あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

追悼 ロストロポーヴィッチ

2007-04-30 10:13:52 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第18回

 風薫る5月を目前にしてエリツェン前大統領の後を追うように、ロシア、というよりは旧ソ連のチェリリスト&指揮者ロストロポーヴィッチがガンで80歳で亡くなった。

 チェロ奏者としてのロストロの代表作は、やはり晩年のバッハの無伴奏組曲ということになるのであろう。

 しかしそれはヨーヨーマの演奏よりはましとはいえ、残念ながら私にはつまらなかった。むしろ往年リヒテルとフィリップスに入れたベートーヴェンのチェロソナタの燃え滾る劇演が忘れがたい。

 世間では、指揮者としてのロストロについてはまるで評価していないようだが、ワシントンナショナル響を率いて入れたショスタコーヴィッチの交響曲全集や20世紀最高のオペラのひとつ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の名演は、いつまでも私たちの胸を焦がすだろう。

 しかし音楽の仕事もさることながら、ロストロ氏は、旧ソ連の社会ファシズム体制にあって人権と芸術表現の権利を守るために命懸けで戦った自由の戦士として後世に名を留めるであろう。

 あのソルジェニーツインを身を挺して自宅に匿い、頑迷な共産主義者と戦うためにエリツェン前大統領と共に内務省に立てこもった戦う老インテリゲンチャの姿は、中国天安門事件の民主化運動で戦車の前に立ちふさがった少年の姿に重なるようにしてときおりは私たちの脳裏に甦ることだろう。



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暴かれた秘境

2007-04-29 10:58:57 | Weblog


勝手に東京建築観光・第12回


ある年の夏の夕べ、私は千代田線の乃木坂を降りてS山紀信氏のアトリエを訪れた。

仕事の打ち合わせを終えた私が、アトリエの前の小路をぶらぶらと歩いていると、S昌夫という歌手が経営しているスタジオがあった。

そこを過ぎてさらに進むと、瀟洒な煉瓦色の低層住宅が静まり返っていた。

鬱蒼とした森に囲まれたその一画は、楠や椎の頭上からセミの鳴き声が響き渡り、舗装されない地面には木漏れ陽がゆらゆらと揺れ、群青色の夏の空には白い大きな雲が浮かんでいた。

静かだった。そして、誰もいなかった。

住宅群の入り口にはI倉建築事務所と書かれた門札があり、無人のエントランスを直進すると、同じ建築仲間のビッグネームI氏の名前が記されていた。

現代思想家としても知られるこの孤高の天才は、誰もがうらやむような東京に残された最後の秘境に住んでいたのだった。

それから十数年が経った。

ある日突然、クレーン車がうなりを上げてこの緑の館の隣接地に突入し、昼夜をわかたぬ突貫工事が始まった。当世流行の商業施設の建設が開始されたのである。

しかし秘境に住む二人の建築家は、このプロジェクトには招聘されなかった。

けれども彼らの最大のライバルが指名され、彼らの最愛の地からわずか数十メートルの地点に奇怪な両翼の鉄板長屋をこしらえるにおよんで、さすがに温和な紳士も内心の憤りを隠すことはできなかっただろう。

『この建築意匠は、そもそもは私の発想ではないか。それなのにどうして君が指名されるのだ? 私ならもっと素晴らしい建築を創造できたはずだ。君の東京案よりも私の福岡案が幾層倍も優れていたように……。いや、そんなことなどもはやどうでもよい。私の終の住処を、君たちはどうして白日の下に曝け出し、暴きだすのか? おお、建築家よ、呪われてあれ! かくも因果な職業がこの世にあるだろうか?』

東京ミッドタウンの「21-21デザインサイト」の前に立つと、私にはI氏のこんなうめき声が聞こえてくるような気がするのだ。

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東京ミッドタウンのガーデンを眺めながら

2007-04-28 11:33:01 | Weblog


勝手に東京建築観光・第11回

 
歴史的風土を切り捨て、市場原理だけを優先して商業施設を乱開発する人たち。その土地固有の植生を無視して自分勝手な好き嫌いや趣味や流行で公共の場の園芸プランをわたくしする人たち。見た目や手入れや費用だけで街路樹を選定するおぞましい人たち……。

