あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2012年睦月 蝶人狂歌三昧

2012-01-31 09:07:07 | Weblog



ある晴れた日に 第103回


正月や生死の際のひとやすみ

かのひとの縁の切れ目の年賀状

資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す

二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ

野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり

鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり

小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり

倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳

この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク

ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか

不満あり無力なりされど英雄気取りのアンポンタンにわが命運をゆだねず

不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 

恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん

東大寺より西大寺が好きな人

ムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって

アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ

今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールあり

相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは

全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃廃棄すればいかがでせう

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く

病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す

「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻

リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻

なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法のソ連に奪われしあの島を

なぜビルマをミャンマー表記に改める軍事政権に屈した朝日とフィナンシャルタイムズよ

なにゆえに脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ

お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました

異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 

「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう

幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝
 


墓地にあれば心慰む生きながら死につつある証か 蝶人
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黒沢明監督の「生きる」を見て

2012-01-30 09:20:50 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.194


何回見ても志村喬の公園でのブランコと「♪命短し恋せよ乙女」には涙腺がぐちゃぐちゃになる。ガンに冒され余命数カ月に迫った公務員の胸中を黒沢は見事に劇化し感動的な名画を誕生させた。そこでは映画の主題とテーマ音楽「ゴンドラの唄」が絶妙な相乗効果をもたらしている。

しかし、ここからは映画の感想から逸脱するが、よく考えてみると市民課長の生涯最初にして最後の達成が、必ずしも公園の建設でなくとも構わなかったのではないかという気もしてくる。福利厚生が乏しかったあの時代に公園の存在は貴重かつ重要な意義を持っていたのかもしれないが、しかしもっと重要で喫緊の市政の課題が他にあったかもしれないな。よしんばそれが一部の住民の熱望であったとしても。

死にゆく課長にとって死力を尽くして実現した公園は、あの時点で市役所&市民課が市民の総意としてめざすべきゆいいつ絶対の理想ではなくて、課長さんの極私的な野望に突き動かされての独走暴走?であった可能性も排除できないな。

通夜の場面では助役以下の公吏が非人間的で非人情な存在として敵対的に浮き彫りされていたが、これは監督の恣意的な思い入れとセンチメンタリズムが少しくでしゃばりすぎているのではないか、というのが涙をぬぐって立ち上がったわたくしの感想でした。



どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク 蝶人
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ローラント・ベーア指揮スカラ座の「魔笛」を視聴する

2012-01-29 09:16:50 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第244回

2011年3月といえば大震災の頃だが、ちょうどその頃にミラノで上演されたモーツアルトの遺作オペラの録画を視聴。さすがはスカラ座という清明な音で序曲が始まったので大いに期待しました。

さてどういう大蛇が出てくるのかと楽しみにしていたが、結局造り物は登場せずアニメみたいな映画の初期の頃のようなあめふらしの映像が出てくる。こういうやり方は最後の最後まで変わらず、ウイリアム・ケントリッジという演出家がコンピューターを駆使した最新の3Dとかに熱意を燃やすその程度の下らない奴だと知れる。衣装だって男はみな普通のスーツ、女はカジュアルなドレスをぞろぞろきているので、せっかくパパゲーノとモノタノスが出喰わしても驚くことができない。ともかく昔の物を現代に塗り変えればよいと信じ込んでいる阿呆の仕事だ。

歌手もみな2流か3流どころで、ややまともに唄えていたのは夜の女王のただひとり。魔笛というオペラの背骨は彼女のたった2つの超絶アリアで成立しているので、これが壺をはずしていると最悪だが、その点ではまあ良かった。

そんな次第でようやく幕が降りるがまだしつこくCGのお絵描きゴッコをやっている。なんの霊感もないルーチンワークの下らない演奏にラアラアと歓声を上げているスカラ座の観客を見たら、死せるトスカニーニも激怒するだろう。墜ちるところまで落ちればいつか浮かぶ瀬もあるのだろうか。

この録画放送の案内をしている顔がグチャグチャになった作曲家が、最近の研究でモーツアルトの妻コンスタンツエと彼の弟子のジュスマイアーが不倫していたことが判明したと語っていたが、ほんとななあ。

出演:サイミール・ピルグ、アリビナ・シャギムラトワ、ゲニア・キューマイア他 
指揮:ローラント・ベーア 演出ウイリアム・ケントリッジ


アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ 蝶人

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ジャック・リヴェット監督の「ランジェ侯爵夫人」を見て

2012-01-28 09:43:21 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.193

ヌーヴェルヴーグの生き残りリヴェットの2007年の最新作をその翌年に37歳の若さで惜しまれつつみまかったギヨーム・ドパルデューが熱演しています。原作はバルザックの短編で、原題は「斧に触れるな」です。

