯曲断片のような決別の詩句を書きつけた瞬間、夢見る詩人ランボーの生涯は終了し、あとはその詩の実行家としての険しい生活が始まった。

一日中ヘンデルばっかり聴いてたら頭の中がヘンデルになった 蝶人
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蝶人葉月映画劇場その7

2020-08-23 11:35:36 | Weblog

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.2300~2309


1)田中重雄監督の「女の賭場」
1966年、江波杏子主演の女賭博師シリーズの記念すべき第1作であるが素晴らしい。江波杏子は私が明治神宮代々木口傍のガード下の小屋で住み込みの家庭教師をしていた頃、そのすぐ近くの「大関」という飲み屋の女将をしていたが、それがこの映画の場面を思わせて懐かしい。

2)原田眞人「関ヶ原」をみて
やたら長いんだけど、関ヶ原に至る三成と家康の攻防も、肝心要の戦場のゲバルトもてんで迫力がないのは、役者のせいというよりは演出の力量不足のせいだろう。

3)山本薩夫監督の「忍びの者」
1962製作の村山知義原作の伊賀の忍者物語。伊藤雄之助扮する百知三太夫の生臭さが面白いが、その手下の市川雷蔵が石川五右衛門というのは調子が狂う。織田信長が若山富三郎というのはミスキャストずら。

4)山本薩夫監督の「続・忍びの者」
1963年の続編だが、雑賀党に身を寄せた五右衛門が光秀を利用して信長を殺させたなんて誰が思うか。シリーズの3本全部を通じて伊賀者なんか一切関係なく歴史が流転していったことが逆に浮かび上がって来るという虚しさ、悲しさ。

5)森一生監督の「新・忍びの者」
釜ウデの刑に処せられたはずの五右衛門が生きていたという出だしの所からもうガックリしてしまう。ついに秀吉にとどめを刺そうと忍び込んだらそれは彼の臨終の場だったなんて思わず笑ってしまうぜ。救いは淀姫に若尾文子が出ているだけか。1963年製。

6)安田公義監督の「眠狂四郎円月斬り」
1964年製作のシリーズ第3作。見どころは狂四郎が東京子を犯すシーンか。しかし2刀で着物だけを切り取ってしまうとは。

7)池広一夫監督の「眠狂四郎女妖剣」
64年のシリーズ第4作。狂四郎お得意の「円月殺法」をストロボで撮影したのはお手柄だが、あの剣法では隙だらけで宮本武蔵なんかにはすぐやられそう。久保菜穂子はいいねえ。

8)井上昭監督の「眠狂四郎多情剣」
64年のシリーズ第7作。水谷八重子は嫌いだが、悪女菊姫役の毛利郁子は好きだが、映画としてはどうということはないずら。

9)安田公義監督の「眠狂四郎人肌蜘蛛」
68年製作のシリーズ第11作。緑魔子、三条魔子に加え、遠い親戚の五味龍太郎が悪役で出演していますぞ。

10)池広一夫監督の「眠狂四郎悪女狩り」
1968年シリーズ最終12作では、藤村志保、久保菜穂子などが出演。転びバテレンの息子狂四郎の哀しい誕生の秘密が暴かれるのですがかのとき早く、この時遅くさしもの連載もこれにて一巻の終わり。ワンマン永田独裁体制化で大腸癌治療のゆとりを持てなかった市川雷蔵の晩年の姿が痛々しい。


 「プレバト!!」と「農家メシ」では別人の顔を見せます梅沢冨美男 蝶人
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新潮日本古典集成新装版・富山奏「芭蕉文集」&今栄蔵「芭蕉句集」を読んで

2020-08-22 12:05:40 | Weblog


照る日曇る日第1447&8回


コロナ騒動を巷に低く見下ろしながら芭蕉を読んでみました。

まずは富山奏氏校注による「芭蕉文集」ですが、芭蕉37歳の「柴の戸」から51歳の遺書までを編年体に並べてあります。彼の比較的短かった生涯の歩みと書簡&所感を合わせて味読できるので、はなはだ重宝です。

もちろん彼の発句の大半もその中に収まっているので、「芭蕉句集」がなくても彼の芸術と人世を感得できるのですが、末尾の今栄蔵史による芭蕉の連歌作品をテキストにしての「軽み」の具体的な解説は、「芭蕉句集」に希少な価値を与えています。

