あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

天皇および天皇制について~西暦2019年弥生蝶人花鳥風月狂歌三昧 

2019-03-31 12:47:08 | Weblog


ある晴れた日に 第558回


なにゆえに見ず知らずの若い女性を眞子佳子様と尊称つけて恭しく呼ぶ
和歌というも短歌というも同じこと民草は今もなお大王を讃える
この国の民度高き人々が声高に唱える天皇陛下万歳
有史以前秋津嶋に舞い降りし天孫こそはア・プリオリに偉大、か
八隅しし吾大王の高照らす日の皇子らはいかに御座すや

「万世一系」などと気安く言うが最初期の天皇なんて誰も知らない
南北で2つに分かれし万世のいずれが正当いずれが異端
なにゆえに赤の他人に頭を垂れるその来歴も定かならぬに
「日本第一の大天狗」と「日本第一の大悪霊」をこの世に送りし鳥羽上皇
愛しけやしわご大王の御代のいやさかを年の初めに祈る歌人は

和歌短歌宮廷文化の精華とて今なお愛でる歌人もありしが
今もなお五七五七七が大王の治世を言祝ぎ下支えする
遠き世の部族の長の末裔と伝わる人に額ずく人々
「人の上に人を作らず」と諭吉言いしが天皇だけはその限りにあらず、か
年下の会ったこともない女の子を「佳子様」などと様付きで呼ぶ

なにゆえに苗字がないのか雅子紀子「小雪」や「のん」と同じじゃないか
「眞子様」と生まれながらに呼ばれる人と「眞眞」と呼び捨てられし我
九重にもヒエラルキーがあるようで横綱三役幕内幕下
空虚なる中心すなわち真空地帯 良家の子女の精神を乱す
政権がぶち壊そうとする憲法を天皇が守ってくれると勘違いする人

天皇は日本国の象徴にあらずして日本国民統合の象徴にもあらず
我が国の主権はあくまで民にあり天皇を奉戴するも拒むも
天皇と天皇制なき世の中の明るい空虚に堪えよ民草
平成の後にはきっとやって来るみんなに愛される素敵な皇室
ア・プリオリに「この人は偉い。跪拝せよ」と言われても頭も心も動かない

「天皇陛下万歳!」と鰯の大口 叫ばれた方ではどんな気持ちか
万世なんておむね一系である皇室も猫も杓子も我々も
万世を辿れば我が家のムクちゃんも神武以来の真直な一系
冷やかにデオニュシウスは見つめたり平成最後のドンチャン騒ぎ
天皇や安倍蚤糞に寄り添ってもらわなくてもオラたち元気だ
この国に「象徴」などは要りません青空を行くひとひらの雲

        大政に翼賛しつつ弥生尽 蝶人
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鎌倉ちょっと不思議な物語第410回 

2019-03-30 13:03:02 | Weblog


蝶人狂言綺語輯&バガテル―そんな私のここだけの話op.305



弥生も押し詰まって、残り僅かになってしまった。

世間では次の年号がどうのこうのと、朝から晩までかしましいが、私には西暦さえあれば日常生活には何の不都合もないので、興味も関心もない。それよりこの際天皇制について考えてみようとするひとがこの国に少ないことに改めて驚きと不可思議をかんじるのである。

しかしさいきんの鎌倉の観光客、特に外国からのそれの増大については驚きと不可思議を通り越した異常さを感じる。昔の江ノ電はいつもガラガラだったが、きょうびは地元民よりも外国人観光客が多く、ネットの交通情報を検索すると毎日のように自然渋滞しているようだ。

鎌倉高校停留所付近の道路が映画やテレビドラマの撮影で名所になったそうで、国内外の観光客がさかんに激写して、近くの住民の家の中まで無断で入ってくるという。

市ではさいきん「食べ歩き規制条例」とかを決議したそうだが生ぬるい。むしろその反対に食べ歩きを推奨して、小町通りを往来する観光客同士がパイ投げをしたり、アイスクリームなどをベタベタくっつけあうようになれば、こんな東京資本の跋扈で殺人的な狂騒を極める異常な商店街などには二度と足を踏み入れなくなるのではなかろうか。