彼が扮する19世紀のナポレオン軍の名将軍で軍務一筋の不器用な男が、妖艶な社交界の花ランジェ侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)の色香に迷ってたちまち恋に落ちる。ところが侯爵夫人は彼女が知らなかった荒鷲のように無骨な男に魅せられながら、その純情をもてあそぶ。ついに男の怒りの斧に触れたのです。

業を煮やした武人は彼女を拉致して強引に愛を迫るのですが、それがかえって逆効果となり酷薄な女の前から姿を消す。すると追えば逃げ、逃げれば追うのたとえどおり、今度は女の方が失った恋の大きさに耐えかねて恥も外聞もかなぐり捨てて男を求める。

命を賭けて無二の愛を求め、それが得られずに侯爵夫人が選んだのは海の彼方の絶海の孤島でした。そして映画は息詰まるような緊迫感を保ちながら悲劇の大団円に突入するのですが、これは見てのお楽しみ。それにして男女の愛の本質をぎりぎりと抉り取るこんな珠玉の名作を夢も希望もない平成ニッポンの私たちに贈ってくれたジャック・リヴェットには感謝の他はありません。


枯葉の中にムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって 蝶人

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溝口健二監督の「祇園の姉妹」を見て

2012-01-27 09:13:19 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.192

1936年の製作。かなりの部分のフィルムが失われてしまったが鑑賞に差し支えは無い。京の祇園の芸者として生きる2人の姉妹の物語である。

梅村蓉子が演ずる姉は倒産して無一文になった木綿問屋の主人の面倒を見るという昔ながらの義理人情を大事にする古風な女だが、当時18歳の木暮三千代演ずる妹は正反対のモダンガール。姉の情人を手切れ金で追い出して別の男とくっつけ、自分は呉服屋の若い番頭、ついでその主人を手中に収めてしまう。

万事快調、妹の凄腕の細腕一つで色ボケ親父を完璧にぎゅうじったかに思えたが、それも一瞬のこと。好事魔多しとはよく言ったもので、妹は恨んだ番頭にさんざん痛めつけられ、そのうえ主人の秘密を呉服屋の細君に内報されたために「なんで芸者なんかがこの世にあるんやろ」と恨みながらよよと泣くのが全巻のおわりだが、おのれの悲痛と悲惨をそれまでとは打って変わって社会や世の中のせいにするのは脚本の甘さであり、この映画の唯一の弱さであろう。

されど山田五十鈴の美しさと溌剌とした物言い、彼女を借りて新しい女性の生き方を打ち出そうとした脚本と演出は素晴らしくこの映画に不朽の生命を、そして随所で多用される超ロングワンショットが、この物語を遠くから客観視する視点を付与している。最後から二番目のカットのその息を呑む長回しは、映画史上空前にして絶後であろう。

ああこれあるからこそ、世界の溝口なのだ!


             東大寺より西大寺が好きな人 蝶人
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アンソニー・マン監督の「シマロン」を見て

2012-01-26 10:56:58 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.191

珍しやグレン・フォードとマリア・シェルをフーチャーし一風変わった西部劇。1931年版を1960年にリメイクしたものである。

開発途上のアメリカ・オクラホマ州などでは「ランズ・ラン」という名の早い者勝ちの土地獲得競争が行われたそうな。一獲千金を夢見る全米の老若男女やアウトローや喰いつめ者が号令一発せいので荒野に飛び出していくのであるが、新婚早々のグレンとマリアもその一員。新聞社を作ってこの地に基盤を築いたが生来の冒険心を自制できないグレンは平穏な生活を求める妻子を顧みず各地を放浪していたが、ようやく帰省して知事に任命されることになる。

しかしそれが先住民の自立を妨げ開発のお先棒担ぎへの加担を意味すると知ったグレンは潔く名誉あるポストを投げ出したが、マリアは怒り狂って夫と絶縁。やがて11年の歳月が流れてマリアは新聞社を大成功に導いたが、その時グレンの最初で最後のラブレターと共に、英国女王からの訃報が届くのだった。

波乱万丈の冒険野郎の生涯と米国の開拓史をシンクロさせて描く壮大なスケールが見もの。とりわけシマロンの時代にさきがけた公民権運動が印象に残る。


病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す 蝶人
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ダニエル・ハーディング指揮スカラ座のヴェリズモ・オペラ二曲を視聴する