彼らはその土地に古くから棲む精霊の御業によって成仏できず、われら現代人の永遠の憧れである、あのワンダフルな靖国神社に小泉前首相や石原都知事とともに合祀されることも許されず、未来永劫にわたって神国不敬罪の罰を受けることだろう。

東京ミッドタウンのアトリウムや庭園に植えられている植物は、ほんらいは長州藩毛利家下屋敷の植生を想起すべきだと私は考えるのだが、実際に植えられているのは地霊になんの敬意も払わない“任意の素敵な植物群”である。

この庭にはナミアゲハやアオスジアゲハやモンシロチョウやエノキチョウが飛来することはあっても、その産卵と孵化が行われることはない。

土壌の設計の段階で、動植物の再生と再生産という視点が見失われ、生態系の循環が切り捨てられているのだ。

この土地の真の主人公である地下の微生物の「生産」を捨象し、この土地に定住しない人間たちの「消費」しか想定しない庭園では、時間と共に推移する生命に満ちた豊穣な自然は本質的には存在していない。

だからこの庭園は晴れやかではあっても、無個性であり、太宰のいう「ホロビニイタルアカルサ」に包まれた“カルチャーなき仇花”なのである。

そのガーデンは、東京のど真ん中で、生命の流通と交換を絶たれたまま、中空に停止している。根無し草として串刺しになり、すでに仮死の状態にある。

私はこれと同様な光景を、数年前の神宮外苑の「第1回ガーデニング大会」で見たような気がする。

そこには「我が懐かしき庭の記憶」というタイトルで、昭和初期の木造住宅と小さな庭が設営され、物干しに干された洗濯物が翻っていた。

驚いたことには、会場のいたるところに人工林が作られ、白樺林の間を縫って清らかな小川までがさらさらと流れているのであった。

それは確かに懐かしい光景ではあったが、あくまでも大量の資金と大量の植物や水や土土砂をどこかの自然を破壊してこの人工舞台に持ち込んだ“まがいもの”であった。

このイベントが終った後、誰がその白樺や桜や無数の草花を元の生育地に返還するのだろうか?

それなのに人々はその“贅沢なまがいもの”を、心の底から賛美しているのであった。

おお、なんと退廃した大宮人たちよ。そなたの鋭敏な感性と知性こそ呪われてあれ!

うるおいのない都市生活に自然を取り戻そうとするガーデニングに人気が集まり、その手法や技術が洗練されるのは文化の進歩である。

しかしこれは自然の復権ではなく、その反対の暴挙ではないだろうか。

そこには、長年に渡って田舎のゲンジボタルを乱獲し、観光ホテルの庭園に放って観光客を誘致していた都会人の傲慢と共通するような無知と傲慢が流れていた。

ゲンジボタル1匹と共生できなくて、なんの己がにんげんか!

いずれにしても、これからの建築は本体と同様、あるいはそれ以上に庭園や植樹のあり方に高邁な思想の差配が必要である、

と、私は砂上の楼閣に似た白痴的ガーデンの虚栄の美を見るともなく眺めながら考えたことであった。


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安藤忠雄と21-21デザインサイト

2007-04-27 14:28:48 | Weblog


勝手に東京建築観光・第10回

東京ミッドタウンの乃木坂寄りには庭園があり、その奥には三宅一生氏などが立ち上げたデザイン開発の拠点「21-21デザインサイト」が低くかがまっていた。

設計はおなじみの安藤忠雄であるが、ここのコンセプトが三宅一生の“1枚の布”から生まれたものであるという安藤の主張はきわめていかがわしいものと思えた。

まあ一種のこじつけであろう。しかしながら、この「低く地面にかがまっている姿勢」は、その右側にまるで権力の象徴のように高く聳えるパワータワー(オント! オント!日建設計)よりも少しく謙虚であり、いくぶん知的であり、しかも、驚いたことにはそれらの虚塔より目立ってもいるのである!
 
