あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

酒井駒子著「よるくま」を読んで

2022-03-31 10:30:49 | Weblog

照る日曇る日第1729回

 

ユニークな題名の絵本なれど、絵はあんまりうまくない。むしろ最後のページで明かされるプロットの切れ味で読まれているのではなかろうか。

 

それにしても、子グマをほたらかしにして、夜中におかずの魚釣りに出かけてしまう母グマって何だろうね。

 

    土手下に真昼の星は輝きぬ母の愛した瑠璃唐草よ 蝶人

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高橋秀樹著「北条氏と三浦氏」を読んで

2022-03-30 13:21:34 | Weblog

照る日曇る日第1728回

 

吉川弘文館の「対決の東国史」叢書の1冊なり。

 

だが、この両一族は対決どころか、義時&義村時代に見られるように、その大半が利害を共通した共存共栄の連合体を形作っていたようだ。

 

それが一夜にして逆転するのが宝治元年6月5日の宝治合戦で、この日両勢力は、双方の首領北条時頼、三浦泰村の思惑とは裏腹に「和平を望む泰村の意に反して三浦一族内の交戦派勢力に引きずられる形で挙兵に至った」というのが著者の分析であるが、さて実際はどうだったのだろう?

 

他の多くのゲバルトと同様北条派の策動と陰謀の産物でないと言い切れるだろうか甚だ疑問である。

 

最近の若手研究者の新書本の著作を読んで感じるのは、この時代の事件や人物を解釈する際の手法が、文献至上主義に偏っているのではないかということだ。

 

すなわち「吾妻鏡」と「愚管抄」、「平家物語」などを主軸に論理を運んで、それらの文献相互の矛盾が最も少ない地点を落としどころに自説を設定するやり方であるが、その際いくら理屈を重ねてもその時代や人物のリアルな姿形が浮かび上がってこないことが多いのである。

 

我々は、「いわば歴史に対する直観と想像力が欠如したタダモノ論に堕する思考の残骸を読まされる訳で、本書もそのような欠陥から逃れているとは言えない。

 

  世界中を敵に回して戦するお前は偉大な現代のツァーリ 蝶人

 

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木下龍也&岡野大嗣著「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」を読んで

2022-03-29 10:40:19 | Weblog

木下龍也&岡野大嗣著「玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ」を読んで

 

照る日曇る日第1727回

 

ずいぶん長ったらしい題名だが、あんまり上出来とは思えない短歌がタイトルになっている。しかしてその内容は、新進気鋭の男子2人の歌人による、掛け合いツインセットの短歌集なり。

 

1ページの右側が木下選手、その左側が岡野選手の作品になっていて、ある種の連歌みたいに2首の世界が相関するように仕組まれているようだ。

 

従って発句役の木下が提示した世界を、脇句役の岡野がいかに受け止めていくかが詠みどころであり、読みどころでもあるわけで、そのスリリングなジャムセッションが7月1日の木曜日から7日の水曜日まで続いたようだから、これは短歌による「連歌五十韻」ということになるのかも知れない。(足らざる2首を冒頭と結句で追加して合計100首、めでたし、めでたし。)

 

作品をアトランダムに取り出すと、

 

道ばたにみつをみたいな詩集売るおじさんがいて血を吐いてる(木下)

 

夕刻のイオンモールの屋上から見たくて見てるニトリの屋上(岡野)

 

というような突合せだ。

 

うまく行っているのもあれば、失敗しているのもあり、終わり際になると、木下選手が好首を連発しているけれど、岡野選手は次第に調子を落として受け損なっているような感じだが、それはともかくそのチャレンジ精神に好感が持てます。

 

「いざとなれば核を使うぞ!」と脅すので誰も戦争を止めることが出来ない 蝶人

 

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ハンス・クナパーツブッシュの「ベートーヴェン交響曲集」をきいて

2022-03-28 10:25:56 | Weblog

音楽千夜一夜第493回

 

収録されているのは交響曲の2番、3番、5番、7番、8番と、序曲レオノーレ3番、コリオランで演奏しているのはミュンンヘンフィル&同放響とウイーンフィル。2番は珍しいが偶に聞くといい曲だ。

 

クナの全集はVenias盤で何百枚だかの集成を舐めるように聴いたのだが、堪能するどころか、あの奇妙に人工的なマイルドな音質が演奏の真価の鑑賞を妨げていたので、もうクナは沢山だ、と放置していたのだが、この伊MEMORIES盤では孤高の指揮者の荒ぶる音魂の裂烈を耳にすることができる。