2012-01-25 10:37:51 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第243回

2011年1月にミラノ・スカラ座で上演された「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の衛星放送の録画を鑑賞しました。指揮はどちらもダニエル・ハーディング、演出はマリオ・マルトーネという人です。

このヴェリズモ・オペラの演奏で私の脳裏に焼き付いているのは、同じスカラ座をカラヤンが指揮した映像です。劇伴は同じ名門オーケストラですが指揮者が違えばこうも印象が違うものか。両曲ともカラヤンに比べて早い速度で、あの有名な間奏曲にしてもなんの思い入れもなくあっさりと通り過ぎていきます。

楽譜の意味を深く読むこともなく表層のカッコよさだけを追い求めるこの若者の音楽はわたしのような保守反動の徒にとっては唾棄すべき代物でしたが、伝統あるオケも観衆もブーの人声もなく唯々諾々と従っている姿には驚きを通り越してただただ情けない。死せる作曲家たちやトスカニーニが聴いたら激怒するでしょう。

歌唱陣も凡庸な指揮と似たりよったりの出来栄え。ドミンゴでは聴衆の涙を誘ったレオンカヴァルロの有名なアリア「衣装をつけろ」でしたが、今回のホセ・クーラでは嘘泣きしているのはクーラだけ。こんな下手くそにブラボーと叫んでいるミラノのお客は完璧な阿呆です。マスカーニをまずは無難に唄い上げたリチートラが不慮の事故で夭折したのは残念なことでした。

というわけで総じて評価するべきはマリオ・マルトーネの演出のみ。現代の高速道路下に芝居小屋を設営した意匠は卓抜なものがありましたが、ダニエルよ、お前さんはスカラ座で振るには30年早い。



歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ) & 歌劇「道化師」(レオンカヴァルロ)
指揮:ダニエル・ハーディング  演出:マリオ・マルトーネ 出演ルチアーナ・ディンティーノ、サルヴァトーレ・リチートラ、ホセ・クーラ等。


なぜ脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ 蝶人
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ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン監督の「雨に唄えば」を見て

2012-01-24 05:23:55 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.190


恋する男が降りしきる雨のなかを歌って踊るシーンが有名なこの映画だが、もっと印象的なのは主人公が美脚の持ち主シド・チャリシーと繰り広げる息を呑むようなダンスメドレーの連続シーンで、広大なスタジオ狭しと繰り広げられる歌とソロと群舞、照明と場面転換の見事さは、ドナルド・オコーナーのダンスの切れ味と相俟ってこのミュージカル映画に不朽の生命力を吹きこんでいる。

当時さしたるキャリアと技量を持ち合わせていたとも思えないジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンがここで展開している演出も、見事な出来栄えで見る度に新しい発見がある。それにしてもジーン・ケリーの相手役の大女優リナ・ラモントを演じたキイキイ声のジーン・ヘイゲンはその後どうなったんだろう?


お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました 蝶人
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「橋下主義を許すな!」を読んで

2012-01-23 16:53:45 | Weblog


照る日曇る日第487回

大阪市民の絶大な支持を受けて市長に就任した橋下氏の政治手法について内田樹、香山リカ、山口二郎氏などがこもごも批判しています。

私は橋下氏が府と市の経費の重複を無くしようとしていることには反対しませんが、教育に偏屈な政治的イデオロギーを持ちこんだり、旧軍隊的規律と上意下達の中央集権的介入を強行したり、市場競争や経済効率論理を導入して大阪府・市の教育基本条例を改訂しようとするような独裁的で夜郎自大な手法には反対です。

我々がこよなく愛するこの自由な国家ではいつでもどこでも誰でも自由な見解の表明を妨げられず、時の権力者に反対したりげんざいの国歌や国旗に異議を唱えたり起立を強制されても罰せられるはずがなく、気に喰わなければ黙って座っていることも許されますし、それを非国民だと罵る人こそが本来の意味の非国民なのです。

橋下氏がしようとしていることについて内田氏は、宇沢弘文氏の「教育=社会的共通資本論」を引き合いに出し、共同体の存立にかかわる自然環境、社会的インフラ、教育、医療、司法、行政に対する政治の中央集権的介入を強く戒めていますが、これはイデオロギーの左右を超えた常識というべきで、政権が交代する度に学校のカリキュラムや医療システムがころころ変わっては国民はたまったものではありません。