鎌倉市の市長はこのせつ流行の無党派の若者で、私は彼が自公に属しないというだけで結構なことではないかと思っていたのだが、さいきん独断で市庁舎移転を広報に掲載したので市民も議会もびっくり仰天。そのうえ彼の熱烈な支持者であった元ミス鎌倉の女性議員が自民党の県議候補者にひっこ抜かれたというので話題になっている。

政策や政治主張はどうでもよろし。インスタ映えならぬポスター映えする美貌?の持ち主なら阿呆莫迦選挙民がこぞって投票してくれるだろう、という自民党の、有権者を舐め切ったなりふり構わぬ選挙戦術に、市長のみならず全市民があっと驚いている弥生の週末である。


  万世なんておおむね一系である皇室も猫も杓子も我々も 蝶人

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ジャック・プレヴェール著・小笠原豊樹訳「ジャック・プレヴェール詩集」を読んで

2019-03-29 09:24:40 | Weblog


照る日曇る日第1237回



1900年に誕生し、1977年に死んだフランスの詩人の5つの詩集から選ばれた詩は、いずれも誰にでも分かる平易な言葉と明快な意味内容で綴られているが、一読ただちに胸に沁み込む映像と心像の強さを秘めていて長くとどまる。

例えばこういうの。

「美しい季節」
腹ぺこで 道に迷って 体は冷えて
ひとりぼっちで 一文無しの
ちいさなむすめ 年は十六
身じろぎもせずに立つ
コンコルド広場
八月十五日正午。

さすがに「天井桟敷の人々」でならした脚本家らしい存在感がギュっと出ています。
もうちょっと長いのでは、こういうのがある。

「結構な家系」
ルイ一世
ルイ二世
ルイ三世
ルイ四世
ルイ五世
ルイ六世
ルイ七世
ルイ八世
ルイ九世
ルイ十世
ルイ十一世
ルイ十二世
ルイ十三世
ルイ十四世
ルイ十五世
ルイ十六世
ルイ十七世
ルイ十八世
あとはもうだれもいない……
このひとたち一体どういうんだろう
二十までかぞえることもできないなんて

どうだい、いいだろうプレヴェール。
彼は短編が専門というわけじゃなくて、たとえば「闘牛」とか「鴕鳥」とか「キリンのオペラ」などの、もっと長くて圧倒的に素晴らしい詩も書いたが、ここに紹介できなくて残念だ。

こういう詩を機知に拠りかかった「頓知詩」とかいうて、低く見る自称インテリ詩人や歌人も多いようだが、悔しかったらおめえさんが書いてみな。

蛇足ながら、詩人岩田宏選手による翻訳が素晴らしい!

   「天皇陛下万歳!」と鰯の大口 叫ばれた方ではどんな気持ちか 蝶人


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2018年聖書協会共同訳で「旧約聖書続編マカバイ記一と二、知恵の書」を読む 

2019-03-28 11:38:28 | Weblog


照る日曇る日第1236回



「マカバイ記」の前篇はアメドニアのアレクサンドロスがペルシアとメディアの王ダレイオスを打ち倒すところから始まって、アブボスの子プトレマイオスがユダヤの英雄シモンとその息子たちを殺害し、なおその兄弟ヨハネに迫るところで突然終わってしまう。

その後どうなったのかと急いで後編を読んでも、ヨハネのヨの字も出てこないのはどういうわけだろう。どうやら後編のほうが前篇より前の時代の記述になっているらしい。

いずれにしても、当時のユダヤ民族が東西南北の強国の間を、必死の防戦と様々な外交手段を駆使して、懸命に生き残りを図っていたことがよく分かる。

「知恵の書」は当時の識者が語りおろした神の信者かくあるべしの教訓書で、読んでいてもあまり面白くはない。

「春の花を見逃さず、バラのつぼみがそおれないうちに我々の冠としよう」というのが「不敬虔な者の人世観」として戒められていると、なんと愚かなことを抜かすものよ、とかえって反発してしまうのである。


