あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2017年如月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2017-02-28 11:12:40 | Weblog


ある晴れた日に 第435回

 
なにゆえに文楽と能の入場料はこんなに高いおいらはもすこしお安いのが好き

さてここで山下清君に問題です右大臣と左大臣はどちらが偉いでしょう

半蔵門に「光解体」てふ会社あり。なにゆえにはたまたいかにして光を解体するや

なんとかしていい詩を作ろうと思うけど詩ができちゃう人にはかなわないなあ

バレリーナは白鳥の時は白黒鳥の時は黒のパンティに穿きかえる

毎日1個庭の夏ミカンを取って来て食後にむしゃむしゃ食べている

健君に残しておいた夏蜜柑を台湾栗鼠がむしゃむしゃ喰うたり

愚かなる都民が選びし愚かな知事が五輪も豊洲も引き起こしたんだよ

人間物欲がなくなったら終りだと嵐山光三郎が言うのでアマゾンで見境なく爆買い

ヴォリュームを上げると再生が停まるCDプレイヤーをヤフオクで摑まされたる腹立たしさかな

独逸移民の父親と蘇格蘭産の母親から生まれた大統領妻またスロベニアからの移民なり

自らも移民2世の大統領が移民を憎み移民を締めだす

人身が事故で死んだというけれどその人身とは我が身にあらず

「都民ファースト」は分かったけれどどういう都民がファーストなのか?

その昔バッハの無伴奏バイリン・パルティータ第3番を「トラベルセットが当たる」のCMに使った資生堂

朝日新聞1面最下段左隅左端に童話の広告を出すブロンズ新社は視覚の心理に従う

残高なんか全然ないのにアマゾンでなんでもかんでもばかす買っちまう

NHKは負けた力士が見られるタイミングで負けたシーンをビデオで流す

アンケートには「どちらともいえぬ」と答えつつどちらかを選んで生きていく

あの顔ではどんな帽子だって似あわないが誰も言うてやるひとがいないのだろう

何となく面識ができた青鷺を治兵衛と名づけてひそかに親しむ

このままでは俺も世界も行き止まり切りたる爪を火中に投ず

グーグルの航空写真で俯瞰する緑の屋根の小さな我が家

一枝の山茱萸飾り春立ちぬ

 あれはね雀じゃなくてアオジですよ近所の小鳥おじさんが教えてくれた 蝶人

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鈴木志郎康著「新選鈴木志郎康詩集」を読みて歌える

2017-02-27 10:45:29 | Weblog


1980年に思潮社から出版された12冊目の詩集です。

ここには「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」「完全無欠新聞とうふ屋版」「やわらかい闇の夢」「見えない隣人」「家族の日溜り」「日々涙滴」から抜粋された92の詩篇と2つの詩論、富岡多恵子氏の鋭い詩人論、清水哲男氏の誠実な解説がぎっしりと充満していて、最近少しずつ現代詩を勉強しはじめた私にとっては、大いに刺激になりました。

「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」の「グングングン! 純粋処女魂、グングンちゃん!」や「完全無欠新聞とうふ屋版」の「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」などは、それ以前の「プアプア詩」の前衛的パンクてんこもりの続編として、読めば読むほどに血沸き肉踊るような破壊的な喜びを覚えました。

でも、もう先輩の皆さんにとっては周知の事実なのでしょうが、
そんな詩人の作風は、3番目の「やわらかい闇の夢」で、突然その世界がうって変わります。

まあ、豹変ですね。

あのシュトルムウントドランクの日々は限りなく永遠に続いて、“戦後日本を代表する世界遺産”になるかと思われたのに、さらば真夏の太陽の黄金の輝きよ。それは余りにも短かった。

「ああ、なんと勿体ないことをしてしまったんだ!」

と、思わず私は叫んだほどでした。

そんな門外漢の私の歯軋りなどおいてけぼりにして、詩人は、さながら東洋のボードレールのように、

「もう秋だ。お嬢さん、おうちに帰りな。往来の言葉蹴り遊びはもう終わったぜ」

とでも言いたげに、ひそやかに別の歌を呟きはじめるのです。

深夜鏡の前で自分の裸体を見つめながら“裸の言葉、裸の心”という奴を探し求めるように、とうとつと独語しながら、いわゆるひとつの内省的な思索を繰り広げるようになるのです。