超高層よりも低層平屋建てのほうが、豊かで人間らしい建築物であることは、すでに70年代から磯崎新などが唱えていたし、実際に磯崎が新宿副都心都庁案で師丹下健三のノートルダム案と敗北覚悟で張り合った提案でもあった。

だから安藤の「地上すれすれ案」とか「地下沈没案」などは磯崎案の周回遅れのアイデアかもしれないのである。

安藤は素朴な創案家だが、建築の先達のコンセプトを臆面もなく剽窃するし(「光の教会」など)、やれ環境だの、緑だの、花だの、人間性だのと、そのつど派生する流行のトレンドにはきわめて敏感な人だ。そうしていつものことながら細部の仕上げは見事な手際である。

しかしそのやり口を岡目八目よろしく眺めていると、彼特有の骨太コンセプトの適用がかなり大ザッパで、実際は環境問題の本質などには肉薄していないことが分かる。

例えば安藤は震災後の神戸にうるおいを取り戻すため、町のいたるところにハナミズキを植樹することを提案し、行政側に受け容れられた。

その結果、ほんらい神戸の植生とはまるで無関係な米国産のこの白い花は次第に神戸の市内に氾濫し、街は遠からずハナミズキだらけになるだろう。

それは新しい神戸らしさの植え付けには寄与するだろうが、海を渡ってやって来た古代の神々が戸をたたいたと伝えられるこの小さな漁港の来歴と風土と動植物にふさわしい贈り物であるか否かは、はなはだ疑問である。

またこれは安藤が手がけた淡路島の淡路夢舞台と直接関係はないと思うが、この島では様々な花を植えて全島で島起しをはかっているそうだ。

しかしながら、淡路島伝来の植物を夜郎自大に外部から持ち込むことは、他の動植物の外来種侵入と同様、生態系の維持にとって好ましくないのではないだろうか。

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東京ミッドタウン見物

2007-04-26 09:47:34 | Weblog


勝手に東京建築観光・第9回

六本木の自衛隊跡地に三井不動産が開発した東京ミッドタウンを見物した。
 
ここは、江戸時代は長州藩毛利家の下屋敷、明治以降は陸軍歩兵第1連隊が置かれた場所である。

戦後米軍の接収を経て防衛庁が置かれたが、2000年5月に市ヶ谷へ移転したあとは自衛隊が使用していた。

当時は自衛隊といってもあまり殺伐とした雰囲気はなかった。低層平屋の建物があちこちに散在するなかを制服姿の隊員たちが談笑したり、のんびり敬礼などしている姿を見かけたものである。

ところで都民の迷惑を顧みず、天下の大東京を前後左右上下に開発する4つの巨大デベロッパーといえば東京都と三井、三菱、森グループだが、まずこの3番目の不動産屋が、かの六本木ヒルズを天空高くでっちあげた。

するてえと、名門?三井不動産も負けるものかと勇み立ち、東京どまん中まで駆けつけ、最高級ホテルザ・リッツ・カールトン東京が入居する高層タワーやら、東西2個のビジネス棟やら、サントリー美術館やら、流行の商業施設やらをてんこもりにした複合施設東京ミッドタウンなるものをでっちあげたのであるんである。

開店してからそうとう日にちが経つというのに、そこらはおばはんの団体やら視察ビジネスマンやら上流社会を華麗に生きるあほばかセレブリティの母娘などなど、大勢の善男善女たちがうろうろしていた。

しかし私はといえば、彼らと私には何の精神的物質的紐帯がないことだけが残念であった。

私が知るこの一帯は、浪費と虚飾に少し倦み疲れた六本木のすがれた風情がかつては垂れ込めていて、その点だけは悪くなかったのだが、きょうびはいかなる風情も人情も皆無の無味乾燥無機地帯と化していた。まるで白痴の土地とはあいなった。

そのかわりに、ここは汐留であるといってもよく、品川と称してもよく、なんなら香港でも桑港でもロスでもNYというても代入可能な、大量の鉄とコンクリとガラスの大群が勝手にそそりたって、我ら人民を睥睨しておったのである。

「富士フィルムの人よ、君たちはほんとにこんなオフィスで働きたいのか?どっちかいうと夕張のほうがまし環境だと思うけど」と私はつぶやいたが、インフメーションの案内嬢は聞こえなかった振りをした。

もしかして大ガラスの1羽も飛んでいまかいか、と私はいまにも雨の降りそうな曇り空を見上げたが、幻影のそれさえ近づいてはこない。

しかたなくこの東京中央町ビルジングをもういちど凝視すると、驚いたことには、それは既にして21世紀の廃墟そのものなのであった。
「創建されるや否や既にして廃墟なのに、それがお前の眼には見えぬのか? 汝臣民、何故にあっけらかんと空虚なアトリウムをさすらうのじゃ? このかわいい阿呆どもよ」
と、私はひとりごちた。