 

やはりクナ爺はライヴがいいずら。

 

   季節野菜を入れ替えるので100円野菜は4月までお休み 蝶人

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西暦2022年弥生蝶人映画劇場その4

2022-03-27 08:21:30 | Weblog

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.2810~14

 

1)フィリップ・リーコック監督の「戦う翼」

1962年の空軍機戦闘ドラマでスティーヴ・マックィーンとロバート・ワグナーが毎日ドイツを空爆しながらクールな美女ダフネを争う。火だるまになった戦闘機がつに浮上せず岸壁に激突炎上するラストは哀しい。

 

2)クラウディオ・ファエ監督の「ビヨンド・ワルキューレ」

ワルキューレ作戦の後日談で首謀者の将軍を救出しようと現地に赴いた米ソの特殊部隊が大活躍する2016年のアクションスパイ大作戦ずら。

 

3)ロバート・ハーモン監督の「ノルマンディー 将軍アイゼンハワーの決断」

チャーチルに迫って最高司令官になったアイクが、モントゴメリーやパットンなど強烈な個性を持つ将軍たちを巧みに操りながらDデイの上陸作戦を成功させるまでの2004年の戦争内幕もので、戦闘シーンがないのが新鮮ずら。

 

4)アルフレッド・ヒッチコック監督の「恐喝(ゆすり)」

暴行されそうになった女が男を殺し自首して事情を説明すればよいのに、最後まで逃げ回って別人が犯人にさせてしまう1929年製の後味の悪いサスペンス映画。1929年の英国初の長篇トーキーだそうだが、演出がまどろっしくってちっとも面白くないずら。

 

5)ロバート・シオドマク監督の「真紅の盗賊」

1952年の海洋活劇映画ずら。若き日のバート・ランカスターが海賊船の船長に扮して大活躍!

 

   バリケード取り払われしあの日より我が人生に青空の日なし 蝶人

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木下龍也著「きみを嫌いな奴はクズだよ」を読んで

2022-03-26 12:05:33 | Weblog

照る日曇る日第1726回

 

意味不明なタイトルにつまずいて長く手に取らずにいたが、図書館で見かけたので読んでみたらユーモアとウイットのある作風で面白かった。

 

私が一番好きなのは

 

「サラ・ジェシカ・パーカーさんが三叉路でサラとジェシカとパーカーになる」

 

だが、

 

「赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着」

 

「さいるいだんだんだんだだんもうだれも思い出さない顔は壊れる」

 

「だけだものあなたにはぼくだけだものだけだものぼくだけけだものだ」

 

なんかも好きだ。

 

だが、

 

「(ユ/カ)レテイル(セ/シャ)カイ(サ/ボ)クラガ(フリ/シニ)オエテかみさまのてはじゃぐちをひねる」

 

になると、華麗なテクニックの無駄遣いに呆れ果て、「いい加減にしろよな」、と言いたくもなるのである。

 

  3月は別れの月だが何事かひそかに始まる月でもあるよね 蝶人

 

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坂井孝一著「鎌倉殿と執権北条氏」を読んで

2022-03-25 12:50:46 | Weblog

照る日曇る日第1725回

 

「義時はいかに朝廷を乗り越えたか」なる副題が付いているが、別に北条義時を主人公にしたお話という訳でもなく、源家を乗り越え、後鳥羽上皇を乗り越えて、本邦に冠たる鎌倉幕府を構築した北条一家礼讃の物語というところだろうか。

 

ともかく全体的にハイライトがなく、散漫なトピックスを駆け足でばら撒いている感じで落ち着かないが、頼朝の後継者である頼家や実朝の力量を正当に見積もっているのは、大賛成である。

 

「鎌倉殿の13人」という名前が、頼家のイニシアチブを無化した円卓政府のように受け取られる誤解を正しているのにも好感が持てるが、私はこの13人衆は、懸案を頼家に上上程する権限だけを持っていたとする、著者以外の学者の説に賛同する。

 

比企家と結託して北条一味を排除しようとしていた頼家が、降ってわいたような急病に襲われ、生死の境をさまよっている間に、時政のクーデタで比企一族を謀殺されてしまうが、私はそもそもこの「急病」自体がでっち上げで、時政・義時・政子親子が比企謀殺を実行するために、頼家を人質にしたのではと秘かに想像している。

 

ひとり政子が、実子の悲運に泣いて同情したなどと、「吾妻鏡」が盛り上げるのも、カモフラージュの為だろう。

 