あたかもベートーヴェンの「第9」の合唱が入るところで、すっくと立ち上がったバリトンが、能天気なはやとちりの管弦楽をさえぎって、

「おお友よ、その調べではない。もっと別の歌をうたおうではないか」

と叫ぶように。

けれどもそれは、耳に心地よい歌ではありません。「狂気がバタバタしている」物音です。

新しい自分、新しい詩を求める詩人が、自分の心臓に向かって蛇入する血まみれの即物音。
まるで自分の胸に聴診器を当てながら、病根を探ろうとする医者のモノローグのような肺腑の言が、ここにはドクドク刻まれているようです。

さて、自ら求めて人為的な“冬の時代”に突入した詩人が、その後どのような紆余曲折を辿りつつ「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」の現在にまで至ったのか?

不勉強な私はてんで知らないのですが、いろいろ有為転変があったにもかかわらず、詩人の心底の底の底では、あのプアプアちゃんの純粋桃色小陰唇の幻影が、いまなおプアプアと浮遊しているのではなかろうかと睨んでいるのですが。


 プアプアちゃんグングンちゃんとキイ子ちゃん3人揃って爆裂するや 蝶人


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神奈川県立美術館葉山館で「上田薫展」「コレクション3展」&「1950年代の日本美術―戦後の出発点」展をみて

2017-02-26 10:02:09 | Weblog


蝶人物見遊山記第231回


上田薫は鎌倉在住で、今年89歳の洋画家である。当節流行のいわゆるスーパーリアリズム作家の草分けのような存在だが、本展では渓流を真正面から描いた「流れA」「流れB」の2つの大作がよかった。

「コレクション3展」では、ゴヤを思わせる柄澤齊の版画、初期草間彌生の静謐なエッチングもよかったが、丹阿弥丹波子のメゾティントが白眉であった。

いっぽうの「1950年代の日本美術」では、第1章「新しい絵画精神のために」、第2章「鎌倉近代美術館の誕生」、第3章「国際化と1950年代パリの日本人画家」、第4章「新人の登場」、第5章「社会へのまなざし」という全5部構成でその全貌を追っている。

美術を中軸に多種多様な造型、映像作品をこれだけまとめて突き付けられると、我われの藝術的運動の出発点は確かにここにあったのだ、と再確認せざるを得ない。

不条理な犯罪事件を絵画で追及した山下菊二の「あけぼの村物語」、関西を拠点とした「具体美術協会」の記録映像なども面白かったが、私の耳目を引きつけたのは第4部の実験工房の諸作品で、なかんずく松本俊夫監督、新理研映画製作、武満徹音楽による日本自転車協会のPR映画「銀輪」が素晴らしかった。

私はリーマン時代に松本俊夫演出のテレビCMのコピーを書いたことがあったので、そのせいかも知れないが、とりわけ心に沁みた。

平日とはいえ会場はほとんど無人で、要所要所に無為をかこって坐している黒衣の女性たちの姿が目立ったが、彼らの多くは旧鎌倉館からの異動組であろう。

鎌倉館ではすでに門の表示も剥ぎ取られ、平家池に浮かんでいた別館が学芸員室と共に解体され、空虚で無惨な残骸のような姿を春風の下に晒している。

中庭に置かれていたイサム・ノグチのこけし像は、ここ葉山館のエントランスに引越していたが、なんとなく居心地が悪そうに感じたのは私だけだろうか。

美術などにはまるで無関心な元フジテレビアナの神奈川県知事と若くて無能な鎌倉市長が鶴岡八幡宮に対して協同してまともな対応をすれば、こんな悲惨な結果を見ることもなかったろうに、と嘆きつつ、無味乾燥なコンクリートの館を後にしたことであった。

なお同展は来る3月26日まで御用邸の近くで寂しく開催中。


  人身が事故で死んだというけれどその人身とは我が身にあらず 蝶人
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初春の鎌倉で2つの展覧会をみる