 ちなみに東京ミッドタウンの大半は、日本人好みの最大公約数メーカー日建設計が手がけ、サントリー美術館などの一部を隈研吾氏が担当したそうだ。

その隈氏は、相変わらず和風の木や紙にこだわっているというのだが、現地ではそれらは建築物総体のほんの一部を構成しているのみで、例えば青山の梅窓院やONE表参道と同様ほとんど存在感はない。

彼は「負ける建築」などとかっこいいことを言っているが、実際には「資本に負けた建築」、「世間に対するおためごかしの建築」ばかり作っているのではないだろうか?

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モネ展を見る

2007-04-25 13:44:40 | Weblog


降っても照っても 第8回

さて肝心の展覧会だが、私は印象派もモネも好きだが、このモネ展はあまり感心しなかった。

確かにあの睡蓮や英国の国会議事堂やビッグベンやウオータールー橋やルーアンの大聖堂などの名作は並んでいた。しかしなんだか世界各地から準主力作品の寄せ集めという希薄な印象はまぬかれない。

パリのオルセー美術館からやって来た「日傘の女性」(本展のポスターになっている)も、あそこにどっさり並べてある連作のうちの、比較的印象の薄い1点のみで、どうも隔靴掻痒の感がぬぐえない。

最近の東京はまたまたいやらしいバブルの時代に突入したとみえて、やたら美術館と演奏会場と展覧会とコンサートが増えてきた。

そうしてそのぶんどの展示も中身が薄くなってきているから、このモネ展もどうせそんなもんだろうと予想していたら、案の定そうだった。別に驚きもしなかったが、久しぶりの美術巡りなのでちと寂しくもあった。

さて世界から寄せ集めた全97点中、私のベスト2は、なぜかアサヒビール所蔵の「睡蓮」と「日本風太鼓橋」。

特に後者はお持ち帰りしたかった。でもサントリーならともかく、どうして営利第一のこんなビール会社がモネを持っているのだろう? 

もしかしてトップに隠れた目利きがいるのかな。謎だ。

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国立新美術館を見る

2007-04-24 09:15:51 | Weblog


勝手に東京建築観光・第8回
 
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。

まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。

鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。

内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。

が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。

しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。

展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。

モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。

きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!? 

それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。


しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。

思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。

驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)


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ある丹波の老人の話(19)

2007-04-23 20:04:31 | Weblog


私の家には、“北向きのえびす様”という小さいえびす大黒の像がありました。

小さい板が12枚あって、願い事を叶えてもらうたんびに板を一枚ずつ供えることになっとりました。

父母が信仰しておりましたから、私も商売をやるようになってからは毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁盛を祈り、それがうまくいったもんですから12枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、それを何度も何度も繰り返したもんでした。

差し押さえの封印を解いてもらう話し合いでも、ちいともいじけずにテキパキやってそれが全部予想以上に成功したのも、この福の神さんが私に度胸をつけてくださったお陰やと思って、お礼の板を重ね重ねしたもんどした。

あの大阪の座摩神社にしても、あれほど入ろうにも入れなかった問屋の店へ3度目には勇敢に飛び込んで無理な取引を快く承知してもろうたんも、けっして私の力だけではなく、座摩神社やお稲荷様があんとき私に乗り移っておったとしか思えなかったんでした。


もともと私は下駄屋なんかやる気はなかったんですが、あんがい調子よく行ったので、すっかりおもしろくなり、松山落ちなどはとっくの昔に断念して一生懸命下駄屋をやりました。

そして養蚕期になると店を妻に任せて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料はふたたび大幅に家計の上に物を言ってきました。

そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきました。

私が後年キリスト教に入り、聖書の

『それ有てる人はなほ興えられ、有てぬ人は有てるものをも取らるべし』(マルコ伝第四章二十四節)

を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて万感無量なるもんがあります。
(第三話 貧乏物語終わり)