 ア・プリオリに「この人は偉い。跪拝せよ」と言われても頭も心も動かない 蝶人


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松岡達英著「昆虫の生活」を読んで 

2019-03-27 11:49:06 | Weblog

照る日曇る日第1235回



ボクはチョウが大好きなので、お庭にエノキを植えました。
 
エノキはオオムラサキ、ゴマダラチョウ、テングチョウ、ヒオドシチョウなどの食草です。

ボクは特にわが国の国蝶オオムラサキを遠方から我が家に呼び寄せたかったので、この樹を植えたのですが、残念ながら今日までその美しい勇姿は姿を見せていません。

ところで松岡達英さんの「昆虫の生活」は、ボクちゃんのようなよいこには絶対に欠かせないよい本です。

ボクは、コムラサキの食草もエノキだと固く信じて、毎日お空を眺めていたのですが、松岡さんの本によれば、エノキではなく、なんとイチョウだったのでびっくりしました。

ついでにご紹介しますと、アカタテハはカラムシ、ヒメアカタテハはヨモギ、キタテハはカナムグラ、各種のヒョウモンチョウはスミレ、キアゲハはにんじん、モンシロチョウは大根、キャベツ、ジャコウアゲハはウマノススクサ、カラスアゲハはキハダやコクサギ、オナガアゲハもコクサギ、ルリタテハはホトトギスやシオデ、コミスジはハギやクズ。ルリシジミはクララ、ベニシジミはスイバが食草です。

そんな貴重な情報がてんこもりの「昆虫の生活」は、いままで悪名高き幻冬舎が出したなかで一番よい本だと思うずら。


    天皇と天皇制なき世の中の明るい空虚に堪えよ民草 蝶人
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田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読んで

2019-03-26 11:52:30 | Weblog


照る日曇る日第1234回



『トラ・トラ・トラ』は1970年9月に世界で公開された日米合作のフォックス映画である。

プロデューサーにはエルモ・ウイリアムズ、米側監督にリチャード・フライシャー、日本側監督には、解任された黒澤明に代わって舛田利雄と深作欣二を迎えて、日米で撮影・製作された山本五十六と真珠湾攻撃の物語だ。

本書は黒澤を敬愛する作者が、燃えるような探究心に突き動かされつつ敢行した周到厖大な日米両国での調査をもとに、黒澤がなぜフォックス社のザリル&リチャード・ザナック父子から解任されたか、という謎に迫る。

ザリル・ザナックはハリウッド映画界に君臨した大プロデューサーで、かつてジョン・フォードの名作のオリジナルフィルムに遠慮なくハサミを入れた豪腕編集者としても知られる。

本書によれば、ザリルと黒澤はお互いに気に入っていたようだ。英雄肝胆あい照らすというところか。

またエルモ・ウイリアムズは「ザ・ロンゲストデー」(邦題「史上最大の作戦」)の総監督兼プロデューサーで、彼もまた世界の黒澤を尊敬し、『トラ・トラ・トラ』の日本側監督にクロサワを推薦・指名したのは彼であった。

本書によれば、黒澤解任に至った最大の原因は、日米双方の当事者間の恐るべき誤解、そしてお互いの文化の違いである。

そもそも黒澤は(日本古来の習慣に従って)契約書に目を通してもいなかった。契約書には、黒澤の任務は「単なる職人仕事」であり、日本撮影部分だけの映像処理にすぎなかった。それだのに黒澤は、日本のみならず米国部分の監督も自分が行うものだと、勝手に解釈していたのである!