2017-02-25 11:11:10 | Weblog


蝶人物見遊山記第230回&鎌倉ちょっと不思議な物語第376回


春一番が吹いてようやく本格的な春の訪れです。きのう朝夷奈峠の麓に行きましたらようやくアカガエルの産卵を見ることができました。例年よりも少なく遅いのですが。

さて展覧会ですが、去る2月19日まで小町通りの奥まった一隅、鏑木清方記念美術館で開かれていたのがの「物語の中の女性たち」展でした。清方は現在は歌舞伎座、昔は芝居小屋があった木挽町で少年時代を過ごしたので数多くの役者絵、芝居絵を残していますが、私は恐らくは観劇中に描かれたと思われる彼の精密なデッサンに心惹かれました。

いつ見ても清方の色彩感覚は抜群で、とくに私の大好きな薄緑色の繊細な美しさは世界中のいかなる絵描きも比肩出来ないめでたさです。web詩誌「浜風文庫」で「ビリジアンを探して」という題名の連作写真を発表されているが、まさしく真正のビリジアン・カラーがここにあると思った。

なお本展はすでに終了し、現在は「つつましくそして艶やかに―清方がゑがく女性展」を開催中です。

もうひとつの展覧会は、鎌倉国宝館で3月12日まで開催されている特別展「ひな人形―おとめのいのり展」ですが、今年も享保雛の名品に拝謁することが出来ました。私はこの瓜やなすびのように上下に伸びたちょっとひょうげた面長顔が大好きなのです。

お雛様の並べ方は現在は向かって左に男雛、右に女雛を飾っているようですが、平安時代から大正時代まではその逆でした。

昔からわが国では左大臣が右大臣より偉かったように、「左」が「右」より優位の「立ち位置」だったので、この会場のお雛様のように「向かって左に女雛、右側に男雛」というスタイルで並べていたそうですが、大正天皇もしくは昭和3年の昭和天皇の成婚式の際に、西欧先進国の先例にならって左右を入れ替えていらい、現在の形になったのだそうです。

関西の一部では、この展覧会の会場のように、まだ昔ながらのオーソドックスな並べ方を守っているところもあるようですが、多くの日本人が、男尊女卑の陋古な慣習はまずい、と考えたのでしょうね。

 さてここで山下清君に問題です右大臣と左大臣はどちらが偉いでしょう 蝶人


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ビバリーヒルズ・コップ3連発

2017-02-24 11:58:09 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1135、1136、1137

マーティン・ブレスト監督の「ビバリーヒルズ・コップ」をみて 

エディ・マーフィー主演のシリーズ第1作。はじめは詰らないがデトロイトからロスへ行ってから面白くなる。マーフィーもさることながらビバリーヒルズ署の2人ジャジ・ラインホルド刑事とジョン・アシュトン巡査部長の凸凹コンビが抜群に面白い。刑事が部長に「まるで僕たち映画の明日に向かって撃てみたいですね」と嬉しそうにいうとことなど最高。

トニー・スコット監督の「ビバリーヒルズ・コップ2」をみて

今回もラインホルド刑事とアシュトン巡査部長の凸凹コンビが大活躍するが、敵陣にはかつてこわもてした北欧の超クール美女ビリジット・ニールセンが必殺のマシンガンをぶっ放す。第1作に比べるとややパワーダウンしたがそれでもマーフィーの超能天気振りが楽しめるアクション映画である。

ジョン・ランディス監督の「ビバリーヒルズ・コップ3」をみて

シリーズ第3作ではすでにアシュトン巡査部長は引退しており、あの初々しかったラインホルド刑事が出世して偉くなっているので違和感がある。
舞台はデイズニーワールドを思わせるテーマパークだが、面白いはずのその設定が意外と詰らなかった。これでは第4作は作れないだろう。
エディ・マーフィー、最近どうしているのかしら。


聞かれても「どちらともいえぬ」と答えつつどちらともいえぬ人生をいきていく 蝶人



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記家族の肖像その17~これでも詩かよ第206番

2017-02-23 10:36:52 | Weblog


ある晴れた日に 第434回

アキちゃん、目を閉じたの。
閉じたよ。
あきちゃん、亡くなったの?
亡くなったのよ。

謝れ、謝れ、謝れ。
って誰がいうの。
ミナクチ君だお。

辻は十にしんにょうだよ。
しんにゅうじゃないの?
しんにょうだお。

まったくう、まったくう、もう二度とするなよ。

けっして許されない!けっして許されない!
誰がそう言ったの?
モンゴルマンだお。

シンヤくん、旦那さんになったの?
そうよ、シンヤ君結婚したからね。
だんなさん、だんなさん。

比嘉さんまた盛岡戻ってくるでしょ?
うん。
比嘉さん、また盛岡でおかみ修業するでしょ?
うん、するよ。

お父さん、比嘉さん、ぷんぷん怒ってたよ。
どうして?
一生懸命働いているからだよ。

お母さん、ぼく盛岡好きだよ。
そうなの。
盛岡、イーハトーブだお。

お母さん、しりとりしよ。盛岡。
か、鎌倉。
ーーーーー(消える)