政権が交代しても物事が劇的に改革改善されないために、早くも民主党に幻滅してとっくの昔に政治生命が終焉したアホ馬鹿自民党への回帰を妄想したり橋下氏一派を軸とした新政治勢力に過大な期待を寄せたりするドンキホーテな人たちがいるようですが、民主政治というのは膨大な討議と時間と経費を蕩尽し、果てしない議論と辛気臭い交渉と不条理な妥協と紆余曲折を経ててやっとこさっとことおちつくところに落ち着く誰もが不平と不満を抱かざるを得ない超不完全なシステムだということが戦後60年以上経過してもまだ理解されていないようですね。

これに激怒したり愛想を尽かしておのれの主体的な思考を放棄して、ヒトラーもどきのチンピラに運命の下駄を預けたくなる気持ちも分かりますが、なに2年もすれば化けの皮がはがれるはず。ハシズムなどと慌てず騒がず放置しておけばよいのです。


不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 蝶人

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吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて2」を読んで

2012-01-22 10:10:58 | Weblog


照る日曇る日第486回

はじめはどうということのない女(男)だったが、そのうちに妙に気になり、ある日ある時の四囲の自他の状況の偶発的必然性(後から考えた)の相対的因果関係にからめとられる形で、当該の男と女のいずれかが絶対的恋愛関係の磁場に吸着されることは往々にしてあるようだ。

本巻で開陳されるスワンとオデットの人情肉布団もまさにそれ。しかも当初は男性が優位に展開していたはずのインターコースが途中で完全に逆転し、男は女の思
いのままに翻弄トイトイされてゆく。昔風の差別用語を使うなら、誰とでも寝る裏社会の女郎風情に毎月五百万円!をみつぎながら社交界の人気ダントツ男が下賤のライバルに寝取られてコキュに甘んじるのだから世話はない。

 されどこれこそが現世の修羅場をあいわたるしがない渡世人の世は情け西洋人情裏話。何が何として何とやら。親の因果が報いたか。それとも前世の因縁か。天に唾すれど答えなく。地に尋ねてもいらえなく。夕べになるともい寝られず。懊悩転転朝が来て。悩みは深き恋の井戸。あれ聴こゆるはフランクの。ヴィオロンの音ではないかいなあ。テテツレテン。テテツレトン。テテツレテン。テテツレトン。ついに男は阿鼻叫喚、果てなき無限地獄へ堕ちるのじゃあ。はれ堕ちるのじゃあ……



     恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ 蝶人
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フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎の如く」を見て

2012-01-21 08:55:19 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.189

久しぶりに見返したがやっぱり素晴らしい作品だ。トリュフォーは映像をスタッカートのように歯切れよく切り刻む。それがシーンごとの意味を切れる寸前に浮かび上がらせ、これを推力にして次のシークエンスへと自然につながるのだ。この自然さは完全に人工的にして計画的な手法であり、ゴダールなど他のヌーベルヴァーグの作家もよく使った。

 この演出に乗ってジュールとジムの物語とカトリーヌの狂熱の恋は猛烈な速度で前進し、戦争で急停止し、また再出発して蝮のように絡み合い、河の上の橋を落下する自動車と共に終わる。

はずだったが、それは普通の映画のやることで、トリュフォーは死んだ二人の棺桶が荼毘に付され、それが業火で焼かれて白い骨となり、骨壺に入れられて冷暗所に安置されるところまできちんと見届ける。この冷静な視線こそトリュフォーだ。

ジュールは2人の骨を混ぜてやろうと望み、カトリーヌは自分の骨を風に撒いて欲しいと願っていたが、この映画では出来なかったことがいまでは出来るようになった。40年間かかって、人類もそれくらいには進歩したといえるだろう。

余談ながら「突然炎の如く」なぞという軽薄で胡散臭い邦題を誰がつけたのか知らないが、今からでも遅くはない。これは原題の通りに「ジュールとジム」に即刻戻すべきだろう。



光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜 蝶人
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マイケル・ケイトン・ジョーンズ監督の「ジャッカル」を見て

2012-01-20 07:42:58 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.188

1997年製作のハリウッド映画です。題名は「ジャッカルの日」をリメイクしたただの「ジャッカル」。その名で呼ばれる物凄い能力を持つ殺し屋が、チエチェンのテログループに大金で雇われて米ロ連合の捜索チームの追及をかわして大統領夫人を暗殺しようとするが……。

いつもは正義の味方のブルース。ウイルスがここでは札付きの殺人鬼に扮してどんどん刃向かう敵を殺していく。米FBIとロシア内務省の要請で牢屋から特別に出してもらったリチャード・ギアがかなり良い線までジャッカルを追い詰めたんだが……。

今日はなぜだか……が多いなあ。……が続く映画です。



なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法ソ連に奪われし島を 蝶人
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ロジャー・ドナルドソン監督の「カクテル」を見て