この最初の段階でのボタンの掛け違いが、最後に仇となる。天才的な映像作家の黒澤が、自分の契約書を目にしたのは、彼が解任された後で、しかも自分の手元を探しても見つからず、なんと契約相手のフォックス社のコピーを見せてもらったというのだから驚く。

契約や米国との交渉は、すべて彼が盲目的に信頼していた青柳プロデューサーが担当していた。お人よしの黒澤は、自分の飼い犬の青柳にだまされだけだともいえるし、黒澤は映像産業に従事するビジネスマンとして失格であるともいえる。

法律や契約などを無視して自分勝手に相手側の意図を忖度し、「世界の中心がおのれである」という夜郎自大で無思想かつ情動的な行きかたが、わが国をかつて大きな戦争に巻き込んでいったが、これと軌を一にする無知で、粗野で、没論理で、尊大な芸術至上主義が、「世界のクロサワ」を自爆に追い込んでいったのである。(この間の事情をわが国の昭和史や村上隆の「芸術起業論」と比較研究すると興味深いものがあるだろう)

全部で500ページになんなんとする大著も、最後まで読むと、「なあーだ」で終ってしまいそうだが、本書ではあちこちで思いがけない指摘に出会い、黒澤に関する旧来の見方を改める機会が多々ある。

例えば日米の医師の診断書を精査した著者は、「黒澤の器質的障害が、ゴッホやドストエフスキーにも共通するもので、こうした先天的な疾患があったからこそ、彼は独創的な作品を生み出すことができたのだし、その同じ欠陥が、東映京都撮影所で致命的なトラブルを引き起こしたのだ」と語っている。

そういえばかつてこの私も、保津川と嵐山に臨むこの著名な撮影所を借りて恐る恐るTⅤの仕事をしたことがあるが、「魔都京都で大切な作品を撮影してはいけない」というタブーを、例えば京都人の大島渚などは重重理解していたのに、そんなジンクスなんか馬耳東風の黒澤が、慣れた東宝を蹴ってヤクザが徘徊するこの伏魔殿を選んでしまったことが、このたびの敗因のひとつになってしまったことは疑いをいれない。

黒澤解任後、改めて20世紀フオックスが完成させた『トラ・トラ・トラ』は、真珠湾攻撃の迫真の大活劇シーンをのぞくと、まるで人間のドラマを欠いた中途半端な駄作だが、悲劇の司令官山本五十六を主人公と考えた黒澤が、もしも、もしも、彼の思い通りの『トラ・トラ・トラ』を創り上げていたとしたなら、それは未完の「暴走機関車」と同様、素晴らしい作品になったことだけは疑いないだろう。


    我が国の主権はあくまで民にあり天皇を奉戴するも拒むも 蝶人

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西暦2019年3月の歌~これでも詩かよ第254回 

2019-03-25 13:27:43 | Weblog



この世は、時々うつくしい。
            ―Et nous nous resterons sur la terre
              Qui est quelquefois si jolie Jacques Prévert <PATER NOSTER>



雨が上がって、風が吹く。
東の空いっぱいに弧を描いて
久しぶりに大きな虹が出ている。
この世は、時々うつくしい。

どこかで、グヮッ、グヮッ、グヮッと声がする。
滑川を覗き込んだら、春の水の上で
六羽のカモたちが、翼を拡げて駆け回っている。
この世は、時々うつくしい。

妻が、美容院から戻ってきた。
すっかり白くなった髪を、短めのボブにして
その姿は映画『ジャイアンツ』のエリザベス・テーラーに、ちょっと似ている。
この世は、時々うつくしい。

ドナルド・キーンやアンドレ・プレヴィン
ブルーノ・ガンツやカール・ラガーフェルドは亡くなったが、
わが鈴木志郎康や岡井隆は生きている。
この世は、時々うつくしい。

三寒四温の温の日。
イヌフグリの花と葉っぱの上で
今年初めて誕生したキチョウが、微かに翅を震わせている。
この世は、時々うつくしい。

白血病の堀江璃花子選手が「私は全力で生きます!」と宣言し、
私の妹も、抗がん剤の激烈な苦しみと闘いながら
「がんばります!」とメールを寄越す。
この世は、時々うつくしい。

東京千駄ヶ谷国立能楽堂の「第18回青翔会」。
能「海人」の後シテ役で、龍女に扮した宝生流の佐野玄宜が
くるりくるりと「早舞」を舞う。
この世は、時々うつくしい。

高木建材の前の小道で、突然ウグイスが鳴き始めた。
二声目を待っているが、なかなか鳴かないので、
私は、道端の煉瓦の上にどっかり腰を下ろし、それを待っている。
この世は、時々うつくしい。