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「ミニHAL」から遠くのがれて

2007-04-22 14:41:01 | Weblog


♪バガテル op16

新宿のタワーレコードの9階まで昇るエレベーターのなかには右上方の一角に監視カメラが取り付けてある。

そいつは映画『2001年宇宙の旅』の主人公であるコンピューターターHAL(ご存知の通りIBMのひとつ手前のアルファベット)のように不気味な顔で乗客を睨んでいる。

それはもちろんタワーだけではない。街頭でも商業施設でも集合住宅でもわが国の都市のいたるところにミニHALが配置され、潜在犯罪者としてのわれわれを押し黙って監視し続けているのである。

私がはじめてキューブリクのこの映画を観たり、P.K.ディックの作品を読んでおもしろがっていた頃は、こんなけったくその悪い監視機械が、こんな極東の孤島に登場しようとは、夢にも思わなかったものである。

われわれは、まずそのアブノーマルさに対してもっと驚く必要があるのではないだろうか? 

わが国でいくら凶悪な犯罪が増加し、その結果、私やあなたが新宿のタワーレコードの四角い空間でよしや暴行傷害に被害に遭い、虐殺されようとも、私は公共空間をあらかじめ犯罪準備空間とみなす施設の管理者が私の顔や身体や不用意に露出しているかもしれない局部を勝手に撮影したり、録画したり、彼ら管理者や当局の視線にさらされることに対して断固反対する。

それは肖像権の侵害であり、市民の自由な活動に対する規制であり、誰によっても合法化されえないスパイ活動そのものである。

もしもわれわれがこのような認識に立つことができたなら、われわれはタワーレコードや由比ガ浜駐車場のシンドラー社製のエレベーターに入るや否や、すかさず目出し帽をかぶったり、尊顔にイスラム風のヴェールを掛けたり、あっかんべーをしてそっぽを向くべきではないだろうか?


ところで、このように本邦のみならず全世界で猛威をふるっているミニHALに対して、朝日新聞のロンドン特派員がまったく素敵なお知らせをもたらしてくれた。

交差点や商店街、駅構内など英国中の街角に設置されているCCTV犯罪監視カメラは420万台以上にのぼり、それらは地区の管理センターで24時間モニターされているそうだが、最近登場した最新型では係員が映像を見ながら、

「あなたの行為は犯罪です。直ちにやめなさい」「ゴミを捨ててはいけません」「この付近は飲酒禁止です」

などと突然の音声で警告を流すのだそうだ。

英国北部のミドルズブラ市で今年初めからこいつを導入したところ「反社会的行為」が昨対70%減少し、世論調査でも88%の市民が設置に肯定的!だという。

この結果に気をよくしたリード内相は、今後首都ロンドンはじめ全英20地区で取り付けるのだと意気込んでいるそうだが、誇り高い大英帝国の臣民がそこまで唯々諾々と公権力の介入を許すとはじつに不可解。黄昏の、あるいは断末魔のロンドンにふさわしい“そうとう不気味な”(中原中也)話ではないだろうか?

遠からずわが国でも、かの治安大好き都知事などが、あの下品な顔でうれしそうに舌なめずりしながら、このエキサイティングなホラーサスペンスの世界に身を乗り出してくるのだろう。

乱世にありて災厄に遭いてはまさに遭うべく、死するときにはむざと死すべし。


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ロックする人、しない人

2007-04-21 16:06:01 | Weblog


降っても照っても 第7回 

2つの人種がある。ひとつはロックする人であり、もうひとつはロックしない人である。

これらの人々が小説を書くと、前者からは高橋源一郎のごときロック小説が生まれ、後者からは渡辺淳一や石原慎太郎の如き非ロック小説が生まれる。音楽もまたコレに準ず。


ところがこのロックする人のなかにあって、稀に町田康のやうにパンクする人がいる。

町田康の「真実真性日記」は、まあ、そのおう、いわゆるひとつのパンク小説である。

内面に煮えたぎるカオスはたえず外界にあふれようとし、作者は四分五裂する己をかろうじて抑制しようとするところに、これらギタギタの妄文が生まれる。

それはパンクな音響を湛えた乱反射文学である。ロックはローリングストーンズのように古典化したり老成化したりできるが、パンクにはそれが許されないのである。

さうして町田康は、いずれ平成の不如帰となって逗子の海岸に真紅の血を吐くだろう。


さういえば近頃世間では、パンキーなやくざどもがピストルやマシンガンやバーズカ砲で市長や市民をバンバン撃ち殺しているやうだが、いったい「にゃろめの警官」はなにをしているのだ。

亡霊と化した青島や植木といっしょに国会や都庁に乱入して、一刻もはやく山口組をはじめとする超右翼体育会系暴力団を徹底的に退治せよ。にゃろめ!