「芭蕉句集」には、芭蕉19歳の処女作「春や来し年や生きけん小晦日」から死の年元禄7年秋の「この道や行く人なしに秋の暮」「この秋や何で年寄る雲に鳥」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」などの遺作まで、全980句が並んでいて壮観ですが、個人的には「夜ㇽ竊ニ虫は月下の栗を穿ッ」「物好きや匂はぬ草にとまる蝶」「さまざまの事思ひ出す桜かな」「秋海棠西瓜の色に咲きにけり」「秋風の吹けども青し栗の毬」「鎌倉を生きて出でかん初鰹」などの秀句に目が行きました。

芭蕉という人は、その晩年には「不易流行」を基調にした「軽み」の俳諧を宣揚するようになりますが、その革命的な飛翔を準備したのは、若き日の貞門風の言語遊戯、その後の宗因風の滑稽味というホップ、ステップの2段階でした。

空前絶後の三段跳びを見事に完遂した芭蕉は、その後継者によって「俳聖」とまで讃えられていますが、芭蕉着地状態の聖句を遠いお手本とする現代俳句のつまらなさは、俳聖自身が追放克服した貞門談林の滑稽とシュールが欠如しているからかもしれません。

延宝8年の冬、当時37歳で江戸の超売れっ子俳諧師であった芭蕉は、金と名誉の「点取俳諧」「座敷乞食」の非芸術的境遇を放棄して、孤独清貧の真剣求道俳諧へと干カレイのごとき痩身を投じます。

芭蕉の画期をなしたのは、彼が41歳から42歳まで列島を経めぐった「野ざらし紀行」でした。深川隠棲の芭蕉庵を捨て、「行脚漂白を魂とする俳諧道建立の旅」へと出立したその悲壮な決意は、劈頭の「野ざらしを心に風のしむ身かな」を読んだだけでただちに理解されます。

そして「野ざらし紀行」につづく46歳の折の「おくのほそ道」、そして51歳の大坂への最期の旅というように、芭蕉は終生旅に生き、そしてついには羇旅の最中に没したのでした。


天青に三十七の花が咲く今日一日を君らと生きよう 蝶人
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南控控作・画「くーくーねむりんこ」を読んで

2020-08-21 15:23:20 | Weblog


照る日曇る日第1446回


「くーくーねむりんこ
かわいいねいきが きこえます
ねむっているのは だあれかな」

というような文章で、ネコちゃんやワンちゃん、ゾウさん、ヒツジさんたちが続々ネンネグーしている絵がついている世にもしあわせな絵本です。

私もこんな素敵なネンネグー絵本を作りたいものです。



藤井勝ち渡辺が勝つ将棋界いかにおわすか羽生9段 蝶人
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聖書協会2018年版旧約聖書で「ハガイ書」を読んで

2020-08-20 11:51:39 | Weblog


照る日曇る日第1445回


60年間(旧約聖書では70年と書かれているが)のバビロン捕囚にようやく終わりが近づいてくると、そのことを力強く予言する記述も増えてくる。

ダレイオス王の治世2年の第6の月の24日、突如預言者ハガイに臨んだ主は、新しい神殿の建設を命じられる。そしてこの年の第9の月の24日には、主の神殿の基が据えられたのである。

やったね。


 インタビューで「一日一番頑張ります」と言わない力士どこかにいないか 蝶人

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蝶人葉月映画劇場その6

2020-08-19 13:37:38 | Weblog

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.2289~99


0)田中徳三監督の「悪名」
今東光の原作を勝新太郎、田宮二郎のコンビで1961年に映画化されたが、いったいどこが面白いんだか。こんなもんがシリーズ化されたときいてまたびっくり。他に大映が撮るべき映画は山ほどあったろうに。

1)田中徳三監督の「続・悪名」
第1作のあまりのひどさに見るつもりはなかったのだが、それでも1961年の続編をついつい見てしまったら、なんとモートルの貞があっさりと殺されてしまうではないか。これでシリーズはどうなるのか。次も見ないわけにはいかない。

2)森一生監督の「新・悪名」
1962年の第3作で名手森監督がシリーズを見事に軌道に乗せる。なんとモートルの貞には死んだ兄そっくりの弟がいたのだ。敗戦直後の闇市で蠢く外国人と日本人の複雑怪奇な争奪戦に注目せよ。

3)三隅研次監督の「編笠権八」
川口松太郎原作、市川雷蔵主演の1956年大映製作の時代劇映画で、まずまずの出来栄え。永田雅一のワンマン体制で50年代は輝かしい成果をもたらした50年の大映の平均値のような作品だろう。