 「平成」の後にはきっとやって来るみんなに愛される素敵な皇室 蝶人


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亡き母を偲ぶ歌 増補新版 

2019-03-24 10:31:59 | Weblog


ある晴れた日に 第557回



天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり  

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 

なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 

土手下に真昼の星は輝きぬ小さく青きイヌフグリ咲きたり 

人の齢春夏秋冬空の雲過ぎにぞ過ぎてまた春となる 

春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか

おかあちゃんはたった一人で逝きはったわいらあなんもしてやれんかった 

とめどなく流れる水を見つめつついたく泣かれし日曜の朝

ただ一度われの頬を打たれしことありき祖父の死を悲しまぬわれを

まなかいに浮かびし母の面影に丹波言葉で語りかける今朝 


  たらちねの母が逝きたる故郷の我が家を守るガンの妹 蝶人

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佐々木愛子歌集

2019-03-23 10:27:58 | Weblog


本日、母、佐々木愛子17回忌につき遺作短歌を再掲させて頂きます。



ある晴れた日に第556回

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり 
    
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく
                   
1992年5月
五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

          
1992年7月
くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり


15,6年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて

色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける

谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむ

1992年8月
娘達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

兼さん(昔の「てらこ」の番頭さん)の遺骨還りたる日近づく
かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

1992年11月
もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

1992年12月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ   「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

1993年1月 病院にて
陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

1993年2月
大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえずり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。
十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            

1993年9月
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして      雅子さんご成婚か、不詳

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

1994年5月
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       「水無月祭」は郷里の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく


 天皇は日本国の象徴にあらずして日本国民統合の象徴にもあらず 蝶人

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大江健三郎著「大江健三郎全小説6」を読んで 

2019-03-22 10:34:48 | Weblog

照る日曇る日第1233回


本巻には「身がわり山羊の反撃」「「芽むしり仔撃ち」裁判」「揚げソーセージの食べ方」「グルート島のレントゲン画法」「見せるだけの拷問」「メヒコの大抜け穴」「もうひとり和泉式部が生まれた日」「その山羊を野に」「「罪のゆるし」のあお草」、「いかに木を殺すか」「ベラックヮの十年」「夢の師匠」「宇宙大の「雨の木」」「火をめぐらす鳥」「「涙を流す人」の楡」「僕が本当に若かった頃」「マルゴ公妃のかくしつきスカート」「茱萸の木の教え.序」の十八の短編が収められています。

いずれもタイトルが魅力的なので、意気込んで読み始めたのですが、どうもこれまでとは勝手が違う。

旧作をわざわざ語り直したり、作者には大事なことなのかも知れないが、私などには何の興味もない話柄を、さももっともらしく上下させた思わせぶりな作文だったりで、「こりゃ失敗したあ、こんなことなら森鴎外かチェーホフに乗り換えよう」と何度も思ったのですが、それでも辛抱して読み続けていくうちに「火をめぐらす鳥」の出会いました。

これは伊藤静雄の「わがひとに与ふる哀歌」所集の「鴬」という詩の解釈と、鴬という漢字の原義が「火をめぐらす鳥」であること、そして作者がプラットフォームで発作に襲われた長男を救おうとして、電車に触れて転倒し、血まみれになりながら長男の「ウグイス、ですよ」という言葉を耳にした折の体験が、渾然一体となって奇跡的に融合した作品です。

この本の短編の中でも際立って短いこの作品を読んだ後で、伊藤静雄の「鴬」の冒頭、

  「私の魂」といふことは言へない
   その証拠を私は君に語らう

に改めて目を通してみると、そのたった2行の中に、大江健三郎という作家の「詩と真実」が、すべて込められていると確信できるのです。
これはもしかすると、大江健三郎の全小説の中で、もっとも感動的な秀作ではないでしょうか。