お母さん、未来ってなに?
これから起こることよ。耕君の未来はどうですか?
分かりませんお。分かりませんお。

お母さん、ぼく弘法院すきですお。
そうなんだ。

お父さん、中井貴一こわくない?
こわくないよ。

お父さん横浜線、うすい緑色だったお。
うん、そうだったね。

ぼく大和からちゃんと各駅停車に乗りました。
そう。良かったね。

もう二度とするなよ。まったくう。
って、誰が言うの?
大杉蓮だよ。

ご迷惑をおかけて申し訳ありません。
誰がそう言ったの?
わかりませんお。

「同じのダメ!」っていわれちゃった。
誰に。
クワヤマ君に

「いちいち聴かないの」って言われちゃった。
誰に?
イノウエ君に。

「耕君早いよ」っていわれちゃった
誰に?
クワヤマ君に。

お母さん、シャッターチャンスってなに?
撮るのにちょうどいいときよ。

湘南台駅に2000年から急行とまるようになったよ。
そうなんだ。

お父さん、「大丈夫」はオダカズマサだお。
なにそれ?
「どんど晴れ」の主題歌だお。
そうか、小田和正なんだ。
♪ダイジョウブ あの笑顔を見せて(と唄う)

お母さん、ぼく、シダックスのカラオケで鎌倉の歌をうたいましたよ。
そう、どんな歌?
♪七里ヶ浜の磯伝いィィ~

ぼく、キシモト先生。「今日は痛みどめしとくから」
キシモト先生、ありがとう。

お父さん、夏は夏美の夏でしょ?
そうだよ。

お父さん、戦争、英語でなんというの?
ウオーだよ。
センソウ、センソウ。

お母さん、戦争ってなに?
人と人、国と国で殺し合うことよ。
戦争、いやですねえ。

お父さん、「ブタブタ君のお買いもの」、好きだお。
そうなんだ。

陰は山陰線のインでしょ?
そうだよ。
ぼく山陰線好きだお。

ぼく、ドクダミ好きだ。
お母さんも好きですよ。
好きだお、ドクダミ、ドクダミ。

京浜東北線、神田に快速とまるようになったよ
そうなんだ。
いつから?
平成27年からだお。

車掌さん、おじさんでしょ?
どこの車掌さん?
電車の。

お父さん、おおみそかの英語は?
The last day of the yearかな。
ぼく、おおみそか好きだお。

お母さん、人生ってなに?
人が生きていくことよ。耕君も41年生きてきましたね。
もう、そんなこと言わないでください。


 健君に残しておいた夏蜜柑を台湾栗鼠がむしゃむしゃ喰うたり 蝶人
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新潮日本古典集成・水原一校注「平家物語中」を読んで

2017-02-22 13:16:34 | Weblog


照る日曇る日第946回

せんだって河出版の古川訳、祥伝社版の林訳でほんやくを読んだばかりだが、当たり前のことながらやっぱり原文のほうが本物感があるなあ。というのが上中の2巻を読んでの感想です。

本書では巻第5、治承4年6月の第41句「都遷し」から寿永2年巻第8・第50句の「奈良炎上」までを扱っています。

 平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入りかはらず。すでにこの京は主なき里とぞなりにける。開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。

 と原文に驚きと共に記されている源平の権力争奪、時代激変のあらましが、縷々活写されていて、これは間もなく起こる世界大乱の予行演習ではなかろうかと、改めて現代と言う末世をさすらうわれらの耳目を引きつけます。

 これははじめて知ったのですが、校注の水原氏の解説に拠れば、「平家物語」には私たちがなじんでいる「略本」のほかに、より古く、より多彩豊富な内容を含んだ「延慶本」などの「広本」が先行して世に現われたそうです。