4)衣笠貞之助監督の「かげろう絵図」
松本清張原作の1959年製の市川雷蔵、山本富士子主演のよおでけた時代劇。徳川家斉とその後継の家慶の抗争を背後に関係者の様々な思惑が多くの人物の運命を揺り動かしていくさまを、名人衣笠が興趣も豊かにじっくりと描いていく。時代劇をみる醍醐味ここにあり。

5)三隅研次監督の「桃太郎侍」
市川雷蔵が2役を演じる1957年版の楽しい時代劇ずら。木暮実千代、浦路洋子はんも出てはるえ。

6)森一生監督の「ある殺し屋の鍵」
増村保造構成、市川雷蔵主演の1967年製作シリーズ第2作は、第1作より遥かに面白い。ヒロインの佐藤友美は和服が似合うが、洋装をして顔がアップになると途端にゲンナリする。

7)三隅研次監督の「斬る」
1962年の製作。市川雷蔵が珍しや「三弦の構え」という外道の戦法を開発している。これはかの「円月殺法」と同様、到底実戦に使えるような代物ではないが、雷蔵にかかるとなんでもオーライになるのである。

8)大洲斉監督の「ひとごろし」
山本周五郎の原作を1976年に松田優作主演で映画化。臆病侍の優作が豪胆な丹波哲郎とやりあうが、しまいに丹波が音を上げる、というコメデイ時代劇だが、面白くもおかしくもないずら。

9)渡辺邦雄監督の「蛇姫様」
なんというても雷蔵にからむ妖艶な嵯峨三智子がたまらない。これは1959年版だが入江たか子が出る1940年版もみてみたいなあ。

10)市川昆監督の「雪之丞変化」
1963年製作の長谷川一夫300本記念作品だが、その長谷川選手のおやま姿と声音がけたくそ悪くて見るに堪えない1時間53分。


車窓から飛び込んできた雀蜂おいらを刺すな刺されたら死ぬ 蝶人
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山尾三省詩集「びろう葉帽子の下で」を読んで

2020-08-18 11:59:30 | Weblog


照る日曇る日第1444回


山尾三省(1938-2001)は或る時家族で屋久島に移住しながら平明で深さのある詩を書き続けた人であるが、本書では刊行目前に喪った妻への慟哭が胸を打つ。

「妻を失った わたくしの
すべての悔いと
号泣をのみこんで
山は ただそこに在り
海もまた ただそこに在り
なおかつ 静かに
川が流れている
水が流れている」

屋久島の生活は過酷であったことは、「びろう葉帽子の下で マムシを殺す」という詩を読めば分かる。

「びろう葉帽子の下で 
マムシを殺す
この夏の 初めての獲物
褐色の肌に 黒い斑点のある三角頭の
美しく 尊い
マムシを殺す」

詩人の弟にはダウン症の息子があったらしい。

「ダウン「症」の息子を持つ弟が
ダウン「症」の子は 核兵器を作らないし 原子力発電所を作らない
それだけでも素晴らしいこととおもわないか
と 言ったことがあった
そのとおりである」

私も「そのとおりである」と言おう。


キアゲハというがそのキが問題でナミアゲハのキと見まがうキもある  蝶人
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聖書協会2018年版旧約聖書で「ゼファニア書」を読んで

2020-08-17 13:29:44 | Weblog


本書はユダの王、アモンの子、ヨシアの時代に、クシの子ゼファニアに臨んだ主の言葉を記している。
「私はユダとエルサレムのすべての住民の上に手を伸ばし、バアルの生き残りと、偶像に仕える神官の名を祭司たちと共にこの場所から建ち滅ぼす」と宣言されているが、この時代のバアル神たるや「万軍の主」」に勝るともおさおさ劣らぬほどの声望と威力を誇っていたことは、旧約聖書を読むほどに痛感させられる。
このバアルは、アシェラと同様、古代西アジアではシリア、パレスチナなどで広く帰依された格の高い神様で、我らがユダヤ教の神様に見切りを付けた多くのイスラエルやユダの民草も一時はこれらの神々を熱心に拝んでいたのである。
「ミカ書」のくだりでも書いたように、ユダヤ教やキリスト教徒はこれらの宗教を「邪教」として悪しざまに見下しているが、古代宗教史の立場で眺めれば、それほど両者に学問的な優劣が在るわけではない。

第二次の感染爆発知らずして逝きし歌人の僥倖思えり 蝶人
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