実朝がイニシアチブをとり、後鳥羽上皇とタッグを組んで安定した朝廷武家協同権門体制を構想し、それが実現一歩手前であったとする著者の分析は鋭いが、それが完成してしまえば、北条鎌倉幕府はついえる。

 

よって実朝暗殺の背後にいたのは誰か、は自明だろうに、著者があくまで公暁単独犯説に組する理由が分からない。

 

「ロシア莫迦」「くたばれプーチン」とかとかとか 殺されずに言える自由は素敵だ 蝶人

 

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主婦の友社版「誰もが泣いて喜ぶ愛と感動の冠婚葬祭その他諸々挨拶&スピーチ実例集No.110」

2022-03-24 11:03:37 | Weblog

蝶人狂言綺語&バガテル―そんな私のここだけの話第420回

 

金婚式/恩師の金婚式を祝う教え子のスピーチ

 

○懐かしい恩師のエピソードを印象的に語る

本日ご結婚50周年の良き日をお迎えになりました金田先生ご夫妻に心よりお祝い申し上げます。*1

 

私は、先生が勤務されておりました西山経理学校で大変お世話になりました井上信也と申します。*2

 

“泣く子も黙る鬼金田”という綽名の通り、先生の授業はとても厳しいものでした。私などはしょっちゅう廊下に立たされていたものです。ところが授業が終わると、金田先生はもう勉強のことなんていっさいうっちゃって、我われガキ大将といっしょに遊んでくれました。

 

春は野球、夏は海水浴、秋は山登り、冬はスキー。「よく学び、よく遊べ」といいますが、金田学級のモットーは「よく遊び、また遊べ」でありました。*3

 

お陰様で最低限の経理の基礎はもちろん青春時代にもっとも大切な「遊び」を徹底的に身に付けさせて頂いたことが私たちの人生の最高の出発点になりました。*4

 

今日の良き日に当り、改めてわが師金田先生への感謝の念を新たにするとともに、先生と奥様の末長いご健勝とご活躍をお祈り申し上げる次第です。

 

  • スピーチのポイント

1)恩師との関係を要領よく出席者に紹介します。

2)往時を回想する際には老齢者に配慮し、発声はゆっくり大きく明快に。

3)恩師への感謝を忘れずに。

4)陰の立役者である夫人にも言及しましょう。

 

 クマさんや八つあんがいつものコメントを連発しているテレビを投げる 蝶人

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長野ヒデ子・作「おばあちゃんがおばあちゃんになった日」を読んで

2022-03-23 10:53:37 | Weblog

照る日曇る日第1724回

 

「おかあさんがおかあさんになった日」の続編が本作で、前作のおかあさんの娘が子供を生んで、おばあちゃんになって家族仲良く暮らしているさまを、それこそ幸せいっぱいに描いている。

 

ウクライナの戦争ならずとも、世界は苦しみと悲しみに満ちみちているが、この1冊の中だけはそれらとは無縁の内的宇宙が広がっている。

 

 むやみやたらお辞儀をするのはみっともない気を付けなさい日本の民よ 蝶人

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長野ヒデ子・作「おかあさんがおかあさんになった日」を読んで

2022-03-22 10:54:18 | Weblog

照る日曇る日第1723回

 

題名の通りに一人女性が入院して、元気な赤ちゃんを生んで、おかあさんになるまでを、大胆な構図と見事な観察挿画で描き切った大作絵本である。

 

物凄いお腹をした出産直前の妊婦が、シャワーを浴びているシーンも大迫力だが、この絵本で最も感動的なのは、やはり赤ちゃん誕生の瞬間を描いた見開きだろう。

 

手前は猛烈な痛みに髪振り乱して大きくのけぞるおかあさんと、彼女にしがみつくようにして励ましている父親、そして白いシーツの遥か向こう側には、今まさに誕生したばかりの真っ赤な赤子が描かれたダイナミックな画面を眺めていると、なんで私もこの絵の若き父親の役を演じなかったのだろうか、と苦い後悔の念が、今更ながらに湧き起こってくるのである。

 

   一片の正当性無き出兵は日帝の中国侵略に似る 蝶人

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新美南吉=作・ぶん 長野ヒデ子=絵「狐」を読んで

2022-03-21 09:25:12 | Weblog

照る日曇る日第1722回

 

「ごんぎつね」と並ぶキツネの名作が、忘れがたい絵本になった。

 