 それならぜひその原義的・古体的な「延慶本」を読める形で公刊してもらいたいと思うのですが、文芸作品としては「略本」のような詩的緊張感に欠けるので、まだ専門家の目にしか触れていないらしいのは残念なことです。

 さりながら私の大好きな木曾の野蛮人、義仲が藤原氏の名門、猫間中納言光隆卿を「猫殿、猫殿」とバカにしたり、食べたくもない昼食を無理矢理押し付けたり(巻きダイハチ木曾猫間の対面)、かと思えば、慣れない牛車に乗ってズッコケたりするところなどは当節の漫画より大いに笑えるので、どうぞお手にとってご覧ください。

半蔵門に「光解体」てふ会社あり。なにゆえにはたまたいかにして光を解体するや 蝶人


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長尾高弘著「縁起でもない」を読んで

2017-02-21 13:18:15 | Weblog


照る日曇る日第945回


「頭の名前」「長い夢」「イギリス観光旅行」に続くロングテール氏の4番目の詩集は、1998年の8月15日に刊行されているが、この日付にはきっと多少の意味付けがあったに違いない。

奥付けによれば氏は1960年生まれだから、本書は氏が38歳の時に世に出た詩集ということになるが、有り余る教養と文才を持ちながらあまり余計なレトリックを用いずに、人世と物事の枢要を淡々と述べ来たりまた淡々と去って、雲白く遊子悲しむといった風情を醸し出すユニークな詩法はすでに自家薬籠中のものになっていることに一驚三嘆せざるをえない。

この詩集では作者のいにしえの個人的な思い出なども渓流の上に見え隠れする小石のように配置されていて、「コーヒーのいれ方」を伝授された旧友K氏の「その後」や「さらに」などの青春の仄暗い翳りに心惹かれるのを覚えるが、眠れない夜に寝床を抜け出して深夜の町や公園を過ぎ、夜明けの電車に乗って見知らぬ駅まで乗って行く「夜の散歩」の自己放棄にも妙にそそられる。

ナオキ君が登場する「夜の海から」「リンゴ」「葛西」「お化け」「縁起でもない」などが登場するとたちまち詩句が生気を帯びるのは、やはり血は水よりも濃い、からなのだろうか。

末尾ながら、本書における「蚊」の観察力のは、私が幾たびも指摘した画家、熊谷守一流の執念と精密さを示しているようだ。


   バレリーナは白鳥の時は白黒鳥の時は黒のパンティに穿きかえる 蝶人

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長尾高弘著「イギリス観光旅行」を読んで

2017-02-20 11:04:58 | Weblog


照る日曇る日第944回



これはリーマン時代の著者が、夏休みに家族3人でロンドンなどを訪れたときのあれやこれやを素材にして出来あがっている書物ですが、私はこれを読んでいて突然ジャック・タチの映画「僕の伯父さん」の主題歌と、彼の映画「プレイタイム」に出てくる脳天気な観光客を思い出してしまいました。

観光客はどうでもいいのですが、作者の分身であるこの作品の主人公では、なんとなくジャック・タチに似ているような気がします。

「イギリス観光旅行」というタイトルに嘘偽りはないのですが、著者が1995年8月の旅日記を書こうとしたところ、それが突然叙事詩の如きものになり、書かれてみると抒情詩のような味がするという不思議なアマルガム詩文がここに生まれています。

冒頭の「飛行機」では、上空から見た地球の様子が的確に観察されていますが、それはブリテン島へ行くまでの12時間の飛行記録であると同時に、錯綜する世界史の現在を見つめながら、しっかりと生きている知的で成熟した現代人の実存を感じさせる平叙文なのです。

終りから3番目の「ドアマン氏」という詩で、著者たちは滞在したホテルに別れを告げつのですが、息子のナオキ君を可愛がってくれた若いポーターのお兄さん、そしてチップの1ポンドを渡した親切なドアマン氏の風貌のみならず、彼らの人柄までが、読む私の両の目に沁み込んでくるのはどうしてでしょう。

詩ごころのある人が書くと、それが観光であろうが旅行であろうが、人世のなんであろうが見事な詩になってしまう、ということなのでしょうか。

     自らも移民2世の大統領が移民を憎み移民を締めだす 蝶人


http://www.dailymotion.com/video/x3qgjke
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長尾高弘著「長い夢」を読んで

