あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2009年茫洋弥生歌日記

2009-03-31 07:05:02 | Weblog


♪ある晴れた日に 第55回


親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや

遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら

坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子

もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが

少年にして少女のかんばせカルジャが撮りし17歳のランボー

われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし

春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく

洛北の北白川なる重度しょうぐあい施設湯船を埋めし黄色い雲古かな

我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな

青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず

土佐文旦手に持てばわが失いしもの程の重さかな

息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき

吾のため子のため母のためたった7年で地球を2周せしカローラの妻

北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰

言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました

隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう

金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる

月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり

己の屁の臭い嗅ぐああ生きているな

懐かしき人死して鶯さわに鳴く 

春三月わたしの園を荒らすのは誰だ

千葉県で太陽に向かって吠える男

コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな

蛇のような棒か棒のような蛇か

いつも物見の上にいる鷹のやうに


―ある回想
夢の中でKに会った。Kは言った。W大闘争を総括してみろ。
俺は答えた。あれはスポーツだったよ。

夢の中でWに会った。俺は言った。
貴様は俺をリストラしたうえ会社を目茶目茶にしてしまったな。
Wは怯えた目をして走り去った。

にんげんは過去のしがらみからはどうしても逃げられないものである。



♪新宿ビックカメラで60円で売れたCD-RWうれしいやら悲しいやら 茫洋


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浄光明寺と「地蔵やぐら」

2009-03-30 09:22:00 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語第171回

またこの浄光明寺には、これら数多くの史跡とともに、これからご紹介する「地蔵やぐら」通称「網引きやぐら」があります。

「地蔵やぐら」の天井には天蓋をつりさげた円形とそれを支えた梁の跡の溝がみられ貴重な遺跡となっています。また安置されている地蔵像は制作年代が正和2年1313年と銘記されていることが評価されており、冷泉為相が寄進したという伝承があるそうです。母の阿仏尼の尽力に深く感謝してこのお地蔵さまを造営したのではないでしょうか。鎌倉時代から南北朝にかけては訴訟の時代であり、男性はもちろんのこと阿仏尼のような女性たちも幕府に対してどんどん異議申し立てを試みています。

さらにこの浄光明寺には徳川家ゆかりの尼寺英勝寺に仕えた水戸徳川家の家臣の墓地やぐらや、鶴岡八幡宮の神職大伴氏とその家族の純神道式の笏型墓碑が3基あり異彩を放っています。

けれども私がもっとも心を傷めたのは、つい最近亡くなられたこの浄光明寺住職にして偉大な考古学者兼中世史研究家であった方のお墓でありました。思えば今を去る20数年前、私がはじめてこのお寺を訪ねたおりに、懇切丁寧に寺院や仏様の由来について説明してくださったのは、ほかならぬ大三輪龍彦氏でありました。

私は鎌倉の歴史について多くの示唆を与えてくれたこの先学に深々と頭を垂れてから、うぐいす鳴く浄光明寺を辞したのでした。

懐かしき人死して鶯さわに鳴く  茫洋

千葉県で太陽に向かって吠える男
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春の浄光明寺を訪ねて

2009-03-29 12:56:46 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第170回

浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。

元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。

本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。

浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。

♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋


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バレンボイム・ベルリン国立で「コシ・ファントゥッテ」を視聴する

2009-03-28 10:01:22 | Weblog


♪音楽千夜一夜第60回

02年9月のバレンボイム指揮ベルリン国立ライブで「コシ・ファントゥッテ」を視聴する。

近年モーツアルトのコシはますます上演機会が増え、さまざまな演奏と演出が登場してわれわれを楽しませてくれるようになった。それはこのダポンテ・オペラの最後の作品がすばらしいアリアと女と男という現代的なテーマでわれわれの心をとらえるからに違いない。
かりそめの恋愛に絶対はなく、その恋愛の対象は時間と環境を変換すればたちどころに置き換え可能であり、その定かならざる不定性こそが男女の関係性の本質そのものであることを、この音楽と心理の天才はよく知っていた。どんな男女の間でも恋愛は可能であり、また不可能であることを歌うこのオペラの音楽の魅力は不滅であろう。