2012-01-19 08:11:28 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.187

除隊したあとグレイハウンドに乗って一旗揚げようとニュヨークに乗り込んできたトム・クルーズがお勉強を放棄して人気者バーテンダーになる。ジャマイカで運命の女性に出会ったのだが、運命のいたずらで運に見放されもう駄目かと思ったけれど最後に幸運の女神が微笑むという恋と成功のカクテルストーリー。

1988年現在の肩に力の入ったファッションや糞面白くもないダンスミュージックがてんこもり。若い2人を彩るMTⅤみたいな映画です。

師匠役のブライアン・ブラウンと組んで見せるフレアバーテンディングが笑えます。役者の演技はみな未熟、監督の演出も稚拙だがジャマイカのリゾートが出てきて懐かしかった。こういうアホ馬鹿時代はきっともう戻ってこないんだろうな。


リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻 蝶人
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吉川一義訳「失われた時を求めて1」を読んで

2012-01-18 07:31:13 | Weblog


照る日曇る日第485回

岩波文庫からプルーストの「失われた時を求めて」の全訳が出始めたので読んでみた。第1編「スワン家のほうへ」の第1部「コンブレー」が収められたその第1分冊である。

私は以前井上究一郎氏の旧訳でこれを読み、とても面白かった。眠れないままにかつて横たわったすべてのベッドやそこをよぎったすべての想念を思い出そうとする主人公はまことに親しい存在と感じられたし、マドレーヌに浸された紅茶の味から心中に湧きおこる過去の思い出、思いがけない場所から様々な姿を見せる教会の鐘楼、むせぶような薔薇色のサンザシの芳香、カシスの葉に放たれ生まれて初めての一筋の精液、そして一瞥しただけで美しい少女ジルベルトへの恋に陥る少年の感じやすい心が我がことのように思われたからである。

多くの読者がプルースト特有の長すぎるセンテンスに辟易して読書を放棄するようだが、それはじつにもったいないことだ。なぜなら「失われた時を求めて」は読めば読むほど下世話な意味でもおもしろくなり、失われた時も空間も当初の茫漠なありようから一転してリアルな像を結ぶようになり、最終巻を閉じる際には誰しも異様なぶんがく的感銘に圧倒されること請け合いだからだ。

吉川氏の訳は井上訳の文学的曖昧模糊とした香気には多少欠けるが、その代わりに語学的・史実的な正確さと現代感覚が読む者の理解を大いに助けてくれる。願わくばこの平成の大事業がつつがなく全14巻の大尾を全うすることができますように。



森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん 蝶人
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津村節子著「紅梅」を読んで

2012-01-17 10:29:30 | Weblog


照る日曇る日第484回

作家である夫吉村昭の発病から死までを、同じ作家である妻が、事実にもとづいた小説にしたもの。舌ガンの治療の途中で膵臓ガンが発見され、その手術が行われた結果膵臓全体と十二指腸、胃の半分を失った夫を懸命に看護する妻の真情が随所で伝わって来る。

その日録の通奏低音はマーラーの「大地の歌」の生も暗く、死もまた暗いという陰陰滅滅たる黄泉の国の調べ。この夫婦の周囲では多くの人々がガンで斃れているのだ。

終始冷静な筆致で描かれてきたこのドキュメンタリータッチの私小説は、最後の最期になって大きな衝撃と動揺と共に劇的な転調をみせる。突如夫は「もう死ぬ」と告げて胸に埋め込まれたカテーテルポートを引きちぎる。それはこれ以上の延命治療を拒んだ作家の決死的な行為、というよりどこか渡辺崋山を思わせる潔い侍の自裁であった。

完璧な遺書をあらかじめ用意し、自分の文学館を作りたいといって来たある町の役人に対して、そういう目的のために税金を投入するのは恐れ多いといって辞退するこの作家は、おのれの恣意で周囲に迷惑を及ぼすことを好まず、人並み外れた廉恥の心の持ち主だったのだろう。

 死を待つのではなくみずから死を準備し、実行し、無意識のうちに南枕を北に変えようと身をねじる夫の姿は壮絶なものがある。しかし「残る力をふりしぼって身体を半回転させたのは情の薄い妻を拒否したからであり、自分はこの責めを死ぬまで負ってゆくのだ」と書く妻は、少し自分を責めすぎではないだろうか。

わたしはあえて言いたい。「節子さん、それはあなたの考え過ぎです。ご主人は混濁した意識の中で誰の助けも借りずに死者になろうとしたのです。あなたは最後まで妻としての義務を果たしたのですよ」と。


幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝 蝶人
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