  政権がぶち壊そうとする憲法を天皇が守ってくれると勘違いする人 蝶人
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都築響一著「夜露死苦現代詩」を読んで 

2019-03-21 10:37:13 | Weblog

照る日曇る日第1232回


まずは、本書の第11章「少年よ、いざつむえ」に掲載されている友原康博氏の「くさった世の中」という作品を紹介しよう。

「くさった世の中」

くさった
世の中は
身を
生じない
反発の
ゆれみが
のし
かかって
くる
のだ
だから
きびしく
追求する
激しい
なぞは
荒れて
いる
世の中の
くさみで
ある
ことは
決して
うそで
ないことを
実証して
いる
のだ
だから
はてない
気持が
つづくのは
さぞ
不思儀な
事は
ない
では
ないか
そこに
激しく
もみ
あう
ので
ある

著者は、生命力を喪失し、業界内部だけの自己満足で消耗の限りを尽くし、いまや仮死状態にある「現代詩」に最後の鉄槌をくだそうとしている。

高踏的な桂冠詩人の超難解な1行よりも、死刑囚の稚拙な5・7・5や、あまねく人口に膾炙されている相田みつおの「今日の言葉」や玉置宏の天才的な話芸、障碍者の輝かしい「言葉のサラダ」、肉体言語としてにラップ・ミュージックなどに、より高いゲイジュツ価値を見出そうとする著者の考え方はそれなりに説得力をもち、次々に繰り出される豊富な実例に圧倒される。

思わず、「くたばれ、現代詩。よみがえれGENDAISI!」と叫びたくなるような、パンクでファンキーな1冊である。


   空虚なる中心すなわち真空地帯 良家の子女の精神を乱す 蝶人
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中沢新一著「アースダイバー」を読んで 

2019-03-20 11:13:52 | Weblog

照る日曇る日第1231回


これは東京の当たり前の風景の下に隠されている異様な存在を地中深く潜って摘発するという、まことにスリリングな知的冒険の書物です。
どういう本なのかと聞かれたら、わたしは以下のようにお答えしませう。

昔紀州熊野出身の鈴木九郎という男がおったそうです。
なんでも先祖はかの源義経の部下で奥州で討ち死にしたそうですが、その光栄な後裔である九郎は、いま東京タワーが建っている縄文時代の聖地芝に漂着し、葛飾の馬市で売った馬の代金を浅草の観音様に奉納したことからあれよあれよという間に大金持ちになったげな。

そうしていまも中野坂上に実在する成願寺に住んだので巷では「中野長者」と呼ばれる有名人になりました。

有名になってワイドショーに出演している間にもどんどんお金が儲かるので、九郎はその千両箱をアルバイトに頼んで、近所の東京工芸大の付近に毎晩のように埋めておりましたが、その秘密の場所を知られると困るので大判小判の運搬を手伝った「ひよ」さんや「ありったけの風さん」たちをひそかに闇に葬っていたのです。

その悪行のせいだかどうだかはしかとは分かりませぬが、呪われた九郎の娘はヤマカガシならぬ醜い大蛇となり、ある雨の日に十二所ならぬ十二社の池に身を沈めてしまいます。

父親の因果が子に報い、大蛇に変身した美しい娘はまるでワーグナーの楽劇「指輪」の序夜「ラインの黄金」の冒頭に出てきて「ウララ、ウララ」と全裸で歌って踊る乙女のようです。

しかし中野長者の金融商業資本を水底深く守護し、遊治郎どもの性的好奇心を惹きつけ、東都一の遊興の地である歌舞伎町や角筈の伊勢丹、紀伊国屋、中村屋などの商業施設を定着させたのは、なんとこの「中野乙女」だったのです。

ちなみに中野長者が住む成願寺は縄文海進期にも水没しない洪積台地に立っており、中野乙女が棲息する十二社一帯は海没しておりましたが、このハイソな金融資本の頭脳領域と、十二社・歌舞伎町のような湿潤で猥雑で下半身丸ごとセックス地帯の、相反し矛盾する2つの活動領域の弁証法的進化と相互インターフェースこそが、新石器時代以降の新宿の繁栄を用意した。