いまや押しも押されぬ大家となったバレンボイムは、手兵のベルリン国立歌劇場管弦楽団をよく掌中におさめ、そんなモーツアルトの名曲をいとしむように、楽しみながら振っている。それは彼が目指しているフルトヴェングラーの演奏とは対極にあるものだが、それなりに身をゆだねて聴くことができる。カテリーナ・カンマーローアー、ドロテア・レシュマンなどの歌唱もおおきな破綻はなく、手なれたアンサンブルが予定調和的に醸し出されるが、時代を60年代の終わりに設定したリス・テリエの演出はシャープな切れ味をみせた。


♪春三月わたしの園を荒らすのは誰だ 茫洋
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ドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する

2009-03-27 09:31:35 | Weblog


♪音楽千夜一夜第59回


08年1月のミラノ・スカラ座ライブでドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する

「マリア・ストゥアルダ」はて何じゃらほい、といぶかしく思う向きもあるだろうが、なんのことはない、これはスコットランドの女王、「マリー・スチュアート」のイタリア語読みである。

スコットランド併合を企む9歳年上の従姉イングランドの女王エリザベス一世と政治的に対立したばかりか、レスター伯爵をめぐって激しい恋のさや当てを演じる。そしてマリーが、宿敵エリザベスによってとらわれ、英国に18年間幽閉された挙句にとうとう断頭台で斬首刑に処せられる悲劇は、かのシュテファン・ツヴァイクの史伝「メアリー・スチュアート」などでひろく知られている。

その有名な原作を音化したドニゼッテイは、序曲から終曲のカタストロフまで朗々たる歌謡の極致を体感させ、イタリアオペラの楽しさを心ゆくまで味あわせてくれる。

エリザベス(エリザベッタ)役のアントナッチはまずまずだが、表題役を歌うマリエラ・デヴィーナのハイCがすごい。演奏はアントニーノ・フォグリアーニ指揮のミラノ・スカラ座管弦楽団で文句なし。演出・美術・衣装の3役兼ねたピエール・ルイージ・ピッツイは最後の処刑場で史実通りに真紅のドレスをマリア・ストゥアルダに纏わせ、首切り役人の一撃で鮮やかに全曲を切断してみせた。


隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう 茫洋

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「相馬師常やぐら」を訪ねて

2009-03-26 09:04:05 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第169回

相馬師常は源頼朝の重臣、千葉常胤に次男で、相馬氏の祖となった武将です。1180年(治承4年)の頼朝挙兵に父常胤と共に参加して活躍した相馬師常は、その後も奥州征伐などで多くの戦功を挙げました。念仏行者として端坐、合掌して没し(即身成仏という)多くの人々が感動した逸話でも知られています。

彼の父親の常胤は千葉県の名の元にもなった名家の出身ですが、その父親常重と頼朝の父義朝が相馬御厨の所有権を巡る騒動もあり、「吾妻鏡」にあるようにただちに三〇〇騎をもって頼朝の救援に駆け付けたわけでもないようです。

それはともかくこのやぐらは、玄室奥壁中央部の大きな龕(がん)が切り石でふさがれている独特の形態であり、玄室左奥の一石五輪塔も非常に珍しいものです。伝承とはいえ被葬者の名前が知られているきわめてまれなやぐらとして貴重です。


♪新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし 茫洋


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「瓜ヶ谷やぐら」を訪ねて

2009-03-25 08:26:40 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第168回


今度は坂道を東にわたって田圃に降りて海蔵寺の麓あたりに位置する瓜ヶ谷やぐらに向かいます。ここは別名「東瓜ヶ谷やぐら」、五つの穴がありますが、一号穴は「地蔵やぐら」とも称される約二〇畳くらいの大型やぐらです。壁面には多くの彫刻があり、第一級のやぐらとして高く評価されています。この先の葛原岡神社付近はかつての刑場跡といわれ、このやぐらの山稜部では荼毘所の跡が発掘されているので、このやぐら近辺も一連の葬祭施設が点在していたと推測されています。

一号穴は天井の一部崩壊により造立時の床は底上げされていますが、地蔵菩薩を中心に仏殿形式が整っています。中央には地蔵菩薩坐像が鎮座しており、左腕と胸の間の溝に塗色らしきものがみられます。左壁には龕(仏像を納める厨子)と納骨穴、奥壁には高さ一六七センチの坐像、高さ一五一センチ厚肉彫の大五輪塔、龕と納骨穴がずらりと並び、右壁には鳥居と神殿、地蔵菩薩立像、神像、龕などがあり、神仏融合の面影が残っています。