ロックする人、しない人 ときどきパンクを踊る人……
山口組に負けず、ロックせよ、パンクせよ、安倍選手!


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吉田秀和と中原中也

2007-04-20 11:13:07 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語56回

吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)

ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。

吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。

吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。

可哀相だた、中也のことよ。

しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。

大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。

呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。

音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。

その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。

それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。

当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。

そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。
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吉田秀和と小林秀雄

2007-04-19 09:18:48 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語55回


音楽評論家にして最後の文人作家、吉田秀和氏は、2003年に愛するバルバラ夫人を亡くされ失望落胆の日々を送られていたが、最近ようやく再起されたようである。

朝日新聞、「レコード芸術」、「すばる」などに健筆を振るわれているのはご同慶の至りである。

その吉田氏が「中原中也のこと」というエッセイで彼の思い出を語っている。

『中也がもっとも好んだのは百人一首にある、♪ひさかたのひかりのどけきはるのひに しづこころなくはなのちるらん の1首だった。これを中原はチャイコフスキーのピアノ組曲『四季』の中の6月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。彼は枕詞の「ひさかたの」はレチタティーヴォでやって「光のどけき春の日に」から歌にするのだったが、そこはまたあのト短調の旋律に申し分なくぴったり合うのだった。私は彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、もしこういうことが許されるのだったら、彼にもう一度この歌を歌ってもらいたい。』

中也にフランス語を教えたのが小林秀雄で、吉田氏にフランス語を教えたのが中也だから、小林は吉田氏の大先生ということになるが、小林は晩年、現在の吉田邸の向かいに住んでいた。ちょうどその頃、私は由比ガ浜に向かって背筋をピンと伸ばして歩いていく小柄な男に下馬四つ角でぱったり出くわしたことがあるが、それが私が小林を見た最後の姿だった。

小林秀雄はグレン・グールドが死んだ翌83年に死んだ。小林は英国のピアニスト、ソロモンの弾くヴェートーヴェンが好きだった。

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吉田秀和とバルバラ

2007-04-18 17:13:37 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語54回

 私は評論家吉田秀和夫妻が手に手をとって、中原中也が死んだ清川病院の傍をゆるゆると歩いている姿を見かけたものだ。

平成15年10月、吉田秀和の妻、バルバラは半年間に及ぶ入院生活ののち、骨盤内腫瘍悪化のため76歳8ヶ月の生涯を鎌倉雪ノ下で閉じた。

ベルリン生まれのバルバラは、自分の故郷は変わってしまったので、死んだら吉田の先祖の眠る墓に埋めて欲しい、といって、和歌山県那智勝浦の町外れにある吉田家先祖代々の墓に葬られたという。

バルバラは、死の直前まで永井荷風の「断腸亭日乗」のドイツ語訳に心血を注ぎ、昭和12年の1月分までをようやく完成し、痛みをこらえながらベッドで腹ばいになって校正し、訳者の序文、あとがきを書き終え、装丁も自分の好みのものを指定してから亡くなった。

バルバラは「源氏物語」をはじめ平安期以降の日本女性の文学の素晴らしさに気付き、宇野千代、円地文子ら現代作家の短編集を欧州に紹介し、田山花袋、谷崎純一郎、川端康成などに関心を持ち、永井荷風の「墨東奇→(活字なしMSばかやろ)譚」を全訳し、漢学の素養を生かして「断腸亭日乗」の全訳に取り組んだのだった。

バルバラを失った吉田は、翌平成16年秋、「二人でいたときが一番幸せだった。オルフェオとエウリディーチエの神話のように黄泉の国に行って妻を連れ戻したい、とほんとうに思う」と語ったという。


(以上、07年2月2日号「鎌倉朝日」掲載の清田昌弘「かまくら今昔抄」より抜粋。写真はイタリア北部のマントバ近郊で発掘されたおよそ6千年前の新石器時代の抱き合う男女の遺骨)