と中沢新一選手は考えるのです。
でも、その嘘ってほんと?
このように一事が万事鎌倉だって、新宿だって地面を6尺も掘れば、縄文時代の地層と生活層が出現する。
縄文海進期から平成後退期の現在に至る関東ローム層をぜーんぶ引っ剥がして、現代人がいまも生きている生々しい神話をリアルに読み解こう、ってのが、中沢新一師匠のあっと驚く奇跡の話芸なんですね。
はい、ちょうどお時間となりました。またどこかでお目にかかれましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

    九重にもヒエラルキーがあるようで横綱三役幕内幕下 蝶人

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四方田犬彦著「すべての鳥を放つ」を読んで

2019-03-19 11:38:12 | Weblog


照る日曇る日第1217回



第1章が「東京1972」、第2章が「パリ1980」、第3章が「東京1984」、第4章が「アンタナリヴィオ2001」という具合に、瀬能明生という主人公の波乱万丈の半生を、拠点を変えながら時系列で辿っているが、その叙述はおそらく著者の人生行路の総活でもあり、同時代に生きた我々の社会の歩みの対象化と捉え直しでもあるのだろう。

全編を通じて抜群の記憶力と精密極まりない叙述に感銘を受けたが、殊に本書の第3章を読んでいるうちに、あの奇妙な熱に浮かされるようだったバブリーな1980年代の狂躁と妄想が、突然ありありと立ちあがってくるようで興奮を覚えた。

恐らくのちょうどこの頃のような変態的な全能感を、安倍蚤糞を先頭とする日本会議の連中は体感しているに違いない。

本作に登場する「四方田」なる人物は、著者本人とは何の関係もないが、このような韜晦とユーモアも読書の楽しみのひとつだろう。

小説の中でおよそ30年を閲した主人公は、人世と世の中に疲れ果て、さながら世捨て人のようになって第4章で世界の果てに漂着する。

しかし私はこのような道行に共感することはできず、最後に同じ主人公が、2012年の東京に帰還するという、とってつけたようなあわただしいエピローグにも、なおさら納得できなかった。

ついでながら、主人公と瓜二つの人物がどこかで生きていて、2人でひとりのような態様を示すとか、「あらゆる双子は鳥である」とかの呪文は、この小説の中核にとっては、どうでもいい小手先の仕掛けではないだろうか。



 「眞子様」と生まれながらに呼ばれる人と「眞眞」と呼び捨てられし我 蝶人


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萩原延寿著著「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄全14巻」を読んで 

2019-03-18 14:28:52 | Weblog


照る日曇る日第1216回


私がいちばん好きな英国人、アーネスト・サトウの「日記」を著者は、いつくしむように紹介してくれる。長期にわたる新聞連載が、著者の死によって永久に中絶したことはまことに傷ましいことだった。
ところでサトウは、明治5年末、西国各地の灯台視察をする大隈重信に同行し、その途次に大隈の計らいで伊勢神宮を参観した。 今日は、その11巻北京交渉P57「伊勢神宮」1874年2月18日の報告などから、いくつかの記述を拾ってみよう。

*お伊勢参りに行こうじゃないか
「毎年、とくに旅行に適した温暖な春が多いが、数千という信者が伊勢参りに出かける。民衆は伊勢神社を「大神宮様」と呼んでいるが、江戸の職人などは少なくとも年に1度伊勢参りを済ませ大神宮様の加護を求めておかないと暮らしをたてて行くことはできないと考えているほどである。農民の場合この信仰はいっそうつよい」

*乞食同然の姿で旅する少年たち
「以前は江戸の商店で働く小僧が主人の家を暫く抜けだし、東海道を上って伊勢まで旅をしているのによくであったものである。かれらは旅人からの施物だけで旅を続けたのである。こうして伊勢神宮のお札(これは神宮の建築に使われた木材の破片で作られたものだが)このお札を手に入れると、かれらは、おなじような流儀で帰りの旅を続け、主人の家に戻るわけである」