二号穴は厚肉彫の大五輪塔があって梵字がよくのこっています。また三号穴は三方に石棚があって壁には五輪塔が八基刻まれており、彫りかけの状態のものもあります。


♪吾のため子のため母のため7年で地球を2周せしカローラの妻 茫洋
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洋服解体新書

2009-03-24 08:19:53 | Weblog


ふあっちょん幻論第41回

幕末から明治にかけて洋服の強制的な導入はさまざまな混乱をもたらした。たとえば和服は直線裁ちであるが、洋服は曲線裁ちである。曲線裁ちのできる洋服職人もそんな技術も不在だったので、足袋職人が最初の縫製士となった。足袋職人たちは外国人から仕立てを学び、洋服を解体しては組み立てて縫製を行なった。医学のみならず洋服も「解体新書」の時代があったのである。

江戸時代の洋服は「蘭服」と呼ばれていた。オランダ、阿蘭陀の蘭である。明治5年1872年学制公布の一環で詰襟背広の洋装が導入され、当時の帝大で明治19年1886年に軍服を手本として学生服が採用されたが、これは学生が着る蘭服だから、学ランと呼ばれるようになった。黒の生地に5つの金ボタンの詰襟に学帽というスタイルが以後の原型になったのである。

1980年代には日本被服工業連合組合が襟のカラーは白、ボタンは5個、装飾的な刺繍などが裏地に入らないことなどの細かな基準を決定。認証マークつけた。卒業式に女性が第2ボタンをもらう習慣の起源は武田泰淳の小説「ひかりごけ」(特攻隊員がひそかに思いを寄せていた兄嫁に軍服の第2ボタンを渡した)という説があるそうだが、そんなことが書かれていたかなあ。
(後段の情報は朝日新聞のコラムより転載しました)

♪我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな 茫洋

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母7周忌に寄せて

2009-03-23 09:39:17 | Weblog


♪ある晴れた日に 第54回


真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし

天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
 
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

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「一四やぐら」を訪ねて

2009-03-22 10:24:51 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語第167回

私たちはまず北鎌倉の「西瓜ヶ谷やぐら」を訪ねました。鎌倉時代に鎌倉とそれ以外の地を切り離している地点に十王堂橋がかかっていました。ここには関所(交番)もあり、この十王堂橋から大切岸(瓜ヶ谷やぐら)または梶原方面に抜ける切り通しがあったと伝えられています。あの一遍上人が北条時宗によって追い払われたのもまさしくこの場所ですが、私たちはここから坂を登ります。

「西瓜ヶ谷やぐら」は別名「一四やぐら」ともいわれ、このやぐらを含む森全体が遺跡とみられています。かつてここには寺院があり、埋蔵物も多いと考えられています。
ちなみにこの瓜ヶ谷という地名は、かつて源頼朝の乳母、比企の禅尼がこのあたりで瓜園を造ったからだそうです。そのせいか、この近所では都会では珍しくまだ田圃が残っています。

山麓にある「一四やぐら」は鎌倉時代後期の造立で、一級の厚肉彫五輪塔が残存しています。五輪塔とは五つの鎌倉石を積み上げた塔で、下からそれぞれ地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼んでいます。

ここでは故人の冥福を祈る追善供養のために、初七日から7日ごとに五輪塔を造り、後に一周忌などの法要にさらに塔を増築したと思われます。また中央の大型の塔(四五日法要用)には梵字の一部が残っています。

板碑と五輪塔はかなり風化していますが二か所あり、上段のやぐらは左側にも広がっていると考えられます。五輪塔の下の塚は人工的に盛り土されたもので「富士塚」または「経塚」跡とみられています。



♪息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき 茫洋

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早春賦

2009-03-21 11:25:18 | Weblog

バガテルop92

 今年もまた春が来ました。亀田さんの庭に桜の花が咲き、樋口さんの庭ではだいぶ前から白いモクレンが咲き誇っています。
朝の驟雨がお昼にはおさまって青空がのぞいたので、妻君と一緒に近くの朝比奈の滝まで散歩に出かけました。土饅頭のようなうてなの上には、朝の光をさんさんと浴びて、無数のスミレが可憐な水色の花をつけています。