夜に新しい下駄をおろすと狐の祟りに逢うという田舎の言い伝えを芯にしたモノガタリだが、そんな突然の言掛りを身に浴びた少年の不幸と悲しみを、家で迎えたハハキツネがどのような言葉で受け止め、どのような慈愛で昇華するかが、一篇のハイライト。

涙なしには読み終えることができない傑作中の傑作である。

 

特筆すべきは登場人物の個性を大きな目玉で描き分けた長野ヒデ子の驚くべき筆力で、殊に神社の夜の祭礼を俯瞰で活写した見開き大画面の迫力は、余人の追随を許さない。

 

本来なら4代目の下駄屋の主人として子供たちに下駄の鼻緒をすげるはずだったおらっちゆえに、万感の思いをもって最後のページを閉じた。

 

  若き日の叶わぬ恋の思い出かピュリスの腕の小さな刺青 蝶人

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磯貝勇著「丹波の話」を読んで

2022-03-20 08:59:04 | Weblog

 

照る日曇る日第1721回

 

昭和31年に東京銀座の東書房から出版された丹波の郷里の本である。

 

渋沢敬三が主宰する常民文化研究所の同人でもあった民俗学者の著者は、長く丹波の地方都市、綾部に住んで、同地とその周辺の丹波地方の村落の言語風習地理動植物天文生活文化生態を隅々まで調査研究し、その成果の一端を本書で世に問うたのだった。

 

内容は「丹波語彙」、「由良川紀行」「由良川風土記」「綾部の話」「丹波の燈火」「丹波・丹後の星」からなっているが、丹波盆地を貫流して日本海にそそぐ大河、由良川の源流を尋ねる「由良川紀行」はスリリングな冒険譚である。

 

私の祖父、佐々木小太郎などの古老に取材した労作「綾部の話」は、私が生まれ育った綾部の老舗下駄屋「てらこ」の地図や来歴まで登場する懐かしい読み物で、もはやボロボロになってしまったこの本のページを繰るたびに、私の心は懐かしい古里で過ごした幸せな時間に飛ぶのである。

 

   懐かしき丹波の鄙の里山に雌雄のギフチョウ静心なく舞う 蝶人

 

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本日は母、佐々木愛子20回忌につき、小生の「母を偲ぶ歌」を再掲載させて頂きます。

2022-03-19 08:41:33 | Weblog

ある晴れた日に第674回

天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり  

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 

なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 

土手下に真昼の星は輝きぬ小さく青きイヌフグリ咲きたり 

人の齢春夏秋冬空の雲過ぎにぞ過ぎてまた春となる 

春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか

おかあちゃんはたった一人で逝きはったわいらあなんもしてやれんかった 

とめどなく流れる水を見つめつついたく泣かれし日曜の朝

ただ一度われの頬を打たれしことありき祖父の死を悲しまぬわれを

まなかいに浮かびし母の面影に丹波言葉で語りかける今朝 

たらちねの母が逝きたる故郷の我が家を守るガンの妹 



  瞬きもしないで正々堂々とウクライナ問題を論じる長島一茂 蝶人

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明日は母、佐々木愛子20回忌につき、遺作短歌を再掲掲させて頂きます。

2022-03-18 10:41:16 | Weblog

ある晴れた日に第673回

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり 
    
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく
                   
1992年5月
五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

          
1992年7月
くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり

15,6年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて

色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける

谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむ

1992年8月
娘達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

兼さん(昔の「てらこ」の番頭さん)の遺骨還りたる日近づく
かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

1992年11月
もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

1992年12月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ   「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

1993年1月 病院にて
陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

1993年2月
大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえずり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。
十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            
1993年9月
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして      雅子さんご成婚か、不詳

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

1994年5月
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       「水無月祭」は郷里の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく

  占拠する北方領土も返さずにウクライナ奪う悪党プーチン 蝶人

 

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谷川俊太郎・ぶん 堀内誠一・え「ちちんぷいぷい」を読んで

2022-03-17 13:55:26 | Weblog

照る日曇る日第1720回

 

堀内選手はとっくの昔に亡くなっているのに、2021年の新作絵本だというので手にとって見たら、1970年代に描かれた絵に谷川選手が文章をくっつけて1冊の本にしたという。

 

「ちちんぷいぷい」はお手柄だけど、あとはスカスカ。どうりでなんだか安直な仕上がりだと思ったぜ。こういう売らんかな精神だけがミエミエな、いい加減な本つくりはやめてもらいたいずら。

 

  「日本人よ忘れるな!」と戒める11年と似た大きな地震 蝶人

 

 

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