*伊勢参りした犬
「伊勢参りを済ませた信者達は、油紙で包んだ大きなお札の包みを、紐で首からぶら下げているのが目に付く。犬でさえ伊勢参りをするという話があるくらいである。こういう犬はもちろん前述の少年達のあとをついていくのであろう。伊勢参りしたという「感心な犬」が1匹最近まで品川で生きていた」

*神棚
「どの日本人の家にも神棚というものが飾ってある。これは木製で神社の小さな模型である。そこにはさまざまな神の名前を記した紙のお札が収めてあるが、そのうちのひとつはかならず天照皇大神すなわち伊勢神宮の主要な祭神のお札である」


 なにゆえに苗字がないのか雅子紀子「小雪」や「のん」と同じじゃないか 蝶人
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クラシックCD超廉価盤あれこれ聞きかじり 

2019-03-17 11:21:54 | Weblog


音楽千夜一夜 第425回


1)メモワール盤「ヘルマン・シェルヘンのマーラー交響曲集」5枚組
マーラー演奏の草分けの一人であるシュルヘンが1番(ロイヤル・フィル)、2番(ウイーン国立歌劇場管)、3番(ライプチッヒ放響)、5番(フィラデルフィア管)を振り分ける。彼のベートーヴェンもそうだが、やりたいことを好きなようにやっているので気持ちがいい。

2)メモワール盤「ハンス・クナパーツブッシュのブルックナー交響曲ライヴ集」6枚組
クナの定評あるブルックナーのライヴ演奏の最新デジタル・リマスター超廉価盤ずら。
3番、5番、8番はミュンヘン、4番、7番はウイーンフィル、9番はベルリンフィルを激しく優しく振っています。

3)EMI盤オットー・クレンペラー指揮新旧フィルハーモニア管「ブルックナー交響曲集」6枚組
4番、5番、6番、7番、8番、9番の後期作品を、悠揚迫らず滔々と流すクレンペラー。名指揮者の名演奏を亡きレーベルの超廉価盤で味わって頂きたい。

4)インテンス・メディア盤「フェレンツ・フリッチャイ・コレクション」10枚組
これはたぶん独ドクメンタ盤が改名したか併合されたのではないかと思うが、演奏はみな素晴らしい。
手兵RIAS-Symphonie-Orchesterを駆使したアンダのバルトーク、ハスキルのモザールなどは不朽の名盤である。

5)シャルル・ミュンシュ旧エラート&EMI全録音管弦楽曲集」13枚組
「情熱のマエストロ」による知られざる名演奏がどっさりの落ち穂拾い第全集。
パリ管のブラームス1番も聞き逃せないが、むしろパリ音楽院管弦楽団を振ってコルトーやチボーと録れたモザールやラベルに惹かれます。

6)ワーナー盤盤カルロ・マリア・ジュリーニ「シカゴイヤーズ」4枚組
名指揮者がシカゴで首席客演指揮者をやっていた時代の名曲の名演奏ずら。
マーラーの1番、ベルリオーズのロメジュリ、ブルックナーの9番、ブラームスの4番などを、そこれそ渾身の力を込めて振っています。素晴らしい!

7)ワーナー盤ルドルフ・ケンペ指揮ドレスデン・シュターツカペレ「リヒアルト・シュトラウス全管弦楽曲集」9枚組
新征服社ワーナによる最新デジタル録音による名曲の名演奏、のはずだが、EMI当時の録音のほうが音に核があって聞きごたえがするのは、なんでだろう?

8)ワーナー盤「ニコラス・アーノンクール指揮によるブラームス集」5枚組
アーノンクール指揮バルリンフィルによる交響曲全集と、コンセルトヘボウ菅&ブッフヒンダー独奏の2つのピアノ協奏曲がたったの990円!
ということで買ってみたのだが、なんでまあこんなに詰まらない演奏なのだろう。安物買いの銭失いだったずら。

   カザルスのバッハ無伴奏が流れ来る日曜朝の「音楽の泉」 蝶人
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