私は漱石の「菫程の小さき人に生まれたし」という俳句を思い出し、生まれ変わったら来世ではこの美しい植物、あるいはその上空を飛び回っていたルリタテハになりたいと念じたことでした。
漱石は絵も字も名刺までもとても小さくて細いのを好む人で、それがこの作家の独特の繊細さと狂気すれすれの神経過敏の度合いを物語っていると思います。
どうして急に漱石を思い出したかというと、私の家のカレンダーが漱石だからです。1年12か月の12枚全部が、漱石が実際に書いた和洋の数字でできているという、世にも不思議なカレンダーを毎日眺めているので、散歩しているときにもふいに漱石が出てきたのでしょう。

朝比奈の滝が昨夜来の雨で増水して音を立てて落下しています。すぐそばには鎌倉市が2,3日前に立てた「国史跡朝夷奈切通し」の看板があって、当地の由来が4カ国語で説明されています。

私たちは無人の朝比奈峠をゆっくりと登って行きました。左右の沢からは清流が勢いよく流れ下り、その音がウグイスやキセキレイのさえずりと混じってまるでこの世の極楽のような気持ちにさせてくれます。

私は妻君を落葉が散り敷いた斜面に案内し、「ほら見てごらん、今年もオタマが孵ったんだよ」と自慢げに言いました。もう10年以上前からこの一角はいろんな種類のカエルが水溜りで交尾し天然自然に産卵する、市内でも貴重な場所なのです。ところが市の土木課が突然「世界遺産にするための環境整備」と称してこの周辺の樹木を伐採し、いままであった数少ない水溜りをブルドーザーで埋めてしまいました。

仕方なく私は長靴を履き、スコップを持って汗だくで原状を回復してやったのですが、そのささやかなスペースに今年もまたいくつかのカエルの卵とそこから孵化した小さなオタマジャクシを見つけたときの喜びは、なにものにもかえがたいほどでした。

「あらまあ、おかあさんガエルがいるじゃないの」
と妻君が驚いたように言いました。見ると水溜りの中に一匹の黄色いカエルが両手と両足を少し広げるようにしてふわりと浮かんでいます。
「おやおや、これはびっくりだ。ようこそカエルさん」と私が言うとそのカエルが突き出した瞳をちょっと右に動かして私たちの方を見ました。

 カエル君をあんまり驚かせるとよくないので、隣の水溜りを覗いてみると、なんとそこにももう一匹のチビガエルがあわてて水底に潜り込もうとしていました。市役所があれほど野蛮な工事を行なったので、あんきに冬眠していた動物たちは全滅したのではないかと心配していたのですが、杞憂だったようです。

「また昔のように一〇組以上のカエルが盛大に交尾するようになると楽しいよね」
と妻君が言ったので、私は「うん」と大きく頷き、
「しかしこのままだと蛇や人に見つかって全滅するおそれがあるから、ここのオタマを今のうちに分配しておこう」
と言いながら、掌に掬った小さなオタマジャクシを、近くの他の水溜りにせっせせっせと移してやりました。
家計や日本経済と同じで、こういう風にリスクヘッジしておかないと、現在またまたま繁盛している生息箇所も、初夏の旅立ちまでの長丁場に、不意に破壊されたり、死滅してしまう危険があるのです。

「やっと終わったぞ。今年もなんとか元気に生き延びてくれよな」
と、祈る思いで緑色のうるんだ卵の塊を見つめていると、
「おとうさーーん。おかあさーーん」
という野太い声が、峠の麓の方から聞こえてきました。私たちが散歩に出たと知った長男が、急いであとを追いかけてきたのでしょう。
声に驚いてウグイスが飛び立った椿の梢から、一輪の紅い花弁がぽとりと落ちました。


   ♪コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな 茫洋


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アーサー・ウェーリー英語訳・佐復秀樹訳「源氏物語3」を読んで

2009-03-20 11:24:17 | Weblog


照る日曇る日第244回

アーサー・ウェーリーによる源氏物語は谷崎などの翻訳とは一味もふた味も異なっていて、物語の進行速度がはやい。物語の推進を邪魔する枝葉の部分を大胆にカットしていること、紫式部が念入りにこさえた、どこが頭でどこが尻尾か分からない海鼠のような文章を、ここが主語、ここが述語、ここが形容句という風に因数分解して、抜群によく切れるナイフで整除しているために、そういう爽やかで明快な印象が際だつのである。