2017-02-19 10:18:52 | Weblog


照る日曇る日第943回



親愛なる全国の学友諸君。今日から3日間、ミスタ・ロングテールこと長尾高弘さんの3冊の詩集の感想文をお届けしたいと存じます。

冒頭の「蚯蚓」という詩を読んで、私は思わずアッと声が出てしまいましたよ。

この詩で作者は「蚯蚓のように地面を這って歩く練習をしていた」というのですが、こないだ作者の「頭の名前」という第一詩集を読んで、「この人は画家の熊谷守一さんが地面を這うアリを気長に観察して造化の秘密を解明したように、地上すれすれの低姿勢で物事を見つめている」と評したことが、はしなくも裏付けられたような気になったからなんです。

でもその詩は、

 蚯蚓のように地面を這って歩く練習をしていたら
 丁度向うから女が這ってきたので交接した。
 女は子供を産んだ。
 子供はごむ製だった

 と、いうようにリズミカルに続き、枯淡の境地に安住した画檀の仙人とはかなり違うポップな地点に鮮やかに着地するのですが。

1995年6月に出版されたこの詩集には、著者が18歳から23歳の時点で書かれた、いわば若書きの作品が採録されていますが、どれをとっても著者の早熟の才を雄弁に物語っていると思ったことでした。

   毎日1個庭の夏ミカンを取って来て食後にむしゃむしゃ食べている 蝶人

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辻和人著「真空行動」を読んで

2017-02-18 10:49:11 | Weblog

照る日曇る日第942回


「真空行動」って何だろう? 合気道の必殺技かいな、と首をひねっていたのですが、その謎はこの部厚い詩集の後ろの方、177ページにいたってようやく明らかになりました。猫なんですね。

引用します。

  昼間は思い切り遊べないからエレルギーが有り余っているんだろう
  そのエネルギーを発散するために夜中に猫が「大運動会」を催すことを
 「真空行動」と呼びます

しかしこの辻さんという人は、なんと優しい心の持ち主なんだろう。

 「この詩集を猫のファミ、レド、ソラ、シシ、クロに捧げる」

というあとがきを読んで、思わず一椈の涙がこぼれてしまいました。

猫を愛するすべての人、それから猫嫌いのすべての人にも、ぜひ読んで頂きたい素敵な詩集です。


   グーグルの航空写真で俯瞰する緑の屋根の小さな我が家 蝶人


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J・Jエイブラムス監督の「SUPER8/スーパーエイト」をみて

2017-02-17 16:56:39 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1134


謎の大爆発事件が起こって軍隊が出てきて、それがいったいなんだか分からないうちに突如スピルバーグ映画の定番の宇宙人が出てきて、それが地球を破壊するのかと思っていたら、主人公とボス交してなぜか宇宙に帰っていくというてんで訳のわからない映画である。

ゆいいつ面白いのは、ラストタイトルの合間に見せてくれる8ミリで撮ったゾンビ映画というお粗末ずら。



残高なんか全然ないのにアマゾンでなんでもかんでもばかす買っちまう  蝶人
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篠原勝之著「骨風」を読んで

2017-02-16 17:02:19 | Weblog


照る日曇る日第941回

鉄を加工するアーテイストと思っていたので、小説を書く人だとは知らなかった。

小説といってもほぼ私小説で、ここに収められた6つの短編を読んでいくと、1942年に北海道の札幌で生まれ室蘭で不幸な少年時代を過ごし、東京へ家出して苦労に苦労を重ねた著者の半生が、手に取るように分かる、いや分かったような気になりまする。

まさか室蘭だから鉄に魅入られた、のでもなかろうが、高熱で鉄を溶かし、あれこれ加工する営みには、藝術というより人間の有史以前からの本源的な創造の原点が、めらめらと燃えたぎっているのかも知れぬ。

苦節うん拾年、ようやくゲージツ家として認められたクマさんだったが、ミラノやNYくんだりまで巨大な鉄塊作品をいったん分解し、船で現地まで運び、組み立て、ようやっと一大個展を開催しても、やっぱしただの1点も売れず、その大鉄塊を再び日本まで廻航し、ど田舎のファクトリーまで運送する徒労は、身内にそおゆう人間を持つ身には、これまた身に沁みてよーく分かります。