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大仏次郎茶亭にて

2007-04-17 09:05:39 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語53回

年に2回の公開日ということなので、大仏次郎茶亭に行ってみた。

世間では「鞍馬天狗」で知られるこの作家の本宅はこの茶亭の斜め前にあったが、いまは別人が当時とは別の建物に住んでいる。

広い庭の真ん中に今では少なくなった茅葺の日本家屋の平屋がちんまりと控えている。

庭にはきれいどころが抹茶を接待し、縁側にはこの作家の代表作である「天皇の世紀」の冒頭ページと作家の死によって未完の絶筆となった最終ページが並べてあった。

それは長岡藩家老の河井継之助が最期を迎えるシーンである。

大仏は長期にわたって朝日新聞に連載したこの作品を、どうしても完成させたかった。

戊辰戦争が終結し、御一新が成就し、明治天皇が即位するところまでを、なにがなんでも書きたかったのである。

横浜の大仏次郎記念館に行くと、築地のがんセンターの病室に寝たまま執筆できるように木でつくった特製の執筆板を見ることができるが、それはまさに鬼気迫る遺品である。

彼の明晰な頭脳の裡ですでに構想は固まり、おびただしい資料は書庫にうずたかく積まれ、モンブランの太字が原稿用紙に走り始めるのを待ちかねていた。

しかし作家のからだを蝕んだがん細胞が、その続きの執筆をはばんだ。

花曇の空の下で、その悔しさ、無念さ、恨めしさがブルーブラックのインキに深くにじんでいた。

茶亭の別室の縁側には、「われは小さき杯しか持たねど、それにてわが真心を汲み出すなり」という小デュマの言葉が、作家の自筆の色紙に毛筆で記されていた。

アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は、「三銃士」「モンテクリスト伯」などを書いた父アレクサンドル・デュマの私生児で、ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作を書いたことで知られる。

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前略 神奈川県知事 松沢成文殿

2007-04-16 08:25:53 | Weblog


長洲知事時代の神奈川県は、飛鳥田市制の横浜市と並んで全国の障碍福祉対策のトップを走っていました。

ところが近年貴殿が知事になってからは、私たち障碍者関係者にとってろくなことはほとんどありません。

その原因は靖国神社が大好きだった前首相が成立させた、悪名高い「障害者自立法」にあります。

この法律は名前だけは立派ですが、障碍者に対しては過酷なまでの自己責任と社会復帰を、福祉施設に対しては過酷なまでの経営効率第1主義、成果主義を強引苛酷に押し付けようとするものです。

そのため、ほんらい労働という概念すら理解できず、実作業にもまったくなじまない知的!?障碍者である私の息子なども、いやおうなく効率労働に駆り立てられざるを得ず、慈愛に満ちた心優しき施設スタッフたちも、過酷なノルマと管理主義の哀れな奴隷となりつつあるのです。

いままでの社会福祉施設は、心身の最弱者を優しく保護しようというものでした。

しかしこれからは、純情可憐なナイチンゲールにアメリカ直伝の経営学を叩き込み、「生き残り&金儲けのための福祉工場」に大変身させよう。社会的弱者にも、福祉施設にも、一般世間と同様の競争原理の荒波にさらし、勝ち組と負け組みの格差をつけ、敗北者はこの世から退場していただこう、というのが小泉前首相以降の現政権担当者のシナリオなのです。

このような障碍者と障碍施設殺しの悪法の施行にあわせ、いま神奈川県は、施設に対する運営費補助を全廃する暴挙をくわだて、平成19年度予算では昨年比4分の1、金額にして3億6700万円のカットを実施しようとしています。

その結果、私の家族などが通っている福祉施設では、

1)重度の障碍者の受け入れがとても難しくなり、

2)同性介護など利用者の人権を守るための支援ができにくくなり、

3)さまざまな地域生活支援事業が展開できなくなり、

4)職員の雇用にさらに支障をきたし、労働環境がさらにさらに悪化しようとしています。

貴殿を支持する民主党などでは「格差社会はけしからん」と騒いでいますが、私に言わせれば、それは健常者のわがままで、生まれながらに“あらかじめ格差をつけられている”のは障碍者(児)たちです。

ハンディキャップのある人たちの生活を守るために、どうか民間社会福祉施設運営費補助金を存続してください。 

また、障碍者(児)たちの生活を支えるために、同補助金の水準を現状維持し、これ以上ビタ一文削減しないでください。

以上、緊急に要請します
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