進行速度ということでは与謝野訳が早い方だが、仮にこれをモデラートとすると、ウェーリーはアレグロ、谷崎はアダージオというところだろうか。調子に乗ってもっと音楽に喩えると、谷崎版はフルトヴェングラー、ウェーリー版はトスカニーニ指揮のテンポで、この世界で3番目に偉大な交響絵巻を演奏している感じがする。(ちなみに1番は旧約聖書、2番はシェークスピア、3番の同着はプルースト)

この第3巻で源氏はあっけなく息を引き取り、物語は彼の息子の世代の活躍が始まるのだが、その疾風怒涛のプレストが、逆にこの不世出の大恋愛家にして大心理家の喪失の悲しみをそそっているのかもしれない。

葵上も、紫も、夕顔さえもが六条の御息所(「みやすんどころ」と読む)の怨霊に執拗に祟られてとり殺され、その恐るべき悲嘆が源氏のいのちを奪い去る。そしてその怨霊の呪いと祟りを当の御息所にさえ制御できなかったとすれば、平安時代の貴族や民衆の精神を支配していた魑魅魍魎の無量の闇の深さはいかばかりであったろう。

宮中を華やかに彩った美人も才子はもことごとく姿を消し、今年もまた紫の上があれほど眺めたかった桜が咲こうとしている。そして、その春の梅や桜の花々を目にした私たちは、あの美しく貞潔だった紫の儚い生涯と行方も知らぬ後生をゆくりなくも偲ぶことになる。思えば紫式部はなんという驚異の物語を遺したものだろう。

♪こぞの花いずくにありや春の風 茫洋
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小川国夫著「イエス・キリストの生涯を読む」を読んで

2009-03-19 11:22:49 | Weblog


照る日曇る日第243回

イエスの言葉については郷里の丹陽教会で、S牧師をつうじて再三再四にわたって日夜聞かされたが、神やイエスの実在について、わたしはどうしても信じることができなかった。まことに失礼ながら、時折はまるで夜店の香具師のような説教だとも思ったものである。

それはこのたび小川国夫のこの聖書講義を読んでも、本当のところは同じように感じた。信じる者と信じられぬ者、神につく人とつかぬ人。彼らと私の間には、たったの1歩を隔てて、どうしても飛び越えることができない千尋の谷底が横たわっており、彼らはその谷の向こうから神聖なることどもを、さまざまに語りかけてくるのであるが、やはりそれらはすでに異界に居住する賢人、聖人の言葉であって、しょせん私のような異邦人には解しがたい言葉なのであった。

そもそも新約聖書は、神様と人類のあたらしい契約、約束の書であるから、罪を犯した人類のために犠牲となったイエスの聖なる言葉とその復活を信じない者が読んでもほんとうは意味をなさない。契約を拒んだり無視しようと決めた人間などが手にしてはならない文書であると言っても差し支えないだろう。

しかし私は、謎のようなエホバの言葉、意味が分からないけれども妙に惹かれるイエスの言葉の深遠さに文学的な面白さを感じて、新旧ふたつの聖書を折にふれてひもとくようになったのである。

例えば私は、虐げられた人々の側に立って、「あなたたちの中で罪がない者がまず石を彼女に投げつけるように」(ヨハネ伝8章)と優しい言葉をかけるイエス、そして、その反対にエルサレムの神殿に乗り込んで、牛、羊、鳩を売る者を追い出し、両替する者たちの机を覆し、「私の父の家を商いの家とするな」と怒り、「この神殿を壊すがいい」と阿修羅のように絶叫する秩序破壊者のイエスが好きだった。(P113~118)

精神の王国にしか住めないイエスは、商業による蓄財と家族による平和の絆を本心では蛇蠍のごとく忌み嫌っていたのではないだろうか。そして少年時から青年時代にかけての私は、そんな「戦うイエス」を激しく愛していたのである。

けれども私にとってキリスト教はついに異国の一神教にすぎず、神と聖霊と子は難攻不落の砦であり続けるだろう。しかし、次に掲げる「南北戦争に従事して盲目になったある南軍兵士の祈り」なら私にも理解できるし、これを“神様の御業”と讃えた亡き大伯母の気持にも素直に寄り添うことができそうだ。