でも「風の玉子」のなかで、著者が晩年の深沢七郎とラブミー農場で大音量で聞いたというエルビス・プレスリーの「監獄ロック」を、おらっちも聞いてみたかったずら。


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や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!~長田典子詩集「清潔な獣」を読んで

2017-02-15 16:58:31 | Weblog


照る日曇る日第940回&これでも詩かよ第205番


これは著者が2010年に出したおそらく現時点では最新の詩集で、イントロ的な「蛇行」以下、全部で10篇のかなり長めの作品が収められています。

そして詩の進行具合は、「初めは処女のごとく、終りは脱兎の如し」、あるいは「一点突破全面展開」という疾風怒濤の展開となり、全編を通じて作者が自作自演する、なにか気宇壮大な物語、詩小説が眼前で物語られているような、横隔膜がうんと広がったような、なんだか愉快な気持ちになるのです。

私はこの一カ月を除いて、詩集なんかほとんど読んだことがなかったから、よく分からないけど、ふつう詩集では、「わたし」という主体が、世界の中心にデンとましましていて、その「わたし」の行動や思いの数々が、縷々るるると述べられていくわけです。

でもこの詩集では、「わたし」が作者本人を思わせる妙齢の女子であったり、うら若い乙女であったり、清潔な獣であったり、老いたる要介護の母親であったり、イケメンの男子であったり、まるで怪人20面相のように自由自在、神出鬼没に変容するのです。

「自分ファースト」ではないけれど、自分の内部に、他者が蛇のように自由に出たり入ったりする詩のメタモルフォセス自律運動に、詩の奔放さ、弾力とリベラルさというものを、つよく感じました。

シェークスピアに、All the world’s a stage,and all the men and women merely players.という有名な言葉があるそうですが、作者にとってはAll the word’s a stage,and all the men and women merely players.なのではないでしょうか。

この詩集全体が、まさにその格好の舞台になっていて、どことなく物哀しいヒロインは、自分と他人と全世界をば、なんとか光彩陸離たるものに塗り替えてやろうと、一世一代の独りカタリ芝居を見せてくれるようなおもむき。

私がいたく気に入ったのは「いったいii 」というタイトルの、マルキュウ(東急109)の洋服が大好きな貧乳ギャルの場外乱闘です。

そのめくるめくノンストップしゃべくり捲り大騒動&はちゃめちゃ行状記、この言葉と肉体の超高速ラップに、いったい誰が追従できるというのでしょうか。

私は思わず、
「や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!」
と、大向こうから声をかけたくなりました。

そしてその後から押し寄せる「カゲロウ」、「世界の果てでは雨が降っている」、「湖」における、大蛇がうねるような勁い構想力と、その細部を織りなす挿話の繊細さに感嘆しない読者はいないでしょう。


  何となく面識ができた青鷺を治兵衛と名づけてひそかに親しむ 蝶人
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中公版「谷崎潤一郎全集第2巻」を読んで

2017-02-14 11:37:54 | Weblog


照る日曇る日第939回



大正2年から3年にかけて発表された3冊の単行本「恋を知る頃」「甍」「麒麟」その他を収めています。

「恋を知る頃」は悪魔主義、「麒麟」の「捨てられる迄」「饒太郎」は谷崎お馴染みの被虐小説で、谷崎を思わせる主人公が、いつのまにか女言葉になって「どうぞあたしを非道い目に合わせて下さい。出来るだけ泣かせていぢめて下さい。あなたの手なら、打たれても、縛られても、殺されても構いません」などと女に訴えるのですが、こういう倒錯的な文言を原稿用紙に刻みながら、かれのチンポコは激しく勃起していたことでせう。

小説の最後で、饒太郎は、自分が惚れこんだ悪女のために全財産を失い、社会的な立場も奪い去られて「生ける屍」になってしまうのですが、それすらも快楽の世界だったのかもしれません。

後年の成熟した文豪の境地は、地べたの血を舐めるようなこうした地獄小説を下地にして辛うじて誕生したともいえそうな若書きの数々です。




その昔バッハの無伴奏バイオリン・パルティータ第3番を「トラベルセットが当たる」のCMに使った資生堂 蝶人



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