「答えられた祈り」(原文英語、アイリーン・ベン投稿 左近允訳)

功績をたてるために神の力を求めたのに
謙遜に従うことを学ぶように無力にされた。
もっと大きなことをするために健康を求めたのに
もっとよいことをするように虚弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたのに
賢くなるように貧しさを与えられた。
人々の称賛を得るために権力を求めたのに
神の必要を感じるように無力を与えられた。
人生を楽しむためにあらゆることを求めたのに
あらゆることを楽しむためにいのちを与えられた。
求めたものは何も得られなかったのに、
望んでいたものは何でも得られた。
ほとんどわたし自身にかかわりなく、わたしの無言の祈りは答えられた。
すべての人の中で、わたしは最も豊かに恵まれた。


「ああ神様、おお、しかし神様」と身もだえしながら祈りしわが父よ 茫洋

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感傷的な日記

2009-03-18 10:57:11 | Weblog


バガテルop91

昨日は久しぶりに東京に出ました。お世話になっている方が先日結婚式を挙げられ、おまけに新居も完成されたというので、長男が通っている施設で作った陶器を差し上げるつもりで紙袋に入れて駅までのバスに乗ったのですが、ここでまたしてもお得意のポカをやってしまいました。座席の隅に置き忘れてしまったのです。

それに気が付いたのは駅の改札を通り抜けてしばらくしてからのこと。急いで引き返しました。スイカ・カードを入口に駅員さんに見せ、「用事が出来たので電車に乗らずに外へ出たいんだけど」と言うと、20代前半とおぼしきその若い女性は、にっこり笑って「いいですよ」と言って入場料金を消してくれました。ほんとうはこのケースでは私がスイカを改札機にくぐらせて初乗り料金を支払わなければいけないのでしょうが、彼女は私にそうしろと言う代わりに格別の配慮を示してくれたのです。

改札口を出た私は、さっき降りたバスを捜しましたが見つかりません。焦った私がうろたえていると、京急バスの職員さんが、「どうかしましたか」と尋ねるので、「これこれしかじかで困っている」と説明すると、忘れものの形と中身を確かめてからすぐに携帯でバスの駐車場を呼び出し、「すぐにこちらに向かうバスがあるので、忘れものを持ってこさせます。あなたは5番のバス停のところでしばらく待っていてください」と言いました。

待つことしばし、「大丈夫かなあ」とやきもきしていた私の前に、突然さきほどの駅員さんが現れ、「忘れ物はこれですか」とくだんの紙袋を差し出しました。「そうです、そうです、これです、これです」と私はいっぺんで嬉しくなり、「ほんとうにありがとう。助かりました」と頭を下げますと、その30代後半の職員さんも自分のことのように喜んでくれ、丁寧に帽子を取って「いえいえ、うまく出てきてよかったです」と言いつつお辞儀をしながらにっこり笑いました。

しばらくして横須賀線の車上の人となった私の心のうちに、次第にほのぼのしたものがこみあげてきました。私は、いまさらながら「親切」ということを思いました。この人たちが私に対して示してくれた親切は、企業の規則やマニュアルに従った行為ではありません。ささやかではあっても、彼らの心の裡に生まれた自発的な行ないです。目の前で人が困っている。だから助けてあげよう、という素直な気持ちです。それが私の心に響いたのです。

「小さな親切 余計なお世話」という言葉もありますが、この世知辛い世の中でさりげなく小さな親切を実行する人たちは間違いなくこの世の宝であり、社会の根っこを支えているはずです。その証拠に、昨日私が直面したトラブルを昨日の二人のようにさりげなく処理する国など、おそらく世界中のどこの国にもないでしょう。

まさに「小さな親切 大きな感動」ですね。こうして久しぶりに拙い日記を綴りながら私にとってつくづく昨日は格別に良い日であったことが振り返られ、それと同時に、その恩返しということではないのですが、私もできるだけ人には親切にしよう、と殊勝にも思ったことでした。


 ♪春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく 茫洋


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「やぐら」はインド、中国渡来

2009-03-17 08:05:31 | Weblog
 

鎌倉ちょっと不思議な物語第166回


広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。


斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。

さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。

またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。

鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。


♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋
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